第3話

 磨かれた床に置かれた人数分の机と椅子、資料や鞍馬の要人の日程を記された書物が納められた棚……、妖変鎮定府の合同執務室内にあるのはそれくらいで、妖変総指揮役が采配を振る場所とは思えないほど簡素だ。

 個室もあるが、そちらも必要最低限のものしか置かれておらず、圭吾達の部屋のほうが私物があるくらいだ。

 だが、風狼斎の霊気を浴びた木造の屋敷は生き生きとしていて、殺風景な室内は木霊の息吹が満ち、春の日差しが揺れているように温かで心地よい。

 それは、この詰所の他の部屋や庭についても同じで、相克の金属性の圭吾でさえしばしば居心地の良さを感じてしまう。

 この部屋で唯一、良くない気を放っているとしたら、出入り口脇に置かれた木箱だろう。他の部門や宵闇府からの出撃依頼や相談事の書簡を回収する為の箱だが、今日もどんよりした気が纏わりつく書簡が届いている。

 劾修や寧々がまだ手を付けていないということは、届いたばかりなのだろう。

(まずまずの数だな……)

 鞍馬に回ってくる出撃依頼や相談事のほとんどは、他の霊山で手に負えないような妖変絡みだ。必然的に、戦うことになる妖獣も凶暴な者、特異な者ばかりになる。

 その中でも鎮定府ここに持ち込まれるのは、鞍馬の宵闇府が匙を投げるような強力な妖獣や面倒な事態に陥ったものばかりで、風狼斎と直属の配下である圭吾達が最終判断を下す。

 悲壮な霊気を放つ書簡の一つを手に取り、一瞥してすぐに閉じた。

(雑魚だな。この程度、宵闇府でなんとかしろ……)

 日夜届く書簡のうち、日に数件は普通の妖変が混じっている。

 それを弾くのも圭吾達、風狼斎直属の鎮定班の仕事だ。

(これも雑魚か。ただでさえ、我々には「御役目」があるというのに……、余計なものを持ち込まないでもらいたいものだな)

 風狼斎と圭吾達が帯びている「役目」は、鞍馬の上層部のみが知る極秘事項の一つだ。その役目の為に現に来たものの、日夜持ち込まれる妖変のおかげで、近頃は特に思うように進んでいない。

(これも……、今日は雑魚が多い……)

 他の宵闇でも対応できる妖変は「再検討」の札をつけて容赦なく差し戻し用の木箱に突っ込んでいく。定期的に回ってくる烏天狗が持って行くだろう。

 手際よく書簡を捌いていた手が、ピタリと止まった。

 書簡の隙間から現れた桃色の文に激しい殺意を覚える。

(また届いたか……)

 乱暴に開くと、甘ったるい香の臭いが鼻を突いた。

 嵐山の山守から、風狼斎に宛てた文だ。

 十中八九、真面目な内容ではない。

 それでも一応、軽く一読し――、クシャリと握り潰した。そのまま庭まで走り、千々に引き裂くなり足で穴を掘って埋める。それだけでは足りずに、土の上から殺意を込めてグリグリと踏みにじった。

 風狼斎が目撃すれば確実に眉をひそめるような行為だが、理由を知れば何も言わず頷いてくれるだろう。

(汚らわしい……! よりによって、あの御方に腐れた恋歌を送り付けるなどと……。反吐が出るわ……)

 視察先で山守が妖変に巻き込まれたのが発端だったと聞いている。

 偶然、近くを通った風狼斎が危機に気づき、妖獣を一蹴した後から文が届くようになった。噂によると、山守はそちら側の趣味があったらしく、あろうことか風狼斎に一目惚れしたのだという。

 居住用の屋敷のある山を管理する山守なので無碍にすることもできず、重要な話かもしれないからと、風狼斎は毎回目を通しては庭で火を焚いて燃やしている。

 近頃、文を燃やす背に憂鬱な霊気が漂っているのは、圭吾の気のせいではないだろう。

(おのれ……、惰弱な白塗りの麻呂眉が……、これがならば……、切り刻んで野獣の餌にしてくれるものを……)

 ここのところ、風狼斎は頻繁に出撃するようになった。

 きっと、恋文で溜まりに溜まった鬱憤を晴らしに行っているに違いない。

 主に心労をもたらす元凶など消えてもらいたいところだが、相手は山守だ。

 消すのはさすがに拙い。

(……いや、そうでもないか……)

 五月雨家ほどではないが、幼い頃から暗殺術も叩き込まれてきた。

 幸い、京の周りは深い山に囲まれている。少し飛べば海もあるし、凶悪な妖変もあちこちで起きている。

 死体処理など、いくらでも――。

 執務室に戻り、山守の日程を確認する。

 今夜は屋敷にいるようだ。

(……悪くないな……)

 風狼斎の信頼を得るまたとない機会だ。

 認めたくはないが、あの麿も天狼に連なる霊筋。風狼斎の為に散れるならば本望だろう。

(わが主の御心の平安の為、ひいては俺が班長の信を得る為、早々に消えてもらうとするか……。さらばだ、マロ)

 他の班員達も風狼斎が辟易しているのを知っている。

 同じことを考えていてもおかしくない。

 こうしている間にも寧々あたりが麻呂暗殺計画を練っているやも――。


 ――今宵、夜陰に乗じて殺るか……


「あれ? 圭吾だけか?」

 涼やかな水の気と共に聞き慣れた声がした。

 黒い水干を纏い、首元に白い布を巻き付けた少年が黒光りする箱を抱えて入ってきたところだった。

「戒様……」

 この鞍馬で数少ない、風狼斎と同等の宵闇にして、浄呪府の総指令役だ。

 浄呪府は貴船の霊域内に存在し、暴走した術の解除や精霊絡みの厄介事を行うことから、術を得意とする宵闇が集まる。浄化を行う専門部門「七瀬」とも連携していて、戒は術式の組み換えや解呪にかけては鞍馬きっての天才だ。この少年が鼻歌交じりで組んだ術式でさえ数百年は軽く力を保つ。

 戒と風狼斎はからの友人らしく、この詰所だけでなく、嵐山の屋敷にもしょっちゅう出入りしている。

 穏やかで、風狼斎とは異なる種類の人格者なのは認めるが、いつも浮かべている人懐こい笑顔の裏で何を考えているのか、今一つ見えない。圭吾の立場でさえも素性が伏せられている謎の多い人物でもある。

 主が親しくしていなければ、要注意人物と認識していただろう。

「……殺意と黒い念が部屋中に蔓延してるけど……、班のヤツと喧嘩でもしてるのか? 廊下にも真新しい殺気が……」

「何ら変わりありません。班長でしたら、先ほどお出かけになりましたが……」

「うわ、遅かったかあ……」

 戒は肩を落とし、箱を見た。

「ついでに奥羽に寄ってもらおうって思ったんだけど……、困ったな……」

「……班長は……、奥羽に行かれたのですか?」

 奥羽は何も問題ないが、その道中には太狼の里・刃守がある。

 鞍馬では「狼の霊筋の中でも御三家に連なる高位の狼が住まう里」などと評されているが、圭吾達からすれば、とんでもない曰く付きの地だ。それを抜きにしても、土地に太狼の気がべっとりと染み付いていて、どうにもいけ好かない。

「ああ、奥羽の手前だけどな」

 無邪気に頷く戒に、とてつもなく嫌な予感がした。

「今日は刃守の里に行ってるはずなんだ。気になることがあるから、直に話を聞きに行くって……、凄い顔してるけど大丈夫か?」

「問題……、ありません……」

 顔が強張っていたことに気づき、なんとか笑おうとして失敗する。

 かなりぎこちなく見えたのだろう。戒は心配そうに眉根を寄せた。

「また何にも言わないで飛び出していったのか……。行き先もわからないんじゃ、副長としては気が気じゃないよな……」

「ええ……、まあ……」

 戒にまで自分達の信頼関係を疑われたかもしれない……。

 そう思うと気が重くなった。

 副長だというのに行き先すら教えてもらっていないなどと――、寧々でなくとも圭吾に落ち度があると考えたくなるだろう。

「ふうむ、どうしたものかな……」

 何事か考え、戒は目の前まで来て木箱を差し出した。

「それじゃ、圭吾。悪いけど、代わりに頼めるか? 奥羽で厄介な妖変が起きてて霊薬と霊符が足りてないらしくてさ。早めに届けてやりたいんだけど、オレはもうすぐ近江の浄化に行かないといけないんだ。巻き込まれるかもしれないから、霊格が高い奴にしか頼めなくて……」

「お受けします」

 言葉途中で奪うように木箱を手にすると、戒は目を丸くしたが、すぐに笑った。

「助かるよ。奥羽だし、加勢はいらないと思うんだ。届けるだけでいいから」

「は。お任せください」

 部屋を出ていく背を見送る間にも、沸々と殺意が生まれた。

(刃守か……)

 領地ごと堕ちた、憐れな狼達が住まう里だ。

 風狼斎に従う形を取っているが、所詮は己の姿ばかりか、風狼斎の真の身分さえ見失った不忠の者達。よからぬことを考えていても不思議はない。

(よりによって単身で……、いったい何を考えておられるのだ……っ)

 幼い頃、教育係から聞いたことがある。

 刃守ははかりごとに長けた者が多く、知将を輩出してきた家柄。主君が刃守の領地に赴くことがあれば、警戒を怠るな。

 不穏な動きがあらば、それは叩き潰す好機。仕掛けられる前に暗殺れ、と。


 ――下らん策を弄しようものなら……、皆殺しにしてくれる……


 手首の水晶に箱を入れ、殺意も新たに部屋を後にした。

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