第4話 新生活


 こうして一度はスロヴィオの中心地たるブラツァに住むこととなったユリエだが、諸事情があって一人でプラゴに舞い戻ってきたのだった。

 およそ二十年ぶりのプラゴ。

 MTO軍に侵略された当時の傷跡は無く、人々は無言でそそくさと往来を歩いている。

 この国からはかつての活気が失われて久しい。あまつさえ経済状況も悪くなっている。

 あれからドゥーチは退任し閑職に追い込まれ、「人間らしい社会主義」はほとんど撤回されてしまったのだ。新しく就任した共産党第一書記は、これまで通りの、否、これまでよりも厳格な言論統制を敷いている。


 ユリエは無心で、引っ越し作業をやっつけると、ぼんやりと椅子に座っていた。

 両親の墓参りは済ませてある。あとはもうやることもない。


「ユリエ」

 ゾラが話しかけてきた。

「何?」

「食事は摂らないのですか? ユリエは昼ごはんを食べていません。夕ごはんは食べるべきです」

「んあ……」

 ユリエは間の抜けた声を上げた。

「お腹減らないのよね……」

「それでは体を壊します」

「分かってる、分かってる。何かつまみます……明日から出勤だし……」


 ユリエは立ち上がって台所に立つと、ジャガイモの皮を剥き始めた。


 ***


 翌朝、シャツとジーンズに着替えたユリエは、ゾラを椅子に座らせてこう命じた。


「私が帰るまで、大人しくしていること。念のため、人に見つからないようにね。退屈だったら本を読んでいていいから」

「読書を実行に移すための条件が分かりません。退屈とはどういうものですか?」

「……分からなかったら読まなくてもいいのよ。それじゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい、ユリエ」


 そうしてユリエが向かったのは、縫製工場だった。

 以前勤めていたブラツァの縫製工場と同系列の職場で、工場主が国に協力する形で運営されている。形態としては、民間と官制の半々ということだ。

 初めて訪れる場所なのだが、ユリエは何とか道に迷うことなく現地に到着した。やがて朝礼の時間になって、上司らしき人がユリエをみんなの前に立たせた。


「えー、本日から入る新入社員だ」

「ユリエ・シュタストニヤです。同志の皆さん、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「連絡事項は以上だ。皆、作業を始めなさい」

「はい!」


 ユリエは上司に案内されて、製品の最終確認の工程を行なう区画に向かった。


「君はここだ。仕事内容はそこのノヴァクに聞きなさい」


 作業レーンの向かい側で、金髪の男が「やあ!」と片手を差し出した。


「僕はアレシュ・ノヴァク。よろしくね」

「あ、はい……よろしくお願いします……」


 ユリエがおっかなびっくりアレシュの手を握ると、彼は力強くユリエの手を握り返してきた。


「さ、早くしないと、商品が流れてきてしまう。僕たちの役目は、ここに流れてくる服の出来を手作業で確認することだよ。やっぱり最後は、人の目による検査が必要だからね、初めのうちは、一目見ただけでは判断がつかないと思うけど、慣れれば大丈夫! 不良品はすぐに分かるようになるさ!」

「……はい」

「おっと、来た来た。こんな風に──」

 アレシュは一着目の服をサッと持ち上げて点検した。

「一着ずつ取り上げて、ざっと確認するんだ」

 説明しながらも、淀みない手つきで作業を進める。

「さあ、ユリエもやってみて。僕より前に立って……そう、そこに。失敗しても僕が後から何とかするよ」

「……」


 ユリエは戸惑いながらも、レーンを流れてくる服を手に取った。すぐにアレシュは「うん、いいよ」と口を挟んだ。

「急がないと間に合わない。次、次」

「はい」


 ユリエは集中して作業を続けた。

 取り扱う服はどれも、軍服、軍服、軍服。厳密には、軍服の上着の下に着るためのシャツ。

 チェスコスロヴィオ陸軍に供給するための生産物だ。


 前に勤めていたブラツァの工場では、量産品とはいえ、市民に提供するための服を作っていた。そっちの方が軍服よりずっといい。だが、わがままを言える状況ではないのは分かっていた。仕事を紹介してもらえただけありがたいのだ。


 アレシュは素早い手つきで仕事をしながら、どういう製品が合格で、どういう製品が不良品なのか、色々と説明してくれた。お陰でユリエは、幾らもしないうちに仕事内容を覚えられた。


 三時間ほど働くと、お昼の時間になった。各々に三十分だけ休憩が許可されていた。


「お昼だーっ」


 アレシュは伸びをした。


「お店を案内しよう、ユリエ。このあたりにはあまり詳しくないんだろう?」

「あ……私はパンを持っていて……」

「昼ごはんにパンだけ?」

 アレシュは目を丸くした。

「だめだめ、昼はきっちり食べないと。パンは夕ごはんにとっておいて、今は外で食べてこよう! ついておいで!」

 一方的にそう告げると、アレシュは作業場から出て行ってしまった。ユリエはしばしの逡巡の後、アレシュの背中を追いかけた。


「豚肉と、酢漬けキャベツと、クネドリーク(茹でて作るパン)。この三つがなくちゃあ、チェスコ料理は始まらないからね!」

「そうなの?」

「そうとも」

 アレシュの足取りは軽かった。

「さっさと食べてさっさと働こう! うん!」

「は、はあ……」


 もごもごと返事をするユリエを連れて、アレシュは一軒の店に入った。そして件の三品と黒ビールを、二人分注文した。


「仕事の合間にビールを飲むの……?」

「おや? 君の元いたところでは飲まないのかな」

「……ワインを飲む人はいたかも」


 運ばれてきた料理はどれも美味しそうだった。豚肉を一口食べると、肉の旨みとサワークリームの味が舌の上に広がる。それからビールを口に含む。確かにこの組み合わせはとても良いものだ、とユリエは納得した。このところまともに食べていなかったせいだろうか、余計に美味しく感じられる。

 ユリエが黙々とフォークを動かしている間も、アレシュはやたらとお喋りをしていた。妙な男だなとユリエは思った。誰もが密告を気にして口を噤みがちな昨今、こんなにいけしゃあしゃあと話し続けるとは。


「君は随分と無口なんだね、ユリエ」

「……そうかしら……?」

「たくさん喋った方が楽しいよ。ま、無理強いはしないけどね」

「はあ……」


 妙な男であることには違いないけれど、優しい奴なのかもしれない、とユリエは思った。


 さて、昼休憩が終わったら、作業場に戻って仕事を再開する。ひたすら軍服を広げては置き、広げては置くのを繰り返す。時折、縫製に失敗したものを見つけて、より分ける。だんだん慣れてきたな、と思ったあたりで、勤務時間が終了した。


「なかなか手際が良かったよ」

 アレシュは言った。

「さあ今日はもうお帰り。明日もまたよろしくね」

「はい」


 ユリエはタイムカードを切って、工場を後にした。


 疲れたけれど、帰る前にちょっと寄り道をする。服屋に入って、小さめのワンピースを二着購入した。可愛らしいフリルがあしらわれた白いものと、質素なつくりの臙脂色のもの。それから下着も何着か。

 それらの入った紙袋を抱えて、ユリエは帰宅した。


「ただいま──」


 部屋では、ゾラがぴしりと背筋を伸ばして椅子に座り、一心に本を読んでいるところだった。ユリエが入っていくと、ゾラは嬉しそうにぱっと振り返った。


「おかえりなさい、ユリエ」

「うん。……本、読んでたの」

「はい。私は『退屈』というものを理解しました。私はユリエを待っている間に退屈を感じたので、本を読みました」

「そう」


 ユリエは荷物を一旦置いて、台所でコーヒーの支度をした。

 ゾラは本を棚に仕舞って、ユリエの動きを目で追った。


「……ゾラ。もう、本は読まないの」

「はい。ユリエがいると退屈を感じません」

「別に退屈じゃなくても読んでいいのよ……。まあ、好きになさい」


 ゾラはしゅんと項垂れた。


「すみません、分かりません」

「ああ……ごめんなさい。落ち込むことはないの」


 ユリエは一人分のカップを持って、ゾラの向かいに座った。


「ゾラ、私をただ見ていることと、本を読むこと、どちらがより退屈しない?」

「ユリエを見ていることです」

「そ、そうなのね……」

「ユリエ、私は『好き』について少し理解しました。私は、より退屈でない方を選べば良いですか?」

「……まあ、そういうことでいい……のかな」

「では私は、好きにすることができます」


 ゾラはそのきらきら光る黒い瞳で、ユリエのことを穴が開くほど見つめた。ユリエはまたしても気まずさを感じた。


「……さっきは何の本を読んでいたの」

「『概説 チェスコスロヴィオの歴史』を読んでいました」

「ああ……」


 ユリエは、昔に読んだ本の中でも気に入ったものをこの家に運び込んでいた。娯楽の本の他に、外国語学習の本や、勉強のための本もある。

 ユリエは大学には行かなかったけれど、勉強は好きな方なのだ。


「どうだった?」

「非常に興味深い内容です。しかし、時々分からないことがあります」

「そう……。何が分からないの? 私に分かることなら答えてあげる」

「では、質問をします」


 ゾラは居住まいを正した。


「チェスコスロヴィオとは何ですか?」


 ユリエは危うくコーヒーを吹き出すところだった。


「そこから分からなかったのね」

「はい」

「いいわ。教えましょう」

「お手数をおかけしてしまいすみません」

「いいのよ。たくさん話した方が楽しいらしいから」


 ユリエは棚から本を引っ張り出して、ページをめくった。

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