第8話 目撃


 最近はゾラが手当たり次第に本を読むので、本棚をきちんと整理し直さなくてはならない。もちろんゾラはお片付けがちゃんとできる子ではあるのだが、うっかりすると、棚の裏に隠しておいた禁書が平然と並んでいたりすることもあった。他人に見つかったら、おおごとになる。

 ユリエは母の形見の魔術書をしっかりと机の中に隠してから、ゾラを振り返った。


「今日は新市街の方へ出かけてみましょう」

「新市街ですか?」

「人通りが多いところにも慣れるためにね」


 これまでにユリエはゾラを、中世の街並みや、人形仕掛けのある天文時計、ブルタベ川にかかる古い橋、ジュード人の町のシナゴーグなど、プラゴの様々な名所に連れて行った。そろそろ気分を変えて、都会的な場所にも行ってみるのも悪くないだろう。

 新市街には、世界的にも有名なチェスコ交響楽団のコンサートホールや、新芸術の時代に活躍した画家ムハの美術館などがある。それらの文化施設にも足を運びたいところだが、何と言っても目玉は、プラゴで一番の繁華街、ヴァーフ広場だ。

 それは広場といっても大通りのような場所で、多くの車が行き交い、また多くの店が軒を連ねている。近頃は経済が低迷しているとはいえ東側諸国の中でも経済的に余裕のあるチェスコスロヴィオを、象徴するかのような町だ。


「このような大きな通りは初めて目にしました」


 臙脂のワンピースを身につけたゾラは、ユリエの後をついて歩きながら、驚嘆して言った。


「そうね。まあ私は子どもの頃に行ったのだけど……」


 この国で第二の都市であるブラツァにも、大きな通りは存在したが、やはりこのプラゴにあるヴァーフ広場には及ばない。ユリエの知っている中で最も賑わっているのが、ヴァーフ広場だ。

 居並ぶたくさんの服飾の店、食事処、本屋、などなど。無論ほとんどが官営なので他所と似た外観ではあるのだが、その大きさと多さは随一だ。

 それに、微力ながら民主化への期待を込めてデモをする人々と、それを取り締まる国家保安部の人々の、ちょっとした騒ぎ。今年に入ってからこういったデモなどの動きは活発になっており、取り締まりも強化されていた。ユリエは、下手に国家保安部を刺激したくなかったので、心の中でこっそり応援するにとどめていた。


 一通り見て回ったユリエは、喫茶店に入り、安物のコーヒーを二人前頼んだ。ゾラは何も飲むことができないが、ユリエだけが何か飲んでいると、怪しまれてしまう。

 ゾラは目の前に置かれたコーヒーをじっと見つめた。


「……飲みたいの?」


 尋ねるとゾラは首を傾げた。


「すみません、分かりません。しかし、飲んだ方が人間らしい気がします」

「人間……? あぁ……確かそんなことを言っていたわね」

「はい」


 ゾラは真剣な表情だった。


「私は、人間らしくなる努力をするべきか、未だに判断できません。この問題は非常に難しいです」

「まあ、そういうところよね」


 ユリエの言葉に、ゾラは再び首を傾けた。


「すみません、分かりません。そういうところとは、どういうところですか?」

「あなたに足りないものがあるとすれば、意思決定の能力じゃないの? 考える力というか……あなたは本当の意味で何かを考えてはいないのよ」


 ユリエは言って、コーヒーを啜った。

 別にユリエは、ホムシミュラ・ゴーレムに対して、本物の人間のように飲み食いしたりする能力など求めていない。どちらかというと、もっと会話が通じるようになる方が、寂しくなくなるので良いと思う。


「意思決定の能力と、考える力」


 ゾラは復唱した。


「例えば、それよ」


 ユリエはゾラの前のカップを指差した。


「コーヒーを飲むべきか、私の命令がなくても自分で決められること」

「私はこの件に関して『好きにする』ことができません。私は私がコーヒーを好きか分かりません」

「ほらね」


 ユリエが言うと、ゾラは幾らかしゅんとした。


「残念です」

「……まあ、ゴーレムは術者の命令に従うものだから」


 ユリエは自分のカップをゾラのものと交換した。


「あなたが何かを自分で決められないのは、生まれつきのことよ。それでこそホムシミュラ・ゴーレムってことね」

「そうですか」


 その後もゾラととりとめもない話をしながら、ユリエは二杯目のコーヒーを飲み終えた。

 喫茶店を出て、ヴァーフ通りを後にする。バスに乗って自宅最寄りのバス停まで向かった。

 その間、ゾラは何やら考え事をしていた。


「どうしたの」

「何ですか?」

「何か悩んでいるようだから」

「はい。意思決定について熟慮しています」

「……そう……」


 色々と言いたいことはあったが、邪魔をしないようにユリエは黙っていた。

 バス停に着いたので、「降りるわよ」とゾラの手を引く。道路に降り立つ際、ゾラの足がもつれた。


「あっ」


 ゾラは転び、道路に膝をついた。

 脚に傷が入り、ぼろっと土の欠片が零れ落ちた。


「……」


 バスが走り去った。

 ゾラは、初めての体験に、目を丸くして自分の脚を見つめた。それから慌てて、己から欠けた土を拾った。


「すみません、欠損しました。直ちに修復いたします」

「ちょ、ちょっと待って。人の目が……」

「はい、待ちます」


 ゾラは動きを止めた。ユリエは素早く辺りを見渡した。


「ワァオ!」


 突如として声がしたので、ユリエはぎくっとして振り向いた。

 そして、青ざめた。


 いつからいたのか、そこには見覚えのある男が立っていた。


「その子は一体何ものなんだい?」


 近づいてくるその男を、ユリエは警戒心をみなぎらせて睨む。


「……何でこんなところにいるの……アレシュ」


 職場でさんざん見飽きた、へらへらと明るい顔。彼はアレシュ・ノヴァクに他ならなかった。


「何でかって」

 アレシュは肩を竦めた。

「ここは地元じゃないか! 僕だって散歩くらいしてもいいだろ? それより……」


 アレシュは興味深そうに、土を握りしめているゾラを見やった。


「その子を直してあげなくていいのかい?」


 ユリエは眉間に皺を寄せた。


「直すって、何のことかしら」

「とぼけなくていいよ。僕は、その子が怪我をするところをちゃんと見たし、その子は確かに『修復』と言った」

「……気のせいよ」

「ははは! 君も冗談を言うんだね」


 アレシュは無遠慮に歩み寄ってくると、ゾラの全身を舐めるように見た。


「うん、どこからどう見ても人間の女の子だ。でも違うんだろ?」


 ユリエはいよいよ表情を険しくした。

 こんな非現実的な現象を当然のように認めて問い詰めてくるなんて、多分この男はまともじゃない。どうかしている。


「ゾラ、逃げるわよ」

「はい」


 急いでその場を離れる二人。しかしアレシュはいとも容易く後を追ってきた。


「待ちなって。気になっちゃうだろ?」

「……」

「なあなあ。教えてくれよ」


 二人は逃げ惑ったが、どういうわけか数分後には、行き止まりにある古い城壁まで追い詰められていた。ユリエは唖然としてアレシュを見上げた。


「なあ、その子は人間じゃないんだろ?」


 ユリエは左右を見渡したが、どうにも逃げられそうにない。

 こうなったら、仕方がない。


「ゾラ。この男を殴って」

「はい」


 ゾラは目にも止まらぬ速さで拳を突き出したが、これまたどういうわけか、アレシュは平然とそれを受け止めた。


「なかなか重い一撃だ!」


 それからゾラの腕を掴んで、軽々と宙に放り投げた。


「えっ!?」


 空を舞ったゾラは、ベシャッと地面に叩きつけられた。

 今度は土の欠片がこぼれるだけでは済まなかった。ぼろぼろとあちこちの土が変形して、かなりの部位が崩れてしまった。


「な、何するの……!」


 ユリエは動揺して声を上げた。


「やっぱりね。何かおかしいと思った! 説明してくれるよな?」


 有無を言わせぬアレシュの言葉に、ユリエは唇を噛んだ。観念して、溜息をつく。


「……誰かにバラしたら、あなたのことを密告するから」


 低い声で脅してから、ゾラに声をかける。


「直していいわよ」

「分かりました」


 ゾラは頷いて、ぼろぼろの体で立ち上がった。途端に、飛び散った土が浮き上がって、ゾラの体に収まっていく。全ての傷口が塞がれて、ゾラは綺麗に元通りになった。


「ウワアオ!」


 アレシュは叫んだ。


「これはどういう仕組みなのかな!?」

「静かにして。他の人に聞かれたら困るのよ」

「おっと、悪い悪い。で、その子は何もの?」

「……ゴーレム」

「へっ?」

「私が創ったゴーレムよ。名前はゾラ」

「私はホムシミュラ・ゴーレムのゾラです。初めまして」


 ゾラはにこにこして言った。

 アレシュは、ユリエとゾラのことを交互に見たが、やがて、ひどく嬉しそうに叫んだ。


「うおおお!? すっ、すげえぇ──っ!!」


 うるさいっ、とユリエは噛み付かんばかりにアレシュに言い放った。

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