第20話 平和
ユリエはまたフェドルの工場で働き始めた。
難しい縫製を任されて、日々ミシンと格闘している。だがユリエは、服に関することは特に嫌いではないので、仕事が楽しいという面もあるようだ。
民営化を許された縫製工場は、運よくめきめきと業績を上げて、以前より質のいい衣服を生産できるようになっていた。……それでも、西側諸国には遠く及ばないのだが。
冷戦の終わった今、東西の格差が浮き彫りになっている。
一方で、チェスコスロヴィオでは、また別の問題が浮上していた。
チェスコ人とスロヴィオ人の対立だ。
民主化革命を通じて、スロヴィオ人の民族意識は膨らんでいた。チェスコとスロヴィオを分けるべきか否か、論争は続いた。
そして、ソヴェティア連邦が解体した年の二年後、チェスコとスロヴィオは、平和的に分離するという結論に達した。
新しく、チェスコ共和国とスロヴィオ共和国が誕生したのだ。
ここで特筆すべき点としては、国と国が分かれる一大事だというのに、全ての過程が議論によって進行していた点だ。
「静かな革命」に続いて、この分離独立問題においても、流血のないのまま二国は別れた。ゆえに人々はこれを「静かな離婚」と呼ぶようになった。
「静かな革命」と「静かな離婚」は、チェスコとスロヴィオの両国の国民にとって、誇りに思えるものだった。
さて、国が真っ二つに別れるとなると、当然、どちらの国に帰属すべきか迷う人も出てきた。もちろん、色んな民族の血が混じっているユリエも、どうするべきか少し迷った。
チェスコは良い。両親との思い出がある土地だし、工業や芸術が発達していて、経済状況は良い方である。一方スロヴィオはチェスコに比べると工業も経済も発展しておらず、貧しいという面がある。
だがユリエは最終的に、スロヴィオ国民になることを選んだ。
ユリエの望むものがここにあったからだ。即ち、家族が。
フェドルは工場を畳む気は今のところないという。であればユリエがわざわざ引っ越していくこともなかろう。寂しがりやのユリエにとってはここでこうして、三人仲良く暮らすのが良いに決まっていた。
それに、独り身のフェドルの老後が心配だった。
それを言うとフェドルは顔をしかめる。
「ユリエ。今まであまり言わないでおいたが、お前もその調子だと嫁に行き遅れる」
「もう行き遅れてますけどね」
ユリエは笑った。
「だってもう三十三ですよ」
「……」
「分かってますって。そろそろ真面目に考えます。結婚するかどうかを」
「……うむ」
フェドルは相変わらず読めない表情で頷いて、新聞を手に取った。
ブラツァの町を爽やかな風が吹き渡る。
ユリエが庭に出て草むしりをしていると、ゾラが隣に来て手伝い始めた。
「ありがとう、ゾラ」
「礼には及びません、ユリエ」
ゾラは、随分と自分の考えで行動できるようになっていた。
四六時中ユリエのそばにいなくても平気になったし、命令を聞かずとも必要な手伝いをしてくれるし、逆に命令を聞かずに迷惑な暴走をすることもない。
ユリエは時々、ゾラがゴーレムであるという事実を忘れてしまうことがあった。自分で土を捏ねて創ったくせに、これは奇妙な事だった。
だがそれもまたゾラの望んだことなのだろう。人間らしくありたいというゾラのことだ、むしろ喜んでしまいそうな案件だ。
「ユリエ。散歩がしたいです」
ゾラが唐突に言った。
「あらそうなの。草むしりは退屈?」
「私は仕事を退屈だと感じることはしません」
「あらそう。まあ、でも、しばらくチビちゃんたちを使っていないし、そろそろ動かしてやってもいいかもね」
ユリエはパチパチと手を叩いた。
「ゴーレムたち、庭のいらない草を綺麗にむしって頂戴」
「分かりました」
「分かりました」
「分かりました」
「分かりました」
わらわらと庭に出てきたのは、岩のようにゴツゴツとした、小さいゴーレムたちだ。
「私たちと散歩に行きたいものは、連れて行ってあげてもいいわよ」
ユリエがそういうと、チビたちは首を傾げる。そして、せっせと草むしりに勤しむ。
ユリエは苦笑して、庭を後にした。
「フェドルも呼んできましょうか。いい運動になると思うの」
「それは良い考えです。私が呼んできましょうか」
「あらありがとう。よろしく頼むわ」
三人は連れ立って、ブラツァの町に繰り出した。
「今日は教会にでも行ってみるかね」
「ああ……そういえばブラツァにはあんなに長く住んでいたのに、私、教会をちゃんと見に行ったことありませんでした。私、神様を信じてないですけど、行ってもいいんですかね」
「あれは……観光地と化している。信心深い者でなくても、行く価値はある……」
「確かに、建物が綺麗だって評判ですものね」
「そうなのですか、ユリエ? それはとても楽しみです。わくわくします」
「そう。ゾラも色んな気持ちを覚えてきていて偉いわね」
「わあ、ユリエが私を褒めました。私は今とても喜ばしいです」
「良かったな、ゾラ」
「はい、フェドル!」
三人はすっかり、仲睦まじい家族だった。
だからユリエは、今のこの生活に、大変満足していた。
発言に気を付けることも、好きな本が読めないことも、人の目に怯えることも、裏切られて密告されることも、家族を理不尽に奪われることもない、平和な世界。
人間らしい社会だ。
そこで、家族と幸せに暮らすということ。
ようやく手に入れられた。
ようやく。
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