第16話 望み
古今東西、壊れていないゴーレムが術者の命令に背いた例が他にあるのか、それは定かではない。但し、少なくともロエヴの創ったホムシミュラ・ゴーレムは、術者の命令には絶対服従していたという。基本的にゴーレムは術者に忠実な生き物なのだ。それがいわば常識だった。
それをゾラは覆した。
何がゾラをそうさせたのか。ユリエの魔術が未熟だった故か、それとも特殊だった故か。もちろんそれらの要因もあるだろう。だがそれだけではない。ホムシミュラ・ゴーレムがこうなるためには、諸々の条件が揃わないといけない。
まず、ゾラには、爆発的な心境の変化があった。
ユリエの命令によって追い詰められたゾラの心は、急激に成長の時を迎えたのだ。
ゾラはユリエを殺したくなかった。当の本人に殺せと命令されるのは、とてもつらいことだった。その思いが、ゾラの心の成長を促した。
「……あなた、何て言ったの?」
ユリエは掠れた声で問うたが、ゾラの答えが変わることはなかった。
「ですから、ご命令には従えません、と」
「は……!?」
「私は自分の力で考えました。そして自分の意志によって決断を下しました。その結果、私は今回のユリエの命令には従わないという結論が出ました」
もちろんゾラは何の予兆もなしに成長を遂げたのではない。そうなるだけの下地は以前から積み上がっていた。
ユリエと過ごした半年間をかけて、着々と。
フランセ人のとある哲学者によると、人間は宇宙のあらゆるものの中で最も弱いが、しかし考えることができるという点において、あらゆるものより優るという。考える精神こそが人間を偉大にするのだ。彼はこうも説く——あらゆる物体は一個の人間の精神には及ばず、そして、あらゆる精神もただ一つの小さな愛には及ばない、と。
土くれという物体をゴーレムであるようにと、術者の言葉が縛った時、そこにはまだ人間らしい生きた何かがあるだけだった。だがゴーレムは時を経て「考える精神」を養い、同時に小さな「愛」を育んだ。生きた土くれでしかなかった何かに、徐々に人間としての自我が宿っていった。
何故そのようなことが可能だったのか? とあるジェルマ人の哲学者はこう言っている──「人は人によりてのみ人となり得べし、人より教育の結果を取り除けば無とならん」。
ゴーレムを人間へと成長させたのは、他でもない人間だった。術者やその周囲の人間を通して様々なことを学ぶ過程こそが、ゴーレムを人間たらしめるのに必要な過程だったのだ。ゴーレムの学習活動において肝心なのは、様々なものを体験して見聞を広めることではなく、人間と触れ合うことなのだった。
術者と共に過ごした時間が、ゴーレムを成長させた。
かくして、神の業に等しき魔術は完成を迎える。
ゴーレムであれという言葉の縛りを超越して成長した自我は、術者の命令を拒否するという選択肢を獲得するに至った。
ゾラは自分の意志で決断を下せるようになった。
「すみません、ユリエ。私はあなたを殺しません。よって、私も、まだ死にません」
ゾラは申し訳なさそうに、しかし断固として宣言した。
──人間が何かの問題に対して意志決定をするには、幾つかの段階を踏む必要がある。
情報を集め、選択肢を吟味し、決断をし、行動に移す。
「ユリエを殺せという命令を実行すべきか」
この問いに対し、生れたての頃のゾラなら「否」という選択肢を思い浮かべもしなかっただろう。だが今のゾラは、ユリエとの生活によって蓄積された、ユリエに関する情報を持っており、それに基づいた選択肢というものを持っており、更にはそれを吟味する能力まで手に入れている。まだ人間として未熟なゾラではあるが、それでも、ユリエの生死に関する判断を下すには充分な量の材料を持ち合わせていた。
ユリエは恨みがましくゾラの顔を見上げた。
「ゴーレムのくせに……術者の命令を聞けないっていうの? あなた、暴走しちゃってるの?」
「……。今回ばかりは、聞きません。暴走でもありません。私はそう決めました。これが私の望みだからです」
「望みですって……? そんな、どうして」
ちなみに、社会主義の生みの親として有名なマーカス曰く、人間とは、自分の運命を支配する自由な者のことであるそうだ。
ゾラはユリエの命令を拒否した。命令という言葉の呪縛を部分的とはいえ自力で解いて、己が運命の自由な支配者となった。自らが望む通りの行動を取れるようになったのだ。これ即ち人間の所業に他ならないではないか。
「何でよ。何で聞いてくれないの」
「どうしても聞きたくないからです。私はあなたを殺したくないのです。……ユリエ、私のこれは、人間らしい感覚、そして行動でしょうか?」
「そっ……そうかもしれないけど、あなたはそもそもゴーレムじゃないの」
「私はホムシミュラ・ゴーレムとして生まれました。しかし今の私は……何ものなのでしょうか。私には自信と確信がありません」
「……!」
呪縛を解いて望みを叶える、人間らしい何か。それが今のゾラだ。では、「何か」とは何か。
ユリエは『ゴーレム奥義書』の一節を思い出していた。
『人間の存在の意義は、あらかじめ定義されているものではない。そうなろうとして初めて、人間は人間たりうる。人間とは自らを定義することができる存在なのだ。人間らしくあろうとする者こそ、真の人間であるともいえる』
己の存在について、常に問い直し続ける。人間のそういうところが、ただのモノと違う点であると言える。
ゴーレムは間違いなくモノだった。ユリエの命令に従うためのモノとしてこの世に生まれた。それが本質であり、存在理由だった。
だが、今のゾラは?
「人間らしさ」を追求し続けたゾラ。
爆発的な成長を遂げたゾラ。
己の存在について、思いを巡らせ、悩み、考えを深めてゆく。意志を持ち、更には他人を愛することができる。そういう力を手に入れたなら、ゾラは……。
ゴーレム?
人間?
いや、そのどちらも正確な表現とは言えない。
ゾラは──。
二人の結論は、原初の呪文──即ち「名前」というところに落ち着く。
「あなたは……っ」
ユリエは唾を飲み込んだ。
「あなたはゾラよ。ゾラ・シュタストニヤ。私の家族……」
「そうです。私はゾラとして生まれました。あなたが名付けました」
「確かにそうよ。私は呪文であなたのことを、ホムシミュラ・ゴーレムとは呼ばなかったもの。あなたはゾラで、それ以外の何ものでもないんだわ」
「なるほど。理解しました」
ゾラの正体が何ものであるかなど、二人にとっては瑣末事だった。
人間でも、ゴーレムでも、ホムシミュラ・ゴーレムでも、何でも良い。人間の定義など簡単に決められるものではないのだから。それには様々な要素が複雑に混じり合っているのだ。
故に、簡単な事実だけを確認できればそれで良い。
ゾラがゾラとしてこの世に確固として存在すること。
その事実だけがあれば良いのだ。
そうすれば、いくら変化を遂げたとしても、ゾラはゾラでいられる。今回のように。これからもそうだ。
「ユリエは、私の気持ちをご理解いただけましたか」
ユリエは長々と嘆息した。
「……はぁ……。確かに認めざるを得ないわ……。あなた、随分と類稀なる存在になっちゃったのね、ゾラ」
「ご理解いただけたようで良かったです。それじゃあ、決まりですね」
ゾラはすっくと立ち上がった。
「……決まりって、何が?」
「私は私。よって私は好きなように行動します。今から私は私の考えに基づいて、意志の決定を行います! さあ」
ゾラはユリエに手を差し伸べた。
「ここから逃げましょう、ユリエ!」
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