第19話 参加
ユリエは受話器を握りしめた。
「フェドル、私です。ユリエ・シュタストニヤです」
「ああ」
「あの……無事ですか? 刑務所ではひどい扱いを受けませんでしたか? 怪我などしてはいませんか?」
「問題ない」
「良かった……。あ、私は、国家保安部に追われているので、ウスタリヒのヴィエナに亡命しているところです」
「ウスタリヒに。それは知らなかった。……ブラツァに戻る気はないか? ヴィエナなら目と鼻の先だろう」
「え、でも、国家保安部に捕まることになるかもなので」
「その可能性は低い。政治犯の釈放の後、新たな投獄は発生していないと聞く」
「そ、そうなんだ……」
「今、チェスコスロヴィオはどこの町でも、デモ活動が起こっている。ユリエは参加したいのかと思った」
ユリエは目を丸くした。
「わ、私が?」
「ユリエは地下出版の類を一生懸命読んでいただろう。民主化に興味があるものと思っていたが」
「あれは、その」
「おそらく数日のうちに、チェスコスロヴィオで民主化が実現するかどうかが決まる。……もちろん無理強いはしない。しかしこれまでユリエは随分と、共産主義体制に虐げられてきたのだから、これが最後の……なんだ、復讐の機会だと思ってな」
「復讐……」
何故フェドルは、何にも興味がないような顔をして、時々ユリエの胸中を的確に指摘するのだろう、とユリエは思った。
「とにかく、その気になったら一度ブラツァに来なさい。もちろん、ほとぼりが冷めてからでも構わない」
電話が終わっても、ユリエはじっと考え事をしていた。
「ユリエ。ユリエは復讐をしたいのですか?」
「……うーん」
ユリエは唸った。
「……したい。共産党一党独裁と冷戦構造をぶっ潰したい。死んでいった両親のためにも、ひどい目に遭った人々のためにも」
「やりたいことがあるのは良いことです」
ゾラは嬉しそうだった。
「ユリエは以前より元気になりました。喜ばしいです」
「そっか」
「そうです」
「そうよね。……どっちにしろ私、ブラツァに寄らなくちゃ」
「分かりました。お供します」
そこで二人は移民センターを辞すと、今や行き来が自由化された国境をまたいで、あっという間にブラツァまで戻ってきた。
ユリエがかつて暮らしていたフェドル宅に急ぐと、フェドルはちょうど、庭先の掃除をしているところだった。
「フェドル」
「……ああ、ユリエ。しばらくぶりだな。……その子はなんだ?」
「ゴーレムです」
「ゴーレム」
「初めましてフェドル。私はユリエの創ったホムシミュラ・ゴーレムの、ゾラです」
「そうか」
フェドルは細かいことをとやかく聞いたりしなかった。
三人はひとまず家に入って、紅茶を飲んだ。ゾラは席に座って足をぶらぶらさせていた。
ユリエとフェドルは、お互いがこれまで何をしていたかについて、報告をし合った。
「それは、大変だったな」
「フェドルこそ」
「それで、これからはどうするつもりかね」
「んー……」
ユリエは俯いた。
「私……一度、プラゴで活動したいと思います」
「……そうか」
「私の本が」
ユリエが悔しそうに唇を噛んだ。
「押収されたままなんです。あの四冊の本だけはどうしても取り返さなくちゃ」
「なるほどな」
「すみません、勝手なことを言っていますよね。捕まるのを恐れてこの国から逃げたのに、今になって戻ってこようなんて」
「何も、変なことはないから、謝るな。情勢が変わったら帰国するのは当然だ」
「……そうですか」
ユリエはゆっくり顔を上げた。
「民主化革命が成功したら、必ずブラツァに帰ります。それまで待っていてください」
「くれぐれも身の安全には気を付けるように。……俺はブラツァでデモに参加することにするから、プラゴには行けない。……デモは過激化する恐れもある。怪我などしないように。間違っても、命を粗末に扱わないように」
「重々気を付けます。フェドルも気を付けて」
「……うむ」
フェドルは紅茶を啜った。
平気な顔をしているが、随分とフェドルは白髪が増えた。きっと刑務所の中で、自分で言ったよりももっと過酷な体験をしてきたのだろう。
こんな理不尽な政治は即刻終わらせなければならない。
以前までは、デモに参加するのが怖くて、忌避していた。だが今は民主化の波が来ている。周辺の東欧諸国も次々と民主化に踏み出している。チェスコスロヴィオが変わるとしたら、今しかないのだ。だとしたら、怖いだのなんだの言っている場合ではない。
翌日ユリエは、ゾラを連れて、プラゴまで鉄道で行くこととなった。
少し見ない間に、プラゴの町は、大変なことになっていた。デモ隊がひっきりなしに民主化を訴え、共産党一党独裁の廃止を求めている。人々はヴァーフ広場や町のあちこちに詰めかけて、大規模な行進を行なっている。
ユリエは近くにホテルを借りて、しばらくはここで寝泊まりすることを決めた。自宅に戻ってもよかったのだが、何となくまた国家保安部の奴らが捕まえに来るような気がして、怖かったのだ。
資金はまだあるから、大丈夫だろう。
初日は、デモの様子をこっそり見て回ることにした。
皆は横断幕を持っていたり、看板を掲げていたり、メガホンを持ってシュプレヒコールをしていたりと、実に様々な方法で政府に異議を唱えていた。片や体制側の人間は、今のところ、市民を棍棒で殴ったりして無理やり捕まえるようなことはしていない。状況はデモ隊側の有利に動いている。
一通り見てから、ユリエは紙とペンと板を購入し、ホテルに帰ってこう書いた。
「押収した財産の返還を!」
これがユリエの第一の目的。この看板はユリエが持つ。
「共産党一党独裁を打倒し、民主政権に!」
これが第二の目的だ。この看板はゾラが持つ。
本を返してもらうことと、共産党一党独裁体制への復讐。
それがユリエの今やりたいことなのだ。
「明日からデモに参加するわよ。ゾラも手伝って。この看板を持ってね」
「分かりました」
「明日からちょっと大変だけど、頑張りましょう」
「はい」
「フェドルはブラツァで、私たちはプラゴで。一緒に革命を成功させるのよ」
***
結果としてチェスコスロヴィオ社会主義共和国における民主化革命は、無血で達成された。
誰一人として死ぬことなく、民主化への移行に成功したのだ。このことを記念して、チェスコスロヴィオにおけるこの革命は、「静かな革命」と呼ばれている。(これは、大きな流血の惨事になってしまったロマニオや南スラヴォと対比する言葉でもあった。)
革命の大まかな経緯はこうだ。
市民によるデモは、プラゴとブラツァを中心に、活発に行われた。これに対して政府は暴力をもって答えることはしなかった。
以前から国内で沸騰していた民主化への動きと、ベルリーノの壁崩壊前後の国外での情勢の激変、この双方からの圧力に、チェスコスロヴィオ共産党は折れないわけにはいかなかったのだ。
よって、デモで要求されていることを、政府はある程度飲み込まざるを得なかった。市民たちの意見はまあまあ通った。
しかし市民はそれだけでは満足しなかった。より確実に民主化体制に移行することを求めて、ゼネラルストライキを決行したのだ。
この動きに対して、動きを見せたのは、議会だった。議会は、共産党の国における指導的役割に関する憲法での記述を削除した。これによってチェスコスロヴィオは共産党一党独裁から解放され、複数政党制が実現することとなった。
そこで、新しい政治団体が誕生し、彼らがこれからのチェスコスロヴィオを担うことになった。その中心的人物の中には、かつて「人間らしい社会主義」を打ち立てたドゥーチも含まれていた。彼らは、すぐにでも、ウスタリヒとの間の鋼のカーテンを全面撤去することと、国家保安部を解体することなどを発表した。
一連の流れに対し、ソヴェティアからの干渉は無かった。
このような流れで、チェスコスロヴィオは平和的に民主化を達成していったのだった。
プラゴの町は喜びに沸き返った。
テレビやラジオは、連日、この町の象徴とも言える楽曲「ブルタベ」を流しながら、民主化達成の快挙について自由に報道していた。
市民によるお祭り騒ぎが終わりを迎えたころ、ユリエは役所に行って、押収された持ち物を返して欲しいと訴えた。やたらと時間がかかったものの、ユリエの大事な四冊の魔術書と、その他諸々の禁書だったものが、ちゃんと帰ってきた。
ユリエは慎重に中身をあらためて、満足げに頷いた。
目的を果たしたので、ユリエはブラツァに帰ることにした。
フェドルの待つ我が家へと、ゾラを連れて。
フェドルは、わざわざ鉄道の駅まで来て、ユリエとゾラを出迎えてくれた。
「フェドル。無事でよかった」
ユリエは言った。
「うむ。何しろ、怪我人の一人も出なかったというからな」
「でも心配しましたよ」
「……俺の台詞だろうが」
ユリエはフフッと笑った。
「それじゃあ、帰りましょうか」
「……うむ」
「分かりました、ユリエ」
三人はゆったりとした足取りで、フェドルの家へと向かって歩いた。
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