第三学年

第27話 ここで会ったが三年目

 時はすぎ、秋の芽の月。

 新学期の前夜に、私は帰寮した。

 寮の部屋の中、久しぶりに顔を合わせたパトリツィアとカトリナは、私のラムール土産を見て、目を輝かせている。


「これがラムールの既製服プレタポルテ?」

「私、はじめて見たわ。噂には聞いていたけれど、ラムールの既製服プレタポルテ高級仕立服オートクチュールと見紛うほどの仕上がりなのね」


 糸一綛ひとかせ、布地一巻きを生産するにも手間暇のかかる現代において、貴族にとってのとは、仕立て屋にオーダーメイドで注文することを意味する。家の威信をかけて華美に着飾ることに重きを置くため、パーツの一つ一つに対するこだわりも強い。

 ただ、庶民の場合は、買った布地で自ら服に作り変えるか、その労を惜しんで既製服を買うかのどちらかで、貴族の市場よりも、既製服の衣類産業は一般的になりつつある。

 そのため、貴族のあいだでは、既製服は“庶民の服”というイメージが強かった。

 しかし、ラムールはリーベと違い、貴族向けの既製服のブランドも活発で、仕立てまでに時間のかかるオーダーメイドではなく、出来合いのものを買うことも珍しくないのだという。

 ラムールのそれは、いつしか近隣諸国のあいだで既製服プレタポルテと呼ばれるようになり、貴族階級を中心に人気を博した。


「ラムールでは装飾よりも生地で遊ぶそうよ」荷解きをしながら私は二人に言う。「発色のよい生地に純白のレースを重ねたり、光沢の違う生地で質感に差を出したり、とても上品で気に入ったの……貴女たちも気に入ってくれるといいんだけど」


 らしくもなく尻窄みになっていく私に気づかず、パトリツィアとカトリナは「もちろん気に入ったわ!」と揃って返した。


「夏休みのあいだにラムールへ行っていただけでも驚きだったのに、まさか私たちにこんな素敵な贈り物をくれるなんて! ありがとう、プリマヴィーラ」

「私もありがとう。ねえ、次の休みにはこれを着て、三人でオペラを見に行かない? ラムールの有名な歌手が来てるみたいなの!」


 思ったよりも二人が喜んでくれたようで、私は静かに安堵した。

 機嫌よく鏡の前でドレスをあてているカトリナに、私は「いいわね」と返した。そして、あることを思い出し、言葉を続ける。


「そのラムールの歌手は、おそらくガランサシャ・フォン・ボースハイトが招いた方よ」

「え、ボースハイト嬢が?」

「彼女も使節団の一人だったの。たくさんの音楽家と交流があるようで、うち何人かとはすでにリーベでの公演も計画していたようよ」

「卒業して、いつ婚姻するかという時期に、あの方、そんなことをなさっているの?」

「なんというか、相変わらず、並々ならないひとね」


 卒業したにもかかわらず、噂に事欠かない人間だ。

 ガランサシャはリーベに多くの音楽家を勧誘していたようだけれど、あの話はどうなっているのだろう。


「そういえば、二人とも」パトリツィアがにやりと微笑む。「今年の監督生に誰が選ばれたのか、もう聞いた?」


 私とカトリナは顔を見合わせたのち、パトリツィアに「もちろん」と笑み返す。

 入学してから三年目の新学期を迎えた学び舎では、大きなニュースが三つあった。

 一つ目は、監督生が決まったことだ。

 この学び舎では、三年次を迎えると、模範となる生徒には、生徒全体を監督する役割が与えられる。一般生徒よりも権限を持っており、かつてはあのクシェル・フォン・ブルーメンガルテンなどが任命されていた。


「アウフムッシェル卿とミットライト嬢は順当だったわね」

「この二人は予想どおりよ。私たちの代の首席と次席だもの」


 監督生は、その代の成績優秀者や、教師からの覚えのめでたい者が選ばれる。

 今年は、フィデリオを含む男子生徒二名と、ディアナを含む女子生徒二名の、全四名が選ばれた。

 明日には、彼や彼女らの胸元に、監督生の証である白銀シルバーのバッジが煌めいているはずだ。


「でも、私の予想では、ブルーメンブラット嬢も監督生に選ばれるはずだったのよ」

「リッテにもそういう話は来たみたい。ただ、王太子妃になるための勉強が忙しいみたいで、辞退したと聞いたわ」

「それはしょうがないわね。だとしても、ゲルダ・リーゼンフェルトなんてびっくりよ。彼女よりもふさわしいひとはいたと思うもの」

「パトリツィアは、ゾフィア・フローン嬢を推していたものね。たしかにフローン嬢のほうが成績もいいし、しっかりした監督生になりそうだけど」

「でしょ? 私、リーゼンフェルト嬢とは家庭教師が同じだから、昔から知ってるの。きっと融通の効かない監督生になるに決まってる」

「私はそれより、カミル・ロットナー卿が監督生になったほうが問題だと思うわ。プリマヴィーラもそう思わない?」

「あの方に比べたら、アーノルド卿のほうがよっぽどよね」


 私の言葉に、パトリツィアとカトリナは「同感」と頷いた。

 このまま話しこむ予感がしたので、テーブルの椅子に腰かけるパトリツィアの隣に、私も座る。すると、ドレスをベッドの上に置いたカトリナも椅子についた。私たちは三人で顔を突き合わせる。


「そろそろ新入生の入学式は終わったかしら」

「もう部屋に帰ってるんじゃない?」

「男子寮はいまごろ大変でしょうね。ベルトラント殿下のときのことを思い出すわ」


 二つ目のニュースは、第二王子アインハルト殿下が入学されたことだ。

 アインハルト殿下は、兄君のベルトラント殿下よりも色素の薄い青の瞳をお持ちで、その研ぎ澄まされた色は、冷たい灰色にも柔らかな銀色にも見えるそうだ。その瞳を見るために入学式を見物しに行った令嬢もいるのだとか。


「王族の方と共同生活なんて……誉れ高いような、畏れ多いような。私、心底思うもの。ヴィルヘルミナ王女が五つも年下でよかったなって」

「就学時期は絶対に被らないものね」

「ベルトラント殿下のときは、殿下のそばに置いても問題のないような生徒が揃うよう、学校側もルームメイトを激選したっていうし。今回も、アインハルト殿下の部屋には、最高の布陣が揃っているはずよ」


 ちなみに、ベルトラント殿下のの一人は、我らがアーノルド・フォン・ギュンターだ。腐っても侯爵家の子息なだけはある。また、あの毒にも薬にもならない性格が評価されたのだと、私は思っている。

 久々に会った私たちは話題に事欠かなかった。私のラムールでの話。パトリツィアが父から馬を贈られた話。カトリナに縁談が来ている話。パトリツィアがお茶を淹れたものだから、私たちの口の滑りはさらによくなって、話題は次々と移ろっていく。

 けれど、どんなに盛りあがろうとも、ある話題に関しては——私を気遣ってか——二人は決して口にしようとはしなかった。

 ただ、学び舎のあちこちでは、すでにその噂でもちきりで、誰も彼もが囁いている事実だ。

 三つ目のニュース。

 私のかつての親友、クラウディアが一年ぶりに復学する。






 クラウディア・フォルトナー。

 王国屈指の商団と製糸工場を抱える、フォルトナー伯爵家の一人娘だ。

 気品あるシニヨンにした美しい黒髪ブルネットに、高貴で涼しげな瞳を持ち、誰に対しても柔和で社交的で——その実、シニカルで性悪な、最高の友人だった。

 彼女は裏表のあるひとだったけれど、私はそんな彼女を好ましく思っていたし、私にだけ見せてくれる冷徹な素顔に、私も心を許した。

 そんな、のときから唯一無二だと思っていた、私の友人だったはずの彼女は、の春に、私を裏切ったのだ。

——次は上手く殺る。

 そう言って彼女が去ったのは、一年次の春のことだった。


「……あら、あそこ見て」


 朝、食堂で朝食を済ませた私たちは、教室に向かうために廊下を歩いていた。

 そのとき、カトリナが窓の外を見ながら言ったのだ。私とパトリツィアも視線を遣る。


「ベルトラント殿下とアインハルト殿下ね」

「お二人揃って、仲がよろしいのね」

「そっちじゃないわ」カトリナがムッとした顔で返す。「お二方を木陰から眺めてるひとたちがいるでしょう? たぶん下級生よ」


 たしかに、殿下たちから少し離れたところで、初々しい顔の令嬢たちが、そっと彼らを眺めていた。色めき立つ様子から、一年生だと想像できた。


「一年生ってやっぱりまだ子供というか、品がないわね。あんなふうに騒いでは、殿下たちに失礼でしょう」

「カトリナ」パトリツィアが目を眇める。「貴女、嫌な上級生になるわね」

「なによ。だってそうでしょ?」

「貴女が一年生のころだって、ベルトラント殿下に騒いでたじゃない。誰もが通る道よ」

「ええ? そうかしら。私にはもう少し慎みがあったと思うけど」

「私の記憶では、殿下の襟元の刺繍を近くで見るにはどうしたらいいとかなんとか、そんなことを言っていたわ」

「プリマヴィーラまで! すれ違いざまにこっそり見るのと、あんなふうに追いかけ回すのとじゃ、全然違うじゃないの」


 そうやって、私たちが立ち止まって話していると、背後から声をかけられる。


「やあ、カトリナ」


 少しだけ緊張したような、けれど穏やかな声に、カトリナは首だけで振り返った。

 私とパトリツィアも声のあったほうを見遣る。

 同級生のレオン・リーデルシュタインだった。

 その背後には、フィデリオとその友人たちいて、彼らも私たちと同じように、食堂から出てきたところらしい。

 レオン・リーデルシュタインに声をかけられたカトリナは、目を膨らませたのち、控えめな微笑みで「ごきげんよう」と迎える。


「いい朝だね」

「そうね。食事を終えたところ?」

「そうなんだ。今日のデザートはオレンジがいいと思うよ。よく冷えてあって、美味しかったから」

「あら、残念ね。私ももう済ませてしまったの」

「えっ。あ、そうだよね。ごめん」


 二人の会話はぎこちなかったけれど、どことなくふわふわとした空気が漂っている。

 不思議に思っている私に、パトリツィアがこっそりと「ほら、カトリナの」と耳打ちしてくれた。そこで私は、リーデルシュタイン伯爵家からカトリナに縁談が来ているという話を思い出す。

 私は再び二人のほうへ視線を遣った。

 カトリナの縁談相手、レオン・リーデルシュタインは、赤茶けた髪を持つ令息だった。たしかフィデリオのルームメイトだったはず。ただ、アーノルドとよくいるのを見かけるため、フィデリオの友人というよりは、彼の友人という印象が強い。

 ちなみに、背後に控える令息二人も、フィデリオのルームメイトだった。マイヤー家とジーベル家の令息である。

 彼らも私たちと同じように、縁談の来ている二人の様子を、遠巻きに眺めていた。

 こういう光景も、今年は増えるのだろう。


「あの、カトリナ」リーデルシュタインが緊張したように告げる。「もしよかったらなんだけど、次の休みにオペラを観に行かない? ラムールから有名な歌手が来るみたいで……君と一緒に行けたらなって」


 どこかで聞いたことのある話だった。

 カトリナもそう思ったようで、肩を強張らせて「ええっと」と口ごもった。

 そこへ、すかさずパトリツィアが言う。


「あら、素敵じゃない。カトリナ、ちょうどそのオペラを観に行きたいと言っていたわよね。せっかくだし、リーデルシュタイン卿と行ってらっしゃいな」


 え? なんで?

 微笑みを浮かべながらも、私の心中は瞬く間に荒れた。

 次の休みは、私の贈ったドレスを着て、三人でオペラに行く約束をしていたのに。私たちの予定のほうが先約だったのに。何故それを崩してまで、この男に合わせなくてはいけないの?

 カトリナは「でも、」と伺うようにこちらを振り返る。よっぽど「私たちと行くものね?」と言ってやりたくなったけれど、カトリナの表情を見て、その言葉も引っこむ。

 おまけに、隣のパトリツィアが軽く肘打ちしてくる。私も頷かざるを得なくなった。


「そうね。それがいいと思うわ」


 よくない。

 そんな私の不機嫌の乗った、調律の乱れた声音は、聞く者が聞けばそれを察せられた——フィデリオは小さく失笑していた——ものだったけれど、カトリナはそれに気づくことなく、リーデルシュタインに振り返って「ぜひ」と答える。

 カトリナの返答を聞き、リーベルシュタインは見るからに安堵したような、そして嬉しそうな表情をした。それにカトリナもはにかむ。どこからどう見ても、お互いを意識しあう、瑞々しい二人だった。

 そこから二人の話が弾んだので、フィデリオたちがこちらへ近づいてくる。

 いけ好かない笑みを浮かべたフィデリオが、私に話しかけた。


「君の友人を借りて悪いな、ヴィーラ」

「お気になさらず」

「君がね」


 周囲の目がなければ、その鳩尾に蹴りを入れているところだった。そんな衝動を抑えるために、私は奥歯を噛み締める。


「おはようございます」そこで、パトリツィアがフィデリオたちに挨拶をする。「アウフムッシェル卿、監督生就任、おめでとうございます」

「ああ。どうも」

「リンケ嬢、アウフムッシェル嬢、ご機嫌麗しゅう」フィデリオの背後から、ジーベル卿が身を乗りだす。「お二人とも、春ぶりですね。よい休暇をすごせましたか?」


 シャリオット・ジーベル。

 羽根箒のような長い睫毛と泣きぼくろが優美な、ジーベル子爵家の令息だ。

 私はほとんど話したことはないけれど、どうやら気さくな男らしい。


「ええ。とても充実した夏休みでしたわ」

「ジーベル卿はいかがでしたか?」

「俺は北の別荘で涼んでいました。船の上から湖を楽しんだのですが、しばらくは船酔いが抜けませんでしたよ」

「あら」

「実は、アルヴィムも一緒に船に乗ったんです。アルヴィム、君は船も平気そうだったね」

「ま、初めて馬に乗ったときよりはね」


 そう答えたのは、アルヴィム・フォン・マイヤーだ。

 あのマイヤー侯爵家の三男坊である。

 マイヤー侯爵家の人間とはいえ、二人の兄の影に隠れる末弟であるため、印象は薄い。彼自身も必要以上に目立とうとせず、先の王太子妃争いにおいてもまったくの無関心だった。

 記憶にあるとするなら、経営学の学年末課題で、メヒティルデ・グラーツとパートナーだったことくらい。それにしても、特筆するような成績ではなかった。

 そんなマイヤー卿が、ちらと私を見た。


「プリマヴィーラ嬢は夏休みのあいだ、お忙しかったようですね」

「ええ、そうですね」

「ラムールへ遊学に行ったのでしょう?」

「ご存知でしたか」

「手紙でもそうおっしゃっていましたからね」


 しまった。夏のあいだに手紙を寄越してきたやつらの一人だったか。

 ジギタリウス曰く、私はらしく、パーティーのあとしばらくは、多くの手紙を頂戴した。その全てに簡単な返事をしつつ、「ラムールに行くため今後は文通もできません」とさりげなく伝えることで、やりとりを終わらせている。

 適当に返事をしたせいで、誰から手紙が来たのか、ほとんど忘れている。

 私はそれを悟らせないよう、「ああ、そうでしたね」と思い出したふりをした。

 そこで、パトリツィアが顔を綻ばせる。


「マイヤー卿も、彼女と文を交わしているのですね! 彼女の手紙って、とても華やかで細工に富んでいますよね。私は来るたびに感動してるんです……この前は鮮やかな浜梨の花を添えてくれたわよね、プリマヴィーラ。まるで西海岸の細波が聞こえてくるようだったわ」


 再びしまった。

 嬉しそうに私に微笑みかけるパトリツィアは、そこまで手の込んだ手紙を送られているのは自分たちだけなのだと知らない。

 添えた浜梨だって、その手に届くまで花の色が失われないように、ぎりぎりまで水につけておいたものを直前で文に差すよう、使いに命じてある。

 一方で、マイヤーに送った文は、当たり障りのない便箋に、使い古しのインクとペンで、半分以上を定型文で埋めた、面白味の欠片もないものだった。

 そういう手を抜いたものだったと、パトリツィアの発言でばれてしまった。

 しかし、マイヤー卿は機嫌を損ねる素振りも見せず、穏やかに「そうですね」と流し、パトリツィアに話を合わせていた。非常に雅量のある男だった。


「ねえねえ、パトリツィア、プリマヴィーラ」


 そこで、カトリナが近づいてくる。

 その隣にはリーデルシュタインもいた。


「レオンと話していたんだけどね、もしよかったら、あのオペラ、みんなで観に行かない?」

「どうかな?」リーデルシュタインもルームメイトたちを見回す。「リンケ嬢やアウフムッシェル嬢も興味があったみたいで、せっかくなら一緒に行こうって話になったんだ。お前たちもどう?」


 リーデルシュタインの提案に「俺たちまで?」とジーベルが目を眇める。

 パトリツィアもカトリナに耳打ちした。


「いいの? 二人きりじゃなくて」

「いいのよ。その……まだ二人だと気まずくて」


 カトリナは頬を赤らめながらも、本心からそう言っているようだった。

 あくまでも縁談が持ちあがっているだけで、まだ婚約したわけではないし、最近までただの同級生だったのに、いきなり二人きりになっても居心地が悪いのかもしれない。

 カトリナのためにと三人でのオペラを諦めたパトリツィアは、「貴女がいいなら」と頷いている。その様子を見て、ジーベルやマイヤーも賛成しはじめた。

 しかし、私は悩んだ。三人で行くならまだしも、よく知りもしない令息たちと出かけて、果たして楽しいかしら。

 内心で苦い思いをしているのを悟ってか、フィデリオが「君も行こうよ」と私を誘う。


「君、馬に乗れないからって、学校にいるときはあまり外出しないだろ? オペラだって滅多に見ないし、いい機会じゃないか。みんなで観に行くのだって楽しいよ」


 フィデリオがそのように言うので、かえって断りづらくなってしまった。


「……そうね。お言葉に甘えて」


 私の返事に、カトリナとパトリツィアは嬉しそうに「あのドレスを着ていくから!」と言ってくれたので、結果的にはよかったのかもしれない。

 そのまま一緒に教室へ向かおうとするのを、私は「お手洗いに行くから」と別れた。

 入学して三年目になり、なんとなくだけれど、以前とは違う空気を感じる。学び舎での生活も折り返しとなり、自分の将来について考える機会が増えるからだろうか。

 なんだか覚束ない気分になりながら、私は手洗い場の戸を開ける。

 クラウディアがいた。


「あら」


 驚いて固まった私に、クラウディア目を丸めながらこぼした。

 久しぶりに会う彼女は、髪を切っていた。耳元を隠すばかりの、襟足の短いショートヘアで、気高い首筋を晒していた。睫毛に縁取られた爽やかな色合いの瞳が、ややあって、眩しげに細められる。


「久しぶりね、プリマヴィーラ」


 突然出くわしたというのに、平静に戻るのは彼女のほうが早かった。

 私たちしかいない静かな空間に、クラウディアの声が落ちる。 

 出遅れた私は、クラウディアを伺う後手へと回ってしまう。


「……あのときは本当にごめんなさい」クラウディアは切なげに告げる。「去年の春、私のせいで、貴女がブルーメンブラット嬢を殺そうとした、なんて噂が回ってしまったじゃない? 浅慮だったとずっと後悔していたのよ。貴女の気持ちを考えて、復学するかどうか悩んだのだけれど……ずっとおめおめ逃げ隠れるより、面と向かうほうが誠実だと思ったのよ。どうかこれからも、とはとても言えないけれど、私の謝罪を聞き入れてくれると嬉しいわ」


 そのように話すクラウディアは、私を陥れようとしたようには到底思えない、善人の顔をしている。申し訳なさを募らせた表情でありながらも、関係の修復を試みているような、社交人としてのおとなびた振る舞い。

 そういう彼女の清涼な振る舞いは、己の本音を晒さない、晒す価値のない、取るに足らない相手を前にしたときの、余所行きの態度だった。

 腹の底が如何様なものか、決して相手に悟らせない、上辺だけの顔を、私に見せている。


「……相変わらず上手いものね、クラウディア」


 やっと私は目を眇め、せせら笑うように突っ返した。肩にかかった髪を払いながら、クラウディアを見据える。

 クラウディアの顔に、酷薄な笑みが乗る。


「相変わらずなのはお互いさまでしょう」


 クラウディアは腕を組み、首を傾げた。

 さっきまでの白々しい会話など蹴飛ばすように、クラウディアは鼻で笑った。


「まずは貴女を社会的に痛めつけてから殺してやろうと思ったのだけれど……貴女、私の出る幕もないほど、この一年でいろいろとしでかしたようね。元からろくでもなかった評判がさらに地に落ちていて、正直、これ以上手の施しようがないくらいだわ。よくもまあ、そこまで人生の下手を打てるものよね。こんな無様な死に体を嬲ったところで、やり甲斐がないんだけど?」


 散々な言い様だったけれど、私の外聞は言うまでもなく散々なものだ。

 しかし、なにも言い返さない私ではない。

 皮肉るように眉を下げ、クラウディアへ言う。


「そもそも貴女の出られる幕なんてあったのね。一年もどこに雲隠れしていたの? もしかして、ずっと邸に籠っていたのかしら。娘の失態に、フォルトナー伯爵もずいぶん落胆されていたようだし。本当に復学なんかして大丈夫なの? 恥の上塗りにならないかって、私、とても心配だわ」

「恥晒しの貴女に心配されるほど落ちぶれちゃいないわよ。貴女こそ、ブルーメンブラット辺境伯も悲しんだんじゃない? 冬の後夜祭では、フェアリッテ嬢の髪を切り落とす蛮行をしでかしたんですってね」

「ただの姉妹喧嘩よ。赤の他人の貴女に口を出される話ではないわ。引き篭もりのひとって、他人ひとの噂にだけは敏感で、見苦しいったらないわね」

「自分の噂に鈍感な貴女よりはよっぽどでしょ。私が貴女の身なら生きていけないけれど、賎民の娘である貴女なら、その生き汚なさでどうとでもなるのかしら」

「そうそう、クラウディア、この一年でフィデリオから手紙は届いたの?」


 私の言葉に、これまで流暢だったクラウディアは閉口した。その様子に、私は笑みを深める。

 ここ一年、フィデリオも乳母も、私を気遣うあまり、クラウディアの名前を出すことすら憚った。そんなフィデリオが私に隠れてクラウディアに手紙を出すとは考えられない。


「きっと貴女のことを心配していたんじゃない? 懇意にしていた令嬢が社交界からいなくなったんだもの。普通は気が気じゃないわよね」


 クラウディアの瞳に熱が乗る。氷のように涼しげな虹彩は溶け、深い怒りと憎悪を滲ませた。

 フィデリオに恋をしていたクラウディアは、逆恨みで私を罠に嵌めたけれど——その情熱はいまも健在らしい。

 その情熱をまんまと煽られたクラウディアは、瞳に青い炎を灯す。


「本当に憎たらしい女」


 クラウディアはこちらへ歩み寄ってきたかと思えば、私を通りすぎる。手洗い場の戸に手をかけて、廊下へと出た。

 そして、振り返り、形だけの笑みを作る。


「先に教室に戻っているわね、プリマヴィーラ。貴女も授業に遅れないようにしなさい」


 そう言って、クラウディアは去っていく。

 私の三年目の新学期は、こうして始まった。






 劇的な再会を果たしたものの、クラウディアがなにかを仕掛けてくることはなく、拍子抜けするほどおとなしくしている。

 もちろん、騒ぎを起こした生徒の一年ぶりの復学だ。多少は腫れ物のように扱われたけれど、夏のあいだ、一足先に社交界に復帰していたことにより、自ら彼女に声をかける者も少なくはない。

 また、彼女のルームメイトの存在も大きい。

 元々は私やパトリツィア、カトリナと一緒の部屋で寝起きしていたものの、彼女の復学にあたり、学校側が配慮したのか、別の部屋に配属されることになった。ちょうど婚姻により中途退学した女子生徒がいたため、交代になるよう、クラウディアがそのベッドを埋めたのだ。

 クラウディアのルームメイトたちは、去年の王太子妃争いでは所謂いわゆるミットライト派閥と言われた家門の者だ。ボースハイト派閥だったフォルトナー家の者とは相容れないだろうと思っていたのだけれど、クラウディアの立ち回りがよかったらしく、思ったよりも馴染んでしまっている。

 社交的なクラウディアは、友人に困る素振りもなく、空白の一年を感じさせない完璧な振る舞いを見せていた。

 そんな彼女に、パトリツィアとカトリナは呆気に取られたものの、必要以上に関わろうとすることはしない。余計な波風を立てないだけで、いまだに彼女を遠巻きにする者は多い。ただ、それは彼女も同様で、初日に顔を突き合わして以来、私たちのあいだに会話はなかった。

 新学期から三日が経ったある日、フェアリッテが私に声をかけた。


「ねえ、ヴィーラ。放課後、お茶しない?」


 温かい笑みを浮かべ、私の顔を覗きこむように、フェアリッテは首を傾げる。

 フェアリッテの髪は春よりも伸びていて、バレッタでハーフアップに結われ、鎖骨をすぎたくらいのところで揺れていた。

 私が誘いに乗ると、旧校舎にある花弁の間へと連れられた。

 ブルーメンブラットの所有する私室で、ウォールナットな色調が、明るく穏やかな雰囲気を醸しだす。今日の花瓶の主は、ティップントップの柔らかな黄薔薇だった。

 お茶と言いつつ、フェアリッテは珍しく珈琲コーヒーを淹れた。おそらく私の味覚に合わせたのだろう。いまの時期はまだ暑さも残るため、アイス珈琲コーヒーにして楽しんだ——フェアリッテは「ちょっと苦かったかしら」と渋い顔をしていたけれど。


「お招きいただいてありがとう」

「どういたしまして」向かい合わせに座るフェアリッテが、眉を下げて尋ねる。「お節介かもしれないけど、貴女の元気がないように見えて……大丈夫? ファルトナー嬢とのこと」


 突然戻ってきたクラウディアに、怯えたり沈んだりしているつもりはないけれど、少しも動揺していないと言えば嘘になる。

 私は恐れている。いまの平穏と幸福を、クラウディアに掻き乱されてしまうことを。

 押し黙る私に、フェアリッテが言葉を重ねる。


「去年の春、私が意識を失っているあいだに、いろいろあったんでしょ?」

「……リッテはどこまで知ってるの?」

「貴女が、私のことをあまりよく思っていなかった時期があって、そのせいでフォルトナー嬢は、貴女が私を湖に突き落としたと勘違いした、って」


 フェアリッテが意識を失っているときの出来事だったため、詳しく知らないのは無理もない——あとから伝え聞いたにしても、フェアリッテの精神衛生を慮って、だいぶ濁されているようだった。

 私は本気でフェアリッテを殺そうとしたし、クラウディアはそれを証明している。ただ、私がフェアリッテを愛してしまったことで、それが実現されなかっただけだ。

 あの夜、ブルーメンブラットの屋敷に居合わせた者たちには、緘口令が敷かれているはず。ブルーメンブラットに仕える使用人たちは忠誠深いようで、そのときの一件は、今日まで明るみになっていない。

 だとしても、私には言うべきことがある。


「あのね」

「うん」

「いまの私は、貴女のことを愛してるから」

「えっ」

「貴女を湖に突き落とそうだなんて思わない」


 驚いたフェアリッテが、淡褐色ヘーゼルの瞳を見開かせる。それからちょっと笑って、「そうよね」とこぼした。


「驚いた。貴女、そんなこと気にしてたの?」

「むしろリッテは気にならないの? それとも、気にしてもくれないの?」

「今まさに貴女を気にかけてる私に、そんなことを言うのね」責めるような口調で、フェアリッテは笑い飛ばす。「前に言ったでしょ、ヴィーラ。私と貴女はまるきり違う人間だって、わかってるの。だから、私の気持ちと貴女の気持ちが最初から等しかったなんて思ってないわ」

「…………」

「ただ、私たちはこれまでの時間で、それを限りなく近づけてきたんだと思うわ。私たちはお互いに、相手の嫌なところや理解できないところがあって、でも、そういう憎らしさも含めて愛してるの。そうでしょ?」


 フェアリッテは爛漫に微笑む。

 憎らしいまでの暢気さに、私は救われている。

 力なく笑み返した私に、フェアリッテは悪戯に告げた。


「私ね、貴女が私になんにも相談しないで勝手に無茶をする、独りよがりなところが嫌い」


 その花咲く瞳を見つめ返し、私もしたり顔で言ってやる。


「私、貴女はなんでも持ってる恵まれた人間のくせに、私もそうだと思ってるお気楽なところが嫌い」

「でも、私のこと好きなんでしょ」

「ええ、好きよ」

「私も大好き」


 ぷ、と息が抜けるように笑い、私たちは珈琲コーヒーに口をつける。

 風味を楽しむ私の目の前で、フェアリッテは顔を顰めるように「んげ」と舌を出した。そのみっともない仕草に私が「子供舌」とさらに笑いだして、フェアリッテは「そっちのほうが好き嫌いが多いくせに」と反論した。


「……クラウディアのことは、」私は口を開く。「平気とまではいかないけれど、折り合いをつけているつもり。ただ、彼女を前にすると、どうしていいかわからないときがあって」

「またフォルトナー嬢と仲良くしたいって気持ちはあるの?」

「いいえ」


 私は即答した。

 去年の春の出来事で、私たちは決定的に分かたれている。

 かつてな関係に戻れるとは思っていない。


「ヴィーラにその気持ちがないなら、無理に友好的な関係を気づく必要はないわよね。となると、時が解決してくれるのを待つしかないかしら」


 とはいえ、時に身を委ねたところで、クラウディアの怨嗟が消えることはないだろう。

 おそらく、私たちのあいだに解決はない。

 だからこそ、私は怖いのだ。


「ヴィーラ。なにかあったらいつでも力になるから、今度こそちゃんと話してね」

「じゃあ、ずっと味方でいて」私は言う。「私を嫌いにならないで。裏切らないで。貴女はずっと私を好きでいて、リッテ」


 フェアリッテが私から離れるのが怖い。

 そのためにクラウディアが謀略を企てるのではないかと気が気でないのだ。

 フェアリッテには《除災の祝福》があるため、滅多なことにはならないだろうけれど、私たちの関係を脅かそうとする恐れだってある。クラウディアがなにをしでかすかわからない以上、警戒せざるを得ない。

 不安に揺れる私に、フェアリッテが告げる。


「誓うわ。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットの名にかけて。私と貴女は永久とこしえよ、なにがあろうとも」


 珈琲コーヒーの匂いに黄薔薇の香が乗るこの部屋で、フェアリッテの言葉が骨身に沁みる。私にはない尊い名を懸ける彼女を、いじらしく思った。






 休学のあいだもクラウディアは勉学に励んでいたようで、授業についていけない、ということもないようだった。時にはルームメイトの力を借りることはあるけれど、教師の問いかけにも滞りなく答え、それでいて涼しい顔をしている。

 また、休学中は神聖院に行くこともあったようだ。祈祷に来ているのを見たことがあると、カトリナが言っていた。ルームメイトがミットライト派閥という信仰深い者であるにも関わらず、クラウディアは同じ物差しで会話ができている。案外、社交界に復帰するより前から、交友関係があったのかもしれない。

 ただ、何事も卒なくこなすその姿が、かえって反感を買った。

 私を飾る悪評と比べればかわいいものだけれど、クラウディアは“プリマヴィーラ・アウフムッシェルに殺人未遂の濡れ衣を着せた”と非難されていて、また、賎民の娘だという噂を流した張本人だとも囁かれている。

 そういう疑わしい令嬢が学校に戻ってきて、万事元通りとはいかない。

 特に顕著だったのは、ジビラ・ラインハルトだった。


「ほとぼりが冷めたからって、のうのうと学校に戻ってくるなんてね」

「傍迷惑な女。《真実の祝福》なんてたいそうな加護を賜っておいて、結局は冤罪だったのでしょう?」

「そんな方が同じ教室にいるなんて……次は私まで、と思うと、恐ろしくて仕方がないわ」


 ジビラ・ラインハルトとその友人たちは、教室の隅で声を潜めるようにして、そのように話している。いくら小さな声と言えど、そこから対角線上の位置にクラウディアもいて、十中八九わざと聞かせてやろうとしているのがわかった。

 おそらく、デビュタントのときの逆恨みだ。私目がけてシャンパンの塔を倒すつもりが、誤ってフェアリッテが被害に遭ったのを、《真実の祝福》によって暴かれてしまったから。

 彼女たちの声が聞こえていないわけでもあるまいに、あくまでたおやかなクラウディアは、さがない陰口など素知らぬ顔でいる。

 かえってそれを聞いている周囲のほうが居心地を悪そうにする始末だった。

 クラウディアのルームメイトの令嬢たちが、険しく眉を顰める。


「いつまでもあんなことを」

「よろしいのですか、クラウディア嬢」

「私はかまいませんわ。ただ、皆さんにも不快な思いをさせてしまって、申し訳ないばかりです」

「そんな、貴女が気に病む必要はありませんわ」

「傍迷惑なのはどちらという話ですわよね」


 ルームメイトたちがクラウディアを庇う。

 教室の中で割れた空気の隙間で、多くの生徒が成り行きを見守るしかなかった。

 そこに、あの毒にも薬にもならない男が、かぶりを振って声を上げる。


「ご令嬢方、それ以上は貴女方の品位を貶めます。口を噤まれることをお勧めします」


 アーノルドは苦々しく言い放った。

 この男は自分の認めない者には薄情であるものの、以前よりクラウディアの品性を評価していた。

 加えて、クラウディアがなにも言い返さぬところを見つづけ、腹に据えかねたのだろう。この男の無駄な正義感を思えば、こういう行動に出るのは無理からぬ話だ。

 アーノルドに窘められ、彼女たちの口もふと閉じられる。しかし、次の瞬間には、ラインハルトが反論した。


「品位を損なうような真似をしたのは彼女ではありませんか。私は本当のことを言ったまでです」


 そこへさらに言い返そうとしたアーノルドに対し、クラウディアが「おやめください」と立ち上がった。

 クラウディアからの制止を受け、アーノルドは閉口し、クラウディアを見遣る。

 クラウディアは苦しげな表情を浮かべていた。


「ありがとうございます、アーノルド卿。しかし、私のためにアーノルド卿が身を張るのを見過ごすことはできませんわ」

「しかし……あれはあんまりじゃないか」

「私がはっきりと申し開きをしなかったのがいけないのです。ただ、アーノルド卿のお心遣いに感謝いたします。庇ってくださり、とても心強かったです」


 クラウディアとてアーノルドの性格を理解しているはず——こういう状況でアーノルドが口を挟むと、見通せないわけがない。

 口を挟ませたのだ。

 ただ言い返しては泥沼になるから、体裁が悪く情けないから、だからアーノルドを使った。

 にされたわね、と私はアーノルドを見つめる。彼は自分を利用されたことにも気づかず、真摯な目でクラウディアを見据える。

 アーノルドを味方につけたクラウディアが、ラインハルトへと言い放つ。


「ラインハルト嬢。いつまでも過ぎた話を持ちだすのはおやめください。あるいは、それほど私にまつわる話をしたいならば、どうぞ周囲に憚ってなさってください。それとも、周りに気を遣わせるのが、貴女たちの趣味ですか?」

「過ぎた話ですって? よく言えたものですね」

「プリマヴィーラには、事後に直接謝罪をしていますし、正式にお詫びの文を送りました。私が復学したことで、否が応でも顔を合わせる機会が増えますから、初日に改めて話もしましたわ」


 クラウディアの言ったことに嘘はない。

 事件直後、ベルトラント殿下立ち合いのもとに謝罪を受け、その後日、フォルトナーからアウフムッシェルへと、形に残る謝辞まで頂戴している。初日のにしたところで、クラウディアは“話をした”と弁明しただけで、そのニュアンスについては触れなかった。

 実際の彼女の心中を思えば、その行動がどれだけ形式的なものであるかは言うまでもないが、それらが真実である以上、私が否定を唱えることはなかった。

 どこかこちらを伺うような間を置いたのちに、ラインハルトは苛立ったように、再びクラウディアへ噛みつく。


「……人目につかぬ場所でのことなど、どうとでも言えますからね。申し訳なさそうな顔の一つでもしてみれば、貴女の誠意も伝わるのでは?」

「私の謝意を、皆の目に触れる場所で伝えることは、果たして誠意ある対応と言えるでしょうか?」


 これ見よがしに公衆の面前で謝ることは、相手に周りの目を気にさせて、許しを強いることにも繋がりかねない。自分の処遇を相手に委ねるなら、クラウディアの対応こそ、誠意のあるものと言えた。


「ご令嬢がどのようにお考えかはよくわかりました。しかし、それが、私ばかりかアーノルド卿にまで無礼を働けるほど、貴女を正当たらしめる理由になるとは、とても思えませんわ」


 抜かりない手腕だった。アーノルドを巻きこむことで、まんまとラインハルトを悪者に仕立てあげている。

 世渡り上手のクラウディアが、判断と振る舞いを誤ることなど、私の知る限りではほとんどない。いつ誰にどのように突かれても躱せるよう、筋を通してある。

 そして、被害者のふりをするのが、非常に上手い。


「っそれでも、フォルトナー嬢が勘違いで人を貶めたことには変わりありません!」

「……私が悪かったことは認めます」クラウディアはひどく悲しげに目を細める。「しかし、あの事件とはなんの関係もない貴女にまで責められるいわれはないわ」

「よくも、そんなことを、」


 こうなったクラウディアに言い返すのは悪手だった。何故なら、これまで傍観するしかなかった第三者が、ついに我慢ならなくなる。


「そのことは彼女も反省しているでしょう。いくらなんでも言いすぎですよ、ラインハルト嬢」

「卿もおっしゃっていたように、口を噤んではいかがかしら。正直、聞くに堪えませんわ。運命ファタリテートも貴女たちを見放しになることでしょう」


 クラウディアのルームメイトたちだった。クラウディアが言い返さないために表立った批判をしなかったものの、彼女が矢面に立った今、その援護に回ろうとする。

 このまま言い合いになるかと思われたものの、静観を崩す者は他にもいた。

 それは、フェアリッテのルームメイトのイドナ・ヴォルケンシュタインだった。


「そもそも、ラインハルト嬢にフォルトナー嬢を責める権利がおありですか?」ヴォルケンシュタインは目を眇める。「……貴女だって、勘違いで人を貶めたじゃない。デビュタントでフェアリッテにしたこと、忘れたとは言わせないから」


 その言葉に、ラインハルトは言葉を詰まらせる。

 自分のために怒っている友人に、フェアリッテは「イドナ、もういいのよ」と声をかけるも、ヴォルケンシュタインは止まらなかった。


「呆れた方! 黙って聞いていたけれど、自分のことを棚に上げて、よくそこまで弁が立つものね! 貴女の言葉に不快な思いをしているのは、なにもフォルトナー嬢だけじゃないから!」


 今にも胸倉を掴みかかりそうな勢いのヴォルケンシュタインを、フェアリッテやグラーツが身を挺して止める。ラインハルトは言葉を失い、顔色を悪くしていた。

 そこで、混沌とした場を収めるため、監督生であるフィデリオが動く。


「そこまでだ。皆、静粛に。もうすぐ授業が始まるんだ、気を鎮めて」


 その言葉を合図に、全員が席へと戻っていく。

 ただ、そこで話が打ち切られたことで、ラインハルトは弁明の機会を失った。恥を掻き、周囲に胡乱な目を向けられたまま、なにもできずに顔を青くしている。

——本当に、上手くやったものだ。

 不安定な立ち位置のクラウディアが、自身の居場所を奪還するため——ラインハルトに敵意を差し向けることで、対照的に自分への嫌悪感ヘイトを逸らした。周囲の機微の流れを読み、自らの正当性を知らしめ、名誉を回復させるという、この一連の流れを、クラウディアは打算でやってのけた。

 おそらくこの日を以て、クラウディアは本当の意味で、社交界に復帰する。

 場を収めたフィデリオが、気遣うようにクラウディアへと近づいた。クラウディアは強張ったような頬をわずかに緩め、フィデリオに礼を言っている。余所行きの顔の彼女の瞳に、ひそやかな甘さが滲んだ。

 私はその姿をただじっと見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る