第4話 雉にも鳴かずば撃たれまい
「もう懲りたでしょう、プリマヴィーラさま」
仕置き部屋の中で寝ていた幼い私を、鉄格子越しの乳母が起こす。
彼女の手には銀の盆があり、どうやら食事を持ってきてくれたらしいと察する。
私は伸びをして起き上がった。体が軋んでいた。冷たい石畳と隙間風に晒された服は、あちこちに皺が寄り、薄汚れている。汚れを手で払うと、手の平にざらざらとした感触が残った。最悪の寝起きだ。
「懲りたってなにが?」
「いい加減、出会い頭に奥様へ唾を吐き捨てるのはおやめください。私はそのように育てた覚えはありません」
「だって、夫人ったら、私と会うたびに顔を顰められるんだもの。まるで捨て忘れたごみでも見つけたみたいに。それに、私がこのように育ったのはフィデリオにかかりっきり乳母のせいではないから安心して」
私がそう突っ返すと、乳母は、減らず口ばかりお上手になって、とため息をついた。きっと次には、フィデリオさまならこうはならないのに、と続けるはずだ。彼女はフィデリオの乳母だから。私はあくまでおまけにすぎない。
「フィデリオさまならこうはならないのに。あの方の爪の垢を煎じて飲んでみればよろしいかと」
「あいつの? 汚いしまずそうね」
「あいつではなく彼です! そんな言葉と振る舞いばかり覚えて……」
「使うべきでない場所では使わないわ。すべきでない相手にもそうは振る舞わない。にしても、一日経っても出してくれないなんて、夫人の機嫌はそんなに悪いの? 唾の飛ばし具合がいけなかった?」
「唾を飛ばしたことがよくなかったのです。ちなみに奥様は、ただいまブルーメンブラットから客人が来ておりますので、もてなすのにお忙しいのかと。プリマヴィーラさまを閉じこめたこともすっかりお忘れになっているのでしょう」
「お父様が来ているの!?」
ブルーメンブラットと聞いて、私は鉄格子に縋りつき、乳母へと顔を近づけた。
乳母は「唾が飛びました」と顔を顰めた。私は「これは飛ぶべくして飛んだ唾ね」と返した。乳母はため息をついてから告げる。
「旦那様と奥様が、食事に招待されたのです。少し前にフェアリッテさまのお誕生日もありましたからね。プレゼントを用意されたのですよ」
鉄格子を握る手に力をこめる。冷たくて硬い。錆びた匂いもする。
そのフェアリッテとやらがどれほどえらいのかしら。
私だって、お父様の娘なのよ。
「……私だって、一昨日、誕生日だったのよ」
それなのに、お父様はプレゼントも手紙もくださらない。アウフムッシェルではケーキが用意されたけれど、きっとフェアリッテほどじゃない。その子はお父様に愛されて、夫人にももてなされるほど優しくされて、どうして私とはこんなにも違うの?
俯く私に、乳母は「……存じております。ですから、プレゼントを差しあげたでしょう」と語りかけた。私は顔を上げ、鼻で笑ってやった。
「絵を描く趣味もない娘へ贈った、貝殻に入った絵の具のこと? 素晴らしい贈り物ね」私はきっぱりと告げる。「私が欲しいのはそれじゃない」
私が欲しかったのは、リーベの子供たちがこぞって求める、当時の流行りのクマのぬいぐるみだった。
小さな玩具屋の商品だったが、王妃が王女へと贈ったのがきっかけで話題となり、親からの愛の象徴として、一躍人気となったのだ。小さな玩具屋で生まれたそれは飛ぶように売れ、生産が追いついていないらしい。
噂を聞きつけた私も、その
けれど、私は
「申し訳ありません」
乳母は私の
私はもう一度だけ鼻を鳴らし、乳母の持つ銀のお盆を見つめた。
「それで? こんなところに閉じこめられて可哀想な私の今日のごはんはなに? 腐った豆のスープかしら? それとも
「私が腕によりをかけて作ったシチューです。温かいうちにお召し上がりください」
そう言って、乳母は鉄格子の下の差込口から食事を通し、仕置き部屋を後にした。
乳母の足音が完全に聞こえなくなったところで、私は盆の上に乗ったスプーンを手に取った。シチューに用はない。どうせ食べられたものではないのだから。
スプーンの掴んだ手を鉄格子の隙間へ潜らせた。かちゃかちゃと音を立て、部屋の外に取りつけられた錠前をスプーンの柄の先で暴く。慣れたものだ。
がちゃん、と開錠したので、私は仕置き部屋を出ることにする。錆の匂いの染みついたスプーンをシチューの中へ浸した。証拠隠滅である。
階段を上がり、武器庫、貯蔵庫、使用人たちが夕餉の仕込みをする厨房を、こそこそと猫のような足取りで抜け、邸の外に出た。
日差しが眩しい。ほんのりと薫る潮風と、存在感のある浜梨の香り。息をめいっぱい吸いこんで、私は地面を踏みしめる。
日の下に出ると、私の格好はことさらみすぼらしく見えた。紐で縛りあげた革製のボディスに若葉色のドレス。仕置き部屋にいたためにあちこち汚れてもいて、あまりに不憫だ。
アウフムッシェル邸で私がどんな扱いを受けているのか、きっとお父様はお知りにならないんだわ。けれど、こんな姿でいるのを見たら、私をブルーメンブラット邸へ連れ帰ってくれるかもしれない。
父を探してあちこち動き回る。ようやく見つけたと思ったときには、もうブルーメンブラット邸へと帰るところだったらしく、馬車に乗り終えたあとだった。
せめてその姿を一目でも見たかった。
屋敷の陰で意気消沈する。
アウフムッシェル伯爵や夫人が見送りに来ていたため、その場へ出ていくこともできなかった。仕置き部屋から抜けだしたことが夫人にばれてしまう。いや、そもそも仕置き部屋に閉じこめたことを忘れているんだったわね。いっそ目の前に飛びだしてしまったほうがいいかしら。お父様が夫人をお叱りになるかもしれない。これはとてつもない名案に思えた。
なかなかお会いになれないだけで、私はお父様の娘だもの。一目でも会えればきっと優しく迎えてくれるはずだし、かわいがってくれるはずだわ。それで、これまで私をいじめてきたアウフムッシェルの人間を懲らしめて、私は幸せに暮らすの。
そこまで耽るように思い描いて——しかし、そんな私の考えも、彼女の姿を見たときに打ち砕かれる。
ふんわりと波打つ
なにより目を引いたのは、彼女の抱きしめるクマのぬいぐるみ。
フレーゲル・ベア。
そのふわふわとした大きな耳のあいだに顔を埋めながら、少女は幸せそうな笑みを浮かべていた。少女が馬車に乗るのを見守っていた夫人が「ずいぶんと気に入っているのですね、フェアリッテさま」と声をかける。
「この前の誕生日に、お父様がくださったの!」フェアリッテと呼ばれた少女が顔を上げる。「フレーゲル・ベアよ。夫人もご存じですの?」
「リーベの子供たちがこぞって親にねだっていると聞きましたよ。最近では手に入れるのも難しいのだとか」
「ふふっ、あちこち探し回って、いろんなところに声をかけて、お父様が用意してくださったのですって。これが最後の一つだったと聞きましたわ」
「それはよかったですね。フェアリッテさまの喜ぶ顔を見られて、私たちも嬉しゅうございます。どうぞ大事になさってください」
「もちろんです!」
頭を撫でられて、そのぬいぐるみを抱きしめて、子供ながらに優雅なお辞儀をして去っていくその少女は、幸せそうな、本当に幸せそうな笑顔を浮かべていた。
あの子が、フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット。
それを見た私の心には、羊皮紙にこぼしたインクのように、じわじわと広がっていく感情が灯った。それはいまにも喉元をせりあがり、あちこちに叫んで撒き散らしてやりたいほどのものだった。私は歯を食いしばりながら、ドレスの裾を握り潰す。
彼女が、私のものを奪っていく。
彼女のせいで、私はこんな目に遭う。
彼女がいるから、私はこんな気持ちになる。
憎くて憎くてしかたがない。夫人の意地悪も、乳母の怠慢も、使用人の陰口すらこれまで耐えてきた私だというのに、フェアリッテの暢気な笑顔だけは、なにがあっても許すことができなかった。その笑顔を剥いで、全てを奪ってやりたいと思った。
私とフェアリッテの正式な邂逅——アウフムッシェル邸の庭でのお茶会から、およそ七年前の出来事である。
冬休みということで、私はアウフムッシェル邸へと帰省していた。
夫人と顔を見合わせても碌なことにならないので、部屋にこもって宿題を終わらせ、気晴らしのために愛馬と浜辺を駆ける。そんな生活を送っていたら、冬休みはあっという間に進んでいて、明後日からはいよいよ新学期が始まろうとしていた。
休みのあいだもクラウディアとは手紙を出しあっていた。クラウディアは「手慰みに作ったものでよければ」と見事な刺繍の入ったハンカチを送ってくれた。
彼女の生家であるフォルトナー伯爵家は王国屈指の商団と製糸工場を持っている。その伝手で入手したであろう、海の向こうから取り寄せたらしい立派な絹に、丹青な糸で刺された刺繍は、名馬と若葉を流麗に刻んでいた。
ちなみに、ルームメイトであるリンケとコースフェルトからも一通ずついただいている。当たり障りのない返事をして、そこから文通は途絶えたものの、彼女たちの律義な性格を感じていた。
誰もいない浜辺を気持ちよく駆け抜ける。冬の彩の月の風は刺すように冷たく、海辺ともなると、血を吹きだしそうなほどだった。
ややすると、波打ち際に深く刺さった簡素な的が並ぶ。背負っていた弓を握りしめ、矢を番えた。愛馬に跨り、浜辺を駆け抜けながら、私は次から次へと矢で的を射抜いていく。
そのとき、「プリマヴィーラさま!」と張りあげるような声を聞いた。
振り返ると、乳母が私へ手を振っていた。その手には一通の手紙が握られているのが見えて、私は引き返し、乳母のもとへと駆け寄った。
「そんな大声を出してはしたないわよ。乳母ももう歳なんだから」
「この歳の乳母に無体を強いないでいただきたいものです。また遠乗りにでも行こうというのですか? プリマヴィーラさまは帰省されてから一日として外へ出られなかった日はございません」
「屋敷は息が詰まるもの。それで? その手紙は?」
「ブルーメンブラットからです」
私は馬を飛び降りた。乳母から手紙をふんだくって、差出人を見る——フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット。その名に眉を顰めた。
「なあんだ、またフェアリッテか」
「なんだとはなんでございますか。フィデリオさまから伺いましたよ。プリマヴィーラさまとフェアリッテさまよいご学友であると……本当にございますか? この冬休みのあいだは頻繁に手紙の交換をされていますし」
「本当本当」私は愛馬を牽きながら答えた。「もうすぐ休み明けだけれど、どうせすぐ届くし、返しておいたほうがいいわよね。便箋と封筒を用意して。薔薇の香も焚き染めたいから、使用人に聞いて準備させて」
「なんと。お香にまで気を遣うだなんて、乳母は嬉しゅうございます」乳母はわざとらしく涙を拭う真似をした。「あのプリマヴィーラさまとフェアリッテさまがここまで仲良くなるとは……昔、お誕生日に買い与えた絵の具でフェアリッテさまの死体をお描きになったときは、本当に、育てかたを間違えたと思ったものですが……」
「昔の話でしょう。そんな真似はしないわ」
いまは本物の死体にするのを企んでいる。
そういう意味では、私の育てかたを致命的に間違えたと言える。
「絵描きの趣味もないのに、乳母が絵の具なんて贈るから」
「贈ってからはたくさん描いてくださったではありませんか。ドレスに花にフレーゲル・ベア……最後までちゃんと使い切ってくださったことだけは乳母も嬉しく思っておりました。その後、嗜まれることはありませんでしたが」
「絵は性に合わない。苛々する」
「ところで、フィデリオさまから聞きましたが、新学期には学校のほうでも狩猟祭が催されるようですね」乳母は私に尋ねる。「もちろん、プリマヴィーラさまも参加されるのでしょう?」
狩猟祭。正式名称を、謝肉祭。
リーベでは、春の花が蕾から芽吹く日を、
信仰も薄れ、催しだけが普及しているようだが、貴族は今もなお、その謝肉祭を本来の意味どおりにおこなっている。
学校で催される狩猟祭は、
「私は狩猟祭に参加しないわよ」
「参加しない?」乳母は目を見開く。「貴女さまがですか?」
「ええ」
「どうして……プリマヴィーラさまの狩猟の腕前なら、いっとう大きい獲物を狩ることもできるでしょうに。みんなに自慢できますよ。もてはやされますよ」
「乳母は私をなんだと思っているのかしら」
時を遡る前は私も参加した狩猟祭——同じく参加していたフェアリッテを、狩猟にかこつけて脅かしたものだ。
あれはたしかに楽しかった。怯えるフェアリッテに向かってわざと矢を射るのには、とても興が乗った。もちろん、
ともあれ、思い出としてはよい狩猟祭だが、時を遡る前と違い、現在のフェアリッテには《除災の祝福》がある。あらゆる刃を跳ね返すこの力は、矢すらも同様に打ち払うのだ。彼女をいびれない以上、私に参加するメリットはない。
「……だってね、乳母。私はたしかに弓矢の扱いも上手だけれど、周りがそうとはかぎらないでしょう? 獲物ではなく私に矢が当たりでもしたら、たまったものじゃないわ。だから、残念だけど、狩猟祭には参加しない」
「なるほど。プリマヴィーラさまは他の方々の腕前を疑っているんですね」
「人聞きの悪い」
「人が悪いんです、プリマヴィーラさまの。本当によろしいのですか? フィデリオさまとフェアリッテさまは参加されるようですよ? ブルーメンガルテンのところのクシェルさまの付き添いだそうで」
「ああ、彼の選択教養は騎射だものね」
「そうでなくとも、クシェルさまは《騎乗の祝福》を受けておられますから、乗馬に長けておられます。弓の腕前までは測りかねますが、代々騎士も輩出していたブルーメンガルテンですしね、教育は受けておいででしょう」
私は「へえ」と返した。興味がなかったのだ。とにかく私には関係のない話だったし、フェアリッテが今回も参加するなら、応援するふりとかでもしなくちゃいけないのかなあ、なんて考えていた。
まさかこのときは、「私も参加します」と自ら宣言することになるだなんて、思いもよらなかった。
その数日後、新学期を迎えるためにいよいよアウフムッシェル邸を発たねばならなくなり、私とフィデリオは馬車に乗りこんだ。学校に到着したのは新学期の前日、すっかり日も落ちこんだ宵暮れで、寮も談話室も、帰省から学校へ戻ってきた生徒で溢れかえっていた。
久しぶりに会うルームメイトと挨拶を交わし、私は自分のベッドの上で荷解きをする。リンケとコースフェルトが友人に挨拶をしてくるというので、私とクラウディアはそれを見送った。
二人が出て行ったのと同時に、クラウディアはさっと私のベッドへと腰かける。その勢いでマットが深く沈んだ。
「ねえ、聞いた? プリマヴィーラ」囁くような声でクラウディアが言う。「ラインハルト嬢とファザーン嬢が帰省から戻ってきていないという話」
「デビュタントでの一件、結局、二人は謹慎処分になったそうね。一歩間違えれば怪我人が出ていたということで、先生方も厳重に注意したと聞いたわ。いい気味よ」
「火の粉を浴びずに、いえ、シャンパンを浴びずに済んで、貴女は幸いだったけれど……二人ともお可哀想」
そうこぼしたクラウディアは、ちっとも可哀想だとは思っていないような涼しげな顔をしていた。瞳に滲むのは憐憫でなく失望に近い。
「謹慎が明けても学校には戻りづらいでしょうね。やるときは上手くやらないとだめなのに」
やってはいけないなどとクラウディアは言わない。己がなんらかの害を被ることがないように、あるいは罪を免れるように、したたかに、涼しげに、上手にやりぬけと言う。
クラウディアのそういうところが、私は好きだった。
「よく言ってくれるわね。彼女たちに上手くやられていたら、私があんな目に遭っていたのよ?」
「でも、実際には、無様にも下手を打ってしまわれたじゃない。よりにもよって、自分たちの傾倒しているブルーメンブラット嬢を貶めたのでしょう? 本末転倒だわ。私としては実に笑えたけれど」
「悪い子ね」
「貴女ほどじゃないわ」
「まあ、どちらにしろ、貴女を前にして罪を免れることなんてできやしないでしょう。《真実の祝福》を受けているんだから」
「そう差し向けたのはどこの誰よ。おかげであのあとも面倒だったわ。ファザーン嬢が話すのを渋るのと、先生が詳しい話を聞きたがるのとで、私の助力が必要だとか言って」
「感謝してるのよ、クラウディア。それにハンカチもありがとう。見て」私はポケットからハンカチを取りだした。「早速使っているのよ。手紙に同封されているのを見つけて、どれだけ嬉しかったことか」
「……あらそう」一度ため息をついたものの、クラウディアは微笑んだ。「ぜひ、たくさん使ってちょうだいね。貴女を思いながら一針一針刺したんだから」
私は嬉しくなって「ふふふ」と笑みをこぼした。
その後、食事に行こうかということで、私とクラウディアも部屋を出た。
すると、第一学年用の談話室に、妙な人集りができているのを見つけた。クラウディアも「なんの騒ぎかしら」と首を傾げる。私たちは人集りのほうへ近づいていく。
「なにがあったのかしら」
「上級生が押しかけてきたのさ」答えたのはギュンターだった。「話を聞くに、年末に問題を起こしたファザーン嬢の兄君のようだ。その件に関してお怒りらしく、どうも話にならなくて……いまは騒ぎを聞きつけた監督生に仲裁してもらっている」
そのとき、人集りの中心から、「だから、その娘を出せと言っている!」と吠えるような声が聞こえた。
目を凝らすと、ファザーン嬢と同じ巻き毛の令息がいた。おそらく彼が
仲裁している監督生というのはクシェルのことだったようで、ファザーン卿の目の前には薔薇のような赤髪が見えた。
「落ち着け、ファザーン」クシェルは呼びかけた。「お前もわかっているはずだ。あの件についてはとうに片づいている。蒸し返すだけ無駄だ」
「お前は黙っていろ、ブルーメンガルテン!」ファザーン卿は反発した。「可哀想に、俺の妹は塞ぎこんでしまった……誰かを陥れられるような考えを持つ子ではないんだ! 俺の妹に濡れ衣を着せたという、クラウディア・フォルトナーを出せ!」
それまで涼しげな態度を崩さなかったクラウディアの顔から、色という色、情緒という情緒、全てが削げ落ちた。クラウディアはギュンターには見えないよう、私の足を踏む。貴女のせいよ、という声が聞こえた気がした。
ギュンターが「ご愁傷様だね」とクラウディアを振り返ったときには、クラウディアは外行きの表情で「そんな……」と口元を手で覆っていた。その姿があまりにも哀れに映ったのか、ギュンターは「騒ぎが収まるまで部屋にいたほうがいい」とクラウディアに囁く。クラウディアは「そうするわ」と言って、踵を返した。
そんな私たちにも気づかずに、クシェルとファザーン卿の会話は進んでいく。ついに声を荒げるファザーン卿にほとほと呆れたらしいクシェルは、目を細め、冷めた声で言う。
「……口の利きかたに気をつけるべきでは? ファザーン子爵家のマンフレート・ファザーン卿。貴殿は子爵家の令息であり、貴殿が呼び捨てた相手はフォルトナー伯爵家の令嬢だ。いくら下級生といえど、自身よりも高位の者にしていい振る舞いではない。下級生を無闇に
監督生として、王領伯ブルーメンガルテンの令息として、クシェルはファザーン卿を咎めた。
ファザーン卿は怯んで口を閉ざす。間を置いて、「そうだな……冷静さに欠けていた」と呟いた。クシェルは「まったくだ」と返す。
「聞くところによると、お前の妹の咎に間違いはないのだろう。フォルトナー嬢は《真実の祝福》を授かった身だぞ。僕もあの場にいたんだからわかる。それに、お前の妹が害したのはブルーメンブラットだ。僕個人としても不愉快ではある」
クシェルの背後にいたフェアリッテが「私は大丈夫ですわ、クシェルさま」と微笑みかけた。どうやら、クシェルが仲裁に入るまでファザーン卿の応対をしていたのはフェアリッテだったようだ。ファザーン卿はよりにもよっての相手に話しかけたらしい。この短い時間の中で、分別のないまぬけが騒ぎたてているだけなのだろうと理解した。
「それは、そうだが」ファザーン卿は納得したようだが、不満は滲んでいた。「マルグリットは決してブルーメンブラット嬢を狙ったわけではないと言っていた。デビュタントに緑のドレスを着て参じた、アウフムッシェル嬢を狙ったのだと……しきたりを軽んじる不届き者を注意しようとしただけなんだ。この件に関しては、アウフムッシェル嬢にも責があると思う」
はあ? と、私は目を眇めた。
飛び火もいいところである。これ以上を責められるのが嫌で、話を脱線させるため、私の名を出したに違いない。見え透いた言い逃れだ。
しかし、相手が悪かった。ファザーン卿が相対しているのは、私のことをよくは思っていない、あのクシェルだ。
クシェルは「ふむ」と目を細め、「まあ、わからなくはない」とまともに取り合ってしまった。
「あれはたしかに出過ぎた真似だったな。鮮やかな色のドレスなど。しきたりを重んじた他の令嬢たちの気持ちを考えない、最低最悪の行為だったと言える」
「……ごめんなさい」
私と同じく最低最悪の行為をしたフェアリッテは、居心地が悪そうに謝罪をした。ふよふよと目を逸らす姿は滑稽だった。
「お前がそこまで気にやむ必要はない、フェアリッテ。大方、あの私生児に
どうかしらね、と私は腕を組んだ。
クシェルは庇うようなことを言ったものの、フェアリッテは自らあんな真似をしていた。
化粧室でドレスを交換するときなんて大はしゃぎで、「ふふふ! 貴女よりも似合ってるんじゃないしら! なーんて!」と自惚れるほど舞い上がっていた。
そのときの様子をクシェルに見せてやりたい。
「クシェルさま。
「私もということは、先んじたのはあいつだろう。なにを庇う」
「ブルーメンガルテンの言うとおりだ。あれは教育がなっていない。学校の風紀を乱す者を許すわけにはいかない」
だんだん、彼らの矛先が私へと向けられていくのを感じている。
近くにいたギュンターも他の生徒も、庇えない、と言いたげな顔でこちらを伺っていて、私もクラウディアと一緒に部屋へ戻っていればよかったと後悔した。
私への悪評価が再び広まりそうで不服だけれど、この場にいると気づかれたほうが面倒だ。何事もなくやりすごせるだけの自信がない。私のこの口が痺れを切らし、彼らを罵倒する前に、とっとと退散してしまおう。
私は踵を返そうとして、けれど、ファザーン卿の続けた言葉に、早々に我慢ならなくなった。
「あのフォルトナー嬢も品性を疑う。アウフムッシェル嬢と親しくしているとのことだし、真の友人なら彼女の愚行を止めるものだ。信用ならない。もしかすると、俺の妹を嵌めるために、嘘をついている可能性だってある」
冷静に考えれば、誰もがまだ言うかと思うほど、ひどく荒唐無稽な発言だったはずだ。
けれど、私は、目の前にいる生徒の肩を掴み、押しのけ、気づけばファザーン卿の眼前まで飛びだしていた。
「私の友人を侮辱するのはおやめください」
そう言って、私はファザーン卿を睨みあげた。突飛なことに彼が怯んだ隙に、「さきほどから黙って聞いていれば、品性の疑わしいことをおっしゃるのですね」と彼の言葉そっくりに吐き捨てる。
「先輩はどんなご用で下級生の談話室を尋ねられたのでしょうか。分別のない妹のための弁解? 咎なき下級生への濡れ衣? 私への罵倒? どれであろうと話は終わりですね。貴女の妹はフェアリッテにシャンパンをぶちまけたのに加担し、クラウディアはそれを正当に証明してみせただけ。私は私生児。貴方はお引き取りを。ここは第一学年生の談話室です。上級生の権威を振りかざして
しばしのあいだはたじろいでいたファザーン卿も、次の瞬間には険しい形相で、「やはり教育が行き届いていないようだ。口の聞きかたがなっていない」と反論した。
なにが教育だ、馬鹿の一つ覚えみたいにぺらぺらと。この場にいる全員が白けているのにも気がつかないくせに、こいつはどれほどの教育を受けてきたつもりなんだろうか。
私が内心で呆れていると、フェアリッテは「ヴィーラの言うとおりです!」とファザーン卿に食ってかかった。
「ファザーン卿、私もファザーン嬢のことを思うと胸が痛いです……彼女のことも友人だと思っていましたもの。だから、あんなことになって、私の姉妹を傷つけようとしていたなんて、本当につらいのです」
フェアリッテはデビュタントの悲劇の当事者であり、被害者だ。
そんな彼女の痛切な訴えには、ファザーン卿も目を逸らすしかないようだった。
クシェルはどこか痛ましそうにフェアリッテを見つめ、周囲の生徒も面持ちを暗くする。
「ファザーン卿のつらいお気持ちも、私にはわかります。ですが、それは、ヴィーラを貶める理由になんてならない……教育がなってないなんて、そんなひどいお言葉、撤回してください。彼女はとても優秀な成績を修めておりますし、馬術でも右に出る者はいないと先生が褒めていらっしゃいましたわ」
フェアリッテは私を庇おうとしたのかもしれないが、それが藪蛇となった——ファザーン卿が「馬術?」と目を細めたのだ。
彼の表情を見た私は、嫌な予感に差された。
「……ああ、なるほど、そういえばグルーバー先生がおっしゃっていた。アウフムッシェル嬢、君は馬を乗りこなすのに長けていると。第二学年でも騎射を選択するらしいね。先生が嬉しそうに話していたよ」
ファザーン卿の態度が一変する。落ち着きを取り戻したようにも、いっそ狂気を帯びたようにも感じる。言葉尻から品位を感じるものの、態度はどこか挑戦的だ。
「どうせ君も狩猟祭に参加するんだろう? 俺も出る予定だ。そこで俺よりも上等な獲物を捕らえることができたら認めよう、プリマヴィーラ・アウフムッシェルは教養のある優秀な生徒だと」
「……なにを言っておりますの?」突っ返したのはフェアリッテだった。「無意味ですわ。ヴィーラはすでに教養のある優秀な生徒です。ファザーン卿に認めてもらわずともみんなが知っています。そのようなことをする意味がわかりません」
「それは彼女のことを買いかぶりすぎではないかい? ブルーメンブラット嬢。みんながみんな彼女を認めているわけではないから、デビュタントの一件が起きたんだ」
「だからと言って、こんなの、おかしいですわ」
「なにがおかしい? それとも君は、馬術で右に出る者はいないとまで言われた彼女が、やはり僕には及ばないと思っているのか?」ファザーン卿は鼻で笑った。「たしかに俺は《
さきほどからファザーン卿の言っていることは支離滅裂だ。周囲も彼の威圧感に呑まれているだけで、その発言には納得していない。彼の痛々しさには、クシェルですら肩を竦めてそっぽを向く始末だった。
いまのファザーン卿に理路整然とした思考はない。
ただ、なんとしてでも私を貶めたいだけだ。
相手を屈服させて、やはり己が正しかったのだと知らしめたいだけだ。
私も同じだ。ここまで私を馬鹿にした彼を、貶めてやりたい、屈服させて、私が正しかったのだと知らしめてやりたい。クラウディアを侮辱したことを後悔させてやりたい。この場に出てきた時点で、もう我慢するのをやめているのだから。
フェアリッテを振り切り、私は「いいでしょう」とファザーン卿の誘いに乗る。
「狩猟祭には私も参加します。私が勝ったら、もう私や私の友人を
——以上が、私が狩猟祭に参加することになった経緯である。
きっと乳母が聞いたら、「やはり自慢して、もてはやされたかったのですね。乳母にはわかっておりました」だとか、そんなことを言うに違いないのだけれど。
狩猟祭にて私とファザーン卿が獲物を競うらしいという噂は一瞬で校内を回った。
まだ狩猟祭のある冬の光の月にもなっていないというのに、事あるごとにその話題で話しかけられた。
ファザーン卿と言い合った日の就寝間際には、リンケとコースフェルトから「先輩はどうかしてらっしゃるわ」「アウフムッシェル嬢、絶対に負けないでくださいね」と激励を受け、それを聞きつけたクラウディアからは「正気?」と神経を疑われた。誰のためだとも知らないで、涼しい顔をしているものだ。
翌日には教師からも「聞きましたよ、がんばってください」と面白半分の声をかけられ、馬術の授業ではギュンターなど令息一同から「狩猟祭に参加する僕たちも君のライバルだが、勝利を譲るなら君だと思っているよ」というお言葉をもらった。
同じだけ、非難も浴びた。主にファザーン卿の味方をする上級生からだ。すれ違いざまにじろじろと見られたり、生意気だと囁かれることも増えた。上級生には一定数、クシェルのように静観する者も、あるいは「不憫なものだ」と同情する者もいたけれど、大まかに見て校内は、私を支持する派とファザーン卿を派に分かれていた。
最初は「ファザーン卿のおっしゃることに付き合う
ちなみに、フェアリッテのいる班に加入することは辞退した。狩猟祭は個人で参加する者もいれば、幾人かが集った班で参加する者もいる。私は個人で参加するつもりだった。フェアリッテが所属するのはクシェルのいる班だ。あの男と連携が取れる気はしないし、時を遡る前も一人で参加していたため、今回もそうすることにしたのだ。
冬の光の月の上旬には、私とファザーン卿のどちらが勝つか、賭けをする生徒も増えた。実際の金銭取引はおこなわれないそうだが、代わりに「トラウトの名に賭けて」「マイヤーの名に賭けて」と、貴族の誇りが軽率に賭けられている。彼らの親である当代当主が聞いたら卒倒しそうだ。
——そして迎えた狩猟祭当日。
いつ雨天に転んでもおかしくはない曇り空で、生温い風が吹いていた。
生徒一同は制服を脱ぎ、丈の短いジャケットのような動きやすい狩猟服に身を包んでいる。
狩猟の場は学校が所有する森。豊かな果実に艶やかな花々、河川による水に恵まれた土地だったが、毒を持つ草花や大型獣なども生息し、針葉樹が群れを成す斜面や切りたった崖など、険しい側面も持つ狩り場だ。
狩猟祭におけるルールとして、移動手段に馬の使用を認めているが、鷹も猟犬も使ってはいけない。狩猟のための道具はボウガンを含む弓矢とナイフのみ、撒き餌や毒の持ちこみは禁止。また、グリズリーなどの大物を狙うことも推奨されていない。
狩猟祭に参加する令息令嬢の獲物には、
時を遡る前の私は、『誘い椿のヒヨドリ』を提出した。ヒヨドリが蜜を求めていたところを椿ごと矢で射抜いたもので、なかなか好評だった。しかし、それではファザーン卿に勝つことはできないだろう。彼がなにを狩っていたのかは思い出せないけれど、時を遡る前と現在の彼とでは、そもそもの心構えが違う。私を確実に負かせる獲物を狩ろうとするはずだから。
私は、馬から降りて木々に身を潜め、背負っていた革製の矢筒から矢を引き抜く。
番える弓はアウフムッシェルから送らせた、使い慣れた複合弓だ。普通の弓よりも威力を発揮し、学校の弓よりも手に馴染む。
きりきりと耳元で弓を引く音が鳴る。背筋が指先が呼吸しているかのよう。己の吐息よりも葉の揺らめきが耳に響く緊張感。私は息を止め、矢を放った。
私の矢はモモエリクロテンを見事に射抜いた。
ふう、と止めていた息を吐いて、私は弓を下ろした。
モモエリクロテンはこの森でしか発見されていない珍しいクロテンだ。胸に薄桃色の毛を蓄えているのが特徴で、元より高級な毛皮として需要が高いが、特に胸元の部分は貴族女性のあいだで人気なのだ。こういった希少性の高さも審査基準となる。
収穫としては上々だと、私は一人で笑んだ。
狩った獲物は自分のベースとする場に置いておく。班単位で動いている者は細かい処理なども班員に任せられるが、私は一人でこなさなければならない。
私は再び馬に跨り、ベースから離れて狩りに出た。
森は広く、他の生徒とすれ違うことは稀だった。馬の足音とわずかな吐息だけが感じられる。空を見上げればいまにも雨が落ちてきそうだった。じわじわと膿んだような深い色。そういえば、もう毒矢を使い果たしてしまったんだっけ。
狩猟祭に毒の持ちこみは禁じられているが、あくまで持ちこみのみだ。使用自体は認められている。この森には毒を持つ草花も多く自生しているので、その毒素を抽出し、矢に塗りこむのが通例である。
探索していると、いまいる獣道よりも少し標高の高い場所に、目当ての毒草を見つけた。馬を降りた私は、そこへ辿りつく道を探し、歩きはじめる。すると、どうしても岩場を登らねばならず、私は岩肌を掴みながら毒草を目指した。
やっと登り終え、地に足を踏みしめたとき、ふっと足元に矢が刺さった。
私はぎょっとして体を震わせる。すると、正面奥の茂みががさがさと揺れた気がした。このあたりを回っていた他の生徒が誤って射たものだろう。
これだから下手くそと回るのはいやなのだ。危うく射抜かれるところだったではないか。ばくばくと震える心臓を押さえつけながら、私は茂みの奥を睨みつけ、「ちょっと!」と声を荒げた。返事はない。どこかへ行ってしまったのかもしれない。
私はため息をつき、とにかく毒草を摘もうと犯人捜しを諦めた。
さて、と歩きだして数歩、またもや目の前を矢が走っていった。
瞬時に立ち止まったために当たることこそなかったが、私の眼前すれすれを通過した矢は、そのまま森を
「……誰かそこにいるの?」
返事はない。ただ、きっと、誰かがいるという確信があった。少し離れた場所から草花を踏みつける音。きりきりという矢の番える音。それも複数。私の背筋を冷や汗が伝った。私が「ねえ、」と言葉を重ねるのと、幾本ものの矢がこちらへと放たれたのは、同時のことだった。
もう反射だった。身を低くして、私は走りだした。
ひゅひゅんと矢の通過した音が聞こえた。体に痛みはない。当たってはいない。けれどなりふりかまってられない。私は指笛を吹いて馬を呼ぶ。せっかく登った崖を躊躇いもなく飛び降りれば、置き去りにした馬が迎えに来てくれていた。その背に着地すると、上空から降ってきた乗り手に馬は驚いたが、私が「行きなさい!」と叱咤すると、すぐに駆けだしてくれる。馬を走らせながらも、私の頭は冷静だった。
一度目は事故だと思ったが、二度目となればさすがに訝しむし、三度目のあれはまぎれもない——誰かが私を故意に狙っている。
そうしている間に、また矢が放たれた。
私が駆け抜けていく木々に、とすとすとす、と連続して矢が刺さっていく。
血の気が引いた。私はばっと振り返った。遠くに何人かの人影が見えた。背格好からして、おそらく男だ。また矢を手にかけるのが見えて、私は馬足を速める。まさか馬にも当てるつもりだろうか。学校から借りている馬なのに。慈悲の心ってものはないわけ? 怯えかけている馬に「大丈夫よ」と声をかけ、その首を撫でてやる。
そのまま馬を走らせていると、左手側から同じく馬の足音が聞こえた。それも複数だ。やつらが追いかけてきたに違いない。案の定、また矢が飛んできた。
どれも命中には程遠く、見当違いなところへ駆け抜けていったけれど、馬に当たりそうな矢があったので、私は反射的に弓で弾いた。その感触の
新たに矢を番えるファザーン卿と目が合った気がした。
手綱をぎゅっと握りしめながら、私はしみじみと思う——ああもう、やっぱり狩猟祭になんて、参加するんじゃなかった。
そして、また一本、矢が私へと放たれたのだった。
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