第12話 小旅行
「来週はブルナに行くわ」
ユリエは旅雑誌を開いてそう宣言した。
「チェスコの中ではプラゴに次いで大きな町だっていうところよ。鉄道を使えば三時間ちょっとで行ける距離だから、丁度良いわ。ブルナで一泊して帰ってきましょう」
「お泊まり旅行! とても楽しみです」
正直なところ、部屋にこもって読書をするのが大好きなユリエは、旅行など億劫なだけだった。しかしこれもゾラのため、そして充実した休日を過ごすためだ。一踏ん張りして遠出するのも致し方なし。
そういうわけで翌週、ユリエは朝早く鉄道に乗って、プラゴの東の方へと赴いた。
ゾラはもう子どものようにはしゃいだりはしなくなったが、大きな目を輝かせてあちこちを見ており、落ち着きがない。
「このように速い乗り物は初めてです。ユリエと一緒に乗れるのは幸福なことです」
「そう」
「何だか人間らしい気持ちになります」
「……何、それ?」
「他人と価値を共有すること、また他人と共に行動したりするのが、私はとても好きだということです」
ユリエはよく意味が取れなかった。
「まあ……良かったわね。好きなことができて」
「はい。そう思います」
三時間ほどして、二人はブルナの町に着いた。
赤色で統一され整然と並ぶ屋根は、プラゴのものそっくりであったが、プラゴとは違う面もたくさんあった。
二人は、尖塔のある教会や、大きな城などを回った。他にも行きたいところはあったが、とりあえず今日はここまでにして、街中をうろうろしてみる。
「こういう足がつき辛いところに来たからには、古本屋に行っておかないと」
ユリエは言った。
「ここは発禁処分になっている小説家クンデルの出身地だし、何か面白いものが見つかるかも」
「そうなのですね」
「ほら。これとか」
まんまとクンデルの出版物を入手したユリエは、ご機嫌だった。
本をカバンの中に慎重に隠して、足取りも軽く通りを歩く。やがて広場に出たので、適当にぶらぶらとそこらを回ってみる。
「ユリエ、彼らは何者ですか?」
ゾラが唐突に尋ねてきた。
「彼らは私の知らない言語を話しています」
「ああ……東ジェルマからの観光客かしら」
ユリエは顔にかかった前髪を払って、彼等の後ろ姿を横目で見た。
「ここはジェルマ人ゆかりの地でもあるのよ」
「この地はチェスコスロヴィオの中に存在するのに、ですか?」
「言ったでしょう、民族の問題は簡単じゃないって。そもそも、チェスコスロヴィオとジェルマの境界線をどこにするかなんて話題は、以前からあったわ。今はたまたまチェスコスロヴィオに組み込まれているだけで……。とにかく、色んな人が混ざって生活しているから、一言で誰のものかは言い表せないのよ」
「しかし、この町では、ジェルマ語が使われていませんね。使っているのは彼らだけです」
「ああ……」
ユリエは少し言い渋った。
「もちろんここには古くからジェルマ人がたくさん住んでいたけれど、彼らはみんな第二次世界大戦後に国から追放されちゃったのよ。かなり強引なやり方だったらしくて、ジェルマ人はとっても苦労したとか」
「なるほど。その強制移住の件は歴史の本で読みました。戦後に東欧の各国からジェルマ人が追放されたという内容でした。そのせいで、この地からジェルマ人はいなくなってしまったのですね」
「まあ、そういうこと……かな」
ユリエは返事をして、ぼんやりと、町の景色を見るともなしに見ていた。
「そういえば」
ユリエはぽつりと言った。
「東ジェルマ人が、チェスコスロヴィオを通って、マージャに詰めかけてるって言ってたけど……」
この春、マージャ人民共和国が、ウスタリヒ共和国との間にある鉄条網を、一部撤去してしまったのだ。それどころか、一日限定で、「ピクニック」と称して実質的に国境間の行き来を可能にしてしまった。
絶対的なものだと思われてきた『鋼のカーテン』が、ほころんだ。
これによって、西側世界に出られると思った東ジェルマ市民が、ここチェスコスロヴィオを経由してマージャに押しかけた。だが実際には彼らは、マージャからウスタリヒに逃亡することはできなかった。そのため多くの東ジェルマ国民が、マージャの国境付近で停滞しているという。
「みんなあれからどうしてるのかしら」
どうも、先ほどここを通ったジェルマ語を喋る人々は、観光目的ではなさそうな格好をしていた。懲りずにここからマージャに渡ろうとしているのだろうか。
どこか遠くの方で、民主化を求めるデモ隊が行進している騒ぎが聞こえてくる。その喧噪に耳を澄ませながら、ユリエはこの町の人々を案じた。
ジェルマ人たちは無事に越境できるといいけれど。デモ隊の人々も逮捕なんてされないといいけれど。
この世はままならないことばかりだ。
「ニュースでは東ジェルマ人たちが危機的状況にあると報道がされていました。国境付近でキャンプをする東ジェルマ人が大勢いるようです」
ゾラが説明したので、ユリエはいささか驚いた。
「あなたいつそんな情報を得たの?」
「ユリエが仕事に行っている間、テレビを点けて学ぶことを覚えました」
「そう。見聞を広めるのはいいことね」
ユリエはゾラの頭を撫でた。
「はい。しかし、ユリエと共に過ごす時間の方が、遥かに学ぶものは多いです」
ゾラは言った。
「……そうなの?」
「人間らしさを学習するには、人間のそばにいるのが一番効率が良いです。ユリエとこうして旅行ができるのは、大変喜ばしいことです」
それからゾラは小首を傾げた。
「訂正します。ユリエのそばにいられるのは、単純に喜ばしいです。ユリエのそばにいると、私は喜びという感情を知覚します。加えて、ユリエと共に様々なことを学ぶと、より喜ばしいと感じます」
「そう……」
このように真っ正面から褒められたり好意を伝えられることはこれまでに滅多になく、それ故に不慣れなので、ユリエはたじたじとなった。
「それは、良かったわね」
辛うじてそれだけ言った。
ゾラはにっこり笑った。
「はい。ユリエ、この感情は『人間らしい』と思いますか?」
「え? い、いいえ、特には。普通のゴーレムにも感情くらいあるわよ」
「そうですか……難しいです」
「でもちょっとだけ嬉しかったかも」
ユリエは呟いた。
「まるで家族ができたみたいな気がしたわ」
「そうですか。良かったです。ユリエが喜ぶと、私も喜びを感じます」
「……ありがとう」
ユリエは微笑んだ。
「あなたも少しずつ成長しているのかもね」
「そのようです」
その夜は二人部屋のホテルを借りた。お金がかかるのが難点だが、ユリエはゾラに関することならお金はたくさん払ってやると決めていた。それにユリエはフェドルの財産を運良く一部貰い受けることができていたので、少なくとも今すぐ金がなくて困るということもない。
そういう訳でユリエもゾラもしっかりとホテルで休んでから、二日目の観光を楽しんだ。
まずは博物館。二人は展示にあるブルナの町の歴史的経緯を見て、感じ入った。ブルナはこれまでに色んな勢力から攻められてきたが、その全てを華麗に撃退してみせた歴史を持つという。ここは誇り高き不屈の防衛の街なのだ。
改めて町を見ると、家々の向こうに城や教会の影が偉容ある姿で凛と建っていて、なんだか守られているような気持ちになる。
プラゴほど有名な地ではないが、ブルナにも見所がたくさんあるのを、ユリエは知った。
次いで旧市庁舎の建物に向かう。古い建築様式が見所なのだが、そんなものよりも、入り口を入ったところの天井にぶら下がっている巨大なワニの彫刻を、ゾラはとても気に入った。
「ワニ、ワニです」
「ワニね。……お土産にワニのぬいぐるみでも買う?」
「いえ、結構です」
すげなく断ったゾラだが、充分に旅を満喫しているらしいことが分かったので、ユリエは安心した。
美味しいお昼も食べた。ガチョウのお腹に香辛料や色んな具を入れて焼いたもの、それと、サワークリームの味が効いたグラーシュ(肉と野菜のスープ)。一人で食べるにはやや重かったが、ビールと一緒だとつい食べ過ぎてしまう。たまには自分を甘やかしても許されるか、とユリエは思うことにした。
さて、帰りの鉄道である。
ユリエとゾラは旅行の感想を言い合った。二人とも旅には満足していたようで、話は弾んだ。
「この国には色んな町があるんですね」
「世界にはもっと多様な町があると思うわ。西側にも、東側にも」
「ああ、私、西側にも行ってみたいです」
「……それは、ちょっと無理ね。旅行許可が降りないもの」
「ならば、ブラツァにも行ってみたいです。ユリエが育った町には興味があります。今度はブラツァに行くことを提案します」
「そうね……それもいいけれど」
ユリエは顔を曇らせた。
「あの町には、今はちょっと、近付き難いのよね」
一悶着あって、プラゴに引っ越してきた身だ。ほとぼりが冷めるまでは近寄りたくない。
「そうですか。ユリエが嫌ならやめるべきです。二人で楽しめないのなら意味がありません」
ゾラが至極当然のように進言した。
「……そう。そうよね。ありがとう」
ユリエは目を逸らして言った。
そうして、日が暮れる頃に、二人は自宅に着いた。
ユリエは扉に鍵を差し込んだが、何故かうまく開かない。
嫌な予感に心臓がドキンと鳴った。
鍵をガチャガチャとこねくりまわして、ようやく扉を開けると、部屋の中は……ひどい有様だった。
片付けたはずの本や衣服が乱雑に散らばっていた。
……ああ、またか。
前にもこんなことがあった。
ユリエは束の間、目を閉じた。
この感覚には覚えがある。
知っている。
あれは、半年前のこと。
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