第17話 逃亡
「さあ、そうと決まったら早く行かなくては!」
ゾラはユリエを急かした。
「国家保安部の人が集まり出したら厄介ですよ!」
「い、いや、あの、逃げるって……どこへ?」
「無論、国外です。既に民主化を達成したパルラントか、それとも『鋼のカーテン』を撤去したマージャか、どちらかが良いでしょう」
「こ、国外……!?」
それは考えてもみなかった手だった。
国外逃亡?
「あの……」
ユリエは躊躇いがちに言った。
「あなた戸籍が無いからパスポートもらえないし……そもそも、もらいに外に出て行ったらそこで捕まっちゃうけど」
「でしたら、不法に越境しましょう!」
いとも容易くゾラは言う。
「不法に!?」
「だとしたら、マージャに詰めかける東ジェルマ人に紛れて移動した方が安全ですね。パルラントもプラゴから近いので捨てがたいですが、国境を越えられる可能性が高いのはマージャです。プラゴから、ブルナ、そしてブラツァを経由すれば、マージャに亡命できます!」
あまりに簡単に言われると、それはそれでありな気がしてくるから不思議だ。
だが根本的な問題は解決していない。
「よし、やりましょう!」
今にも家を飛び出しそうなゾラを、ユリエは押しとどめた。
「待って、待って。待ちなさい。私たちは国家保安部に見張られているんだってば。逃げても無駄だって、アレシュの野郎も言っていたわ。……あなた、アレシュに勝てないでしょう」
「勝てますよ!」
ゾラは何故か自信満々だった。
「あれから私は鍛錬を重ねました! それに今なら何だってぶっとばせる気がするんです!」
「そ、そうなの……?」
「さあ、行きましょう! さあさあさあ!」
「待ちなさいってば。まだ逃げると決めたわけじゃないのよ……。それに、逃げるとしたら、最低限の荷物は持っていかないと。お金と服と色々。そうでないと国境を越える前に私が倒れちゃう」
「分かりました。ユリエの荷造りを手伝います! 何をすれば良いですか?」
「いきなり人の話を聞かなくなったわねこの子は。私は逃げると決めたわけじゃないと……」
「逃げる方がユリエが助かる確率が上がると判断したまでですよ!」
「……」
「行きましょう!」
「……ああーっ、分かった、分かったわ。やってやろうじゃない。アレシュのクソ野郎を出し抜いて、亡命を……!」
こうして柔軟に考えれば、まだ打つ手が残っていたのに、ユリエは危うく全てを投げ出してしまうところだった。投げ出さなくて良かった、とユリエは思った。
度重なるトラウマで心が抉られてしまい、視野が狭くなっていたのだ。そうに違いない。
思い詰めすぎるとろくなことがないということが、ユリエにはよく分かった。
「……やるからには絶対やり遂げるわよ」
「その意気です!」
ゾラに励まされて、ユリエは床に降り立つと、さっさと指示を出し始めた。
「私が必要なだけ服を選ぶから、それをカバンに入れて頂戴。あ、その前に、台所から非常食を……。水も必要そうね。水筒が要るわ」
「分かりました」
二人はてきぱきと作業を進めた。すぐに、カバン二つ分の荷物が出来上がった。
「では、行きましょう。扉は見張られていると思われるので、窓から脱出しましょう!」
「え?」
「大丈夫、私が荷物ごとユリエを抱えて行きますから!」
「ええ?」
ゾラは窓を全開にすると、細い腕でひょいっとユリエを持ち上げた。
「ひえっ!? ちょっと待って……」
「いいえ、待ちません。それーっ!!」
絹を裂くような悲鳴が、ユリエの喉から奔り出た。
ユリエの部屋は集合住宅の三階で、高さはそれなりにある。
だがゾラはものともせずに、暮れなずむ空に躍り出ると、軽々とコンクリートに着陸した。ユリエを下ろしてその手を引く。
「急ぎましょう!」
「ゾラ……! ちゃんと周りを警戒して」
「はい!」
良い返事をしたゾラは、はっと物陰に目をやった。
「ユリエ、危険です!」
ゾラがユリエを突き飛ばすのと、何者かがゾラに突進してくるのが、同時だった。
「へえー」
突進してきた男アレシュは、さして驚いた様子もなく言った。
「ゾラちゃんってナイフで刺しても平気なんだ」
ゾラはお腹にぐっさりとナイフの傷をこさえていた。しかしその傷はみるみると修復されていく。
「じゃあ、これはどうかな?」
アレシュはすかさず、銃でゾラの頭を何発か撃った。
「ひどいです、アレシュ」
「うーん、駄目か」
見ていてユリエはぞっとした。もしナイフや銃弾の当たりどころが悪ければ、ゾラの体内に埋め込まれている紙にある「真実」の文字が損傷しかねない。そうなればゾラは終わりだ。
「でも何か弱点があるはずだよね?」
「ありません。私は無敵です」
「おやまあ、嘘が下手だなあ」
アレシュは笑った。
「君は土と水と言葉で出来てるって、ユリエが言ってたね。その辺りに君の弱点も隠れてるって、僕は思うんだけど」
「静かにしてください、アレシュのクソ野郎」
頭部の修復を終えたゾラは、素早く飛び退いてアレシュの後ろに回った。その洗練された動きには、さすがの国家保安部員もついてはこられないだろうと思われた。
「ドリャアッ!!」
ゾラがアレシュの頭部に蹴りを入れる。だがそれは、ぎりぎりのところで防がれた。実際にゾラが蹴りを喰らわせたのは、アレシュの左腕だった。
「今のは危なかった」
アレシュは痛そうに腕を見ながら言った。ゾラは不服そうな顔をした。
「私は攻撃を防がれました。しかしこれで分かったこともあります」
「おや、何かな?」
「今ここにいる国家保安部員はあなただけだということです。あなたは油断をしたので、一人で見張りを買って出ました」
「ああ、うん。本当はもう少しで仲間が来るから、それまで待とうとしていたんだよ」
「私はそれが虚偽ではないことを知っています。そして、そうはさせません」
ゾラはさっと身を屈め、低い位置から渾身のパンチを繰り出した。
今度は顔のど真ん中に命中。アレシュは盛大に鼻血を噴いた。
「ごぶぇ! 鼻血を出したのなんて餓鬼の時以来だよー。恥ずかしっ」
「静かにしてください」
ゾラは再びアレシュの後頭部を狙ったが、これはあえなく防がれる。しかし、二連撃、三連撃と、縦横無尽に攻撃していくうちに、アレシュの守りは崩れてきた。四連撃目で、攻撃は命中した。重い打撃を食らったアレシュは、ふらふらっとよろめいた。
「あれ……おかしいな。かわすのが間に合わなかったや……。君はこんなに強くなかったはずなのに……」
「『意志』のある拳は、人形の拳よりも強いのです! それっ!」
続いて正面に回ったゾラは、アレシュのガラ空きの腹部を蹴り上げた。ドゴッ、と容赦のない音がした。
「ぐぼぁーっ」
アレシュの体がごろんごろんと地べたを転がる。更に追撃を加えようと、ゾラが地面を踏みしめた時だった。
「殺したら駄目よ、ゾラ!!」
鋭い声が飛んだ。
安全な場所まで退避していたユリエから、命令が飛んだのだ。
ゾラはピタッと攻撃をやめた。
「分かりました。殺しません」
「良かった……」
ユリエは胸を撫で下ろした。てっきりもう意に沿わない命令を聞いてくれないかと思った。
ゾラは名残惜しそうに、ボロ雑巾と化して地面でのびているアレシュを見た。
「殺さないよう、あと一発だけ蹴りをお見舞いしてもいいですか?」
「ええ、殺さないなら構わないわよ」
「分かりました。そーれっ」
サッカーでもやっているかのように、ゾラはアレシュを蹴り上げた。夕暮れ時の空にアレシュの体は舞った。ゾラは嬉しそうに歓声を上げた。
「やったー! 私はアレシュをぶっとばしました!」
ドサっとアレシュがコンクリートに叩きつけられる。彼は哀れにも、気絶して泡を吹いていた。
ゾラはにこにこしながらアレシュに近づいて行った。
「身ぐるみ剥ぎましょう。これで逃亡中、ユリエの生活の心配が無くなります」
「こら、駄目よ。待ちなさい、ゾラ」
ユリエが咎めた。
「身ぐるみ剥いだら盗んだのがバレるでしょう」
「それは確かにそうです」
「だから、財布から札束を九割くらい抜き取っておくのが良いと思うわ。どうせこいつは国家保安部員として、べらぼうに高い給料をもらっているんだから、九割くらいちょろまかしたって誰も気づきやしないわよ」
「分かりました。そうします」
こうして二人は潤沢な資金を得た。
「よくやったわ、ゾラ。アレシュの腐れ外道をやっつけたばかりか、お金まで稼いでくるなんて」
ユリエはゾラの黒髪を撫でた。
「さあ、他の国家保安部の奴らが来る前に、早くこの場を離れましょう」
「はい!」
ゾラは元気よく返事をして、ユリエの手を取った。
二人は、再びブルナへ赴くために、鉄道の駅へと向かって行ったのだった。
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