第20話
「始まったか……」
曇り空から雨が降ってきたかのように呟き、風狼斎は瞼を上げた。
ボコボコと沸き立った地面から妖気が溶岩のように噴き出し、瞬くうちに森を満たしていく。天地問わず、あちこちから錆びた鉄が弾けるような音が聞こえた。
(やはり……、そうなのか……)
気づくのが遅すぎたのかもしれない。
いや、森に入った時、既に遅かったのだ。
太常の幕が覆う地面に恐る恐る手を触れた。
防幕越しに伝わる異様な霊圧に確信する。
――この妖変を引き起こした元凶は……、穢れた霊脈だったのか……!
この地域には太い霊脈が通っていたはずだ。
久遠がこの場に祀られたのは、霊脈を穢れから護り続ける為だったのだろう。
この島国を縦断する本流の流れでないのが不幸中の幸いだが、この勢いでは穢れが本流に届くのは時間の問題だろう。
「班長!!」
太常の壁に両手をつき、身を乗り出した。
「今すぐ退避を! これはもはや妖変ではありません! 鞍馬にて七瀬を中心とする浄化部隊を編成し、対処するべきです!」
「……六割、ってとこか……」
「は……?」
「十を満点とすると六割って意味だ」
近づいてきた風狼斎は太常に掌を押し当てた。入り込んできた球体を反射的に受け取る。
(先ほどの印玉……!)
夕陽色に瞬く球体に目を奪われていると、苦笑する気配がした。
「お前らしい模範解答だとは思うが……、大事なところを見落としてるぜ」
風狼斎はコンコンとつま先で地面を突いた。
「ここの霊脈は、陸奥で本流と分かれ、信濃で再び本流と合流する準本流だ。この社と久遠は、本流に入る前に溜まった穢れを祓い清める守り人ってところだろう。だが、今回はその守り人が清めきれねェほどの穢れが押しかけてきたらしい……。今は奥羽が霊脈ごと遮断しているようだが……」
「霊脈ごと……、そのようなことが可能なのですか……?」
「この手の霊域には、いざという時の為の術式が組み込まれているからな。霊域をそのまま引き継いだのは、この術式の為だろうが……、これだけ大がかりだと発動と維持に相当な霊気を必要とするはずだ……。どの時点で奥羽が真相に気づいたのかはわからねェが、この様子じゃ、他の霊山に知らせるだけの余裕はなさそうだな……」
戦闘を担うのが宵闇ならば、祓いや解呪を担うのが「七瀬」と呼ばれる天狗達だ。奥羽にも七瀬の詰所があり、腕の良い術者が揃っている。
しかし、霊脈を閉ざすほどの大規模な術となれば、七瀬はその維持で手いっぱいになり、霊気の補給は宵闇頼みになる。
(……襲ってきた宵闇の人数を考えれば、壱ノ班と弐ノ班は確実……、他の班もいたはず……、下手をすれば、奥羽の精鋭班全てが倒れたのでは……?)
それは、大規模な術式を支える宵闇が奥羽にいないことを示している。残っている天狗達が総がかりで霊気を注ぎ続けたところで、あとどれだけ持ちこたえられるというのか――?
「霊域の悲鳴が変わったのがわかるか?」
「は……、陶器が軋むような音から鉄が弾けるような音に変わりましたが……」
風狼斎は笑みを浮かべた。
「いい耳してるじゃねェか。この音をよく覚えておけ。妖気が霊域の壁の半ばまで食い破った音だ」
「半ば……? もう、そこまで……」
「これだけ浸食が早いんじゃ鞍馬からの援軍は間に合わねェ。何より今、この霊域は完全封鎖中だ。外に出ようと干渉をかけた途端に砕けるだろう」
霊薬を届ける目的から森の中を進んだが、上空から霊域を破壊して外に脱出する退路が残されていた。
しかし、奥羽が遮断壁を発動させているならば、霊域に手を出せず、退路は塞がれたも同然だ。それどころか、言伝すら飛ばせない。
「この状況じゃ、奥羽に入り、七瀬に頼んで回線だけを開いてもらって鞍馬に援軍を頼み、術を維持しながら待つしかねェ、って言いたいところだが……、圭」
「は」
有無を言わせぬ声に思わず背筋を正す。
「命令だ。印玉を持って待機してろ。久遠が持ち直したら印玉が解けるから、霊気を注いでやってくれ。お前の霊気なら馴染むだろう」
「は……、ですが……、」
とんでもなく嫌な予感がした。
「班長は…………?」
「さっき久遠と言霊を交わして、詳しい事情がわかったんだが……」
いつものように決定事項だけを告げず、風狼斎はおもむろに話し始めた。
全くと言っていいほど役に立っていなくても、「戦場で共に戦っている部下」に情報を伝えようとしているのだと気づく。
「……陸奥のほうで、人間達の戦が続いただろ? その時の穢れが、ここの霊脈の末端に流れ込んで化け物を生み出しちまったらしくてな……。そいつが、今回の妖変の元凶ってとこだな……」
好戦的な笑みが浮かんだ。
戦記で評される「戦闘狂の英雄」の
「運が良かったぜ。固まってくれてるんなら、そいつを鎮めりゃいいだけだ。日頃の妖変と変わらねェ」
「は……、理論上は、その通りですが……、霊脈の穢れをどうやって……」
「霊脈は天狼の管轄外だったか。耳慣れねェかもしれねェが、向こうじゃ、わりと起こる現象だ。現の穢れから生まれたヤツを目にするのは初めてだが……」
何気ない言葉の何かが引っ掛かった。
直感だったのかもしれない。
「一刻経って、オレが戻らなければ奥羽へ退避しろ。久遠の力を借りれば切り抜けられるはずだ。そういうわけで、行ってくる」
「は………………?」
圭吾が指示を理解するのを待たず、風狼斎は地を蹴った。積乱雲のように立ち上る妖気の塊へと飛び込んでいく背を思わず見送る。
(……とんでもないことに……、なっていないか……?)
事態を悟るなり、全身から冷や汗が噴き出した。
「お、お待ちくださいっっっ!! 班長ーーーーーーーっっっっっっ!!」
これまでの人生で初めてかもしれない悲鳴のような絶叫が口を突いて出た時には、青年の姿は妖気の向こうに消えていた。
『お前達の任務は、風狼斎の護衛と補佐だ』
任務内容を説明し終え、当主は最後に付け加えた。
『敵から守るだけが護衛ではない。風狼斎自身から風狼斎を守ることも護衛の務めと心得ろ。そのためにも、金属性は一人でも多いほうがいい……』
ずっと理解できなかった言葉が、これ以上ないくらい理解できた。
風狼斎は多少どころか、相当な大ごとが起きたところで、どこ吹く風だろう。
彼を危険に晒す者があるとすれば、それは敵以上に本人の無茶に違いない。
(つまり……、俺達に護衛が務まらんのを、お館様は端から承知されていたということ……)
当主としては、それでも構わなかったのだ。
圭吾達は「護衛」と称して送り込まれた、風狼斎の行動を抑制する為の「重石」だったのだから。そして、風狼斎が当主の意図を察知できなかったはずがない。
足手まといで動きづらくなる上に、肝心な戦いでは怯えて逃走する可能性の高い部下などと、鬱陶しいだけだ。風狼斎でなくとも願い下げしたくなるだろう。
――俺達の存在は……、迷惑でしかなかったのだろうな……
できれば知りたくなかった真相だが、凹んでいる場合ではない。
(そ、それよりも、早く……、班長をお止めせねば……! お館様の御命令を守らねば……)
太常の向こうは雨雲のような妖気だ。
夜の闇と相まって何も見えない。
(……追いかけたとして……、俺ごときが、風狼斎様を止められるのか……?)
無理に決まっている。
そもそも、風狼斎が危険な場面などと圭吾ならば即死だ。
それがわかっているから、風狼斎は最初に生き延びることを命じたのだろう。
風狼斎が危機に陥るような場面で圭吾達にできることなどと、その場を脱出して味方に知らせるくらいなのだから。
(俺が……、なすべきことは……)
天狼当主の命に従うならば、命と引き換えてでも風狼斎を連れ戻すべきだ。
風狼斎の命に従うならば、勝利を信じて帰りを待つべきだ。
「俺、は…………、」
風狼斎の身に万一のことがあれば、死を以て償う他ない。
待機命令を破れば、今度こそ風狼斎の不興を買うかもしれない。
どちらを選んでも地獄だ。
――どちらに従えばいい……!?
二人の主の真逆の命におかしくなりそうな頭を抱え、何度も息を吐いた。
『ここにいる間、オレ達は主従でも、宵闇の班と同じような関係だと思っておけばいい』
数刻前の風狼斎の声が聞こえた気がした。
あの時だけではない。
日頃から、風狼斎は同じような言葉を繰り返しては、班の全員に気さくに声をかけてくれた。
そうやって何年かが過ぎた頃――、
人形のような無表情で暗殺を繰り返すだけだった寧々は、煩いくらい表情が豊かになった。
岩のように無口で何を考えているのかわからなかった劾修は、自らの考えを口にするようになった。
淡々と卒なく任務をこなすだけだった砕刃は、よく笑い、冗談まで口にするようになった。
いずれ護衛部隊に戻る自分達にとって、それが良いことなのかはわからない。
だけど、「自分」を取り戻していく班員達に焦りと羨望を抱いたのは事実だ。
『……行か……、せん……、ぞ……』
功刀の部下の声と、今わの際まで引き留めようとした血まみれの手が脳裏に蘇った。
未熟な腕しか持たないくせに、情に突き動かされた判断で身を滅ぼした、中途半端な愚か者だ。
だが――、その愚かさこそが、美しいと思える。
「ああ……、そうだな……」
――俺も……、未熟な愚か者だったか……
自嘲を浮かべ、刀を抜いた。
宵闇の「副長」として、「班長」の背を守ることもできず。
護衛部隊員として、仮とはいえ「主」の命に服従することもできず。
――ならば、「笹貫圭吾」として……、
(……あの御方が、俺にも宵闇のような主従を望んでくださるのならば……)
刃に霊気を込め、封じ目を突いた。
亀裂が走った幕に体当たりするようにして砕き、飛び出した。
――たとえ御命令でも、主を戦場でお独りになどできん……!
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