第5話 学習
「チェスコスロヴィオっていうのはチェスコとスロヴィオがくっついてできたの」
ユリエは地図を指差しながら言った。
「チェスコ人とスロヴィオ人が合わさって、チェスコスロヴィオ人。チェスコ社会主義共和国とスロヴィオ社会主義共和国が合わさって、チェスコスロヴィオ社会主義共和国」
「何故くっつけたのですか?」
「んー」
ユリエは長い前髪を掻き上げた。
「二つの民族はとても似ているから……一緒に独立した方が色々と便利だったんじゃないかしら」
「では、ユリエは
「それは……」
ユリエは少し考え込んだ。
「チェスコスロヴィオ人……かな。母さんはチェスコ人で、父さんはスロヴィオ人だから、半分ずつなのよ。でも、魔術師としての祖先はジュード人だし……。とにかく、民族の問題なんて、そんな簡単に決められるものじゃないわ」
「難しい話なのですね」
「そうね……」
チェスコ人とスロヴィオ人は、各々の言語で意思疎通が容易に行えるほどに、近しい民族だ。
この国は、ウスタリヒとマージャによる長い支配の時を経て、第一次世界大戦後にチェスコスロヴィオとして初めて独立した。この時、立場的にはチェスコ人の方が優位に立っていたため、スロヴィオ人は不満を募らせていたようだ。そのこともあって、第二次世界大戦が始まってジェルマ人がこの地を占領した際には、チェスコは保護領となって独立を失い、逆にスロヴィオは保護国となって独立した。戦争が終わってからは両国はまた一つとなり、紆余曲折を経て、今の連邦制国家ができあがった。
しかしながら今も、チェスコ人の優位は続いている。チェスコスロヴィオとして二つの民族を一つと見做したがっているのは専らチェスコ人で、スロヴィオ人は自分たちの独自性を訴え続けている。せめて、二つの民族が別物だと分かるように、チェスコスロヴィオという国名をやめて、チェスコ=スロヴィオという表記にして欲しい、という要望もあるくらいだ。
「……という訳なのだけど、だいたい飲み込めたかしら?」
「非常に難解ですが、大方理解しました。人間の考えを理解するのは、私にとって重要なことです」
「そうなの?」
「ユリエは昨日、私に、『人間らしくなるよう努力する』ことを命じました。お忘れですか?」
そういえばそんなことも言ったか、とユリエは思い出した。
「……別に、命令じゃないわ。あなたがそうなりたかったらそうして頂戴」
「『好きにする』ということですか?」
「そうね」
「私はこの問題についてすぐに決められそうにありません」
「ふうん」
やはりゾラの思考回路はおよそ人間らしいとは言えない代物だった。
そもそも人間らしいとはどういうことだろうか、とユリエはぼんやり考える。
ゾラはあくまでホムシミュラ・ゴーレムとして生を享けたのだから、存在そのものが人間とは決定的に違う。ただのモノだ。人間に近づくのは土台無理な話だったのではないか。
結局ユリエは、ただのゴーレムを創っただけだったのだ。家族を創ろうだなんて、そんな夢が叶うわけがなかった。
(諦めよう)
ユリエは認識を新たにした。
(ゾラはモノ。退屈しのぎにはなるけれど、それ以上でもそれ以下でもない)
如何に人間を真似ようとしても、ゾラの本質が変わることはない。そもそもゾラは、「人間らしく」なろうとしている時点で、己が元々人間ではないということを、逆説的に証明してしまっている気がする。
「そんなことより」
ユリエは言った。
「あなたの服を買ってみたのよ。合うかどうか、ちょっと着てみて」
「分かりました」
ゾラは臙脂色のワンピースを受け取ると、ぶかぶかの服を着替えた。
「着ました」
「ふむ。悪くないわね。ちょっと一回転してみて……そう。うん。合ってるわ」
漆黒の髪色と深い赤色がよく馴染んでいる。
続いてユリエは白いワンピースを手渡して、着替えさせた。
「着ました」
「ふむ。いいんじゃないかしら。はい、一回転。……やっぱり白は似合うわね」
浅黒い肌と純白の衣が対照的で、それぞれの良さを引き出している。
「決めた。週末はその服で一緒に出かけましょう」
「お出かけですか」
「気晴らしにね。油断すると私はすぐに、家から一歩も出なくなってしまうから」
「楽しみです!」
ゾラは嬉しそうに笑った。
***
週末までの四日間、ユリエはもくもくと仕事をこなした。徐々にアレシュからの指導も減ってきて、滞りなく手を動かせるようになった。慣れてしまえばこんなものは単純作業に過ぎなかった。
「君は覚えが早いなあ!」
アレシュは感心していた。
「お陰で仕事が捗るよ」
「それは、どうも」
ユリエは少し照れてしまい、もごもごと口籠った。
そしてお待ちかねの休日が訪れた。
ゾラを初めて人前に出す。ユリエはやや緊張していた。
「粗相をしないように」
「はい」
「変なことを口走らないで」
「はい」
「迷子にならないよう気をつけて」
「もちろんです」
ユリエとゾラは連れ立って出かけた。
ゾラが軽快に足を動かす度に、服の裾の白いフリルがふりふり揺れる。この服にして正解だったとユリエは思った。服飾の工場に勤めていただけあって、着る物に関しては多少の造詣がある。自分の服にはあまり頓着しないユリエだが、他人を着せ替え人形にするのは嫌いではなかった。
二人はバスに乗って、観光名所であるプラゴ城まで出向いた。
古代の城の中では最も大きいことで有名な城は、長い時の中で、様々な建築様式が取り入れられている。
中は博物館となっている。貴重な美術品や、プラゴの歴史などが展示されているのだ。
二人分の入場料を払って、ユリエは城内に踏み込んだ。
ゾラは初めて見る光景に目を丸くしていた。だが、静かにするようにとの命令を受けて、ひとまずは大人しく展示物を観覧している。
二時間ほどかけて、ユリエとゾラは博物館を回ってきた。
「面白かった?」
ユリエが訊くと、ゾラは待ってましたとばかりに「はいっ!」と大声で言った。周囲の観光客がギョッとして振り向いたので、ユリエは恐縮した。
「ゾラ、声量はもっと抑えて」
「……」
「いや、普通に聞こえる範囲でいいから……」
「分かりました」
「……楽しめたようで良かったわ」
「はい。連れてきてくださってありがとうございます」
「……別に。大したことじゃないわ。暇だったんだもの」
ユリエは顔にかかった髪の毛を振り払った。
「まだお昼だけど、今日はここまでにしましょう。帰るわよ」
「分かりました! またバスですか?」
「そう。行きの時みたいに興奮して騒いじゃ駄目」
「了解です!」
言葉通り、ゾラは黙って席に座って、窓外を流れ行く町の景色を、目を輝かせて見つめていた。
帰宅後、ユリエが昼食を摂っている間、ゾラは棚から色んな本を出しては眺めていた。博物館から帰ってきたばかりで、知的好奇心が収まらないのだ。
「ユリエ、これは何の本ですか?」
「小説」
「では、これは何の本ですか?」
「哲学」
「では、これは? 他の本とは、文字の種類が違います」
「ああ、それはね、古代ヘブリュイ語の本」
ユリエはバターを多めに入れたクネドリークを飲み込んで言った。
「ゾラも読めると思うわ……。あなた半分くらいはヘブリュイ語でできてるから」
「そうなのですか?」
「ゴーレムを作るのに適した言語がいくつかあって、ヘブリュイ語はその代表なのよ。私の知っている魔術書はみんなヘブリュイ語で書かれているわ」
「なんと! そうなのですね!」
「口語としてはもう誰も使っていないけれど、昔ジュード人が使っていた言語なんですって」
「興味深いです。読んでみます」
「待って。逆、逆。その文字は右から左に読むの」
「分かりました。ありがとうございます!」
ゾラは言うと、すぐに読書に没頭してしまった。
誰に教わったわけでもないのに、この難儀な言語をすらすらと読めてしまうとは、ユリエにとっては羨ましい限りだった。
ユリエが古代ヘブリュイ語を習得するのは非常に困難なことだった。何しろ、魔術を教えてくれるはずだった母が逝ってしまい、後見人となったフェドルはヘブリュイ語とは縁がなく、大学に進学して学ぶのはお金がかかるので現実的に不可能だったのだ。
だが、ユリエはどうしても魔術を使いたかった。それが母との絆の象徴のように思えたからだ。そこで、どうにかして自力でヘブリュイ語を習得しようと、四苦八苦していた。
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