第22話
風狼斎の左腕に巻き付いていた蔦が木刀へと変わり、碧風が急激に攻撃性を帯びた。
自らの眼前にいる存在に脅威を感じたのか、妖龍が怯えたように大きく体を震わせた。巨体から硬いものが砕ける音が上がり、龍の先端に灰色の瘤が盛り上がる。
人鬼に角が生えてくる現象に似ているが、瘤は釣り鐘ほどに膨らみ、歪に形を歪めていく。
(人間の……、頭か……?)
目を凝らす間にも鼻が突き出し、目と口が開いた。しかし、圭吾の五倍はあるだろう巨大な人の頭から発せられるのは、人の言語でなく獣のような低い唸り声だ。
目は虚ろに窪み、むき出しになった歯は人間のものとは思えないほど尖り――、肉の削げ落ちた顔は髑髏のようで、男女の区別もつかない。
「ようやく戦う気になったようだな……」
不敵に呟き、風狼斎は木刀を構えた。
刀身が碧に輝き、布に覆われた両の手の甲で碧の光が溢れる。さらに勢いを増した碧風に黒装束が外套のように靡く姿に、奇妙な感覚が疼いた。
――あのお姿……、どこかで……
魂の奥で硬い扉が軋んだ気がした。
耳の奥で風が唸り、声が混じる。
刹那、景色がぼやけた。
『こんな形で会うことになるとはな……』
碧に輝く剣を手にした青年は悲痛な表情を浮かべ、そこにいる「化け物」に声をかけた。
――誰……、だ……?
こげ茶の髪に碧の瞳、明るい声音に碧風、畏怖を抱かずにいられない霊格。
装束は異なるが、姿も霊気の波動も風狼斎とよく似ている。
だが、自分にはわかる。
この青年が、「風狼斎」であって、「風狼斎」ではないことが。
何故ならば、「風狼斎」は――、
「……これが現の穢れか……」
静かな声に、意識が引き戻された。
魂が遠くに旅立っていたような浮遊感に軽く額を押さえ、息を吐く。
右手から伝わる久遠の霊気で、ここにいる自分が現実なのだとわかるが、まだ遠い世界を彷徨っているような不可思議な気分だった。
(……夢……、だったのか……?)
失血と体内に入った妖気で、まともな思考ができている自信はない。
だが、夢と割り切ってしまうには鮮明で、どこか懐かしくさえ感じた。
風狼斎は変わらず、変形していく妖龍を眺めている。
意識が反れていたのは、瞬きするほどの時間だったはずだが、その僅かな間にも、頭の下に四つの瘤が前後左右に盛り上がり、全身の鱗が凸凹に変形していた。
(なんと……、おぞましい姿だ……)
新たに生じた四つの瘤は、普通の大きさの人間の頭へと変わり、前後左右を睨んでいる。鱗の凹凸は顔へと変形し、全ての顔が憎悪に歪んだ。
髑髏の頭と、その根本に四つの頭をつけ、全身に歪んだ顔を浮かび上がらせた不気味なそれは、大樹よりも太い胴を震わせ、鎌首をもたげた。
「龍」だと聞いていなければ、五つの生首がついた化け物としか思わなかっただろう。
鱗に浮かんだ顔から吐き出された妖気は黒く濁り、太常の壁にぶつかると濁った油のように流れ落ちていく。妖気が黒く濁るということは、溶け込んでいる念が通常の妖気の比ではないほど強いということだ。
(なんという妄執……、戦で流れた血が直接霊脈に入ったのでは……)
霊山や霊獣が把握していない霊脈があるとすれば、人が住まう平野だ。
その真上が戦場となり、多くの血が流れたのかもしれない。
意味を成さない呻き声が上がった。
周りの妖気が百を超える灰色の刃へと変わり、消えた。
否、風狼斎目掛けて放たれた。
「班…………!!」
視線を移した先で、風狼斎が立っていた地面に刃の雨が降る。
しかし、そこには風狼斎の姿はない。
その姿を探す圭吾の耳に鋼鉄が砕けるような音が飛び込んだ。
――なん……だと……?
いつの間に駆け上がったのか、頭部の真正面に静止した風狼斎が木刀を突き出していた。
木刀は龍の額を真っ直ぐに貫き、碧の輝きを強めていく。
抵抗するように放たれた刃を碧風がことごとく呑み込み、背後から迫った龍の尾を渦巻いた碧風が切断する。
「眠りな……」
刀身から碧が奔り、頭部が吹き飛んだ。
絶叫が上がる中、四つの頭が怒りの形相で風狼斎を見上げた。
それぞれの首が龍のように胴から伸び、犬歯をむき出しにした髑髏へと変わる。
前後左右から風狼斎を取り囲んだ髑髏達は同時に口を開いた。
その口内に灰色の妖気が炎のように揺れ、一斉に吐き出された。
四方から襲った妖気が碧風に触れた瞬間、風が膨らんだ。
“舞い狂え……、碧嵐……!”
青年を中心に吹き荒れた碧の刃が妖気ごと四つの髑髏を切り刻む。
立ち込めていた妖気が霊域を駆け抜ける碧風に洗い流される間に、巨大な龍の体は朽ちた木のように碧風の中で崩れ、溶けるように消えてゆく。
消える刹那、怨嗟に歪んだ鱗の顔達が解放されたように安らいだように見えた。
妖龍を消し去っても尚、勢いを緩めることなく吹き抜ける碧風に耐えられず、霊域が砕け散った。
「なっ!?」
戻ってきた山中の景色に息を呑む。
木々の葉が碧に光っていた。
宙に静止したまま、風狼斎は木刀を掲げた。
上空へと吹き抜けた碧風に木の葉が一斉に舞い上がる。
“祓え、六合……”
全ての葉が青を宿した。
小さな木の葉達は宙で六合の符へと姿を変え、青い光となって地上に降り注ぐ。
光が降った森の木々が青い光を宿し、地面にも青い光が染み渡ってゆく。
木の根から地中深くの霊脈に直接六合の力を送り込んでいるのだと気づく。
(この広大な奥羽の森の木霊達を……、いつの間に従わせておられたのだ……?)
この森で合流する前だろうか?
さすがにそれはないだろう。
幻術に入り込んできた時の風狼斎は妖変の元凶を掴みきれていない様子だった。
だとすると、先ほど一時的に別行動を取った時――?
(違う……)
久遠との戦いに入る時。目の前で、風狼斎は木霊に号令をかけていたではないか。
(では、あの時……、妖鬼との戦いに時間をかけておられたのは……)
霊域に自らの霊気が巡る時を待っていたのだと思っていた。
しかし、本当に待っていたのは――、中門を取り囲む森全てに自らの霊気が満ちる時だったのだ。
(これが……)
あの化け物龍をも軽く一蹴し、霊域の中から奥羽の広大な森を支配下に置いたばかりか、無数の木の葉を霊符に換えて操るなどと――!
――かの戦神・風狼斎様か……!
修練と暗殺術の修行に明け暮れ、殺伐としていた幼い頃。唯一、心を慰めてくれた戦記が過った。それを読み聞かせてくれた兄の顔も。
(兄上……、貴方と共に見られたならば、どれだけよかったでしょう……)
護衛部隊を引退したら、無節操に増えた戦記や伝承の編纂に余生を捧げたいと、兄は常々言っていた。
戦記の世界に没入していた兄が、本物の風狼斎の戦いを目にしたならば――、どれだけ喜んでくれただろう。
自ら戦記を書くと言い出したかもしれない。
そんな兄を、自分は喜んで手伝っただろう。
だけど、それはもう叶わない――。
音もなく地上に降り、風狼斎は木刀で地面を突いた。
“出でよ……!”
切っ先から伸びた碧の光が稲妻のように地面を奔り、地中へと姿を消した。
刀身が脈打ち、手を離した風狼斎の背丈を追い越し、グングンと上へと伸びていく。
(あれは……)
頭上で大きく枝を広げ、青い葉を芽吹いた姿には見覚えがある。
霊染め桜と並ぶ強力な浄化の力を持つ霊樹、鈴鳴松だ。
あの時――、久遠を鎮めてから妖龍が姿を現すまでの僅かな時間で松の霊体を自らの木刀に呼び出していたに違いない。
――恐ろしい御方だ……
戦いに入った時から、全てを計算しての行動だったのだと、ようやく悟る。
いったい何時から、この妖変の全容を掴んでいたというのだろう。
「後は七瀬の出番か……」
碧が消え、夜の静けさを取り戻していく森を眺め、風狼斎は呟いた。
太常が解け、周りを満たした空気からは清らかな破邪の匂いがした。
こちらを振り返り、風狼斎は目を丸くした。
「なんだ、起きてたのか」
そういえば、寝ているように命じられた気がする。
だが、風狼斎が戦う姿を目前にして、暢気に寝ていられるはずがない。
「傷の具合はどうだ? 霊気は安定しているようだが……」
慌てて確認した背中の傷は完全に塞がっている。久遠の霊気が効いたのか、大量に失血して感覚を失っていた手も問題なく動く。
「は。もう塞がっております……」
「ひとまず安心といったところだが、暫く奥羽で休んだほうがいい。肩を……」
屈もうとした風狼斎の意図を悟るなり、弾かれたように立ち上がっていた。
襲った眩暈を気力で抑え込み、久遠を地面に立てて態勢を整える。
「この通り……、問題ございません!」
「問題大有りにしか見えねェんだが……、久遠が機嫌を損ねるから、そういう使い方はやめたほうがいいぞ……」
久遠から抗議するような波動が伝わった。
霊剣を杖代わりにするなどと――、どれだけ無礼な事なのかくらい理解しているが、主に肩を借りて立ち上がるような真似、できようはずがなかった。
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