第19話
瓦解した祠の中央部に石の祭壇が残っていた。
妖気で朽ちた祠とは対照的に、祭壇には傷一つ無く、一振りの剣が深々と突き刺さっている。剣が何かに押し上げられるように不規則に動くたびに、妖気が抜き身の刃を下から上へと伝い、宙へと這い出して灰色の霧へと変わっていく。
「ようやく会えたな、
静かだが厳かな声が耳に届いた。
「この地で、これだけの事態を引き起こせるヤツとなれば、アンタくらいだとは思っていたが……。正直、外れてほしかったぜ……」
霧が濃くなり、碧風と鬩ぎ合った。あちこちで碧の火花が飛び散る様は、さながら雷雲の中にいるようだ。
(あの久遠が……、妖剣化しただと……?)
久遠は銀狐の里で祀られていた霊剣だ。
強力な霊力を持ち、古来よりこの地の穢れを祓い続けてきた守護者のような存在だったはず。そんな剣が妖剣と化せば、その威力も影響力も妖獣の比ではなく、妖気に金属性が残っていたとしても不思議はないだろう。
(久遠が妖剣となったのならば、奥羽の精鋭が歯が立たず、この森の木々を支配できるのも道理だが……)
この社から流れ出ていた久遠の霊力は、森を満たし、奥羽にも及んでいた。
奥羽の天狗達は永い年月、大気や水を介して久遠の霊気を取り込み、霊筋に等しいほどの強い縁を持っていただろう。
久遠の妖気は功刀を始めとする奥羽の宵闇達にとっては即効性の猛毒に近く、古株の天狗ほど幻術は威力を発揮したに違いない。
祭壇の真横で祠の残骸が膨れ上がり、灰色の巨体が立ち上がった。
貫頭衣を纏っていた先ほどまでの鬼達と異なり、灰色の水干のような衣装を纏ったそれは、風狼斎の倍以上の背丈に八本の尾を生やし、頭からは耳のような二本の角が突き出ている。切り揃えられた灰色の前髪の下の狐の顔は骸骨のように痩せ細り、窪んだ眼だけが赤く輝き――、久遠の御霊が鬼となって具現化したのだろうが、まさに化け狐そのものだ。
(なんという姿だ……。あの名高い霊剣がこれほどまで穢れを溜め込んでいたとは……。しかし、奥羽は久遠の異変に気づかなかったのか……?)
久遠の刃は鏡のように磨かれている。定期的に手入れを行われていた証だ。剣に穢れが溜まり始めれば、誰かが気づくはずなのに――。
――この妖変は……、何かがおかしい……
この地を守り続けた霊剣の妖剣化。ただそれだけで済む話ではないような気がする。だが、これ以上に悪い事態などと考えられない。
(班長……)
碧風が翼のように吹き上げる背は巨大な山のように泰然と構えていて、この妖気にもまるで霞んでいない。今さらながら、自分が日頃から接していた存在が霊剣をも凌駕する霊格の持ち主なのだと実感する。
久遠を祭壇から引き抜き、鬼は剣を構えた。
祭壇と剣から妖気が噴き出し、視界が暗雲で覆われた刹那、巨大な影が動いた。
碧風が吹き抜け、引き裂かれていく霧の中から久遠が転がり出した。肩から腹にまで及ぶ傷から碧の閃光を放った鬼が、断末魔と共に霧散していく。
「そろそろか……」
独り言のように呟いた風狼斎の死角で、久遠が音もなく浮かび上がった。
「班……!」
警告半ばで鋼が撃ち合うような硬質な音が響く。
碧に輝く木刀が飛来した鋼鉄の剣を受け止めていた。生じた碧風が久遠を包み、放出される妖気を巻き上げていく。
「久遠……!」
碧の瞳が木刀に食らいついている妖剣を映した。
「この言霊が届いてるなら、オレの霊気に合わせろ! アンタなら、自力で祓えるはずだぜ……!」
剣から立ち昇る妖気が哭いているように小刻みに震えた。碧風が刃に入り込み、鋼が碧に染まっていく。
刃が碧に染まりきったのを見計らったかのように、風狼斎は木刀を退いた。
周囲で木々がざわめき、木の葉が舞い降りる。妖気に支配されていた先ほどと異なり、木々からは木霊達の息吹と意志が宿っている。
“封じよ、太常”
宙を舞う木の葉が一斉に橙に染まった。
形も大きさも異なる木の葉が太常の符へと変わって光を放ち、久遠を隔離していく。
「馬鹿な……、木の葉で……」
零れた自分の声は乾ききっていた。
木属性が霊符と相性が良いとされるのは、霊符が紙や木片を基盤として作られるからだ。霊符の作り手が木属性の者で構成されているのもその為で、強力な木属性の持ち主となると基盤となり得るものに直接霊気を込めることで、自在に符を作り出せると聞いたことがある。
ただし、正式な手順を踏まずに作り出された霊符は数段力が落ち、あくまで霊符の代用品に過ぎないはず――、
(あの威力……、通常の霊符と変わらんどころか、俺が使うよりも強いのでは……)
夕陽のような煌めきを最後に、橙の球体が収束した。
浮力を失った印玉を宙で受け止め、風狼斎は何も言わずに滑らかな表面を眺めた。
何かを確かめているようにも、内に封じられた久遠と言霊を交わしているようにも見えた。
(久遠を……、あれほどまで容易く……)
想像以上に圧倒的な力に、その背を呆然と眺めた。
息巻いて供を願い出ておきながら、何の役にも立てなかった。
それどころか、守るべき主に守られてしまった。
(俺ごときが……、あの御方をお守りする……? 俺ごときが、副長だと……?)
天狼分家筆頭の笹貫家の者であることと、護衛部隊員という身分くらいしか持っていない自分は、力も、度量も、何もかもが足りていない。「副長」はもちろん「護衛」としても、あまりにも分不相応だ。
『ひとまず、補佐役の副長を決めておきたいが……、お前達は階級も入隊時期も変わらねェようだからな……』
自己紹介を終えてすぐ、風狼斎は四人をぐるりと見まわした。
当代に限らず、風狼斎に天狼の護衛部隊が護衛についた話など聞いたことがない。
あの時の風狼斎は、初対面の圭吾達のことはもちろん、護衛部隊のことすら全く知らなかっただろう。当主から四人についての詳しい情報を得ている時間もなかったはずだ。
『…………天狼は家柄重視だったか。よし、じゃあ笹貫圭吾。お前がやってくれ。笹貫家は分家筆頭……、問題ねェだろ?』
暫し思案した後、風狼斎は圭吾を指名した。
劾修達他の三人は思うところはあっただろうが、天狼の価値基準を重んじての選出に異を唱えることはなかった。寧々だけは不満をぶつけるようになったが、圭吾が副長としての役目を果たしていないと判断してからのことだ。あの時点では家柄を理由としての選出は最善だっただろう。
だが、あれから随分と時間が過ぎた。
今ならば風狼斎は班員四人の性格も自分との相性も把握しているはず。あの時の判断を後悔していてもおかしくない。
(……頃合いなのかもしれん……)
役目はもちろん、「奴」が姿を現せば、副長が果たす役割は増大する。
その前に、風狼斎にとって最も相性が良く、柔軟な思考力を持つ者が副長に就くべきだ。少なくとも、自分のように分家の価値観で塗り固められた、融通の利かない石頭ではないだろう。
話を切り出そうと意を決し、尚も周りを囲む橙色の幕に気づく。
(……何故、まだ太常が……?)
妖変の元凶の久遠は鎮まったはずだ。
なのに、妖気は晴れるどころか薄雲のように再び森に満ち始めている。
印玉から漏れているのだろうかと風狼斎を見やると、木刀に手を触れ、祈るように瞼を閉ざしている。
(……久遠を鎮めた時よりも真剣な御様子だ……。いったい何を……?)
何かの術をかけているようにも見えるが、詠唱は聞こえてこないし、印も切っていない。だが、張りつめた気配が太常の中まで伝わり、妖変は未だ終わっていないのだと告げる。
(待て……、何か……、重要なことを忘れていないか……?)
この妖変を引き起こしたのは、妖剣と化した久遠で間違いないだろう。
その久遠を祀っていたのは、この地域にあった銀狐の里で、ここはその社の跡地に違いない。
その銀狐の里では、かつて人の世から流れ込んだ穢れが疫病のように霊狐達を蝕んだ為、彼らは山奥に里を移し、奥羽が里が担っていた役割を引き継いだ――。
(……里は久遠を祀る社を守っていた……。ならば、その久遠は社で何を…………?)
ゾクリと背筋が凍えた。
久遠はあの祭壇で、ただ祀られていたのではない。
あの強力な霊力で以て、この地を穢れから護り続けていたのだ。
(よくよく考えれば、穢れが流れ込んだのが原因で里を移転したのならば、何故、霊剣をこの地に残した……? 新たな里でこそ、穢れを祓う霊剣の力が必要なはずでは……?)
つまり、久遠をこの場から動かせない理由があったのだ。
そして、奥羽もまた久遠を動かさず、この霊域を維持して管理を引き継いでいた。それが意味するのは……。
――まさか……?
もしも、圭吾が今考えた通りだとすると、久遠でさえ元凶ではなく、この妖変の被害者だ。
風狼斎が言う「本体」は、久遠でさえ妖剣化させるほどとんでもないもので、奥羽でさえ見落とすほど意外なモノ――!
石の祭壇に亀裂が走った。
地面が落下するような地響きと共に、勢いよく噴き出した妖気が霊域の中に瞬くうちに充満した。
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