第18話 

“この地を守りし木霊達よ……、我が意に従え……”

 厳かな言霊と共に木刀から生じた碧の波動が細波のように広がった。

 碧の波動が触れた木々が息を吹き返したように色を取り戻し、瞬くうちに灰色の森は初夏の緑に染まり直した。

 頭上を指していた木刀が真正面へと振り下ろされた。

 森の奥へと碧光が伸び、何もない宙に巨大な亀裂が走る。

(目が……!?)

 水の中に沈んだように視界が歪み、景色がぐるりと回転した。

 目眩のような揺れが収まった後には、どこまでも果てなく続くように思えた森が消え、ぽっかりと開いた空間が広がった。

(まさか……、今まで俺が見ていたモノも……?)

 術に造り出された幻影だったというのだろうか。

 だとすると、ここは幻術で巧みに隠された、妖獣が人を近づけたくない場所。つまり、この妖変を引き起こした元凶がいる目的地――!

(既に到着していたのか……!)

 おそらく、光弾を撃った時に風狼斎は気づいたのだろう。

 臨戦態勢に入ったのも、目的地への到着を確信してのことだったに違いない。

(例の銀狐の里の跡地か……? それにしても……)

 霊獣が暮らしていた痕跡がない。

 森から切り取られたような草原には、家屋や井戸のようなものは見当たらず、代わりに石の柵が巡らされている。一つ一つに術式が組み込まれているらしく、彫られた呪がひとりでに蠢いている他に動くものはなく、不気味なほど静かだ。

 柵に切り取られた最奥の暗闇に目を凝らすと、ひっそりと佇む小屋ほどの大きさの祠がやたらと目に着いた。

やしろ……?)

 妖気の影響だろう。

 壁も屋根も半ば朽ちて灰色に染まっているが、出入り口の階段といい、形状といい、何かを祀る社のようだ。

 元は相当立派な本殿だったらしいことが、鮮やかな染料が残る屋根と丁寧な造りから伺える。

 ふと、歪んだ祠の扉の隙間から一筋の妖気が漂った。

 風が吹けば掻き消えてしまいそうな細い灰色の煙が蜘蛛の足のように広がったと同時に風狼斎が地を蹴った。

 八つに分裂して散った妖気が急激に膨らみ、着地した時には灰色の人影へと変わる。頭に羊のような角を持ち、複数の眼を持つ異形――、妖鬼だ。八体の妖鬼達は祠を守るように仁王立ちし、手にした大振りの刀を同時に構えた。

(八体を同時に生み出しただと!?)

 妖鬼の戦闘力は邪鬼の比ではない上に、体を作っているのは金属性の妖気だ。木属性の風狼斎には天敵と言える存在だ。

 ――加勢せねば……!

 未だに震えが消えない四肢を叱咤して立ち上がっても、振るった刀は簡単に太常に弾き返されるばかりでビクともしない。

 焦る圭吾を他所に、風狼斎は速度を緩めることなく駆けながら大きく木刀を薙いだ。碧に輝く巨大な風の刃が生み出され、妖気を焼き祓いながら吹き抜ける。

(碧刃……!)

 必ずと言っていいほど伝承や戦記で風狼斎が操る技だ。こんな状況でさえなければ、どれだけ感動したことだろう。

“散……!”

 低い呟きと共に八つに分かれた碧刃がさらに速度を速め、妖鬼に襲いかかった。

 碧刃に切り裂かれた鬼達の体は再生することなく分解され、風狼斎が通り抜ける時には一体も残らず消滅していた。

(馬鹿な……、一撃で……?)

 風狼斎は大抵、戦場に到着すると同時に、碧刃で前線の雑魚(書物に詳細は記載されていないが、おそらく護衛部隊と同等の強さだろう)を一掃する。さすがに誇張されているのだろうと思っていたが、あの威力ならば、班員の四人くらいは瞬殺できるかもしれない。

 祠の正面で、風狼斎は足を止めた。

「よう、派手に暴れてるな」

 古い知り合いがそこにいるように声をかけ、青年は静かに笑った。

「昨今の現に満ちた穢れは、アンタの責なんかじゃねェ……。無念はわかるが、自分の護り手に八つ当たりってのは感心できねェな……。ここらで幕引きにしねェか?」

 先ほど妖気を放出した扉が音を立てて揺れた。怒りに震えているように揺れは大きくなり、蹴破られたように内側から弾け飛んだ。否、祠そのものが破裂するように崩壊した。

 雨雲のような妖気の塊が四方八方に噴き出す中を、木片を撒き散らしながら灰色の何かが飛び出してくる。

 圭吾をして姿を認識できないほどの速さで距離を詰めた巨大な何かの前方で、土埃と妖気がもうもうと立ち昇った。

「な…………」

 そこにいたのは、全身に不気味な顔のような痣を持つ巨大な妖鬼だった。先ほどの八体の倍以上ある鬼は、自らの背丈と同じほどの巨大な鉈を振り下ろしていた。

「班長……!!」

 鉈が振り下ろされているのは、風狼斎が直前まで立っていた場所だ。

 立ち込める土埃と妖気で、風狼斎の姿ばかりか霊気すら見えない。

 ――いかん……!

 いくら風狼斎でも、あんなものを食らって無事なはずがない。

 太常の壁に両手を滑らせた。

 防御として使用した太常には、勾陣同様に封じ目がある。いくら風狼斎の霊符でも、基本的な構造は変わらないはず――、

(どこだ……!?)

 焦りながら意識を集中した指先に、僅かな綻びが触れた。

 迷うことなく刀を突き立てようとすると、警告するように太常が輝きを増した。

「待機命令を出したばかりなんだがな……。さっそく違反とは、いい度胸だな」

 どこか楽し気な声と共に碧光が走った。

 妖気が碧風に巻き上げられた後には、先ほどと同じ場所に佇む青年が現れた。

 妖鬼の手から伸びた巨大な鉈は、風狼斎の前髪に触れる手前で止まっている。

 ――な……に……?

 左手の木刀は下げられている。

 自らの背丈よりも大きな刃を止めていたのは、一枚の黄に輝く霊符だった。

「なかなか熱いじゃねェか、奎。副長としちゃ問題ありだが、部下としちゃ嫌いじゃねェぜ?」

 霊符が閃光を放ち、鬼の眼を焼いた。

 全身の顔が苦悶に歪む一瞬の間に、霊符は風狼斎の前に盾のように広がり、ゆらりと輝いた。

 生み出された無数の光の礫が妖鬼を容赦なく撃ち抜く。

 絶叫を響かせながら、全身を蜂の巣のように穴だらけにした鬼が体を分解させながら倒れていく。

(…………本当に……、俺達と同じ霊符を使っておられるのか……?)

 もはや別次元すぎて何をやっているのか、分析しようとも思わない。

 発動した盾の色から、おそらく勾陣の符の応用技だろうと推測できるくらいだ。

 軽々と妖鬼を蹴散らし、風狼斎は木刀を構えた。

 立ち込めていた妖気が碧風に祓われるにつれ、祠の残骸が露わになっていく。

 碧の瞳が見つめる先を追い、ゾッと冷たいものが腹の中を走った。

(まさか……、あれが妖獣の正体……、なのか……?)

 それは、あまりにも「妖獣」という名からかけ離れていて、この事態を引き起こした元凶として、これ以上なく納得できる姿をしていた。

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