第23話 

「……天狼の自己治癒能力が高いのは知ってるが……」

 強制的に圭吾を座らせ、風狼斎は眉をひそめた。

「失った血までは短時間で取り戻せねェと思うんだが……、本当に無理してねェか?」

「は。問題ございま……っ」

 喉が痛み、咳き込んだ。

 吸い込んだ妖気が直接焼いた場所は簡単には癒えてくれないらしい。

「ちょっと待ってろ」

 風狼斎は霊水の入った瓢箪を取り出し、軽く握った。手の甲が碧に光り、瓢箪の中から同じ碧の光が溢れた。

「今すぐ飲め。体の内側の妖傷は悪化しやすい」

「は……、ありがとうございます」

 清々しい破邪が全身を巡り、痛みを消していく。

 他の誰かの気配はなく、鈴鳴松が奏でる鈴のような音色だけが夜の中を流れていく。

 風狼斎はというと、近くに転がっている倒木に挨拶するように一撫でして腰を下ろし、木片に乾いた筆を走らせ始めた。墨ではなく、筆を介して霊気で記しているのだ。

 先ほどまでの戦いが嘘のように、あたりは静かだった。

 切り出すのは今しかないような気がした。

「班長」

「どうした? どこか痛むか?」

「いいえ。お話がございます……」

 姿勢を正し、跪いた。

 風狼斎はわざわざ立ち上がり、目の前まで来た。

 これまで、自らの立場について主君に直訴するなどと考えたことすらない。どんな顔をしていいのかわからず、深々とこうべを垂れた。

「これまでの数々の非礼……、どうかお赦しください、風狼斎閣下」

 小さく息を吐く気配がした。

「……ある程度は覚悟していたが……、班を抜けたいってことでいいか?」

「いいえ」

 手を握りしめた。

「これまで通り、閣下の下でお仕えしたく存じます。ですが……、副長の任だけはお考え直しを。自分は……、仮とはいえ、閣下の片腕として相応しくございません……」

「……今回の妖変は奥羽が総崩れになったほどの異常事態だ。思うように働けなかったかもしれねェが、班の誰が一緒にいても同じだっただろう。そんな中で、よく戦ってくれた。お前が妖龍を足止めしてくれていなければ、霊域が維持できてる内にケリをつけられていたかわからねェからな」

 穏やかだった霊気が少し張りつめた。

「敵味方問わねェ過激な攻撃はお前に限ったことじゃねェから、今日は何も言わねェよ。だがな、一点だけ……、お前自身の防御を疎かにしすぎだ。護衛部隊の価値観なのかもしれねェが、少数精鋭の隊では一人が抜ければ隊全体の戦力が大きく落ちる。お前の脱落は、味方に大穴を開けることになるのを忘れるんじゃねェぞ?」

「は……、心得ました……っ」

 遠回しに「己を大切にしろ」と言われているのだとわかった。

 隊長から身を案じてもらえたことなどと護衛部隊ではなかった。

 風狼斎から直々に労いの言葉をもらえた。そればかりか、命を気遣ってもらえた――、それだけで一生分の武勲を立てたも同然だ。

 ここで命が終わったとしても、悔いはない。

「恐れながら……、今回の妖変のみが理由ではございません……」

「……副長の立場が不満なのか?」

「いいえ……」

 感情を押し殺した。

 自分のような後ろ盾もない忌子、死んだところで誰からも悼まれることはない。真の主君である天狼当主からも。護衛部隊の者達からも。兄がいなくなった今、笹貫家の「家族」からも。

 笹貫家の者として、家名を汚さない最期を迎えることだけを望まれ、護衛部隊では、隊長達の指示に従うことだけを望まれてきた。

 何処へ行っても駒としてしか見てもらえないのならば、せめて、自分で死に場所を決めたい。不毛な嫌疑の末の暗殺の犠牲や、犬死に同然の捨て駒ではなく、自ら誇れるような意味のある最期を迎えたい――、いつの頃からか、そればかりを願うようになっていた。

 一介の護衛部隊員が、「風狼斎の傍近くを守り、風狼斎の為に命を落とす」――、狼の霊筋の者として、これ以上に誇らしい最期はないだろう。

 この青年は、自分のような仮の部下が命を落としても悼んでくれるに違いない。今は、無条件にそう信じられる。

 鞍馬で風狼斎の片腕を意味する「副長」の肩書は魅力的だ。

 だが、自ら命を懸けたいと思える主君と、自らに誇れる死に場所を見つけた今、他に何を望むというのだろう?

「……オレが恐ろしいのか?」

「は…………?」

 予想していなかった言葉に、弾かれたように顔を上げた。

 寂しそうに風狼斎は笑っていた。

「この期に及んで気を遣わなくていいぜ? この力を見たヤツは九割ほどが怯えて逃げちまうんでな。まだ仕えようとしてくれてるだけでも十分さ……」

「な、何を仰います……!」

 ありえない誤解に、抑え込んでいた何かがブツリと切れた。

「その御力こそ、御三家を率いるに相応しい、戦神そのものではございませぬか……! それを……、敬うどころか怯えた挙句、逃走などと……!! なんという非礼……! なんという愚……! 狼の霊筋の風上にも置けぬ下衆の所業でございましょう……! そのような輩、一人残さず、この手で血の海に沈めて御覧に入れましょう……!」

 思うままにまくし立てると、喉だけでなく肺にまで負荷がかかり、思いきり咳き込んだ。

 風狼斎は呆気にとられたように目を丸くしていたが、やがて、安堵したように息を吐いた。

「そうか……、お前にはそんな風に見えたのか……。今まで、随分と取り越し苦労しちまったな……」

 噛み締めるような呟きだった。

 初めて、この青年が心から嬉しそうにしているのを見た気がした。

「なら、余計にわからねェよ。どうして急に降りたいなんて言い出したんだ? これだけ長いこと副長やってて、今さら自信がないわけじゃねェだろ?」

「この役目は、初期の頃に家柄にて決められたものです。『奴』が現れる前に、班長がご自分と相性の良い者を選ばれるべきです」

「あ~~、それか……。そういや、そんなことを言ったっけな……」

 風狼斎はきまり悪げに頬を掻いた。

「護衛部隊では、何かを決める時は家柄を口実にすれば丸く収まるって、当主殿から助言をもらってたんでな……。いくらなんでも一番近くに置く奴を家柄なんぞで決めたりしねェよ。とはいっても、お前達は霊格と戦闘技術は互角だから、決め手は力じゃねェが」

「……で、では……、何を基準に……?」

 指名された理由など、本当に「家柄」しか思いつかない。

 風狼斎の「恩人」に、同じ「けいご」という名の人物がいると聞いているが、まさかそんな理由ではないだろう。

「基準っていうか、お前が四人の中で一番、頑固で煩そうだった」

「…………は?」

「この立場じゃ、意見してくれるヤツもそうそういなくてな。オレとしちゃ、何でも聞き入れちまう副将よりも、自分を持ってて噛みついてきてくれるほうが有難い。初顔合わせの時、四人とも無表情なのは同じだったが、他の三人が自分を殺して人格まで変えてたのに対して、お前だけ素だっただろ? オレが命令した時、一人だけ不満そうな霊気出してたしな」

「……それは……、否定しませんが……」

 つい肯定すると、風狼斎は笑みを深めた。

「初対面であれだけ自分を出せるんなら、相手が風狼斎オレだろうと、うつつだろうと、ブレねェで噛みついてくると思ってな。まあ、思った以上の石頭な上に真面目すぎて、そのうち悪い奴に騙されるんじゃねェかと心配になりはするが……、馬鹿正直な分、わかりやすくて助かる」

 いくらか引っかかる部分があったが、誉めてもらえているらしい。

 この性格を気に入ってもらえていたなどと、微塵も思わなかった。

「そういうわけだが、異論はあるか?」

「ございませんが……、その……、閣下は相当変わっておいでですね……」

「そうか? 何を言っても『御意』しか言ってくれねェ奴と話してても、楽しくねェぜ?」

 苦笑を浮かべていた風狼斎は、ふと式典の時のような厳かな顔をした。

「笹貫圭吾。今後も、我が班の副長として励んでくれるな?」

「は……! 誠心誠意、全霊を以て、閣下にお仕えいたします……!」

 まともに名を呼ばれたのは久しぶりだった。

 愛称に慣れてしまったのか、いくらか堅苦しい気がした。

「よし、この件はもう終わりにするぞ」

 風狼斎は奥羽の方角を眺めた。

「それくらい元気なら一人でも大丈夫そうだな。山守殿への報告を頼んでいいか? 一緒に行ってやりたいところだが、混乱中の奥羽にオレが入るのはマズいんでな……」

 風狼斎は各霊山の運営を審議する監査の任も担っている。可能な限り天狗達に顔と霊気を見られるのは避けなければならない立場だ。

「久遠は……、復調してるようだな。そのまま奥羽に行っても問題ねェだろう。無理しねェで、道中の護りは久遠を頼れよ?」

「畏まりました。事後処理はお任せください」

「今回の討手はお前だったってことにしといてくれ。戦いの場にいたわけだし、問題ねェだろう」

「なっ!?」

 とんでもないことを言い出した主に、それまでの穏やかな気持ちが霧散した。

「そのような大それたこと……! 自分に妖龍を散らしたばかりか、霊脈までもを鎮められるような超越した破邪がないことくらい、誰の目から見ても明らか……、どう考えても不自然です……!」

「やっぱり不自然か……」

 風狼斎は肩を落とした。

「……霊脈が絡んでなきゃ、全部やってもらえたんだがな……。鞍馬に残す記録書は討手が書くとか、面倒なんだよな……」

「……もしや、記録書の作成がお嫌なだけですか……?」

「おう。ダルいだろ、あれ……」

 記録を書くのが怠いだけで、これだけの妖変を鎮めた労力を譲るつもりらしい。

 思えば、この青年は細かい作業が苦手だ。

 手伝ったことがあるが、記録書そのものは几帳面にまとめられているので、できないのではなくしょうに合わないのだろう。

「……ならば、自分が下書きをいたしましょうか……? 班長はご確認の上、仕上げをしていただけましたら……」

「本当か!? 有難いぜ!」

 碧の瞳が幼子のように輝いた。

 記録書の下書き程度でそんなに喜んでもらえるのならば、いくつ引き受けてもいいような気がした。

 記録書の負担が減ったのがよほど嬉しいのか、風狼斎は嬉々として先ほど筆を走らせていた木片を差し出した。

「よし、じゃあ、コイツを持って、久遠と共に抜け道から山守殿の元へ行け。コイツを山守殿に渡して今回の顛末を報告したら、後は任せておけばいい。上手く取り計らってくれるだろう。途中で奥羽の連中に鉢合わせるなよ? 詮索されるだろうからな」

「は。心得ました」

「夜明けまでに七瀬を寄こす。後は任せて、お前も暫く療養しろ。山守殿から依頼があれば、知らせてくれ」

「依頼……、ですか?」

「出張依頼だ。功刀達が動けるまでは、山守殿も心細いだろうからな。戦闘力の高い宵闇を手元に置いておきたいだろうぜ」

 風狼斎の周りで碧風が渦巻いた。

「この際だから、役目のことは忘れてゆっくり休んで来い。毎日、必要以上に走り回ってくれてるんだ。たまには息抜きしてこいよ」

「そ、そのようなこと……」

「下書きだけは忘れるなよ!? 待ってるからな!!」

 碧風が強く舞い上がったかと思うと、青年の姿は消えていた。

(……オレも行かねば……)

 木の幹に手を突いて体を支えながら立ち上がり、不意に気づく。

 畏まられるのが苦手な風狼斎が、ずっと跪いていたのに何も言わなかった。

 おそらく、怪我人を座らせておきたかったのだろう。

(これが……、風狼斎様なのだな……)

 伝承や戦記に描かれる「戦闘狂の英雄」は、あくまで風狼斎の一つの側面に過ぎない。細かいことが苦手で、危機意識が欠如していて、何を考えているのかわからなくて、身分に緩くて、味方の救助を戦いよりも優先して……、自分達のような、仮の部下でも大切に思ってくれている。

 この現で、自分が目にしてきた姿こそが、「風狼斎」なのだ。

 ――本当に、不思議な御方だ……

 護衛部隊とはあまりにも異なる価値観を持つ「主」に、この先もずっと振り回されるのだろう。

 だが、それでいい。

 自分は副長として、どこまでも仕えるだけだ。

 唯一にして最大の不満は、戦場に連れて行ってもらえても、自分が出る幕が無さそうなことだけだろう。

 中門から無事だった宵闇達が出てきたのか、風に霊気が混じった。

(行くか……)

 久遠から霊符の波動が伝わり、体を巡った。体が軽くなるのを感じながら、その場を後にした。

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