第29話 魅入られて
寝る準備を始めていると、シルヴァンさんの部屋からノックの音が聞こえてきた。
もう人間に戻っているはずの時間。
狼のときならともかく、こんな時間に彼から接触があるのは珍しい。
「リナ、起きているか?」
「はい」
「できれば少し話がしたい。そちらに行ってもいいだろうか」
「ええ、どうぞ」
夜に男性を部屋に入れるなんて危機感がないな、と我ながら思うけど、シルヴァンさんは私の意思を無視するようなことはしないと確信している。
鍵を開けると、彼が静かに入ってきた。
「すまないな、こんな時間に。もう寝るところだったんだろう」
「いいえ、まだ大丈夫ですよ」
「今日は暖かい。バルコニーで夜風にあたりながら話さないか」
「わかりました」
話ってなんだろう。
一昨日のこと? それとも家を出るとか出ないとかの話かな。
ショールを羽織ってテラスに出てベンチに座ると、少し距離をあけて彼も座った。
「何かお話があるんですか?」
「ああ。いや……」
どうも歯切れが悪い。
どうしたんだろう。
「その前に、俺の家族の話でもしようか」
「? はい」
「俺が侯爵家の次男で妾の子というのは以前話したな」
「はい」
森の小屋で、彼が人間だとわかったときにそう聞いた。
「母は没落寸前の男爵家の娘で、侯爵家で侍女として働いていた。父がこっそり持っていた小さな姿絵でしか知らないが、美しい人だったと思う」
シルヴァンさんもこんなにきれいだもんね。
お母様似なのかな。
「父に想われ、母は俺を身ごもり……出産と同時に亡くなった。侯爵夫人は、かなり嫌な思いをしただろうに、俺を家から追い出すことも虐待することもなく屋敷に置いてくれた。色々気を遣ってくださっていたと思う。ただ……家の中で俺だけが異物のようで、あの家に馴染むことはできなかった。十二歳になった俺は、逃げるように全寮制の騎士養成学校に入った」
「そうだったんですね」
シルヴァンさんは、寂しい幼少期を過ごしたんだろうか。
みんな何かしら抱えているんだな、と思った。
「……リナは?」
「はい?」
「どんな家族だった? 嫌でなければ聞かせてほしい」
そういえば彼に私の家族のことをほとんど話していない。
隠していたわけじゃないけど、楽しい話にはならなさそうだから。
「私は一人っ子で、九歳のときに母が家から出て行って、父と二人暮らしになりました。父は少しでも私が寂しくないよう、仕事の部署を変えて早く帰ってきてくれるようになりました」
お父さんの仕事は大変だったようで、離婚前はいつも帰宅が遅かった。
お母さんは専業主婦で家も持ち家だったし、大変な分、給与も良かったんだと思う。
でも離婚を機に、お父さんは仕事量が少なくて給与も安い、出世が望めない部署に移ったのだと後から知った。
家に早く帰れるように。
「父は優しかったし、父子家庭でも不幸だと思ったことはありません。でも、この世界に来る数か月前に父が亡くなってしまって。それからは一人暮らしでした」
「まだ少女のリナが一人暮らしなんて。頼れる大人はいなかったのか?」
「父の姉である伯母は、色々助けてくれました。ただ、伯母の家は部屋数があまりない集合住宅で、私と年齢の近い二人の男の子と夫がいたので、一緒に住むことはできませんでした」
里奈ちゃんさえ嫌じゃなければ、と言われたけど、伯母さんの家に迷惑をかけてしまうし、従兄弟と義理の伯父とはいえ男性と一緒に住むのは私がどうしても無理だった。だから住んでいた家にそのまま一人で暮らした。
伯母さんは心配して、仕事帰りによく顔を出してくれた。大変だったろうなと思う。
「……母親には、その後会ったか?」
「父のお葬式に来ていました。……再婚して子供もいるから、一緒には住めないと」
私は、二度捨てられた気分になった。
話を聞いていた伯母さんは怒ってくれた。
離婚して再婚していたとしても里奈ちゃんの母親だろうと。
その後、親権者の変更や相続などで色々ごたついた。私が成人していれば相続手続きだけで済んだんだろうけど。
そうこうしているうちに、私はこの世界へ来てしまった。
伯母さんには、お世話になったお礼とたくさん面倒をかけてしまった謝罪がしたかったけど、それももうかなわない。
「寂しかっただろう。優しかった父親を失い、母親にも頼れず、たった一人で暮らして」
「みんな多かれ少なかれ何かを抱えて生きていますから。シルヴァンさんだってそうでしょうし。カレンさんも……」
「ほかの人間は関係ない。比較する必要もない。父親がいなくなった家で一人寂しさを抱えて生きてきたリナを思うと、胸が痛む」
シルヴァンさんの優しい声に、涙が浮かんでくる。
涙をこぼさないので精一杯だった。
「リナ。ここから出ていきたいという気持ちに、変わりはないか?」
「……その予定です」
「出ていくかどうかではなく、本心からこの家から離れたいと思っているのかを聞きたい」
「……」
そんなのずるい。
私の寂しさを聞き出しておいて、本当に出ていきたいと思っているか、なんて。
彼が小さく笑った。
「たとえそうだと言ったとしても、もうそれはかなえてはやれない」
「?」
驚いて彼のほうを見ると、彼は少し意地の悪い、それでいて優しい笑みを浮かべていた。
「熱を出した夜、俺に言っただろう。一人にしないで、ひとりぼっちはもういやだと。側にいてと」
「え……! う、うそ!」
私、そんなこと言ったの!? 憶えてない……!
たぶん、私は真っ赤になってしまっている。
彼はそんな私を、楽しそうに見つめている。
「そ、そんなの記憶にありません。それはきっと熱のせいで……」
「そうだったとしても、あれは本音だろう。違うと言っても俺がそうだと思っているから問題ない。行かないでと俺にすがって、この上なくかわいかった」
「ち、ちがっ……」
もう動揺のあまり言葉も出てこない。
いつもは遠慮がちなシルヴァンさんが、どうして今日はこんなにグイグイくるの。
「もうからかうのはやめてください」
「からかっているつもりはない。俺は本心からそう言っているんだ」
私を優しく見つめる瞳が、怖いくらいにきれいで。
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
「好きだ、リナ」
「……えっ?」
どくんと、心臓が大きく跳ねる。
頭の中が真っ白になった。
「俺はリナが好きだ。たまらなく愛おしい。ずっと一緒にいたい。寂しい思いなんて絶対にさせない」
こんなに心臓が早く動いたことなんて、なかったかもしれない。
苦しいくらいドキドキして、とっさに言葉が出てこない。
シルヴァンさんが、私を、好き?
「小屋にいるときからずっと好きだった。リナの負担になりたくなかったし逃げられたくなかったから言えなかった。だがもう遠慮するのはやめる。もうこの気持ちを隠してなんておけない」
見つめ合うことに耐えられなくなって、前を向いてうつむいてしまう。
こんな風に誰かに告白されるなんて初めてだから、どうしていいかわからない。
彼は、ずっと親切で優しかった。
それが好意からだということを、いくら鈍い私でも少しも考えつかなかったわけじゃない。
でも、それは違うと自分に言い聞かせてた。こんな素敵な人が私を好きなはずがないと。
結局それは言い訳で、このあいまいな関係に甘えていたかっただけかもしれない。
「私は……」
彼は真剣な気持ちをまっすぐに向けてくれた。
私も、それに向き合ってちゃんと答えを出さなきゃいけない。
「私……私も、シルヴァンさんに惹かれているんだと思います」
彼が息をのむ気配がした。
「はっきりしない言い方でごめんなさい。私、誰かに恋をしたことがなかったから、自分でもまだよくわからないんです」
「……」
「シルヴァンさんと一緒にいると、安心するし楽しいし、ドキドキするんです。これが恋なのか単純に素敵な人だからドキドキするだけなのか自分ではわからないけど、ほかの男性に対してこういう気持ちになったことはありません。だからシルヴァンさんは私にとって特別なんだと思います。でも……」
そこで言葉を切る。
どう言うのが適切なのか、わからない。
「恋人になるのは怖いか?」
「……」
いつまでもトラウマトラウマ言ってられないのはわかってる。
でも、恋人になれば今までとは距離感が違ってくる。自分の気持ちすらよくわからない中、恋人らしいことができるか自信がない。
いざというときに拒んで傷つけてしまうかもしれない。
「リナの中に俺に対する気持ちがあったとしても、それはまだ淡いものなのだろう。そんな状態ですぐに恋人になってくれとは言わない。だが、俺はうれしい。ほんの少しでも、リナの気持ちが俺に向いているとわかったから」
「シルヴァンさん……」
隣に座る彼を見上げると、優しく微笑んでいた。
また心臓が痛いくらいにドキドキしだして、のぼせたように顔が熱くなる。
こんな人に好きだと言われて優しく見つめられて、平常心でいられるはずがない。
「約束する。決して無理強いはしない。リナが怖いと思っていることには、ゆっくりと一歩ずつ向き合っていく。だから、……俺を恋人候補にしてくれないか?」
今は黒に近い色に見える青い瞳は、不安と期待に揺れているように見えた。
夜空のようなその瞳に、私は魅入られた。
「は、い」
気づけばそんな返事が自分の口から出ていて、はっとする。
シルヴァンさんのきれいな唇が、笑みの形をつくる。
ほんの一瞬、彼が獰猛な獣のように思えてぞくりとした。
……何考えてるんだろ、私。そんなわけないのに。
「すごくうれしいよ、リナ。やっと一歩君に近づけた」
「でも、恋人候補ってどういう関係なんですか?」
それすら確認しないまま返事をしてしまうなんて。
私、どうかしていた。
「恋人の一歩手前かな。色んな楽しいことを一緒にしよう。ピクニックも行ってみたい。リナが恋人に昇格させてくれるまでは、リナが怖がるような接触はしないから安心してくれ」
それを聞いて少し安心する。
私のペースに合わせてくれる彼が、ありがたいし申し訳なかった。
「だが、俺は友達よりは近い存在でいたい」
「……はい」
「リナはどこまでなら俺に許してくれるだろうか。例えば手を握るのは嫌か?」
「いや、じゃないです」
シルヴァンさんが、ベンチに無造作に置いていた私の手をとって、私の指の間に彼の指をするりと差し入れてくる。
おさまりかけていた心臓が、また騒ぎ出した。
「そうか。なら手をつないで歩けるな。よかったよ」
「は、はい」
シルヴァンさんが手を離す。
ほっとしたのもつかの間、彼は私の髪を一束すくった。
「髪に触れるのは? 嫌だと感じる?」
とっさに声が出なくて、小さく首を振るので精一杯だった。
「それはよかった。今日のところは髪に触れる以上のことはしないから安心してくれ」
かすかに笑いを含んで、彼が言う。
今日のところはというところになんとなく引っかかるけれど、それでも少し力が抜けた。
「リナの髪は本当にきれいだな。さらさらして気持ちがいい。絹糸のようだ」
私の髪を指先でもてあそびながら言う。
「シルヴァンさんの髪も、すごくきれいです」
そんなことを言ってしまう自分にも驚いたけど、シルヴァンさんは少し頬を染めてうれしそうに微笑んだ。
その顔をかわいいと思ってしまう。
「ならリナも触れればいい。髪だけじゃなく、リナが触れたいならいつどこを触っても構わない」
「い、いいえ! 私はまた今度!」
焦りすぎて自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
彼がこらえきれないとばかりにくっくっと笑いを漏らす。
「かわいい。リナは本当に愛らしい」
シルヴァンさんが、指先に絡めていた髪に軽く口づける。
彼が顔をあげると、すぐそばに、彼の端正な顔が。
そのまましばらく二人とも固まったように動かなかったけれど、彼が先に体を離した。
「そろそろ部屋に戻ろうか。また熱が出てしまっては困る」
「そ、そうですね」
今日はきっと普段の十倍くらい心臓を酷使してる。
血圧がすごいことになってる気がする。
「今日はいい日だ。リナの恋人候補になれたのだから」
部屋へと続くドアを開けながら、彼が言う。
「はっきりしない感じで申し訳ないです」
「気に病む必要はない。候補で終わるつもりはないから」
え?
「これからが楽しみだ」
ドアを開けてくれている彼の横を通り過ぎるとき、なぜかひどく緊張して。
彼がどんな表情をしているか、見ることができなかった。
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