第26話 業を煮やしては業に従え
ジャルダン家が城内に持つ聖堂は荘厳で、都内の神聖院を思わせる貫禄がある。白亜色の壁面と床は朝日に輝き、ステンドグラスから落ちる極彩色の影を綺麗に映す。
ラムールはリーベと同様に運命信仰だ。国民の全員が適齢になれば《
ジャルダン家は信心深い家のようで、週に一回、朝餉の前に、こうして聖堂に集まって、運命へと祈りを捧げる。ジャルダン家に滞在している私たちもそれに倣った。どこかから召喚されただろう司祭が聖書を読むあいだ、シックザール小侯爵を先頭に、私たちは手を組みながら祈る。
私に祈祷の習慣はないし、そもそも祈りを捧げたってどうにもならないとも思っている。運命に祈ったところで、御使いに縋ったところで、迷える私が救われた試しは一度もなかった。
というか、一周目の人生ではみすみす見殺しにされ、二周目の人生では《持たざる者》にされ、踏んだり蹴ったりの生涯である。恨みこそあれど、感謝や敬意は皆無だ。とっととディアナに復讐されてしまえばよいのだ。
形だけの祈りを終え、私たちは一斉に聖堂を出る。
今日は朝から日差しが強く、気温も高い。薄手のブラウスを着ているとはいえ、上からドレスを重ねれば、薄く汗も掻いてしまう。早く冷たいコーディアルでも飲みたみたいと、渡り廊下を進む足を速めていると、私の少し前を歩くシックザール小侯爵がこちらに気づいた。
「おや、誰かと思えばアウフムッシェル嬢でしたか。おはようございます」
「おはようございます」
「ラムールの遊学も残すところあと少しとなりましたね。いかがでしたか? アウフムッシェル嬢にとって、実りのあるものとなりましたか?」
もう夏の風の月だ。私たちはあと数日でラムールを発ち、行きと同様の長旅を経て、リーベへと帰る。
隣国とはいえ、ラムールはリーベと文化が異なるため、興味深いものも多かった。令嬢たちとの交流も悪くはなかったし、よい土産も手に入れた。オルタンシアとは文通の約束をするほどに親しくなった。面倒事から逃げるための遊学だったけれど、結果的にはよい夏休みだったと言える。
「ええ。シックザール小侯爵はいかがです?」
「よい訪問となりました。ジャルダン家のご紹介で、ラムールの神聖院や枢機卿とも交流の機会を持てましたしね。次のラムールの訪問では、ラムールでの洗礼の場に立ち会わせていただけることになりました」
「よい巡り合わせがあったようでなによりですわ。洗礼といえば、オルタンシアさまたちはすでに洗礼は済んでいらっしゃるのですか?」
「そのようですよ。私たちは学び舎で洗礼を受け、祝福を賜りましたが、ラムールではそれよりも前に受けることもできるそうです」シックザール小侯爵は思い出すように言う。「聞くところによると、ノワイエさまは世にも稀な《
私は「へえ」と相槌を打つ。
間を置いて、シックザール小侯爵は話を戻した。
「
「交換留学制度?」私は目を瞬かせる。「それは初耳ですね。リーベの学生とラムールの学生が、互いに留学をするということですか?」
「ええ。しかも私の母校でもあり、貴女の学び舎でもある学校に」
「希望者はいるのですか?」
「まだ。選抜も始まっていませんからね。誰が留学生となるかはこれからの話だそうですよ。アウフムッシェル嬢は興味がおありですか?」
「そうですね……」
考えてみる。このままリーベに帰っても、また面倒事に巻きこまれるだけのような気はした。けれど、ラムールにずっといたいかと聞かれれば、そうではない。よい夏休みをすごせたことは認めるけれど、リーベが恋しくないわけではない。
「……私には関係のない話です」なので、そう答える。「ただ、面白い一年になりそうですね。リーベに来た方にも、私たちと同じように、実りのある日々をすごしてもらいたいものです」
シックザール小侯爵は「そうですね」と微笑んだ。
ふと、小侯爵の後ろ、少し離れたところで、ノワイエと目が合った。
またもやノワイエは私を睨みつけていたようで、目が合うなり凄むような顔をして、そのままそっぽを向く。
滞在中、ずっとこれである。結局、ノワイエの態度は一向に軟化しなかった。まともに話したことがないので、彼がなにを考えているかはわからないけれど、近くにいるかぎり延々と睨まれていては、さすがに周囲の目に留まる。
小侯爵は伺うように、小声で「あの、ノワイエさまのことなのですが」と私に尋ねた。
「私も知りません。一方的に目の敵にされています」
「それは……たいへん言いにくいのですが、貴女がなにかしたからではなく?」
この男まで私を疑うのか。
全部ノワイエのせいである。
「たしかに純真で奔放すぎるところもありますが、ノワイエさまはあんなふうになる方ではありませんよ。たとえば、貴女も知らないうちに失礼があったとか」
「失礼なのは向こうです」
私は
シックザール小侯爵は納得していないようだったけれど、「そうですか」と引き下がった。私だってこれ以上話すことはない。
ノワイエがああなる理由は誰にもわからなかった。双子の姉であるオルタンシアにも一度聞いてみたことがある。ただ、彼女も「すみません、わからないのです」と言っていた。
「ノワイエはちょっと粗忽ですけれど、誰からかまわず噛みつくタイプでもありません。去年まではブルーメンブラット家がラムールに来てくださっていましたが、フェアリッテさまには普通でしたし」
「ちなみに、彼の普通ってどんな感じなのですか? 私は普通でない彼にしか会ったことがないので」
「わかりやすい子です。表情もころころ変わるし、すぐ言葉に出してしまいます。貴族たるものそれではいけませんと、家庭教師の先生にはよく怒られていました。でも、あの子のそういうとこが人に好かれやすいのも事実です。内気な私とは違って友達も多いんですよ。そういうところはすごいなと思うし、羨ましくもありますね」
聞けば聞くほど、私の知るノワイエとはかけ離れていた。いつも仏頂面で、わかりにくくて、そしていけ好かない。オルタンシアの羨む気が知れない。
しかし、そんな彼に振り回される日ももう終わる。私がリーベに帰れば、彼に会うこともなくなる。これ以上不快な思いをしなくて済む。このまま平和に、何事もなく、交流会を終えてしまえばいい。
何事もなく終えられると、思っていた。
ガランサシャやクシェルは私を疑っていたけれど、私は私を信じていたのだ。
けれど、裏切られることになる。
その日、私たちは馬に乗って遠乗りに出かけていた。ジャルダン家の森の深いところまで馬を走らせ、夏の動物の足跡や囀りと出会う。弓を持ってこればよかったとこぼしたのは誰だったか。私もそれに頷くほど、豊かで生命力に満ちた森だった。
ここにいるのは馬に乗れる者だけだ。オルタンシアやガランサシャなどの令嬢は来ておらず、私やアーノルド、クシェル、ジギタリウス、他にもリーベの若い貴族が何人かと、ノワイエをはじめとするラムールの令息たちがいた。
開けたところで馬の足を緩め、木々の陰をくぐるように涼む。
すると、白黒のはっきりとした蛇の目模様の翅を持つ蝶が、ひらひらと夏風に逆らうように舞い踊り、私の腕に止まった。
それを私がじっと見つめていると、近くにいたジギタリウスがくすくすと笑う。
「蝶が貴女を花と間違えてしまったようですね」
「香りに誘われたのかも」私は失笑して答える。「今日は香水をつけているから」
去年の誕生日にカトリナからもらった、ガルバナムとシトラスの香水だ。すっきりとした香りではあるものの、その芳しさは瑞々しい果実を思わせる。
ややあってから、蝶はひらひらと飛び立っていった。それを見上げていると、ラムールの令息たちからも話しかけられる。
「アウフムッシェル嬢の生家にも、近くに森があったと伺いました。これまで幾度となく蝶には間違われてきたのでは?」
「まさか。それに、アウフムッシェルは海岸に近いため、あるのは森というよりも杉林なんです。蝶と戯れるどころか、馬を走らせては木喰い虫から逃げていましたわ」
私がおどけて言うと、彼らは笑った。その後、「だから馬に乗るのがお上手なのかもしれませんね」と言った。
そこへ、別の者が言葉を加える。
「皆さまのおっしゃるように、アウフムッシェル嬢の実力は見事ですね。選択教養では馬術を履修してらっしゃるとのことですし、学校でも素晴らしい成績を残してらっしゃるのでしょう」
そう言ったのは、先日、オルタンシアに迫っていた、リーベの貴族だった。にこやかな調子でいるものの、それが返って訝しい。
私と目が合うと、男は意味ありげに目を細めた。そして、アーノルドへと目を遣り、「アーノルド卿は、彼女と同じ授業を受けていましたね」と言う。
「ああ。彼女の騎手としての技術は目を見張るものがある」アーノルドはどこか得意げに返した。「僕は、宮廷でも馬術を教えていた祖父から乗りかたを教わったけれど、そんな僕の目から見ても、彼女は我が身のように馬を乗りこなしている。恐れるほどの速さで馬を走らせ、どんな獣道でも歩を緩ませない。もしも彼女が男だったならば、リーベの宮廷の歴史に、新たな名を刻んでいたかもしれないな」
持ちあげすぎだ。自分の家の自慢話まで混ざったせいで、私が勇壮な騎士のように語られている。
普段なら純粋に喜べたかもしれないけれど、話を吹っかけてきたのがあの者とあっては、私がするのは警戒だ。このようにもてはやして、いったいなにを考えているのか。
アーノルドの言葉を受け、男は「それは素晴らしい」と言った。なにも知らない周囲も同様に私を褒める。そして、私が「ありがとうございます」と言い終わらないうちに、男は「そうなると、」と被さるようにして告げる。
「それほどの実力を備えたアウフムッシェル嬢と、《騎乗の祝福》を受けたブルーメンガルテン卿の、どちらがより速く馬を走らせることができるのか、たいへん興味深いですね。いかがでしょう? 皆さんも見てみたいと思いませんか?」
男はこの場にいる者たちの顔を見回した。
私はひそかに眉を顰める。
この男、私とクシェルを競わせようと? どれだけ馬に乗れたとしても、《持たざる者》でしかない私と、《騎乗の祝福》を受けたクシェルとでは、そもそも勝負になるわけがない。それをあの男もわかっていて、私に恥を掻かせようとしているのだ。
ただ、私とあの男のいざこざを知らない周りの者たちは「なるほど」「面白そうですね」と乗り気だった。アーノルドはおかしなことになったと目を白黒させているものの、「興味がないと言えば噓になりますが……」と私を見た。
すっかり空気を支配した男は、したり顔で私へと告げる。
「いかがです? アウフムッシェル嬢。貴女のその見事な腕前を見せてはいただけませんか?」
私はなんでもないふりをしつつも、手綱を握る手に力をこめた。
ここで断れば、所詮はその程度の臆病者と馬鹿にされるか、空気の読めない意地っ張りだと揶揄されるだろう。祝福というハンデがあるかなんて関係ない。あれだけ称賛されておいて、クシェルに負けたくなくて逃げたのだと、きっとこの男は軽んじる。勝負に負けることよりも、この男に嘲笑われるほうが、何倍も何十倍も虫唾が走った。
私の炎の揺らめきを、ジギタリウスは感じ取ったのかもしれない。あるいは無謀な闘いに見ていられなくなったのか、「よしましょう」と声を上げる。
「まるで二人を見世物のように。万が一、馬が速度を出すあまりに二人が落馬してしまったら、どう責任を取られるおつもりで」
「見世物などと、大袈裟な、賭けをしているわけでもないのに」男は反論する。「それに、秀でた騎手ほど限界を理解しているものですよ。無闇に走らせるような真似はしないでしょう」
それはジギタリウスに言い聞かせているように見せかけて、私に対する囁きだった。愚かでないなら負けを認めたほうがよい、と。あまりの憎たらしさに、人知れず噛み締めた奥歯が砕けてしまいそうだった。
ここまで
いよいよ口を開こうとしたとき、私よりも先に、クシェルが言う。
「なら、僕も無闇に走らせるわけにはいかない。水を差すようで悪いが、その勝負からは下りさせていただこう」
思いがけない言葉に呆気に取られたのは、私だけではない。隣のジギタリウス、強張った表情でいたアーノルド、そして、言いだしっぺのあの男まで、目を丸めてクシェルを見た。
当のクシェルは泰然としていて、微笑を浮かべてはいるものの、期待が外れた令息たちに気遣うそぶりもない。
「ブルーメンガルテン卿?」男は驚きながらも尋ねる。「貴方ともあろう御仁が、慎重なことをおっしゃるのですね。リーベの社交界でも令名の騎手ではありませんか」
「秀でた騎手ほど限界を知るというのは貴殿の言葉でもある。なにもおかしなことは言っていないと思いますが」
「だからと言って、皆さんが期待しているなか、辞退するなど」
「どうかご容赦を。祝福を受けた僕がもし負けたら、とんだお笑い種でしょう」
クシェルのその言葉に、男は狐につままれたような顔をした。一方で、ラムールの令息たちは笑み返し、「では、勝負はいつかの機会に」「ブルーメンガルテン卿も認めるほどの騎手とは、アウフムッシェル嬢の実力は本物のようですね」と朗らかに言い合っている。
私も私で驚いて、手綱を握り閉める手も、奥歯を噛み締める力も、すっかり緩ませてしまった。クシェルが私を庇うような真似をするなんて、珍しいこともあるものだ。
すっかり気を削がれてしまった例の男は、馬をわずかに走らせて、森を歩く先頭まで出る。私はその背を見送りながら鼻で嗤う。
ややあってから、わざと馬の歩みを遅らせたクシェルが、私の隣に並んだ。ジギタリウスが周囲には聞こえないように「上手く収めましたね」と声をかける。
「なんだ、あの男。妙に気が立っているように見えたが」
「プリマヴィーラ嬢を庇うなんてお優しいですね、ブルーメンガルテン卿」
「庇ったわけではない。僕とこいつでは勝負にならない」
しっかり
ジギタリウスは例の男について「あれはギレンセン子爵家の者ですね」とこぼす。
「僕たちの学校の卒業生で、ええとたしか、ブルーメンガルテン卿でも在学期間は二年しか被りがなかったはずです」
「知らなかった。僕より詳しいな……」
「お褒めに与り光栄です」ジギタリウスは恭しく笑う。「ブルーメンガルテン卿でそうなら、プリマヴィーラ嬢とはさらに面識も薄いでしょうに、いったいどうしたんでしょうね。貴女には敵も多いですが、そのうちの一人ですか?」
「不可抗力よ」
「なにかあったのか」
クシェルは目を細めて言う。その表情は不穏だったけれど、私はそれ以上に訝しむ。クシェルのほうへ向き直り、おそるおそる口を開く。
「なにかしでかしたのか、とは聞かないんですね」
「たしかに! この前はあんなにプリマヴィーラ嬢を疑っていましたよね」
「ジギタリウス、貴方だって疑っていたじゃない」
「いやだなあ。僕はシシィについていっただけですよ。貴女がなにかしたなんて一言も言ってません」
「どうだか」
「お前のことを信用したわけではないが、」クシェルはそっけなく言う。「お前が無実である可能性もあると思った。ノワイエさまとのこともあるしな。無論、お前が無実でない可能性だって同様にあるが、まずはこの目で、この耳で確かめてみないことには、僕もそれを判断するわけにはいかない」
真面目ですね、とジギタリウスは言った。
律儀なやつ、と私も思った。
私とてクシェルのことは嫌いだけれど、彼自身の物差しの精度は信用している。彼の言葉や振る舞いには裏表がない。傲慢を通り越して高潔だと思えるくらいには。
私は思い出すように事情を打ち明ける。
「……先日、彼が、とある令嬢に言い寄っているところに、たまたま遭遇しまして」
「はあ?」クシェルが目を眇める。「リーベの? ラムールの?」
「言えません」
「先日と言ったのだから、リーベと答えれば時期も
「彼女も周囲には知らせたくない様子でしたので、名前までは。ただ、彼の振る舞いにはお困りでした。彼がいきすぎていたのを、私は止めただけです」
「プリマヴィーラ嬢が? 珍しいこともあるものですね。貴女がそこまでするほど懇意にしている令嬢は、僕の知るうちでも限られていますが」
「お前も使節団の一員として、真面目に交流していたんだな」
察しのよすぎる二人だ。
下手に隠しても
「ともあれ、それで貴女を逆恨みしてるわけですね」
「ラムールに来てまで令嬢に迫るなど、馬鹿馬鹿しくて目も当てられないな」
「あの方のやりかたは悪かったでしょうが、適齢の令息が婚約相手を探すのは当然のことでしょう。同世代の目ぼしい家の令嬢はみんなすでに婚約しているでしょうし、そうなると、自分より若い令嬢から探すほかありませんから」ジギタリウスは面白そうに首を竦める。「……しかし、その口振りからするに、クシェルさまは婚約相手にお困りでない様子。先日は“断った”とか言ってましたし、よいお話がたくさん持ちあがっているんでしょうねえ」
どこかからかうようなジギタリウスに、クシェルは嫌そうな顔をした。クシェルが「そういう
「……ありがたいことに、いくつか話はいただいている。卒業するまでは、デビュタントのエスコートを頼まれることも多かったしな」
呆れたように息をついて、クシェルはそう言った。
覚え違いでなければ、たしか私の代のデビュタントで、フェアリッテのルームメイトの一人を、クシェルがエスコートしていたはずだ。たぶん、リューガーかグラーツ。あのときのように、在学中の四年間、デビュタントを迎える令嬢のパートナーを務めていたのなら——貴族の手本のようなクシェルの振る舞いに胸をときめかせた令嬢だっているかもしれない。
ジギタリウスが冗談めかして「僕も毎年デビュタントのパートナーを務めたら、ブルーメンガルテン卿みたいな人気者になれますかね」と言うと、肩を竦めながらも「なれるんじゃないか?」とクシェルは微笑む。気高い顔立ちは笑うと爽やかで、フェアリッテの瞳よりも青みを帯びた虹彩が、水面のようにきらめいた。
「僕よりも姉を気にしたらどうなんだ?」クシェルはジギタリウスに言う。「ボースハイト侯爵家の令嬢ともなれば、婚約の話は多数持ちあがるだろうが……彼女の令嬢らしからぬ振る舞いには困り物だろう。最悪、破談もありえる。あのままで大丈夫なのか?」
「うーん。シシィにはシシィなりの考えがあると思うので、僕は心配してないんですけど。最近、なにかと企んでいるようでして、それを僕に教えてくれないんですよ」ジギタリウスはわずかに困ったような顔をする。「ラムールに来たのも父の名代としてですが、音楽家たちと以前から交流を重ねていたのは、僕も父も知りませんでした。おかげで想定よりも円滑に事が運びましたが、僕には、シシィがこの先なにをしたいのか、まったくわからないのです」
私はその話をぼんやりと聞きながら、ラムールに来るまでの馬車の中で、ガランサシャの言っていたことを思い出す——私たちはどれだけ努力したところで、結局は選ばれる側なんだわ。
「“私は選ぶ側に回りたい”」
「え?」
「彼女がそう言っていたわ」私はジギタリウスに伝える。「彼女がなにを企んでいるかは私も知らないけれど、誰かの婚約相手として選ばれることを、彼女は望んでいないのかもしれないわ。心当たりはない?」
私がそのように尋ねると、ジギタリウスはわずかに俯いて考えこむ。
そのとき、クシェルが「なんだ?」と目を瞬かせた。クシェルの視線の先、前を走っていた令息たちが、なにやら焦ったように歩を止めている。口々に「いったいどこへ?」「屋敷に戻ったほうが」「いや、下手に動くよりは待っているべきでは」などとこぼしている。
不穏な空気にクシェルは眉を顰めた。少し離れたところにいたアーノルドが馬を走らせ、「なにかあったのですか?」と彼らに尋ねる。
「それが……ノワイエさまがいなくなってしまって」
「ノワイエさまが? 何故? どこへ?」
「わかりません。その、先ほどの会話の流れで、自分だって馬で駆けることくらい訳ないと、私たちを振り切るように速度を上げられて、そのまま……ノワイエさまについて行った者もおりますが、あまりの速さに途中ではぐれてしまったと」
アーノルドは低い声で「なんと」とこぼす。クシェルは深いため息をつきながら、額に手を遣った。ジギタリウスは息を呑んだように身を強張らせた。私は呆れながらも、面倒なことになったと息をつく。
広大な森で、馬を走らせ、行方不明。
よくない事態などいくらでも思いつく。
無闇に馬を走らせるのは危険だと、あれほど話していたのに、ノワイエはいったいなにをやっているのか。
いくらジャルダン家の所有する森とはいえ、たとえば道に迷うことも、怪我をして動けなくなることもあるだろう。ラムールの令息の中でも年嵩の者が、「万が一があってはいけないか、日が暮れないうちに手分けして探そう」と言った。皆がそれに頷き、ノワイエの捜索が始まる。
何度かこの森には入ったことはあるものの、リーベの者のほとんどは、森の地形に慣れていない。そのため、「深入りはしないこと」「一時間ほど捜索しても見つからなかった場合、迷ってしまった場合は、森で一番大きい木を目指すこと」を言いつけられた。ジャルダン家の森には、どこにいても目印になるような、天高く聳える木が一本だけあるのだ。もしかしたら、はぐれたノワイエもそこへ向かっているかもしれないと、令息の一人がそちらへ向かった。
「僕たちも手分けしよう」
「皆さん、くれぐれもお気をつけて」
そう言って、クシェルやジギタリウスも森の奥へ進んでいった。
私も一人で馬を走らせ、あたりを見回す。
「……めんどくさ」
どうして私がこんなことをしなければならないのか。勝手に馬を走らせて、勝手にはぐれたのだから、そのまま勝手にしていればいいのに。
わかっている。交流会で、リーベの貴族と出かけた遠乗りで、ジャルダン家の令息になにかあれば、よからぬことを企んだのではないかと、疑われることもある。そっちのほうがよっぽど面倒なことになる。
けれど、いなくなったのはあのノワイエだ。探す気が起きない。鬱陶しい男が消えてせいせいしているくらいだ。どうして私がわざわざあの男のために働かなければならないのかしら。
しばらく馬を走らせていれば、急勾配な斜面が足下に見えた。背丈のある草や木々が邪魔で、崖のような斜面の下はよく見えないけれど、もし馬に乗ったままここを滑り落ちたなら、きっとただでは済まないはずだ。
そちらのほうを眺めながら、しばらく進んでいたとき、私ははっとなる。
斜面の下に、脚の折れた馬を見つけたのだ。
私はすぐさま馬を止めて下りる。危険な斜面だが、木を伝いながらゆっくり下りれば、怪我をすることはないだろう。下手をすれば頭から突っこみそうなところを、腰を引くことで重心を取り、私は斜面を下りていく。
木に縋り、たまに膝をつき、あと少しで斜面を終えるというところで、私は滑るように下り、その馬のほうへと駆け寄った。
「あなた、どうしたの」
怪我をした馬の鼻筋と背を撫でながら、その足元を確認する。
可哀想に、折れた脚は地面から浮いていて、三本足でなんとか立っている状態だ。骨折の程度はわからないけれど、もしこのまま歩けなければ、この馬は死んでしまう。心臓の働きだけでなく、蹄機作用で全身に血を巡らせる馬は、歩かなければ生きていけないのだ。
「……あなたの主人を探してから、家に帰って手当てをしましょう」
心なしか苦しそうに見える馬の目を見て、私はそっと囁く。
誰の乗っていた馬かは知らないけれど、ノワイエの馬である可能性は高いだろう。もしも馬に乗ったまま、上からこちらへと落ちてしまったのだとしたら、ノワイエだって近くに倒れているはずだ。
私は茂みを掻き分け、滲んだ汗を拭いながら、ノワイエの姿を探す。予想は的中し、歩いて幾許もなく、地べたに座りこむノワイエを見つけた。
「ノワイエさま!」
私が声をかけると、ノワイエも私に気づく。瞬時に唇を噛み締めて、恥じるようにそっぽを向いた。前髪が目元を隠し、その横顔を隠す。
私は彼に近づきながら、「お怪我はありませんか」と尋ねた。
「……見たとおりだ。わからないか?」
そのように吐き捨てるノワイエは、額に傷を作っていた。また、右手で左肘を支えていることから、腕が折れたのだろうと思われた。これでは手綱を持つことはできないだろう。
私はノワイエのそばに寄り、しゃがみこんだ。視線も合わせない彼に「立てますか?」と尋ねる。
「……他の者は」私の言葉を無視して、ノワイエが言う。「お前一人か」
「はい。みんな手分けしてノワイエさまを探しておりました。なにがあったのですか」
「馬を走らせていたら、ここまで落ちた」
「下手をすると、死んでいたかもしれませんよ。怪我をされているようですが、痛みますか?」
「……どうせそのうち治る」
なにを馬鹿なことを、と呆れるよりも先に、ノワイエの額の傷が、徐々に小さくなっていることに気づく。まるで夢でも見ているような不思議な光景だった。
私がそれを眺めていると、押し黙っていたノワイエが、再び口を開く。
「そういう祝福だ。この傷だって、最初はもっと大きかった。おそらく左腕の骨には
怪我をしたことに焦るそぶりがなかったのはそのためか。運命がノワイエに授けたという祝福は、どんな怪我だって癒してくれる。
「ふん……素晴らしい祝福だろう?」
ノワイエはやや口角を上げてこちらを見た。薄青の滲む瞳が不遜に細まる。
あの馬は。
あの馬は、貴方のせいで死ぬかもしれないのに、貴方は精々手を折ったくらいで、しかも、祝福のおかげでぴんぴんしていて。
こんなの、どこが素晴らしいのよ。
私の怒りはぐつぐつと湧いた。それを
「おい。聞いているのか」
「…………」
「……っ、この、おい。一度ならず二度までも、俺を無視するな」
この男が怪我をしようが、そんなのは自業自得だ。関係のない私たちを巻きこんで、なにをこんなにえらそうに。
「……お前は、本当に、フェアリッテと違ってかわいくない女だな! 気遣いもまともにできないのか! フェアリッテの代わりにラムールまで来たようだが、お前みたいな不細工に、あいつの代わりなど務まるものか! そのくせ、男に煽てられてにこにこしやがって、俺は、俺だって、馬に乗ることくらいできるんだぞ! ……おい、聞いてるのか! おい!」
ぷつんと切れて、一気に脳が冷えた。
私がラムールに来てから、波風を立てないように、火種を作らないように、微笑み、許し、大人になり、やりすごそうとしてきたことが、途端、どうでもよくなった。
心底燃え盛る炎で我が身が焼け焦げてしまうかと思うほどの業腹だった。
許せない。
私は、馬鹿にされることよりも、
「なんとか言ってみたらどうなんだ、お前は、」
「うるっさいわね。噛みつくしか能のない、死に損ないの愚図が」
「…………え?」
威勢のよかったノワイエは、突飛になにを言われたのか理解できず、唖然とする。
私はおもむろに立ち上がり、腰に手を当てて、ノワイエのまぬけ面を見下ろす。
「……そう、ノワイエさまはフェアリッテを慕っていらっしゃるのね」全部が煩わしくなった心地のまま、私は冷然と微笑んで告げる。「彼女は素晴らしい令嬢ですもの。私など、彼女の足元にも及びません。貴方のおっしゃるように、気遣いなんてできる人間ではないのよ。たとえ怪我をした相手にだってね」
そう言った私は、ノワイエの左肘を思いっきり蹴りつけた。
怪我をした腕を攻撃されたノワイエは、呻きながら身を屈めた。
私はそこへ追い打ちをかけるように、今度は額を蹴りあげると、ノワイエは仰向けになって倒れこんだ。その鳩尾へと足を踏みこんで体重をかければ、ノワイエは息も絶え絶えに私を睨みつける。
「き、貴様……」
「そんな顔をなさらなくても。どうせご立派な祝福で癒えるのでしょう?」
「なにを」
その瞬間、私はノワイエの鳩尾を再び踏みつける。ノワイエは「やめろ」と喚きながら横向きになって倒れこんだ。何度かその腹を蹴りあげれば、あるとき、歪に壊れたような音がした。
「が、あああっ!」
ひときわ強くノワイエが呻いたので、肋骨でも折れたのかもしれない。肩で息をする彼の目元は、涙で赤くなっていた。
むきになって蹴りつけたせいで、私も息を乱していた。頬を掠めるように垂れた髪を耳にかける。瀕死の芋虫みたいになったノワイエを見下ろした。
「貴方が私を嫌いなように、」目を震わせるノワイエへ、静かに囁く。「私も貴方が嫌いだわ。傲慢で、幼稚で、救いようがなくって……その昔、自らの愚かさで溺れ死んだ、情けない人間を思い出して、虫唾が走る」
足蹴にされたノワイエは、怯えたように私を見上げていた。私が悪魔にでも見えているのかもしれない。悪魔で結構。私には、みじめなこの男に同情するような気概は、微塵もない。
喧嘩の基本は躊躇をしないこと。相手が本気になるよりも先に、こちらが徹底的に潰すのだ。遠慮も逡巡も、底ついたインク瓶よりも役に立たない。空き瓶だって鈍器にくらいにはなるのだから。
今度はその両足ごと、戦意と自尊心をへし折ってしまおう。二度と私の前で立ち上がれなくしてやるわ。
ぐうぐうと湿った声で呻きながら、無様に身を捩るノワイエに、私はうっそりと微笑む。
しかし、そのとき、ざざっと茂みを掻き分ける音が聞こえた。
私がそちらへと目を遣ると、顎先から汗の
まずい。
私は奥歯を噛み締める。
這いつくばって苦しむ怪我だらけのノワイエ。それを足蹴にして見下ろす私。そこへ駆けつけたクシェル。役者が揃ってしまった。
起こった悲劇を、その耳で、その目で認めたクシェルは愕然とした様子だった。
そよ風の吹き終えるほどの間があって、クシェルはゆるゆると首を振りながら、額に手を遣る。薔薇のような赤毛は萎び、彼の心情を表しているようだった。
やがて、地を這うような声で吐き捨てる。
「……僕が愚かだった」
私、生きてリーベに帰れるかしら。
そんなことを思う、ラムールの夏だった。
「ノワイエ・ル・ジャルダンを怪我させただって!?」
ラムールとの交流会を終えて、アウフムッシェル領に戻ると、事情を聞いたフィデリオが声を荒げた。
生きてリーベに帰れたものの、邸に着いて荷解きも終わらないうちに、一番厄介な男に捕まってしまった。
本当は私だって言いたくなかったけれど、どうせ近い将来、ブルーメンブラット辺境伯やクシェルの口からアウフムッシェルに伝わることになる。そのため、帰ってすぐに「ラムールではどうだった?」と尋ねてきたフィデリオには白状することにしたのだ。
目の前のフィデリオは、わなわなと肩を震わせ、蜂蜜色の瞳を険しくして、私を責めている。私はベッドに腰掛けたまま、彼から目を逸らした。
「……《速癒の祝福》を持つ相手の骨を折っただけでしょう。大袈裟だわ」
「骨を折っただけ!? 大袈裟!? ふざけるのも大概にしなよ、君、いい加減、本当に、これ以上なにかしでかす前に、俺がどうにかしてやろうか」
殺される、と本能で思った。まさかフィデリオがそんなことをするはずがないと思っているけれど、ここまで怒り心頭の彼ならば、魔が差してがじゅうぶんにありえる。
私は口答えするのをやめ、代わりに不服の表情を作る。
「だって、あいつが」
「彼が? なに。言ってみなよ」
「私に向かって、不細工とか、醜女とか、フェアリッテと比べて……」
「は? 醜女?」フィデリオはわずかに眉を顰める。「捻くれ者で不器用で、迂闊で愚かで、運命だって見放すくらい性根も腐り落ちてて、そんな君の唯一の救いみたいな長所を、よりにもよって醜女と?」
「……言っておきますけれど、貴方の言いようは、ボースハイト姉弟よりもクシェルよりも散々なものだから」
「いや、君が罵られたことはともかくとして……え、もしかして、不細工って言われたことがショックだったのか? フェアリッテと比べられて、怒って、それで相手に怪我を?」
「わかったでしょ?」
「わかったってありえない」フィデリオは
さっきまで途轍もない剣幕だったフィデリオが、今度は項垂れるように力をなくす。両手で顔を覆っているために定かではないが、もしかしたら青白くなっているかもしれない。そう思わせるほど、脱力したような声音だった。
私は彼のつむじを見上げながら、じっと次のお咎めを待つ。経験上、フィデリオは沸点を超えると一気に沈下し、
「ありえない、なんでそう、短気で短絡的で、すぐに手が出る、実力行使ならぬ暴力行使、少しはまともになったと思ったのに」
「……これでも我慢したほうよ。出会い頭から感じが悪かったのはあっちだもの」
「この期に及んで」
「本当よ。アーノルドやクシェルに聞いてみるといいわ」
「だからって、相手が怪我をするくらい蹴りつけるなんて、淑女として以前に、人としてどうなんだ。俺は気が長いほうだと思うけど、そろそろうんざりする……毎度毎度、君がなにをしでかしたかを聞かされる、俺の身にもなってくれよ」
「そうよね、いつも私の尻拭いをしている貴方からしてみればたまったものではないのだし、他人事ではないわよね」
遠回しに、どうせ貴方には関係のないことだと、皮肉ったつもりだった。
「本当にね」
しかし、うんざりしながらもフィデリオがそのように即答したので、私は意表を突かれる。
言葉を失った私に気づかず、フィデリオは「はああ」と天を仰いだ。
「俺の人生において、君は、最も俺の手を焼かせた女の子だと思うよ。なんなら、乳母と俺で君を育てようなものだ」
「……なにそれ、親気取り?」
「ともあれ、こうして
「…………」
「ヴィーラ?」
目を細めるフィデリオに、私は「貴方の思っているような事態ではないのよ」と告げる。どういうことかと目を眇めた彼に、私は説明した。
——あのあと、ぐったりするノワイエをクシェルが自分の馬に乗せ、私たちはアーノルドたちと共に、ジャルダン家に戻った。
騒ぎを聞きつけた家令やメイド、オルタンシアにフレーズ・ル・ジャルダン辺境伯が出てきて、いたるところに怪我をしたノワイエを抱きかかえる。やや遅れてブルーメンブラット辺境伯も現れた。
「なにがあったのだ」
真っ青な顔で唸る我が子を見て、ジャルダン辺境伯は尋ねた。詳しい事情の知らない令息たちは「森で迷子に」「馬を走らせたまま消えて」と断片的な状況しか伝えられなかった。そこへクシェルが口を開く。
「どうやら、馬に乗ったまま斜面を滑り落ち、怪我をしてしまったようなのです。幸い、アウフムッシェル嬢が見つけてくださいましたが……ノワイエさまの様子を見るに、骨が折れているやもしれません」
それを聞いて誰よりも顔を歪めたのは、他の誰でもない私だろう。クシェルが、その目で見たものを、あえて伏せているのがわかったので。眉を顰めた私は、クシェルを見つめる。
クシェルのとことだから、真っ先に私を晒しあげると思っていた。交流会の意義だの、貴族としての責務だの、そういう面倒なものをクシェルは重要視する。
しかし、目の前のクシェルは、後ろめたいことなど何一つもないという平然で、家令に「一刻も早く手当てをして、安静にしていただかなくては」と告げるだけだ。
すると、呻くことしかできなかったノワイエが「違う」と血反吐を吐くように言う。
「俺の、怪我は、あの女のせいだ、あいつが、俺の骨を折ったんだ」
ノワイエは譫言のように、それでも必死に主張した。
あの女と聞いて、訝しみながらも家令やメイドが私を見遣る。ジャルダン辺境伯は半信半疑で「どういうことだ?」とこぼした。
すかさずクシェルが「わかりません」と答える。
「僕が駆けつけたときには、怪我を負ったノワイエさまを、アウフムッシェル嬢が見つけたあとでしたので。アウフムッシェル嬢がノワイエさまの具合を伺っているように僕の目には見えましたが……」クシェルは私を見遣る。「アウフムッシェル嬢。なにがあったか話せるか?」
クシェルの怜悧な瞳とかちあう。その瞳は疑いようもないほど雄弁だった。
——この男、揉み消すつもりだ。
ジャルダン家の令息への誠意と、交流会の成否、その二つを秤にかけ、後者を選んだのだ。私の暴挙など見なかったことにして、このまま何事もなく交流会を終えようとしている。
今思えば、たとえ真実が明るみになったとしても、なにも知らないと主張している自分に火の粉がかかることはないと、クシェルは踏んだのだろう。それこそ、ノワイエ当人に責められたところで、クシェルは無実を言い張れる。
クシェルは無謀な賭けには出ない。勝算があるからこそ、大胆にも仕掛けたのだ。
ラムールに滞在しておよそ一ヶ月半、この短くない期間で、誰がどのように評価されていて、誰の主張が通りやすい状況だったか、冷静に判断していた。
私はその打算に乗った。
「……私が……私が悪いのです」
「なに?」
「ノワイエさまが馬を走らせたのは、私のせいなのです」私は切ない表情を作り、重々しく告げる。「遠乗りの最中、皆さまが私の馬術を褒めてくださって、きっと、私も得意になっていたのがよくなかったんだわ……ノワイエさまはそれを聞いて、自分もそれくらいできると、速度を上げたそうなのです」
私は両手を組んで、ぎゅっと握り締める。自責の念に押し潰されそうになっている、可哀想な令嬢を演じた。
そして、それは見事に刺さった。
成り行きを見守っていたアーノルドが、宥めるように私に声をかける。
「そんな、らしくないことを言うものじゃない。ノワイエさまが森に迷われたのは君のせいじゃない。あの場にいる誰も、君を責めたりはしないよ」
“らしくないこと”は余計だが、アーノルドのフォローにより、ラムールの令息たちも「そうですよ」「あれは話の流れでそうなっただけで、アウフムッシェル嬢はなにも悪くありません」と続いた。
一連の会話を聞いていたオルタンシアは、呆れたようにこぼす。
「プリマヴィーラ嬢に張り合って、ノワイエは怪我をしたのね……」
それが、この状況で出た結論だった。
ノワイエは「違う」「おい」と反論したものの、折れた肋骨が痛むのか、次第にそれは呻き声へと変わる。
その様子を見て、オルタンシアは「早くノワイエを手当てしてあげましょう」と言った。
「ぐっ……やめ、離せ! 話を、聞け、オルタンシア!」
「聞いていますよ。いいから貴方は治療を受けなさい。いくら祝福があるとはいえ、その大怪我では傷も痛むでしょう」
「だから、あいつが、俺を蹴りあげて、俺の骨を折ったんだよ!」
「馬鹿おっしゃい。責任転嫁の次は、そんな嘘をでっちあげて。いくら年上と言えど女性であるプリマヴィーラ嬢が、貴方にそんな乱暴なこと、できるわけがないでしょう」
「信じてくれ、本当に、」
「お黙りなさい!」オルタンシアは目を細め、声を張りあげた。「交流会が始まってからずっと、プリマヴィーラ嬢に突っかかって、無礼を働いて! それをプリマヴィーラ嬢がお許しになったのは、彼女が分別のある社交人だからよ! それを貴方は、いつまで経っても! これ以上、ジャルダン家の顔に泥を塗るのはおやめなさい! 万が一、億が一、貴方の言うことが本当だったとして、これまで数々の狼藉を働いてきた貴方に、彼女を責める資格はこれっぽっちもないわ!」
オルタンシア、貴女って最高。
この交流会を通じて私を信頼してくれたオルタンシアは、“ノワイエに言いがかりをつけられるプリマヴィーラ”を信じた。
もちろん、ノワイエが否定しているために釈然としないものはあっただろうが、私に非の打ちどころを
「——というわけで、」私はフィデリオに言う。「ブルーメンブラットから話が下りてくるにしても、そういうハプニングがあった、という報告程度よ。ジャルダン家に対するフォローのため、“お騒がせして申し訳ありません”だとか、一筆書くことになるかもしれないと言われたけれど」
ブルーメンブラットを通す以上、アウフムッシェル夫妻にも話が伝わるだろうから、なんらかのお叱りを受けるかもしれない。
ただ、表向き、私はむしろ被害者だ。罪悪感など毛ほどもないので、堂々と居直ってやると決めている。
話を聞いたフィデリオは信じられないというふうに「クシェルまで……」とこぼす。
「ほらね。貴方が思うよりも悪くない状況だったでしょう?」
「むしろ最悪なんだけど」フィデリオは深いため息をつく。「上手くやったものだけど、絶対に相手から恨まれるぞ。こんな目に遭わされて、きれいさっぱり水に流せる人間がいたら、それはよほどの善人か狂人だ」
「いいでしょ。どうせもう二度と会うことのない相手よ」
「そう暢気にかまえてられるといいけど」
フィデリオはそっぽを向いてこぼした。そんな脅すようなことを言っても無駄だ。私は「そろそろ出ていってちょうだい」とフィデリオに告げる。
「ただでさえ疲れているのに、まだ荷解きも済んでいないのよ?」
「ずいぶんたくさん荷物があるようだけど」
「ええ。ラムールのドレスに、生地に、食べ物に、化粧水に、こっちはパルシュマン社の羊皮紙。紙ってたくさんあると重たいのね」
「楽しんできたようでなによりだよ。そんなにたくさん買いこんで……無駄遣いだって怒られても知らないからね。大体、その見覚えのないトランクはなに? 開けるまでもなくぱんぱんだけど、まさかその中身もラムールの土産じゃないだろうな」
「土産よ。持って行ったトランクに入らなくて、新しく買ったの」
「そんなに買ってどうするんだよ……」
フィデリオが文句ばかり言うので、そこまで言われるのかと、私も臍を曲げる。私だって無駄に買いこんだことくらいわかっているのに。
「……乳母にあげるの」
「え?」
「……なにがよいかわからなくて、決められなかったのよ。いろいろ考えたけど、外したものが乳母の気に入るものだったらって思ったら、一つに絞れなくて。長年すごしてきたのに、私、乳母の好きなものを知らなかったんだわ」
ベッドから立ち上がった私はトランクのほうへ行き、ドレスを手で捌きながらその場に膝をつく。合わせ貝のようになったトランクをぱかりと開けると、フィデリオもこちらへ近づいてきた。
彼は黙ってトランクを挟んだ私の対面にしゃがみこんだ。私は彼のほうを見ずに、トランクの中身へと視線を落とす。
「そこまで言うなら、貴方がこの中から選んでよ。どれをあげたら乳母は嬉しい?」
「……君、これ、全部乳母に?」
「持ち帰るのに困るだけだって言いたいんでしょう。わかってるわよ。私だってすごく重たかったんだから」
「そっちの荷物は君の?」
「フェアリッテと、パトリツィアと、カトリナに。あれはゼフィアの餌」
「そこの辞典より重そうな紙の束は?」
「貴方によ。そろそろ紙がなくなるって、言ってなかった? 自分の部屋に戻るときにはそれも持って帰ってね」
私はトランクの内ベルトを緩めながら「ラムール産の紙は書き心地がよいそうよ」と言葉を続ける。トランクの端のほうに寄せていた、塩漬けにしたオリーブのペーストを取りだす。丸っこい瓶にはシックな絵のラベルが貼ってあった。これは私も自分用に買っているけれど、乳母も美味しいと思うのだろうか。
せっかく買ったもののほとんどが、どんどん無意味に、価値のないものに思えきて、私はぼんやりとラベルを眺める。
すると、私のつむじあたりで、温かい感触が動いた。あまりに慣れず、それがなんなのか
面食らった私は、ぼとりと、持っていた瓶をトランクの中に落とす。突飛のことに目を白黒させている私へ、何故か私と同じくらい目を白黒とさせているフィデリオが、遠慮がちに口を開く。
「えっと、ごめん。つい手が」
「…………」
「いや、俺も悪いけどさ、そんな顔で睨まないでくれる?」
フィデリオはそっと私の頭から手を離した。彼の熱がまだつむじに残っていて、なんとも言えない気持ちになる。それを振り払うように私は立ちあがり、「出てって」と訴える。
フィデリオは自分の非を認めたようで、私の鋭い物言いも指摘せず、「仰せとあらば」と立ちあがった。
「じゃあ、ありがたく紙はいただくから」
「勝手にして」
「それと、乳母にはその
「わかったから出てって」
「今夜はゆっくり休んで」
「あんたがいると休めない」
私の言葉に追いたてられるように、フィデリオは部屋の扉へと向かう。私がその背中を忌々しく見つめていると、彼は「そうだ」と思い出したように振り返った。
「君のいないあいだの話だけど、」
「疲れてるって言ってるのがわからないのかしら」
「もう大丈夫なことかもしれないけど、もしかしたら君にも心の準備が必要かもしれないし、あと少しで学校も始まるんだから、早めに言っておいたほうがいいと思って」
「フィデリオ、貴方、しばらく見ないうちに耳が遠くなったの? 見た目よりもずっと耄碌してらっしゃるのね」
「君の友人……の、クラウディア・フォルトナー嬢が、社交界に復帰したんだ」
その名を聞いて、私の中の全ての熱が、たちまち鎮火する。
まるで呪文みたいだ。氷漬けの魔法をかけられたかのように、私は呆然とその場に立ちつくした。心臓の奥がざわざわと蠢く。
なにも言えなくなった私を気遣うように、少し間を置いて、フィデリオが続ける。
「そして、今学期からの復学が決まっている」
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