第4話 狼さんに名前をつけたら


 今日は月に一度の贅沢の日。

 お風呂の日!

 火の魔法石は火打石代わりとしては五十回くらい使えるけど、水に沈めると水をお湯に変えて一回で溶けてしまう。

 半分くらい使った魔法石が、ちょうどバスタブいっぱいくらいお湯を作って終わりだから、魔法石の使い方としてはかなり贅沢。

 だからこの方法は月に一度だけにしてる。

 普段はかまどでお湯を沸かして大きなタライに入れて、体を拭いて髪を洗うくらい。

 夏は湖で体を洗ったりもする。

 お風呂好きな日本人としてはなかなか辛い生活だけど、お風呂をお湯でいっぱいにするには薪をたくさん使うから。

 木材も水も豊富にあるところだけど、薪割りは重労働だから節約したい。


 いそいそと嬉しそうにお風呂の準備をする私を、狼が不思議そうに見ている。


「今日はお風呂の日なの。狼さんも一緒に入る?」


 そう言うと、狼は口を開けて固まった。


「狼さんはきっとお風呂嫌いだよね。それにお風呂に入らなくてもふわふわだもんね」


 上機嫌にそんなことを言いながらお風呂場へと向かう。

 服を脱いでたっぷりのお湯に体を沈めると、あまりに気持ちがよくてあ~という無意味な声が出た。

 日本にいる頃ってなんて贅沢だったんだろう。こんなのを毎日味わってたなんて。

 今日は髪も顔も体も念入りに洗っちゃおう。

 そういえば、狼。

 いつまでも狼さんって呼ぶのは良くないよね。

 名前を決めなくちゃ。

 長い長いお風呂から上がってリビングに戻ると、狼はまだ口を開けていた。

 ……大丈夫?


「どうしたの狼さん、どこか具合でも悪い?」


 ふい、と狼が顔をそらす。

 よかった、口が閉じた。顎が外れていたらどうしようかと。


「そうそう。狼さんの名前を決めようと思うんだけど、いいかな」


 狼さんが再びこっちを向く。


「なんにしようかなあ。うちの白い犬はしろちゃんだったから、銀ちゃん?」


 ふい、と狼さんが顔をそらす。気に入らないのかな。


「銀次郎。あ、だめ? ウルフのウル。だめか。うーん……じゃあシルバーだからシルなんてどうかな」


 あ、しっぽを振ってる。これが気に入ったみたい。

 それにしても、ほんとに私の言葉を理解してるんだなあ。

 不思議。


「じゃああなたの名前は今日からシルね。あらためてよろしく、シル」


 いつものように首筋に顔を埋める。

 シルがわふ、と鳴いた。


「そういえば、シルに私の名前を教えてなかったよね? 私は里奈っていうの」


『リナか。可愛い名だ』


 ――え?


 男性の声が聞こえて、びっくりして周囲を見回す。

 でも、誰もいない。えっ、何。怖い。おばけ?

 それとも、まさか。


「えっと、シル。今しゃべったりして……ないよね? 可愛い名前とか」


 そう言うと、シルは顎が外れたのかと思うほど大きく口を開けて目をむいた。


『考えていたことがわかるのか?』


「えっ、あ、え? やっぱりシルがしゃべってるの?」


『なんということだ……』


 それきり、シルは黙ってしまった。


「えっと……シルは人語を話せる狼だったってこと? それとも人間が狼に化けてたりするの?」


 思わず後ずさりしながら言う。

 けれど、返事が返ってこない。

 人語を話せる狼だというならまだいいけど、もしシルが人間だったらどうしよう。


「お願い、何か言って……」


『今考えていたことはわからないのか。心が読める魔女というわけではないんだな』


「わ、私にそんな力はないよ。ねえ、シルって何者なの?」


『俺……いや我か。我は、なんというかその、神護の森に住んでいた神狼である』


「神狼?」


『ああ。ヒトと同じくらいの寿命と知能を持つ特別な狼だ』


「じゃあ中身が人間、とか、そういうんじゃない?」


『我はあくまで狼だ』


「そっか」


 ようやくほっと息を吐く。

 だってシルが人間だったら、一緒に寝たり抱きついたり目の前で着替えたりって、とんでもないことだもん。

 人間の男性と一緒に暮らしてただなんて耐えられない。


「でもどうして急に話せるようになったの?」


 前から賢いし人間っぽいとは思ってたけど、こんな風に声が聞こえてくることは一度もなかった。

 それが急にどうして。

 それに、口を開けて声を発してるわけじゃなくて、頭の中に直接声が入ってくるような不思議な感じ。

 神狼っていうくらいだから特別な狼なんだろうけど。さすが異世界。


『それは我にもわからない。もしかしたら、リナが我に名を与えてくれたからかもしれない』


「そうなの? 私に特別な力なんてないんだけど、シルが特別だからかな。じゃあ、神護の森にいた神狼がどうしてこんなところに?」


『実は我は記憶を失っていて、神狼だということ以外覚えていない。魔女オルファという名が何か記憶に引っかかる気はするのだが』


「オルファに会いに来たのかな。でも、オルファはもう……」


『そのようだな。そこでリナに提案なのだが、記憶が戻るまでここに置いてはくれないだろうか。食事も排泄も迷惑はかけない』


「うん、いいよ。私もシルがいてくれたほうが寂しくないしうれしい」


 シルがぱあっと嬉しそうな顔をする。

 そして私にすりすりと頬ずりした。


「神狼って神聖な狼なんだよね? じゃあ今までみたいに気軽に抱きついたり一緒に寝たりできないかな」


『な、何を言う! 我は賢いだけで、あくまで狼なのだから、今までのように接してほしい。あくまで狼なのだから』


 大事なことなので二回言いましたみたいな。

 でも本人がそう言うなら、いっか。

 結局、その日も一緒に寝た。


 

 翌朝、私は町へと向かった。

 週に一度の納品と買い物の日。

 薬屋に入ると、店番は奥さんだった。息子さんじゃなくてほっとする。

 無事納品して買い物を済ませ、森に入ったところで、後ろから誰かが追いかけてきた。

 うわっ……薬屋の息子さん……。名前、ジャックだっけ。

 男性は全般的に苦手だけど、この人は特に苦手。


「やあリナ」


「こんにちはジャックさん。納品はもう済ませました」


「ああ、わかってるよ。荷物重そうだね。家まで持つよ」


 何を言ってるの?


「お気遣いはうれしいんですけど、魔女の家に他人を入れてはいけない掟です」


 そんな掟なんてないし、狼とは一緒に住んでるけど。

 いやだなあ。早く町に帰ってほしい。


「家には入らないからさ。リナが住んでるところを見てみたいんだ」


「困ります」


「そう言わずにさ」


 年齢が近い独身男性を家まで連れていくと本気で思ってるの?

 やっぱりいやだ、この人。

 いつもちょっかいをかけてきて好きじゃなかったけど、今日は特にしつこい。


「私以外の人は森で迷いますから、やめておいたほうがいいです。じゃあこれで」


 森の奥に向かって歩き出す。

 町への一本道の町側にジャックさんがいるから、私は森の方に行くしかない。

 二層まで入れば彼は迷い始めるだろうし。 

 それが間違いだった。

 彼が、ついてくる。どうしてついてくるの?

 まだ一層だから、彼を撒くことはできない。


「ついてこないでください!」


 そう言っても、彼はこちらに向かってくる。

 怖くなって荷物を捨てて走ると、彼も追いかけてきた。いやだ、何!?

 身体能力の低い私は、あっという間に追いつかれて手首をつかまれた。


「……!」


「なあ、なんで逃げるの?」


「放して……っ!」


「話くらい聞いてくれたっていいだろう? オレさぁ、リナが好きなんだ。前からかわいかったけど、最近なんかきれいになったよな」


 怖い。

 よみがえるのは、三年前の悪夢。

 全身が震えだす。

 つかまれていない方の手をウエストポーチにのばす。ここには相手を痺れさせる薬が入ってる。

 けど、町の人……しかも取引先の薬屋の息子に薬を投げつけて麻痺させたら、と思うと躊躇ってしまった。

 その隙をついて、ジャックさんが私を抱きしめた。


「! いやっ……!」


「別に取って食おうってわけじゃないって。ただ二人で話がしたいだけなんだ」


「お願いだから放してください……っ」


 がちがちと歯がなって、うまくしゃべれない。

 なんなのこの人。

 私の気持ちとかどうでもいいの? いやだ、いやだ!


「そんな小動物みたいに怯えなくても何もしないよ。はは、やっぱかわいいなぁ」


 気持ち悪い。

 どうしよう、少し森の中に入りすぎた。悲鳴をあげても誰も来てくれないかもしれない。


「シル、シル……!」


 どうしていいかわからず、今一番会いたい存在を呼ぶ。

 そんなに都合よく来てくれるわけないのに。


「シルって誰? もしかして男?」


 体を離して、私の顔を覗き込む。手はつかまれたまま。

 目つきが怖い。


「手を放してください」


「家まで一緒に行くって約束してくれたら放してあげるよ」


 身勝手にも程がある。

 自分が有利な立場にいるからって、私の意思なんてないように扱う。

 つかまれている手首を振りほどこうとするけど、ますます強く握られてしまった。


「暴れんなって。何もしないって言ってるだろ? じゃあデートの約束だけでもいいから」


 彼の声がいら立ちを帯びる。

 体の震えが止まらない。


「シル……!」


 切羽詰まった私の声に応えるように。

 ぐるるるる、という唸り声が響いた。


「な、なんだ?」


 ジャックさんが周囲を見回す。

 森の奥から、のそりとシルが歩いてきた。牙をむいて唸りながら。


「うわ、お、狼!」


 ジャックさんが私からようやく手を離す。


「シル……」


 安堵のあまり、涙がこぼれる。

 シルは私の涙を見て、さらに怖い顔になった。

 鼻筋にしわをよせ、歯もむき出し。

 唸り声も大きくなってる。

 シルが、ぐっと体勢を低くした。いけない、ジャックさんを襲う気だ!


「待ってシル! 私は大丈夫だから!」


 シルの動きが止まる。

 不満そうな顔をしながらも、シルはその場に座った。


「ジャックさん、この狼は魔女の守り神です。私に危害を加えようとするなら、彼が黙っていません。だからもう二度とこんなことをしないでください」


 ジャックさんはこくこくと頷くと、町のほうへ走り去っていった。

 全身から力が抜ける。

 

「シル、ありがとう」


 シルが私に頭をすりすりと押し付けてきて、私は頭から首筋をなでる。

 その温かさに安堵して、涙が出た。


『リナ、大丈夫か。かわいそうに、怖かったろう』


 優しいシルの声に涙が止まらなくなる。


「こわかった。いやだった。やっぱり男の人なんて嫌い……!」


 その場に座り込んで顔を覆う。

 こんなことをシルに言っても仕方がないのに、内にたまった感情を吐き出さずにはいられない。


「ち、力でまさってるからって、当たり前みたいに支配しようとして。子供のころは乱暴なことされたりからかわれたり。大きくなってからは、電車で何度も痴漢にあうし、高校の帰り道でも知らないおじさんに抱きつかれて。三年前だって、あんな……!」


 顔を覆って子供みたいに泣きじゃくる私の話を、シルは私のすぐ横に座って黙って聞いていた。

 どれくらいそうしていたんだろう。

 徐々に落ち着きを取り戻した私は、隣のシルを見上げた。

 私に体温を分け与えるかのように身じろぎひとつせず座っていたシルは、じっと前を見ていた。

 急に、取り乱した自分が恥ずかしくなってくる。


「ごめんね、こんな子供みたいな……」


『謝ることはない。リナは何も悪くない』


「助けてくれてありがとう」


『リナが止めなければ思い知らせてやったのに』


「本当に何かするつもりはなかったのかもしれないし」


『お人よしが過ぎる』


 フーン、と鼻から息を吐きだすシル。

 ため息みたいだな、と思った。


「それに、シルが誰かを傷つけるのが嫌だったから」


 立ち上がって、膝についた泥を落とす。

 シルも立ち上がった。


「帰ろっか。あ、その前に荷物……買ったもの捨ててきちゃった」


『取りに行ってから帰るか』


「うん」


 周囲を気にしながら荷物を取りに行き、私たちは家路についた。

 誰かと一緒に帰るって、こんなに安心感があるものなんだとあらためて実感した。


 家について温かいお茶を飲みながら、私はぽつりぽつりとシルに自分の身の上を話し始めた。

 世界の落とし人であること。

 オルファがそんな私を助けてくれたこと。

 人づきあいが苦手で、特に男性が怖いこと。


「私、大人しそうに見えるみたい。実際に気が弱いし。だから、変な人に狙われやすいんだと思う。お父さんも優しかったし、悪い男の人ばかりじゃないってわかるんだけど」


『そうだな。だが、実際に悪い男もたくさんいる。リナが狙われやすいのは、美しく愛らしいからだろう』


「えっ、あはは、そんなことないよ。でもありがとうシル」


『本音なのだがな』


「ふふ。……私ね、三年前、町のはずれで旅人の男に襲われて、それ以来もっと男性が苦手になっちゃって」


『何!?』


「人が通りかかったから未遂で済んだし、男は捕まったんだけど。でも、怖かったし気持ち悪かった。ナイフで脅されて押し倒されて、ふ、服を切り裂かれて……」


『リナ。もういい』


「ごめん。こんな話聞きたくないよね」


『そうではない。怒りでどうにかなりそうだ。だいたい三年前といえばリナはまだ子供ではないか。それを……』


 え?


「シルは私のこと何歳くらいだと思ってるの?」


『十五歳から十七歳程かと思っているが』


「ちがうよ。もうすぐ二十一歳だよ」


『二十一歳! 大人だったのか』


 子供だと思われてたんだ。そんなに童顔かなあ?

 

「とにかく、そんな感じですっかり男の人が苦手になっちゃった、という話でした。誰かに話してすっきりしたかったのかも。ごめんね、話を聞いてもらっちゃって」


『我は雄だが狼でよかったな。人間の男なら、リナの側にはいられなかったろう……』


「少なくとも一緒に暮らそうなんて考えることはなかっただろうね。でも今は、シルならたとえ人間の男性だったとしてもいいかな? なんて」


『……!』


「シルは優しいし、今日は絵本の騎士様みたいにかっこよかったし。ってあれ?」


 シルに視線をやると、とぐろを巻くように丸まっていた。

 寝ちゃった? 急に? しっぽは動いてるけど。

 どうしたんだろう。

 まあいっか。ほんとうにありがとう、シル。

 私の騎士様。

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