第14話 無駄
そして、半年後の今。
「……またか」
ユリエは血の気の引いた顔でそう呟くと、家の中へと駆け込んだ。
部屋は踏み荒らされていた。本棚から本が落ちていたり、順番がぐちゃぐちゃになっていたりしていた。机の引き出しはどれも半開きだった。衣服の箪笥も無造作にひっくり返されていて気分が悪い。最も酷いのが、鍵付きの引き出しの鍵が破壊されて、中に仕舞ってあった魔術書がなくなっていたことだ。
母の形見の三冊と、『ゴーレム奥義書』の、合わせて四冊。綺麗に姿を消している。
よりにもよって、大事に大事に保管していた、その四冊が!
間違いない。これはちゃちな空き巣泥棒なんかの仕業ではない。
「ああ、何てこと。また、国家保安部だわ……!」
秘密警察である彼らが、ユリエの家の家宅捜索に押し入ったのだ。
旅行帰りのふんわりとした幸福な気持ちなど、跡形もなく吹き飛んでいた。ユリエは半狂乱になって頭を掻きむしった。
「どうして。私はデモにもストにも参加していないし、ただ本を読んでいただけで、逮捕の優先順位は低いはずなのに」
今年に入ってから民主化を求めるデモはプラゴのあちこちで行われてはいたが、ユリエはそれに参加しようとはしなかった。実際に外に出て行動に移す勇気はなかったからだ。大規模な集会や催し物も苦手だった。
その代わり、ゾラを創って、つつましく生きるつもりでいたのに。
「あいつら、あの外道ども。どこまで私の幸せの邪魔をするつもりなの!」
ユリエは急いで、なくなった本が何なのか確かめた。発禁処分にされていた本が何冊か。これだけならまだましだ。多分禁固刑数年分で済む。
だが魔術書はまずい。国家保安部に古代ヘブリュイ語を読める人材がいるとは思えないが、そう時を待たずして解読されてもおかしくない。そうしたら、本を燃やされてしまうか、魔術の本を所持していた咎で罪状が増えるか、それとも何かの実験材料にされるか……いずれにせよ最悪だ。
ユリエは、とっちらかった部屋で、茫然自失して座り込んだ。
「何でよ。どうしてこんなことに」
震え声で呟く。
「一体どうしたら……」
何も抜かりはないはずだった。うっかり反政府的な発言をしないようにちゃんと無口でいたし、仕事だって真面目にやって新生活をうまくやろうと頑張っていた。
それなのに、これだ。
明日、いや、今夜には、ユリエとゾラが拘束されるだろう。どうしたものか。
誰か、こんな時に頼れる人は……。
いない。プラゴに引っ越してから半年も経つのに、親しい友人の一人も作れなかった。幼い頃から友人作りは大の苦手だった。唯一、それらしきものがいるとすれば、それは……。
ユリエはアレシュに電話をかけた。
頼れる人があの変態野郎しかいないだなんて、認めたくもなかったが、事実なのだから仕方がない。藁にも縋りたいこの状況、背に腹は変えられないものだ。
ぷるるる、という雑音混じりの呼び出し音が鳴る。すぐに相手は受話器を取った。
「はい、アレシュ・ノヴァクです」
「もしもし、こちらユリエ・シュタストニヤ」
「やあ!!」
アレシュは電話越しでもビリビリと伝わってくるような大声で言った。
「急にいなくなるからびっくりしたじゃないか! どこに行っていたんだい?」
こいつはまだ私達のあとをつけまわすつもりだったのか、とユリエはげんなりした。今週末は旅行にしておいて正解だった。
「どこって……ブラナまで一泊二日の旅行に」
「へえ! そりゃ見つからないわけだ」
「見つけなくて結構」
「そんなことは言わずに」
「そんなくだらんことよりも、今は大変なのよ。国家保安部が家に捜査に入ったらしくて」
「うんうん」
「どうしましょう。癪だけど話せる人があなたしかいないのよ。癪だけど」
「二回も言われちゃった」
「こういう時、どうすればいいの? 私たちすぐに捕まっちゃうのかしら。粛清って具体的にどんなものかも分からなくて……」
「うんうん」
「……とにかく明日からは仕事に行けないのは確かなのよね」
「話してくれてありがとう。まあ、そういうことになるね」
アレシュは電話口の向こうで
「いやー、今週が好機だと思ったのになあ。僕なら絶対に君たちのことを拘束できると思ったのに」
「……? 拘束って……あなたが? ……ああ……そういう……」
ユリエは徐々に絶望が全身を覆っていくのを感じた。
要するにそういうことだ。
アレシュがユリエのことを密告した──否、密告するまでもない。
「つまりアレシュ、あなたこそが、国家保安部員だったって訳ね」
「うん。実はそうなんだ。隠しててゴメンネ!」
「私が密告するって言っても平気だったのはそういうこと」
「うん。そゆこと」
「やたらと強かったのも仕事で鍛えているからで」
「うん」
「工場に潜り込んでいたのも諜報活動ってわけ?」
「うん」
「なるほどね……」
「あまり動じないのも君らしくて素敵だよ」
「きっ……気色悪いっつってんだろうがこのクソッタレの冷血漢が」
「おや! 罵倒に磨きがかかってきたね」
「ふざけんな。くたばれ」
「まあ、家宅捜索はうまくいったし、君たちのことは明日改めて逮捕しに行くから、そのつもりで心の準備をしておくれ」
「嫌に決まってるだろうが。来んなよ、穢らわしい」
「まあまあ。君には二つの選択肢があるんだ」
「は……?」
「一つは、君とゾラが国家保安部に全面的に協力して、実験を行うというもの。もう一つは、君とゾラを殺して、その遺体を使って実験を行うもの。当局は別にどちらでもいいと思っているよ。ゴーレムの秘密が分かりさえすればなんでも良いってさ」
「……」
当局にゴーレムのことはとっくに知れ渡っていたのか。
それに、殺すって……。
「ああ、頼むから間違えないでくれ。最初に僕がゴーレムについてあれこれ訊いたのは、単に僕の知的好奇心のためさ。君と言う人間と、ゴーレムという未知の生命に対する、純粋な好奇心だった。最初は誰にもバラすつもりはなかったんだ。秘密にしておけば、君とは良きパートナーになれるとさえ思っていたよ。途中まではね。でも僕にも使命というものがあるから。世のため人のため国のために尽くすっていう使命が」
「……」
「じゃ、そういうことだから。君たちがどっちを選ぶのか、ちゃんと訊いてあげるから安心して。今のうちにじっくりと考えておいてね。それで、是非とも国の役に立ってくれよ。是非ともね。あ、逃げようとしても意味ないよ。今も近くで僕が見張っているし、君たちの逮捕は数人がかりでやる予定だから。ヨロシク〜」
「……」
一方的にべらべら喋って、アレシュは通話を切った。
ユリエはのろのろと受話器を戻した。
(あのイカレ野郎……あんな奴に心を許すんじゃなかったわ。クソッタレが)
ユリエははらわたが煮え繰り返ってしょうがなかった。
だが、こうなってしまったら、抵抗しても無駄だ。そんなことは分かりきっている。国家保安部に逆らったら命が幾つあっても足りない。
ただでさえユリエには、政府に対して後ろめたいことなど山ほどある。魔術を使い、禁書を読み、革命家たちを密かに応援している。そして何より、今の政府のことが、心の底から大嫌いだ。
国のためだなんて、くだらない妄言。
国なんてろくなものじゃない。
奴らはこれまで一体ユリエからどれほどのものを奪ってきたか。テレサとマレクも、クラロヴァ博士も、フェドルさえも。
そして最後にはユリエ自身をも奪おうとするのか。
もうユリエには何にも無いのに。何にも……。
ユリエはちょっとした幸せが欲しいだけだったのだ。
ゾラと一緒なら、ささやかな幸せが手に入ると思ったのだ。
そんな小さな願いも許されないなんて、何が国家だ。何が共産党だ。
だから世のため人のためだなんて馬鹿馬鹿しいと言ったのだ。自分が損するだけに決まっているから。まずは目の前の幸せを大事にしたかったから。
でも……。
粛清されたら、行方不明になるか、処刑されるか、どうなるかは不明だが、とにかく人生が色んな意味で終わる。
国家保安部がどんな悍ましい形でゴーレムの研究を行うのかなど知りはしないが、彼らはソヴェティアやジェルマから技術を引き継いでいる精鋭だ。酷い目に遭うことになる、これは確定した未来だ。
「い、嫌だ……」
ユリエは部屋中を見渡した。本が散らばっていて目も当てられない。ゾラが悲しそうに、落とされた本に手を触れていた。
ユリエはひとまず、本が無駄に痛まないように、丁寧に拾い上げて埃を払い、本棚に戻していった。
一冊ずつ、一冊ずつ。慈しむように。
選び抜いたお気に入りの本たちだ。本には何の罪もないのに、こうして攻撃の材料にされてしまう。
一通り本を片付けると、それ以外のゴミは放置して、ユリエは靴を履いたままベッドにごろんと寝そべった。
本棚には空きが目立った。それだけの本が押収されたということだ。
悲しい。
何をやる気も起きなかった。
何をやっても無駄だからだ。
もう疲れた。
奪われるのには飽き飽きだ。
ただひたすらに苦しかった。
これで人生はおしまい。お先真っ暗。もうやれることもない。やりたいこともない。お疲れ様でした。さようなら。
「はあ……」
絶望の淵に落ちた。
もはや人生からは何ものも期待することができない。
この先の人生に何一つ期待が持てない。もうじき高確率で死ぬというのに、それをただ待つというのは恐ろしい。
唯一、この苦しみと恐れから解放される手段があるとすれば、それは──。
「……」
力無く寝そべったままのユリエを、ゾラが、近くに座ってじっと見守っていた。
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