第21話 

 太常から出るなり強烈な妖気が吹き付けた。

 防御術を織り込まれた装束に妖気が染み込み、全身に火が付いたように痛む。

(さすが霊脈の穢れ……、俺の破邪では相殺しきれんか……)

 風狼斎が待機命令を出した理由を理解するが、耐えられないほどではない。

 全身に霊気を巡らせ、妖気の塊に飛び込むと景色が一変した。

 ――なんだ……、ここは……?

 どこまでも続く灰色一色の世界。

 森も地も空もなく、ガランとした空間を灰色の靄が漂っていく。玉響に近いが、足元には硬い地面の感触がある。

(班長は……)

 碧の光を探すが、周囲は灰色の世界が広がるばかり。障害物もなく物音ひとつしないのに、何者かの気配だけが漂う。

 ――この感じ……、幻術ではないな……

 超小規模の霊域に入ったように、外部からの気の流れが遮断されている。

 奥羽が巡らせている霊域は森一帯を覆う大規模なものだから、これは社の防御用に組まれていた術式の一種だろう。

 久遠は鎮まったが、元凶はまだ健在だ。

 術式が支配されていても不思議はないが、霊域で隔離されたのならば厄介だ。

 霊域のすぐ外側に風狼斎がいたとしても、この霊域を破らない限り、互いに居場所がわからない。

 ――刻紋があれば……

 黒い布に覆われた右手の甲には、圭吾の霊紋の中央部に天狼当主の紋が刻まれている。護衛部隊に入隊する時に「忠義の証」として刻まれたものであり、主の霊気が常に流れ込んでいる。

 ここに刻まれているのが風狼斎の紋だったならば、幻術の真っただ中だろうと、霊域で隔離されていようと、「主」を見失うことなどないだろう。

 纏わりつくような不気味な視線に身構えた。

(何かが潜んでいる……。近い……)

 視線から絡みつくような暗い念を感じる。これほど深い念は妄執の類だ。命を宿す存在が放つものではない。

 懐に入れた印玉から霊気が立ち上った。

(久遠?)

 足元の妖気が晴れ、地面に小さな泡が浮かぶ。

 ――これは……、

 不吉な予感に飛び退いた直後、地面から灰色の火柱が渦巻いた。

 宙で生きているように反転し、迫りくる「それ」に斬りつけた刀が半ばから折れ、地面に転がる。

“刃よ……!”

 切っ先を失った刃から生じた白刃が灰色の胴を撃ち抜いた。「それ」の内側から聞こえる呻き声は一人のものではなく、重なりあっていて男とも女ともとれない。

(この奇怪な生物は、いったい……?)

 地面から飛び出してきたのは、大木ほどの太い胴を持つ巨大な灰色の蛇だった。

 しかし、頭があるはずの先端部分は尖っていて目も口もなく、全身を歪な楕円形の鱗が覆っている。尾の先端も同じく尖っていて頭部らしいものはない。

 巨大な灰色のミミズ――、そう表現すれば、最も近いだろう。

 懐で涼やかな霊気が膨れた。

(また……、もう回復したのか?)

 久遠が復調するまで、それほど長い時間を必要としないような口ぶりだったが、随分と早い気がする。

 急かすように強まり続ける霊気に胸騒ぎを覚え、印玉を取り出した。

 橙の球体が弾け、飛び出してきた久遠の刃に圭吾の顔と宙を蠢く妖気が映る。

「……っ」

 咄嗟に久遠の柄を握り、両手に霊気を集中した。巡らされた白い膜を、十を超える灰色の刃が襲った。

(俺の霊刃とよく似ているが……)

 ただし、幕に弾かれているのは金属性の霊気ではなく、妖気に紡がれた灰色の刃だ。跳ね返したのではなく、吸収した霊刃を妖気で撃ち直したのだろう。

(厄介な……。こちらの術を模倣できるのか……?)

 刃を真似るまでに僅かに生じた隙。あれがなければ、間違いなくやられていた。

 喉に違和感を覚え、咳き込んだ。

 口元を押さえた手に血が滲む。

 妖気が体内を焼き始めたらしい。

(長引くだけ不利だな……)

 刃が止んだ隙に幕を解除して踏み込んだ。

 霊刃を撃ち返すのならば直接斬りつければいいだけ。霊力が落ちているとはいえ、久遠があれば有利に戦えるはず――!

 化け物が攻撃態勢を取るよりも速く接近し、刀を薙いだ。

 鱗が裂け、血のように噴き出した妖気が宙へと広がった。

「な…………」

 宙へ上がった妖気がクルリと円を描き、灰色の人の顔を形作っていく。

 それらは全て違う顔で、一つ一つが酷く潰れて歪み、頭や顔を矢が貫いたままの顔や、血塗れの顔もある。

(戦で命を落とした者達か……?)

 怨念や魑魅魍魎が毎夜のように跋扈し、古くから人間達の政争や戦乱が続いた京とその近郊に比べ、この奥羽霊山の管轄地域は比較的人間同士の戦は少なかった。

 さらに霊獣の隠れ里も多く、里がそれぞれに霊脈の要所を守っていたことから、奥羽では霊脈の管理を里に任せ、一歩引いて見守る形をとってきたと聞いている。

 しかし、この数百年ほどの間、この地域に戦乱が及ぶことが増えた。流れた血や死傷者達の怨嗟が大地から染み込んでは里の薬草を枯らし、山の中で武装した人間と鉢合わせた霊獣が傷つけられる被害も多発した。

 その傷から穢れが入り込んでの妖獣化が相次ぎ、身を守る為に山奥へと移転する里が増大した。そのたびに、守り手のいなくなった要所は近くの里や奥羽が引き継いでいたが、川の流れよりも細かな末端の霊脈にまで手入れが行き届いていたとは考えにくい。

 手薄になっていた霊脈の末端に人間達の妄執が入り込み、霊脈の霊気で力を得た「化け物」が生まれたとしても不思議はない。

(こいつが班長が仰っていた「化け物」に違いないが……、班長はどちらに……)

 視線を巡らせても、あれほど鮮やかだった碧の光はやはり見えない。

 分断されているだけならば良いが、風狼斎ならば霊域を破って入ってきそうなのに、その気配は全くない。


『一刻経って、オレが戻らなければ奥羽へ退避しろ』

 

 何気ない指示が不吉な予言のように脳裏を巡った。

命令ではなく、退命令だった……。霊脈の穢れから生み出された化け物は、班長でも危険なほど強力だということか……?)

 にも霊脈は存在するが、そこから生まれる厄介事には天狼はほぼ関与しない。どちらかといえば、狼の霊筋からなる武家ではなく、術を得意とする貴族の担当分野だ。

 風狼斎は戦闘経験がある様子だったが、狼の霊筋である以上、風狼斎もまた術の類は不得手のはず。伝承や戦記でも、風狼斎が戦いで操る術は霊符のみ。術式を使っている記録など見かけたことがない。

 ――この場におられぬということは……、まさか……

 圭吾とて、久遠の掩護がなければ既に倒れていただろう。

 頭を過った最悪の事態を押しやり、化け物を睨んだ。

「ならば、尚更のこと退けんな……」

 宙に浮かぶ顔の中に風狼斎らしいものはない。

 胴は大人三人ほどが入れるほど太い。風狼斎が不覚を取ったのだとすれば、あの内側に取り込まれた可能性が高い――。

 久遠を構え、地を蹴った。

 宙に浮かんでいた顔が「化け物」との間に割って入り、ぐちゃりと纏まって巨大な灰色の髑髏どくろを創り出す。

「邪魔だ!」

 切り裂いた髑髏が燃え上がり、無数の矢になって放たれた。

 巡らせた防御幕を突破した矢が刺さるのも構わず、灰色の胴に斬りつける。

 巨大な死肉の塊に斬りつけたような感触と共に、切り裂いた鱗の下から妖気が吹き付けた。

「ぐ……ッ」

 まともに浴びた妖気が、灰色の煙を経てて服と顔の肉を焼く。

 ――班長……! 班長は……!?

 死への恐怖も、傷の痛みもなかった。

 ただ、灰色の化け物の内側に碧光と青年の姿を探し、体中の霊気を搔き集める。

 背後で気配が動いた。

 衝撃が背を襲い、意識が遠のく。

 睨み付けた先で、巨大な灰色の髑髏が口を開けていた。髑髏の周りで灰色の刃が生じる。

「…………ッ」

 渾身の力で投げた久遠が髑髏の口内を貫くも、口から大量の赤が吹き出した。

 目が霞み、ぼやけた視界の中で久遠に貫かれた髑髏が砕けていく。だが、生み出された刃は消滅することなく、矢のように打ち出された。

 背中に温い染みが広がり、凍えるように体が冷えて意識が薄れていく。

 迫りくる刃が、遠い世界の出来事のように思えた。

(……申し訳……、ございません……、班長……ッ)

 涼やかな気が吹き抜けた。

 碧の閃光が渦巻き、寸前まで迫った刃をかき消したと思った時には、傾いていく体を力強い手が支えていた。

「ったく、間一髪だったじゃねェか……。さすがに焦ったぜ……」

 頭上から聞こえた声に顔を上げた。

 青い光が舞う中で、碧の瞳が見下ろしていた。

「班……」

「黙ってろ。その傷じゃ、少しの消耗も命取りになる」

 酷い有様だろう圭吾とは真逆に、風狼斎は傷一つ負っている様子はない。

 無事な姿に眼に熱いものが滲んだ。

 ――よくぞ、ご無事で……

 舞い降りる温かい青い光が天一の符だと気づく。

 先ほどから聞こえ始めた地響きが、碧刃に切り裂かれたミミズがのたうつ音だということも。

「……妖龍。霊脈の穢れから生まれる化け物だ。銀狐の里に穢れが蔓延したのは、コイツのせいだろう。その時は久遠が撃退したようだが、さらに妄執を集めてデカくなって襲撃してきたってところだな」

 土中へ逃げようとした龍の胴を再び碧の光が切り裂いた。

 いつの間にか灰色の景色が砕け、森の景色が戻っている。

 近くの木の根元に圭吾をもたれさせ、風狼斎は屈んだ。手にした久遠に天一と六合の符が溶け込み、青い光を放つ。

(そうか……、あの時……)

 投げつけた久遠が霊域を傷つけ、霊域の外側まで来ていた風狼斎に居場所を知らせたのだろう。

「踏ん張ったじゃねェか、奎。正直、お前がここまで熱いヤツだなんて思わなかったぜ……」

 労うように笑い、感覚の無い手に久遠を握らせて風狼斎は立ち上がった。

 久遠から流れ込んでくる霊気が全身を巡り、寒さが和らいだ。幹の一部を霊符化させたのか、後ろから天一の青い光の粒子が漂い、刃に撃たれた傷を癒していく。

 視界を舞った一枚の木の葉が伸び、生み出された橙の光が周りを囲んだ。

「命令だ。コイツを仕留め終えるまで寝てろ。気を抜きすぎて死ぬんじゃねェぞ?」

 返事の代わりに頷くと、風狼斎は安心したように太常から離れた。

(あの風狼斎様が……、手ずから、俺などの手当てを……)

 命令無視で飛び出しておいて何の戦果も挙げられず、無様に死にかけたのに。

 護衛部隊だったならば、手当ての代わりに息の根を止められてもおかしくないだろう。

「さあて……」

 再生していく妖龍に、風狼斎は向き直った。

 ――班長……?

 明らかにそれまでと様子が違う。

 失血で朦朧としている圭吾でもわかるほどの強烈な威圧感に、森の木々までもが畏れるように震えている。

「足止めのつもりだか知らねェが、十も二十も囮の霊域なんざ作りやがって……。挙句、オレの部下を痛めつけるとは、いい度胸だな……」

 碧風が渦巻く背に静かな怒気が立ち上った。

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