第12話
大樹が見覚えのある姿へと変わった。
風と共に吹き付けてくる強大な霊気に、冷水をかけられたように意識が冴える。
姿はともかく、研ぎ澄まされた刃よりも涼やかな破邪は、幻影ごときに再現できようはずがない。
「班……、長……?」
何が起きているのかわからず混乱する。
この青年が奥羽にいるはずがない。
だが、目の前にいるのは、間違いなく風狼斎本人だ。
その証拠に、霊気と破邪だけでなく、茶化すように浮かべた笑みも表情も、全く違和感がない。
「戻ったみてェだな。次に斬りつけたら蹴り入れるから、そのつもりでいろよ?」
「斬りつける……?」
不吉な予感に、自らの刀の先を見た。
白く光る刃を受け止めた木刀に、背筋が凍りつく。
「ま……さか…………?」
ガタガタと手が震え始めた。
渾身の力で斬りつけたのは、幻影などではなく……、
「気にするな。掠り傷一つ負ってねェ」
茶化すように刀を払い、風狼斎は木刀を軽く振った。碧が瞬く手の中で、木刀が一枚の符に戻っていくのを、どこか遠い世界の出来事のように眺めた。
「それより、お前だ。酷い傷じゃねェか。妖気は入り込んでねェようだが……、随分と顔色が……」
「も、申し訳ございませんでした……! 風狼斎閣下……ッ」
刀を置き、ぶつけるように地面に額を押し付けた。自分が犯した罪に全身が震え、顔も上げられない。
「ッ申し開きは致しません……! 覚悟はできております……!」
――俺は……、なんということをしてしまったのだ……!?
幻術にかかっていたとはいえ、あの風狼斎に刃を向けるとは……!
向こうでは、風狼斎への抜刀は、御三家のみならず五大貴族、さらには皇帝への反逆をも意味する大罪中の大罪だ。良くて斬首、最悪の場合、一族郎党全員が謀反人として斬首された上で、家も取り潰される。
「どうか……! どうか! 即刻、お手討ちに……! 閣下の御手にて御断罪ください!」
「お前な……」
呆れたような溜め息と共に、背中に温かいものが舞い降りた。
「ひとまず顔を上げろ……」
意識が吹き飛びそうな恐怖を押さえつけ、恐る恐る顔を上げた。
風狼斎は青く光る霊符を手に、野犬をあやすような顔で片膝をついて屈んだ。
「血溜まり作りながら物騒なこと言ってるんじゃねェ……。ほら、こいつを使え」
「な……、そのような場合では……」
「じゃあ、命令だ。さっさと腹から出てる血を止めろ。部下の流血なんて、見てて気持ちいいもんじゃねェ。話はそれからだ」
「は……、で、では……」
震える手で霊符を受け取り、腹の傷に当てた。吸い込まれるように傷口に広がった霊符が瞬く間に血を止め、痛みを消していく。
いつの間にか、脇腹の痛みも消えている。先程、舞い降りた温かいものが霊符だったのだと気づく。
「……じ、自分の傷などと、お捨て置きください……っ、早く御沙汰を……」
「あ~~、そうだな……」
碧の瞳がしげしげと腹と脇腹を見た。
「不問だ。以上」
「…………は……、ふもん……?」
「ああ。傷に妖気は残ってねェし、問題ねェだろ」
軽く頷き、風狼斎は立ち上がった。
「不問」に別の意味があっただろうかと真剣に考えるが、何度考えても他の意味などない。
「なりません! 自分は天狼分家の者です……! 御身に刃を向けたとなれば、死して償う他ございません……! どうか、御自ら断罪を……!」
「ったく、不問の何が不満なんだか……」
風狼斎は呆れた顔で額を押さえた。
「初めに、『向こうでの身分は気にするな』って言っただろうが……。一つの役目を共有する以上、さっきみたいなことは何度でも起きる。そのたびに、向こうの法やら身分を持ち出してちゃ、面倒でしかたねェよ。ここにいる間、オレ達は主従でも、宵闇の班と同じような関係だと思っておけばいい」
「そのようなこと……! 我々は貴方の護衛こそが任務! 仲間の延長の宵闇の班とは根本的に違うのです! この命を懸けてでもお守りすべき自分が、御身に刃を向けるなどと、あってはならぬこと……!」
「オレ達は役目の為に組んだ仮の主従。お前が本当に命懸けで仕えなきゃいけないのは当主殿だ。そこを間違えるな。それでも断罪してほしいなら、向こうに戻った後、当主殿に頼め。オレに血生臭い沙汰を期待するんじゃねェ」
「ですが……! 御身に刃を向けておきながら、何の処罰も受けないわけには……!」
「……なら、命令だ。この件については不問に処す。一切の異議は認めねェ。まさか、
声音が変わった。
膨れ上がった威圧感に思わず姿勢を正し、深く頭を垂れた。
――なんという重圧……
きっと、これが風狼斎の真の姿だ。
反論など消し飛び、反射的に口から言葉が滑り出した。
「は……、御意にございます……っ」
「よし。じゃあ話を妖変に戻す。ちゃんとついてこいよ?」
声音が戻り、場の気が和んだ。
命が助かった喜びよりも、釈然としないものが残った。
この青年にとって、自分達は「部下」ではなく、「天狼当主からの預かりもの」に過ぎないのではないか――?
そんな疑問が過った。
「この森、特にこの付近だが……、奇妙な術式が仕掛けられている。さっきのお前を見る限り、かなり強力な幻術が発動するようだが……。集団に幻覚を見せるだけならまだしも、記憶に干渉して過去の傷を炙り出してくるほど厄介じゃ、奥羽の主力がやられちまうのもしかたねェな」
「見ておられたのですか……」
「ちょうど、お前が幻影に斬りつけてるところに出くわしてな。声をかけたんだが、聞こえてねェようだったから乱入したんだが……」
「それは……、お見苦しいものを……」
とんでもない失態続きだ。護衛部隊だったならば確実に命はなかっただろう。
だが、風狼斎は静かに笑った。
「いや……、少しばかり安心した。兄貴を斬って平然としてるヤツなんて、オレには理解できねェからな……」
「そこまで御覧でしたか……。全ては、情を棄て切れない自分の未熟が招いた失態です……」
「そんな風に考えるもんじゃねェよ。隙ができるほど引きずってるのは、兄君との間に強い絆がある証じゃねェか。他でもない、お前が大事にしねェとな」
「ですが……、術に堕ち、挙げ句、貴方に刃を向けているようでは……」
「それが、『人』ってヤツだろ?」
深い碧の瞳が笑った。
「当たり前の感情じゃねェか。身内への情は忠義と天秤にかけるようなものでも、弱点になったところで恥じるようなものでもねェ」
穏やかな目だった。
自分よりも年若い青年が、ずっと大きく思えた。
『おま……え……、なぜ……、泣いている……?』
今際の際の兄の言葉が蘇った。
『誇らぬ……か……。あるじを……、まもった……の……だぞ……?』
どこまでも、笹貫家の者としての言葉だった。しかし、結末に満足したように、兄は最期に笑みを浮かべて逝った。
「天狼の身内斬りは知ってるが、親兄弟の情や絆まで斬り棄てることはねェ。兄君の為にも、その痛みはずっと持ってろよ?」
「は……。心得ました……」
兄と似た色の瞳を直視できず、俯いた。
自分に、まだこんな脆い部分があったのだと気づくが、消してしまいたいとは思わなかった。
「すっかり暗くなっちまったな……。早く帰らねェと、砕刃あたりから説教食らうかもな。今日ばかりはお前も説教される側だ。逃げんなよ?」
明るい声に顔を上げると、雲の上の風狼斎ではなく、この現での「班長」が笑っていた。全てを赦されたように、心が軽くなった。
「お供します。帰りが夜更けになれば、劾修や寧々も加わるやもしれませんが」
「三対二か。たまにはいいかもな」
風狼斎は暗くなった森を見渡した。
妖気が漂う陰鬱な森を、涼やかな風が吹き抜けていったような気がした。
(不思議な御方だ……)
たとえ風狼斎でなくとも、この青年には生きてほしい――、命令も霊筋も家柄も関係なく、誰かを守りたいと……、初めて思った。
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