第7話 ちょっと待てなんで今なんだ


 そろそろリナが帰ってくる頃か。

 またおかしな男に絡まれていなければいいんだが。リナはかわいいからな。

 心配だからやっぱり途中まで迎えに行こう。

 そう思って小屋から出たところで、耳が不穏な音を拾う。

 かすかに聞こえる、うめき声。

 くぐもっていてよくわからないが、リナのものか?

 そして、風が二種類の匂いを届ける。リナのいい香りと、……男の匂い。

 どういうことだ?


 慌ててリナの匂いのほうに駆け出そうとして、足が止まる。

 森の中から匂いの持ち主が現れたからだ。

 目つきの鋭い若い男。

 そして、後ろ手に縛られ、猿轡までかまされたリナ。

 リナは、男に抱き上げられていた。

 俺を見つけて、目を見開く。そしてぶんぶんと首を振った。

 

「んん、んんー」


 鼓動が、早くなる。

 この状況はなんだ。

 リナが……男に捕らえられている?

 男は、リナをおろした。


「ああ、やっぱり……! 探しましたよ!」


 男が嬉しそうに俺に向かって言う。

 リナを縛り上げ、猿轡までした男が。リナを抱き上げていた男が。

 リナに何をした。何をするつもりだった?

 俺の喉の奥から、うなり声が漏れる。

 

「オレです。わかりませんか?」


 お前なんぞ知らん。

 歯をむき出しながらうなると、男は落胆の表情を見せた。


「相変わらず、ただの獣のままなんですか。あなたは……」


 男が何かを言い切る前に、俺が襲い掛かる。

 男は素早い身のこなしで避けた。

 腰を落として身構えるその姿から、明らかに戦闘に慣れている者だとわかる。

 ……この男、どこかで見たような。


「オレと一緒に戻ってください、シルヴァン様。皆待ってます」


 シルヴァン。

 その名に、聞き覚えがある。……俺の名前?


「まさか魔女オルファに会いにきていたとは。でもオルファは死んで弟子のお嬢さんがいるだけだ。姿が戻ってないってことはお嬢さんには治せないってことでしょう。ならここにはもう用はない。帰りましょう」


 用はない?

 何を言っている。

 ここにはリナがいる。それ以上に大事なものなんてあるか?


「ああ、もしかして俺の言ってることはわかるんですか。ただの獣からはちょっと回復したみたいですね」


 ただの獣から回復?

 この男は何を言っている。何を知っている。

 俺の知り合いなのは間違いないようだが。


『お前は俺の何を知っている』


 試しに話しかけてみる。

 男は不思議そうな顔をした。


『俺の過去を知っているんだろう』


「すみません、たぶん何か話しかけてくれてるんでしょうが、アウアウ鳴いてるようにしか聞こえません」


『……』


 なんということだ。

 話が通じない。

 つまり、会話できるのはリナだけということか。

 リナに視線を移す。

 相変わらず、縛られて猿轡をかまされたままだった。

 縛られて声も封じられている女性というのはなんとなくエロ……じゃなくて!

 さっさとリナを放せ!


「んーんーんー」


 俺と目が合ったことで、リナが何かを伝えようとする。

 ぶんぶんと首を振るリナを、男が振り返った。


「ああ悪い。声を封じる意味はなくなったから、猿轡は外してやる。処遇を決めかねてるからまだ縄は我慢してくれ」


 男がリナの口を覆っていた布を外し、口の中から布の塊を引きずり出した。

 ようやく口を解放されたリナが、はあはあと肩で息をする。


「けほっ……シル」


『リナ、怪我はないか?』


「うん、大丈夫。それよりも、シルの知り合いなんだよね?」


『そうらしいんだが、まったく思い出せない』


「そっか……」


「ちょっと待て」


 男がリナに厳しい視線を向ける。


「彼……狼が何を言ってるのかわかるのか?」 

   

「え、はい」


「妄想じゃなく?」


「そこまで寂しさをこじらせてません。ねーシルー」


 リナに応えるように、アオーと鳴いた。


「……」


 男は何かを考えこんでいた。


「このお嬢さんとは会話ができると? じゃあ試しに聞きますが、オレのことは憶えてないんですか」


「あの……シルは記憶喪失なんです。神護の森の神狼という以外は何も憶えてなくて」


「神護の森の神狼ぉ?」


 素っ頓狂な声をあげて男が俺を見る。

 ああそうだ、リナの側にいるための嘘だ、文句があるかこの三白眼め。


「とりあえずその話は置いといて、あなたはシルヴァン様。オレはアレスです。思い出せませんか」


『思い出せない』


「なんて?」


「思い出せないそうです」 


「あなたは……いや、これ以上のことはここでは言えない。とにかくオレと一緒に戻りましょう」


『断る。俺はここでリナと一緒に暮らす。もう俺は自分が何者でも構わない、一人で帰れ』


 アレスと名乗った男がリナを見る。

 通訳しろということなんだろう。


「自分が何者でも構わないから、一人で帰れと」


「それだけか? 理由は?」


「えっと……ここで私と、一緒に暮らすって」


 リナが頬を染める。

 なんだそれはかわいすぎる反則だ。

 リナが自分の新妻に見えてくる。もちろん妄想だ。


「厄介だね、どうも」


 アレスがばりばりと頭を乱暴に掻く。


「魔女と新婚ごっこしてる場合じゃないんですよ、シルヴァン様。あなたを待つ者が大勢います。なんとしてでも戻っていただきます」


 俺は思いっきり顔をそむけた。

 嫌だという意思表示だ。


「はぁ……。頑なに帰るのを拒むのは、このお嬢さんが原因ですか」


 アレスがリナを振り返る。

 リナが少し怯えた様子を見せた。


「シルヴァン様が女にこだわる日がくるとはね。オルファの弟子の魔女、か」


 アレスがリナを見ながらしばらく考え込む。


「親類縁者はなく、唯一身内と言えたのはオルファのみ。町の者とも交流が少ない。さらに薬屋の息子とトラブって薬を買ってもらえなくなったとか」


 リナの顔色が変わる。

 どういうことだ、そんなの初耳だぞ。


「どうして、そんなこと……。買ってもらえなくなったのだって今日の話なのに」


「町には案外口の軽い人間が多いもんだ。でもまあ、好都合かもな。そんな感じなら、お嬢さんが誰も何も言わないだろう」


 ――消えても、だと?

   

 アレスが腰のダガーを抜く。

 全身の毛が逆立った。


「お嬢さん、」


 アレスが何か言い切るよりも早く、やつに向かって走り出し、大きく跳躍する。

 アレスは一瞬ダガーを構えたが、舌打ちしてダガーを鞘に納めた。

 やつに飛び掛かり、倒れこんだところで二の腕を押さえつける。


「ちょっと落ち着いてくださいよシルヴァン様。お嬢さんを殺すつもりなんてありませんて。あーもう、もっと冷静な人だったのに、狼はあくまで狼ってか」


 構わず喉に噛みつこうと大きく口を開けたが、アレスに腹を蹴り上げられた。

 その痛みに、より一層理性の糸が細くなる。


「だから聞けって。縄を切ろうとしただけだ。いい加減話ぐらい聞けクソ狼が!」


 自分の口からまさに獣の声が漏れる。

 目の前の男を噛み殺すことしか考えられない。

 あア、もう、何もカも――。


「シル、待って、シル!」


 リナの声に、はっと我を取り戻す。


「その人は私もシルも殺さないって言ったもの、大丈夫だよ。それにシルを傷つけないようにダガーをしまった。だからその人は敵じゃないよ、落ち着いて」


 手を縛られたままのリナが近づいてくる。 

 何をお人よしなことを言っているんだ。


「シル、お願い。その人を殺してしまったら、シルの過去の手掛かりがなくなってしまう」


『……それでもいい』


「待ってる人がたくさんいるって言ってた。だから……」


『リナは俺と一緒にいたくないのか』


 そういえば今日、我じゃなくて俺と言ってしまっているな。

 もうどうでもいいが。

 アレスは俺に押さえつけられたまま、探るように俺とリナを目だけで交互に見ていた。


「いたいよ。一緒にいたい、ずっと。だけど、シルには私と違って帰る場所があるんだから」


 切なく揺れる小鹿のような黒い瞳。

 俺がいなくなればこの場所にたった一人。

 世界に置いて行かれた迷子のような顔をするリナから、どうして離れることなんてできるだろう。

 リナが愛おしい。

 だから、過去のすべてを捨ててでも一緒にいたい。

 この身が狼のままなのか完全に人間に戻るのかわからないが、それでも。


 ふと、体温が急速に上がるのを感じる。

 まずい。

 この感じは。

 待て、夜中でもないのになんで今なんだ。

 ちょっと待っ――


 予想通り。

 俺は人間に戻った。

 リナの目の前で。


 もちろん素っ裸だ。尻から局部まで丸出しだ。

 さらには全裸で若い男を上から押さえつけているという背徳感あふれる構図だ。


「シルヴァン様! 人間に戻れたんですね!」


 ちょっと黙ってろお前。

 おそるおそる、リナを見る。

 まさに、目が点になっていた。

 そして。


「キャーーーー!!」


 まあ、そうなるよな。

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