第2話「悲願なんですよ、私たちにとって」




 お姉さま、お姉さま、お姉さま。

 その日、メリッサの頭の中は愛する『お姉さま』のことでいっぱいだった。もっとも、その日に限らず彼女は姉のことばかり考えているのだが。


「待っててお姉さま。いま、メリッサが参ります」


 橙色の瞳に宿るはきらりと輝く決意の光。部屋を抜け出す準備は万全。窓から勢いよく身を乗り出すと、左右で括った二つ結びの長い髪がはらりと後ろに流れ行く。よく手入れされた自慢の髪はお姉さまと一緒の蜂蜜色。緩く編み込んだ毛束が細く絞られて棚引くと、少女の背後で翼のようにふわりと広がる。


 メリッサの心は飛び立つ鳥のように軽やかだった。

 城で大切に守られているはずの『王女様』が機嫌よく城から飛び出してふわふわと飛翔していく様子を、見張りの兵士たちは「またか」と呆れ顔で見送った。何人もメリッサの脱走を妨げることはできない。彼女の前進を止められる者はずいぶん前にこの古城からいなくなってしまった。今や彼女こそがこの地で一番の『魔女』なのだ。


「でも、きっと帰ってくる」


 いいや、連れ戻すのだ。メリッサ自身の手で、いなくなってしまった『お姉さま』を。

 眼下、街を行く住民たちが少女を見上げて声を上げる。ある者は手を振り、ある者は笑顔で挨拶を口にする。いつもの脱走なら降りてちやほやしてもらう所だが、今はやるべきことがある。にこやかに手を振り返しながらメリッサは飛翔速度を緩めた。今日は妖精の羽を生やす準備はしていないし、箒は取り上げられてしまっている。補助祭具も無しに空を急げば早々に力尽きてしまうだろう。


「先は長いし、温存しなきゃ」


 このロスプ・レルムは分断された妖精郷の中では比較的小さな領界だ。隠密たちの隠れ里であるコウド・レルムや呪われたハウレン・レルムほどではないにせよ、六王家の中では有力とは言えない。それでも与えられた自治領の中で人々は平和に暮らしていた。

 

 金細工に飾られた耳に意識を集中させると、甲高い笑い声が聞こえてくる。妖精エルフの長い耳は言葉と意思を景色として認識するもう一つの目だ。メリッサは両目を瞑ったままでも子供たちが遊ぶ姿を『耳で観る』ことができた。可愛らしい妖精の男の子たちが、移民であろう矮人ドワーフの子供と木の枝でチャンバラをしている。


「やあやあ、我こそはロスプ家の守護騎士なり! 邪悪な妖魔ダークエルフめ、一族に伝わる名剣フウィルドスリングの一撃を喰らうがいい!」


「わ、わあー、やられたー!」


 善き妖精が悪しき妖魔を倒す英雄譚の一幕だ。矮人の少年は木の枝で打ち据えられながら棒読みの演技でばたりと倒れた。男の子は勇ましいごっこ遊びを好むものだなあと感心していると、別の音も耳に入ってくる。矮人の職人たちが前線に赴く矮人兵団のために武器を鍛える鍛鉄の音楽、鍛冶師たちが奏でる金属音と労働歌だ。


 近頃の妖精郷には矮人が多い。長く続いた北方の動乱は彼らから国を奪った。帝国や接合体が定めた自治区での強制労働から逃れた難民たちを保護すると決定したのは妖精郷を実質的に支配する総督府だ。聖教会と貴族たちの絶対的権威に基づく副王会議の命令に妖精の国が逆らえるはずもない。


 とはいえ妖精にとって矮人はそう悪い隣人ではなかった。

 小柄で器用な彼らはよく働くし、屈強な肉体を誇りとする戦士でもあることから率先して魔人との戦いに身を投じる誇り高さを持ち合わせている。妖精の国が大量に受け入れた矮人たちが東部前線に立ってくれたお陰で、妖精たちの死傷率は大幅に低下したと聞く。

 素晴らしい職人にして戦士、従順な労働者にして奉仕者。異邦における居場所を見つけた矮人たちに悪感情を抱いている妖精はいないはずだ。


「メリッサ様、お待ちください! メリッサ様!!」


 そう、矮人は好ましい友人だ。たまに少し口うるさいことを除けば。

 地上の音に耳を澄ます。必死に声を張り上げて走ってくる小柄な女性の気配。足音と息遣いからその姿や表情まで正確に思い浮かべることができる。

 小さく息を吐く。メリッサの護衛にしてお目付け役でもある召使は少しばかり過保護だ。守られるのは嫌いではないし、それが役目なのだから仕方ないが、城を抜け出すくらい多めに見て欲しい。頑固者で融通がきかないのが矮人たちの困ったところだ。


 脱力して高度を下げる。街外れの開けた場所に向かい、スカートを押さえながらゆっくりと着地。お出かけ用にまとった服はお気に入り。上半身は白いブラウス、ウエストラインの切り替えから薄い黄茶褐色のコルセットスカートが軽やかに広がっている。降り立つ時に優雅に見えるようにスカートの裾をつまみ、くるりとターン。


「ふざけてないで城に戻ってください、メリッサ様。両陛下が会議で不在のこの時期に何かあっては私の首が飛びます」


 ウェーブショートの黒髪を揺らして駆け寄ってくる眼鏡の矮人女性の名はエンブラ・グラスコフィン。矮人だが生まれはこの国だ。何代も前、それこそ七つのドワーフ・レルムが健在であった頃にこの地に移り住み、代々ロスプ家に仕えてきた信頼の置ける一族の女性だった。召使として白黒のエプロンドレスを身にまとっているが、メリッサの健康を管理する霊魂医師としての顔も持つ。


「エンブラはおおげさ。お父さまもお母さまもそんなひどいことしないでしょ。それよりねえ聞いて! 大事件なの! 私、今すぐにでも旅立たなくちゃ! 叱られるのよろしく!」


「ええー」


 困り顔の矮人は小さな女の子みたいで可愛らしい。こうやって年上の召使をいじめるのはメリッサにとってちょっとした楽しみだった。可愛い年上女性ほどわがままで振り回すのが楽しい存在はいないというのがメリッサの持論である。

 戸惑う相手に構わず「じゃん!」と勢いよく手に持ったものを見せつける。

 召使は首をかしげて呟く。


「あのう、葉っぱに見えるのですが、それが何か?」


「そう、葉っぱ! これが起きたら枕元にあったってことは、どういうことだと思う?」


「窓が開いていたとか、掃除が不十分だったとか、またメリッサ様が勝手に抜け出して体に葉っぱを引っ付けたまま寝てしまったとかですか?」


「残念、外れ。これはね、アカシアお姉さまからのお手紙なの」


 困惑気味だったエンブラの表情が揺れる。悲しみ、あるいは苛立ちの色だ。

 短く息を吐いてから、幼子に言い聞かせるように何かを告げようとした。


「メリッサ様。アカシア様はもう」


「五本指のイチジクの葉! お姉さまが私にだけ通じるようにって! 昔からの取り決めなの! それでね、なんて書いてあったかって言うとね」


 妖精の少女は話を聞いていない。メリッサは普段からその傾向があるが、今日は一段とひどい。まるで何かに急かされているようだった。


「『イヴァルアートの守り宮を目指せ。『根』に隠された茸の環を潜り抜けた先、封じられた『神々の墓所』に私たちの求める希望がある。命なき地の底にて待つ』だって。というわけでもう一秒だって待てないの。すぐにでも行ってお姉さまと合流しなきゃ」


 夢見るような表情のメリッサは、遠くの想い人に焦がれる乙女のようにうっとりとした表情で要領の得ないことをまくしたてた。エンブラは目を閉じ、深呼吸をして、今度こそ遮られないように力を込めてこう言った。


「私には、その葉っぱに何かが記されているようには見えません。メリッサ様の脱走や家出はいつものことですが、今回の行動には反対です。地の底だなんて、まるで本当にアカシア様の所に行ってしまうみたいじゃないですか」


「だから、そうするって言ってるじゃない」


「いいですかメリッサ様、現実を見て下さい。あなたのお姉さまはもう亡くなられているんですよ。あなたはそうやって、国葬の時にも支離滅裂なことを叫んで逃げていましたね」


「やめて」


 それは叫びではなく、断ち切るような呟きだった。あるいは途切れそうな悲鳴だったのかもしれない。甘く可愛らしいメリッサの声は急に沈み込んで温度を失っていく。


「行方不明だって何度も言っているでしょ。なんでみんなそんなひどいこと言うの? 誰がお姉さまが死んだことを確認したの? 証明できる人がいる?」


「ロスプ家の秘宝である指輪をつけた手が帰ってきたんですよ? あれからもう一年以上の時間が経ちました。そろそろ認めてもいい頃でしょう」


「片手しか見つかってないもん! お姉さまだもの、きっと傷を癒して生き延びているはず。帰ってこれないのは何か事情があるからに決まってる」


「現場には魔獣に食い荒らされて原形を留めていない遺体が無数にあったそうです。片手だけが無事だったのは指輪の聖なる加護がそこだけを守ったから。強力な魔獣、あるいは魔人と交戦して護衛ごと全滅したことはほぼ確定的です」


「エンブラのわからずや!」


「わからずやで結構。さ、戻りますよ。特に今日は大人しくしていて貰わないと困ります。あなたにまで死なれるわけにはいきません」


 言い争いは加熱して最後には子供のような癇癪で幕切れを迎える

 この話題が出るたび、二人の会話はいつもこんな風に終わっていた。

 互いが互いにうんざりする『いつもの光景』。

 そんなやりとりに、今日は珍しく変化が加わった。


「本当に、今日は私の目の届く場所にいていただかないと困るんです。よりにもよってこのタイミングで脱走とか、指示を徹底できるとは限らないのに。万が一、誰かが先走りでもしたら取り返しがつかない」


「エンブラ? それってどういう意味?」


 問いは言葉の内容に対してのものではない。

 メリッサの視線は銀色の刃に向けられている。物騒な輝きを前にしても妖精の少女はきょとんとした表情のままだ。

 信頼の置ける召使が唐突に腰の鞘から剣を抜いた。その意図がわからない。


 普通に考えれば敵の存在を察知して臨戦態勢に移ったということなのだろうが、ロスプ・レルムでは古い時代の神秘がまだ生きている。魔人や魔獣が攻めてくることはないはずだった。勿論、統制のとれていない貴族の無法者ども、開拓爵の連中が協定を無視してきたとしてもきちんと侵入を妨げてくれる。


「メリッサ様。どうか今日ばかりは私の言うことを聞いて大人しくしていて下さい。そうすればあなたには危害を加えないと約束します。わかりますね?」


 刃の切っ先がメリッサの方を向いた。振り返ったが、街はずれには植林された障壁樹が等間隔で並んでいるだけだ。邪悪な者の侵入を許さない木立の向こうにも誰もいない。


「エンブラ、どうしたの? 誰もいないけど」


「現実が理解できていないふりをする悪癖を改めて下さい。何度も申し上げているはずですよ、王女様。見えずとも聞こえているはずです。その妖精の耳は飾りですか」


 もちろん、城下町がなにやら騒がしいことには気づいていた。

 あちこちで悲鳴が響き渡り、鋼鉄のがちゃがちゃした音や祝福された樹木で作られた杖や弓が引き裂かれて上げる断末魔の悲鳴が耳を劈く。飛び立ったばかりの城からは煙が上がっており、森の種族にとって最も忌避すべき火の気配が肌をざわざわとさせている。


 『決起』とか『ドワーフ・レルム万歳』とか『貴族気取りの妖精特権を許すな』とか断片的に聞こえてくる言葉から、とにかく物騒で剣呑な雰囲気は伝わってきていた。

 メリッサは一生懸命に考えて、ようやく現状に理解が追いついた。


「ああー。なるほど、そういうこと?」


「ようやくですか。本当に、あなたという人は」


「計画したのはお父様? ロスプ・レルムは危機感が足りないっていつもうるさいもんね。こういう訓練をして有事に備えるんだよね?」


「メリッサ様。本当に、どうしてあなたは」


「でも火まで放つのはやり過ぎ、え、まさか本当に? エンブラ、誰かに操られているの? 何か、魔人族の邪悪な力とかで」


 大前提として、メリッサからはエンブラが裏切るという発想がまず出てこない。

 小さい頃から一緒で、お料理のつまみ食いも許してくれて、手作りの絵本を読み聞かせてくれたりカメムシを背中に入れても一日口を効いてくれないだけで許してくれたエンブラが自分に刃を向ける? 大事にしていた髪飾りを壊しても、花瓶を割ってしまったのを彼女のせいにしても、彼女にとって大切なお見合いの日に「やだやだエンブラがお嫁にいったら誰が私を朝起こしてくれるの」と喚いて破談にしても怒らなかったのに?

 それはまあ、ちょっとくらい不満が溜まっている可能性はあるかもしれないが。

 危機感が欠如したままのメリッサに苛立つように、エンブラは強く言い募った。

 

「あなたたち『亜人の貴族』が特権に守られて安穏と平和を貪っている間にも、私の同胞たちは前線で命を散らしていく。同じ亜人でありながらこの差は何? 不公正を是正したいと願うのは当然じゃないですか?」

 

 貴族と亜人。魔人という共通の敵に立ち向かう仲間でありながら、その立場は対等ではない。そして亜人の中でさえ、格差は厳然として存在する。

 複雑怪奇な天使族の宗教観と職能区分、聖角族を頂点として翼膜族、剣爪族、長尾族と続く竜人族のヒエラルキー、居住地域の差によって文化的にも政治的にも対立している島魚人族と河魚人族、そして矮人族が内包する七氏族間の混沌とした戦乱の歴史。


「悲願なんですよ、私たちにとって。自分たちだけの国、祝福されたレルムの獲得は」


 悲鳴と怒号はどんどん大きくなっていく。

 争いの気配、悲劇の足音。

 不安と予感から眼をそらすように、メリッサは愛すべきドワーフたちを操る邪悪な魔人族の姿を探した。迷妄な思考を断ち切ったのは威嚇と警告の意思を込めた斬撃だった。

 悲鳴を上げて尻もちをつくメリッサを、エンブラが酷薄に見下ろした。


「大人しくついてきてください、メリッサ様。私に捕縛されていれば同胞たちはあなたに手を出しません。ロスプ家に残された唯一の後継者となったあなたには利用価値がある」


「利用価値って、そんな言い方」


 メリッサにとって現実とはいつもゆっくりとやってくるものだ。

 ようやく認識が現状と噛み合い、半信半疑の恐れから身体が震えだす。

 震えた口が紡いだのはか細い抗議の声。


「ぶ、ぶれいものー」


「ちっ、ほんとイラつくなこのガキ」


「ひどいー!」


 荒っぽい舌打ちでようやく実感する。これはエンブラがたまに見せる『本気の激怒』だ。経験上、ここで可愛くごめんなさいしても火に油を注ぐことになるだけだと知っていたメリッサは最後の手段に出ることにした。

 立ち上がり、精一杯居丈高に見えるよう胸をそらしながら腰に手を当てる。


「わ、私は『祝福の末妹姫』なんだよ? この身に危害を加えようとすれば聖なる大樹の罰が下るとわかっていて? ですわ?」


「下らない迷信を。そもそも、あなたは末妹でさえないでしょう? 知ってるんですよ、下にひとり、妹がいるって」


「私に妹はいない」


 凍り付く。

 メリッサの、窮状にあってさえどこか危機感が欠如したのんびりとした顔からあらゆる表情が抜け落ちていた。うつろな瞳が湛える無色の光にエンブラは呼吸を止める。


 妖精の王女は、静かに腰をかがめて地面に手を伸ばした。無造作に拾い上げたのは逃げた子供たちが打ち捨てていったであろう木の枝である。


「私に、妹は、いない。このサイクルにおいて大いなる聖樹から生まれた最後の王族は私。罪に穢れた者を王族と呼ぶことがあってはならない」


 木の枝を勢いよく振る。大気を引き裂いた音は思いのほか鋭利で、枝先がエンブラに向くとまるでそれは武器のように冷たい殺気を放射した。

 何かがメリッサの意識を変えた。竜人の諺で言う『逆鱗に触れた』状態だ。


「無礼者。剣を収めなさい。今ならまだ温情を与えてもいい」


 それは正しく反逆者を見下ろす王者の振る舞いだった。

 今更になって。エンブラは唇を噛んだ。


「バカみたい、私の手にある剣が見えないんですか? 最下級とはいえこれは遺物。火鋼鉄の剣に木の枝で勝てるわけないでしょう。子供の遊びじゃないんだから」


「これなるは『妖精族に伝わる名剣フウィルドスリング』。振れば鉄を砕き、投げれば邪悪を裂いて持ち主の手に戻る。翼ある大樹の加護を宿した真なる遺物に贋作で挑む愚かさ、その身で思い知りたいのなら容赦はしない」


 エンブラは失笑してみせた。

 王女様はまたしても現実から逃げている。

 そう、そのはずだ。メリッサは姉を失ってからずっと心が安定を欠いている。

 だからその言葉はすべて取るに足らない迷妄な虚言。そのはずなのに。


 漂う緊張と一触即発の空気。

 剣を向けあうかつての主従は、同時に異変に気付いた。

 騒乱の音、その性質が変化している。

 逃げ惑う人々の悲鳴、戦いの怒号、そして獣の雄叫び。


 妖精たちに反旗を翻した矮人の戦士たちが、鋭利な爪に引き裂かれて倒れていく。

 獰猛な牙に噛み千切られる血肉は妖精と矮人のそれが入り混じった同じ赤色だ。

 魔獣。大きな黒犬の群れが妖精郷に侵入し、次々と亜人たちに襲い掛かっている。


「なにこれ、どうして魔獣が? エンブラたちはやっぱり操られていたの?」


「馬鹿な、私はこんなの知らない、意味がわからない」


 エンブラの動揺は本物だ。反乱を起こそうとしていた矮人たちは不意に襲い掛かってきた魔獣の群れに食い荒らされ、妖精たちと共に血の海に沈んでいく。

 誰にとっても予想外の事態。

 矮人たちの反乱と魔獣の襲撃。

 ありえないはずの異変が全く無関係に、同時に発生するなどあり得るのだろうか。


「メリッサ様、危ないっ」


 混迷を極める状況に混乱していたメリッサは、後ろから襲い掛かってきた巨大な魔獣の存在に気付くのが遅れた。振り返ればそこには鉤爪を振り下ろそうとする巨獣の姿。鷲の頭と獅子の体を持つグリフォンと呼ばれる大型の魔獣である。

 強い衝撃。地面に倒れたメリッサは顔を上げて信じがたいものを見た。


 胴を引き裂かれた矮人が力なく伏せている。

 一目で致命傷とわかった。メリッサを突き飛ばすことを優先したからだ。彼女は凶悪な鉤爪の一撃を防ぐことができなかったのだ。


「エンブラ?! どうしてっ」


「ちっ、本当に最悪。死なれると困るってのに、さっさと逃げろこの馬鹿」


 力なく悪態を吐くエンブラ。小さな矮人の体が弛緩し、開きっぱなしの瞳から光が消える。メリッサはエンブラの肉体から魂が抜けて行こうとしているのを感じた。


「だめ、やだ、やめてよ」


 小さな体を引き寄せて傷口に手を当てる。

 流れる血をせき止め、こぼれ出る魂を押さえつけようとするように。

 けれどその体からは既に命の鼓動は消えていて、背後からは魔獣が迫ろうとしていた。

 大型のグリフォンだけではない。黒犬や巨大な蜘蛛といった恐ろしい怪物が次々と姿を現し、メリッサを取り囲んでいた。


 魔獣たちの眼が妖しく輝く。

 全ての怪物たちを従えるように、空から舞い降りてきたのは人型の影だった。

 黒い体毛。長い手足。矮人よりも更に小柄な体格。

 メリッサは不思議な力で浮遊するその姿を仰ぎ見て、ぽつりと呟いた。


「猿の、魔獣?」


 あの魔獣は何かが違う。

 異質な存在感。寒気を喚起する死の気配。

 教本で読んだことがある。確か、極めて珍しい魔獣だったはず。

 倭黒猩々パン。『従順な賢猿』の異名を持ち、失われた神秘を操ることができるという高位魔獣だ。


 パンの口が複雑な音を紡ぎだし、歌とも呪文ともつかない力ある言葉が世界を震わせる。途端、強烈な眠気が襲い来る。メリッサは目が霞み、意識が暗転していくのを感じた。

 抗えない。せめてこれだけはと決意してエンブラの身体を抱きしめる。

 世界が暗くなる。伸びて来た猿の手がそっと体に触れた。

 その記憶を最後に、メリッサは意識を手放した。



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