仮初の主従【朧守外伝 第一夜】

夜白祭里

第1話

 平安時代中期。京・桂川の岸辺。

 何もないくうを通った風が碧に染まった。頬を掠めていく風に霊気を感じ取り、圭吾は目を細めた。

(見つけた……!)

 どれだけ完璧に隔離したところで、結界を紡ぐ強大な霊気を隠しきることはできない。この現ならば、尚更だ。

 圭吾が着地するとほぼ同時に結界が解け、黒い衣に身を包んだ人物が姿を現した。

 結界に押し止められていた強大な霊気が吹き付け、条件反射で跪きそうになる体を必死にとどめる。

 対して、主は屋敷と変わらない様子で片手を上げた。

「おう、圭じゃねェか。どうかしたのか?」

 暢気な声に自分の眉が吊り上っていくのがわかった。

「今朝からお姿が見えない班長を探していたに決まっているでしょう! このような場で、何をやっておられるのです!?」

「何って……」

 橙に瞬く印玉を指先でクルクルと回しながら、風狼斎と称される青年は笑った。

 伝承に謳われる碧の瞳も霊気も、屋敷でくつろいでいる時と変わらず穏やかで、戦闘の直後というよりは、昼寝から起きたばかりのようだ。

「魔天狗殿から相談された妖獣を鎮めていたんだが……、机の上の書き置きを見なかったのか?」

 そこまで言い、風狼斎は何かに気づいたような顔をした。

「そういえば、行き先を書いてなかったかもな……。悪い、走り回らせたようだな」

「御為とあらば、地の果てだろうと探しましょう……。自分が申し上げているのは、そのような些細なことではございません」

 当の本人が全くわかっていない様子に、沸々と怒りが沸き上がった。

 今日こそは小言は言うまいと、小一時間ほど前に心に決めたが、軽く吹き飛ぶ。

「御自ら妖変に手を下されるなどと……、そのような雑務、貴方の御手を煩わせるようなことではないと何度申し上げれば……! 何のために我々がいるとお思いですか!?」

「オレがやろうが、お前達の誰かがやろうが、変わらねェよ。妖気が現に漏れるほうが一大事だろ?」

「班長はお優し過ぎるのです! 御身の安全以上に大事なことなどございません! 現など、お捨て置きください!」

 我ながら正論だと思ったが、主は頭痛を覚えたように眉間を押さえた。

「お前の立場はわかってるつもりだが……、オレとしては、その忠誠心の半分ほどを現への慈悲に変えてほしいんだがな……」

「……ご命令とあらば。断腸の思いですが、しかたございません」

「断腸の思いって、お前な……。こんなこと、命じるつもりなんてねェし、命じられたからやるもんじゃねェだろうが……」

 年若く、自分の立場を理解しているのか疑問だが、この青年は風狼斎。御三家の当主すら跪く存在だ。

 その身に万一の事があれば、自分の命ごときでは償いきれない。

「お立場をお考えください。そもそも、貴方が現に降りることが本来あってはならぬことです。まかり間違えて現の輩が班長の存在を軽々しく口にするようなことがあれば……」

 その様が浮かぶなり殺意が湧いた。

 風狼斎の名は、自分達でも畏れ多いというのに……。

 その価値を理解できない現の人間の口に上った挙げ句、下衆な噂になるなどと……。

「なんと……、なんと、汚らわしい……! 御名を口に出した者は残らず、この手で集落諸共、老若男女問わず八つ裂きにしてくれましょう……!」

「絶対にやるな。素で妖獣より凶悪なこと言ってるんじゃねェ……。ほら、仕事だ。こいつを頼む」

 深々と溜息を吐き、主は手にしていた球体を放り投げた。

 反射的に受け取った鮮やかな橙色の球に眼を奪われる。

(お見事だ……)

 妖獣を霊符だけで封じるには、高い霊格だけでなく、霊符を操る感性も必要だ。

 強者が集まる鞍馬といえど、これをできる者はこの青年と大天狗くらいだろう。

「詰所の書簡の片づけも任せていいか? 急ぎの出撃依頼があれば適当に班の中で振り分けてくれ。お前が行ってもいいぜ」

「畏まりました」

「ちょっとばかり出かけてくる。ただの散歩だ。供はいらねェ」

「は。お気をつけて……」

 何気なく歩いていく背に違和感が襲った。

 風狼斎の周りに風が集まっている。ただの散歩ならば、そよ風くらいで足りるはず。

 あれだけの風が集まるということは、かなりの長距離移動――、

「お待ちください! 京の外へ出るおつもりですか!?」

「お、鋭いじゃねェか。よくわかったな」

 楽しそうに振り返った風狼斎の周りで風が碧に染まった。

 伝承の一頁を目にできた感動を押し込め、詰め寄った。

「どちらへ向かわれるのです!? せめて供を……!」

「逢魔が刻には戻る。捜索は無用だ」

 言葉が耳に届いた時には、碧風と共に主の姿は消えていた。

 ――またか……!

 印玉を握り締めた。

 この現で風狼斎に仕えてから最初に知った、最大の悪癖だ。

 風狼斎は気まぐれにフラリと風に乗り、供もつけずにどこかへ行ってしまう。

 以前は追いかけていたが、すぐに諦めた。

 「風狼斎」の名が示す通り、あの青年が風を操る力は桁が違う。追って上空へ駆け上がった時には跡形もなく姿を消し、向かった方向さえ悟らせない。

(戻るか……)

 あの風量では、相当遠くへ出掛けただろう。西へ行ったのか東へ行ったのかもわからないのでは、追えるはずがない。

 それに、主の帰還までに仕事を片付けなければならない。

 釈然としない気持ちのまま、風を呼んだ。

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