第7話 

 奥羽へと向かう山道で圭吾は足を止めた。

 行く手には鬱蒼とした森が広がるばかり。一向に中門へ続く入り口が見えてこない。

(道は合っているはずだが……)

 いつも通る玉響側の門も武蔵国側の南門も閉鎖されていたから反対側の中門に回ったのだが、どうにも様子がおかしい。

 奥羽には何度も来ているし、中門から入ったことも一度や二度ではない。この付近は結界が複雑に入り組んでいるとはいえ、道に迷うとは考えにくい。

(…………妙な気配だ……)

 森の中がやけに静かだ。

 感覚を澄ましても小鳥の囀り一つ聞こえなければ、木々に宿る木霊達も怯えたように鳴りを潜めている。

(「厄介」な妖変と言っていたか……)

 どうでもよかったので深く考えていなかったが、この時期に奥羽が霊薬や霊符の補給を依頼してくるなどと、かなりの異常事態だ。

(……どのような事態だろうと、俺の知ったことではないな。さっさと用を済ませるとするか……)

 森を出て大きく迂回すれば、奥羽の山守の元へ直通で行ける抜け道がある。

 通常の宵闇は存在を知らされてさえいないが、「風狼斎直属の部下」という立場から、班員は場所を教えられ、通行証を与えられている。この緊急事態に使ったところで問題ないだろう。

 上空へ出ようと高めた霊気を、冷たい霧が遮った。視界を白が覆ってゆく。

(霊域だと?)

 変わりゆく景色に大きな勘違いをしていたことに気づく。

「なるほど……」

 どうやら、既に妖変の真っ只中に入り込んでいたらしい。灰色に沈んでゆく霧に術の匂いが混じる。

「いいだろう……。ちょうど霊気が疼いていたところだ……」

 霊格と存在は尊敬するが、まるで価値観が合わない仮の主君。にいた時から疎ましいだけの班員達。

 全く手掛かりのない探し人を求めて当てもなく飛び回る不毛な役目。

 終わりの見えない現状への苛立ちも、そろそろ限界だ。手応えのある妖獣を切り刻めば、少しは気分が晴れるかもしれない。

 冷たい笑みを浮かべ、奥へと進んだ。




 頬に濁った気が触れた。

(この気配は……)

 立ち止まって空を見上げると、隣を歩く弥生が不思議そうな顔をした。

「どうかなさいましたか……?」

「少し……、待ってくれ」

 開いた右掌に枝の隙間から吹き込んだ風が集まり、水晶玉のように渦巻いた。

「それは……」

上空うえを吹いてた風を呼んだだけだ。少しばかり不穏な匂いがしたんでな」

 球状に回る風の中に灰色が一筋、色のついた糸のように混じっている。妖気だ。

「……妖変が起きているな。すぐ近くってわけじゃなさそうだが……」

「妖変……、ですか……」

 弥生は表情を硬くした。

 霊獣の里を脅かすものとして、最も恐れられているのが妖変だ。刃守には宵闇と同等の戦闘力を持つとされる武術士がいるが、妖獣が恐ろしい存在であることは変わらない。

「この風向きだと奥羽……、山の向こう側だな。こっちまで妖獣が攻めてくることはないと思うが……」

 木霊が微弱な霊気を伝えた。近くに何者かが潜んでいる。

“木霊よ……、侵入者を暴け”

 木霊達が一斉にざわめいた。森の出入り口に近い木の根元で黄色い光が弾け飛び、黒い人影が姿を現す。

(血の臭い……!)

 人影は木の根元に寄りかかったまま動かない。漂ってくる微かな妖気は先ほどの風と無関係ではないだろう。

「ここにいてくれ」

 近づいても人影は身動き一つしない。脳裏を掠めた最悪の状況を振り払いながら、数歩の距離まで接近する。

(こいつは……)

 奥羽の宵闇の衣装を纏った少年が木にもたれ掛かり、ぐったりとしていた。肩から腹にまで届く大きな刀傷から妖気が煙のように立ち上り、地面に血溜まりができている。霊格と霊気の質を見る限り、かなり若い宵闇だ。

「おい、聞こえるか!? しっかりしろ!」

 屈みこんで顔を覗き込む。

 瞼を閉ざし、口の端から血を流した蒼白の少年は全く反応しない。だが、かろうじて息がある。

「風狼斎様!」

 追いついてきた弥生が息を呑んだ。

野枝のえ殿……!?」

「知り合いか?」

「刃守に縁のある貴狼の……、奥羽の宵闇殿です。使いとして、よく里に……」

「霊体はまだ妖気に侵されていない。助かるだろう」

 霊符を取り出すなり弥生が慌てた顔をした。

「そ、そのようなことは私が……! 御手が汚れます……!」

「構わねェよ。死にかけてるヤツがいる時くらい、身分は忘れろ」

 六合の符に天一が重なり、傷口の真ん中に張り付いた。青く光る霊符の下で妖気が中和され、傷が塞がっていく。

「あれほどの深手が……、こんなに容易く……」

「妖気を抜いて傷を塞いだだけだ。続きを頼めるか?」

「は、はい! お任せください!」

 弥生は水晶の首飾りから火の斗の符と霊薬を取り出した。

 姫君とは思えない慣れた手つきで霊符を補強し、傷口に霊薬を塗った布を巻いていく。薬師としても優秀だ。

(奥羽で妖変なのはわかるが、何故、刃守に……?)

 蒼白になった手が何かを握り締めているのに気づき、抜き取った。皺だらけになったそれは霊気が半ば込められた言伝だった。

(出撃依頼だと……?)

 鞍馬に宛てられたもののようだ。奥羽が出撃依頼を出すこと自体が既に異常だが、わざわざ離れた刃守まで来て飛ばさなければならないなどと……。

 弥生は草の隙間から同じような紙を手早く集め、差し出した。

「こちらを。いずれも鞍馬に宛てた言伝のようです」

「随分と多いな……」

 霊薬の依頼と出撃依頼と。同じ内容が何通もある。朦朧とする意識で鞍馬に言伝を送ろうとして何度も失敗したのだろう。

「……もしや、奥羽が劣勢に……?」

「霊山の事情だ、って言いたいところだが……、刃守に危険が及びかねないんじゃ、隠すべきじゃねェな……。アンタの考え通りさ」

 吹き抜けていく風に眼を凝らすと、先程よりも灰色が増している。霊体を害さない程度には薄まっているようだが、こんな場所にまで届くということは、現場はとんでもない濃度だろう。

「妖変への備えはどうなっている?」

「この森と里の外堀に妖気を断つ結界が張られております。霊術師に強化を指示しましょう。野枝殿を里にお連れしても?」

「頼む。そいつにもオレのことは伏せてくれ。何かと面倒な立場でな」

「心得ております。風狼斎様のことは、私と甲矢だけの胸の内に……」

 弥生はこちらを見上げた。

「行かれるのですか?」

「すぐそこで味方が苦戦してるってのに、放っておくわけにいかねェからな。一暴れしてくるさ」

 弥生は居住まいを正した。

 若草色の瞳が真っ直ぐに見つめる。

「ご武運、お祈りしております」

「ああ……、またな」

 軽く地を蹴った。

 木々の隙間を縫って樹上に上がり、さらにくうを蹴って雲と同じ高さまで一気に駆け上がる。北から吹いてくる冷風が、はっきりと異変を伝えた。

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