第7話 海の藻屑、水の泡、湖のルサールカ

 愛が欲しい。

 私のことを好きになって、大切にしてくれて、愛してくれるひとが欲しい。

 生まれてこのかた誰かに愛されたと思えたことがなくて、満たされないなにかを埋めたくて、必死に探していた。なんでもよかった。ううん、なんでもよくはない。柔らかくて、温かくて、優しくて、甘くて、私に嫌なことがあったら慰めてくれたり、私が怒ったら味方になってくれたり、私が笑っていたら楽しそうにしてくれたり、そういうなにかがいい。

 私の誕生日にはとびっきりのプレゼントを用意していてほしい。朝起きて目が合った瞬間に、おはようって挨拶をしてほしい。今日は特別に綺麗ねって褒めてほしい。笑いかけてほしい。生まれてきてくれてありがとうって、言ってほしい。

 このままだと、私は、溺れてしまうから。






「明日、フェアリッテを殺そうと思うの」


 昼休み、誰もいない空き教室で、私はクラウディアにそう告げた。

 午前の授業が終わって少し経ったころだったので、廊下にも人気ひとけはない。私とクラウディアの二人きりだ。明日の私の誕生パーティーにはクラウディアも出席してくれることになっているので、話しておいたほうがいいだろうと、私は告白したのだった。

 突飛な話だったというのに、クラウディアはしばし目を瞬かせただけで、「そうなの。上手くやることね」と返事をした。私がフェアリッテを憎んでいることは知っていても、まさか殺そうとしていただなんて思ってもみなかっただろうに、私の言葉を真に受け止め、そのうえで言ってくれた言葉だとわかった。クラウディアのこういうところを、私は信頼している。


「ありがとう。きっと明日、事が起きれば大騒ぎになるだろうし、貴女には伝えておこうと思ったのよ」

「言っておくけど、手を貸したりはできないわよ?」

「さすがにそんなことまで貴女にさせられないわ。ちゃんと私が殺すから」

「ならいいけど。本当にできるの? 彼女は《除災の祝福》を受けてるのよ? あらゆる毒も刃も、炎すら効かないわ。そんな相手を殺せるとは思えないけど」

「その祝福だって万能じゃないのよ」

「なあに、弱点でもあるの?」

「あるわ」


 私がしかと頷くと、クラウディアは驚いたように「えっ」と漏らした。

 たしかに《除災の祝福》はあらゆる刃や毒、炎を防ぐが、だけは防がないのだ。これはあくまで私の推測だが、人体には多くの水分が含まれるため、水は災いと見なされないのだろう。その証拠がシャンパンタワーの件だった。割れた硝子片で傷つけられることはなくとも、シャンパンはまんまと浴びてしまう。だからこそ、《除災の祝福》を受けていた時を遡る前の私も、毒殺未遂の罪を問われた際は、水を用いての死刑となった。溺死させることが一番の殺りかたなのだ。


「明日はアウフムッシェル領の、湖のある庭園へ行くわ。水中花を見るために遊覧船に乗る予定だから、そのときにフェアリッテを湖へ突き落すのよ。万が一にでも、岸辺まで泳いで助かったりしないよう、彼女には脱ぎにくいドレスを着てもらうわ」

「……どういうこと?」

「フェアリッテの誕生日に、紅茶と一緒にドレスも贈ったの。着つけに時間のかかって、脱ぐのにも手惑うような。フェアリッテにも当日はあれを着てきてって伝えてあるから、上手くいくと思う」私は続ける。「でも、そうね、ただフェアリッテを突き落したんじゃ私も疑われかねないから、一緒に落ちてしまおうかしら」

「ちょっと、貴女、まさか一緒に死ぬ気?」

「そんな、まさかよ。私は脱ぎやすいドレスを着ていくから大丈夫。あくまで悲しい事故に見せかけるため。ドレスに足を取られて溺れ死ぬのはフェアリッテ一人。一緒に溺れて命からがら助かった私を、疑うひとなんていないでしょうね」

「……だから、この日のために、彼女と仲のいい姉妹のように見せていたのね。まさか貴女が殺しただなんて、誰にも思わせないために」


 そう。全部、明日のため。

 一周目のときのようにはならないように、ちゃんとフェアリッテを殺すため。

 そのために一年近く費やしてきた。

 私の暗殺計画。


「本当に、やるのね?」


 慎重に尋ねたクラウディアに、私は微笑んで応えた。

 私の計画は、一周目のときよりも、ずっと上手くゆきそうだ。

 あのときはいまのように彼女との関係性を偽装していなくて、直接殺せるような機会がなかったのだ。フェアリッテが私の誕生日にと贈ってくれたプレゼントのお返しに、毒の入った紅茶の茶葉を送っただけだった。湯の淹れかた、アクセントの砂糖などの組み合わせの妙により、毒本来の効き目は発揮されず、フェアリッテは一命を取り留めたのだ。

 もうそんな失敗は犯さない。私は確実に手を下せる機会を作った。

 それが、明日の誕生日パーティーだ。

 春の学校行事は実に乏しい。学年末試験が控えているからだ。休日に予定もない令嬢たちは、誕生日パーティーというイベントを楽しむため、招待状を出せば容易く飛びついた。令嬢たちが楽しみにしてくれているから、とアウフムッシェルに伝えれば、体裁を保つためにパーティーの主催を承諾してくれた。領地でも有名な水中庭園を貸し切り、当日までの準備までしてくれた。学校での素行はよくしておくことだとしみじみ思った。まさか夫人や旦那様が私の頼みを聞いてくれるなんて。乳母が私を感心していたこともあり、今回、動いてくれたのだろう。まさかそこでフェアリッテが死ぬとも知らないで。

——そうして迎えた、春の蝶が海を渡る日、私の誕生日。


「このたびはようこそお越しくださいました」


 私はドレスの裾を持ちあげ、招待客の一人である令嬢にお辞儀をした。すると、「こちらこそお招きありがとうございます。アウフムッシェル嬢」とお辞儀が返ってくる。何度か定型の挨拶を交わすと、他の令嬢たちと同じように、私の背後に控える大きな湖を一望できる庭園を認め、「本当に美しい湖ですね」と微笑んだ。

 水は湖底の石がくっきりと見えるほど澄んでいる。水面には大柄の睡蓮があちこちに浮かび、見頃の花をつけるらん花藻かもを無粋でない程度に敷いていた。水鳥も渡る絶景の庭だった。

 令嬢をテーブルのある場所へと通していると、ようやくフェアリッテが訪れた。

 フェアリッテは長い金髪ブロンドを一つに縛っていた。結い目はレースのリボンで飾られていて、彼女が歩くたびに可憐に揺れた。着ているのは、大きなバックリボンのついた蒲公英たんぽぽ色のドレスだ。アンガジャントの豪奢な袖に、裾のフリルが印象的な。私の贈ったドレスだった。きちんと着てきたらしいフェアリッテに微笑みかけ、私は「いらっしゃい、リッテ」と迎え入れた。


「誕生日おめでとう、ヴィーラ」フェアリッテは首を傾げる。「早くに着いたと思ったのに、もうこんなにひとが来ていたのね……誰よりも先におめでとうを言いたかったのだけれど」

「ふふ。その気持ちだけでじゅうぶん」

「今日も素敵ね、ヴィーラ。ううん、やっぱりいつもよりも素敵。三つ編みがかわいい。すごく似合ってるもの」


 私の亜麻色の髪は、深い藍色のリボンと一緒に緩く編まれていた。装いは、ペタルカラーのブラウスに、同じく深い藍色のベアトップのドレス。フェアリッテの格好とは真逆に、シルエットのほっそりとしたものを選んだ。こうして二人並べば、どちらが今日の主役かはわからない。


「私で最後かしら」

「ううん。あとクラウディアと、リンケ嬢、コースフェルト嬢がまだよ」

「フィデリオは来ているの?」

「準備のために一足先に来たそうよ、アウフムッシェルの人間として」

「船の手配もあるものね。ああ、楽しみ!」

「ええ、私も楽しみだわ」あんたを殺せるのが。「だけど、それはまたあとで。せっかくケーキやお茶を用意したのだから、リッテも行きましょう」


 そうして、私の誕生日パーティー——フェアリッテの暗殺計画が始まった。

 卓上ではつつがなく進んだ。遅れて来たクラウディアたちも加わり、会話はさらに賑やかなものとなった。フィデリオは出席者の中で唯一の令息だったので、浮いてしまうと思ったのだが、令嬢たちは彼の蜂蜜色の眼差しを真正面から見たかったのか、こぞって彼に話しかけている様子だった。フィデリオが「そういえば殿下がフェアリッテのことを話されていたよ」と言うまで、彼が話の中心だったくらいだ。その後、フェアリッテへと移ろったものの、クラウディアが「そうそう、贈り物といえば、プリマヴィーラにプレゼントがあるの」と言ってから、皆一様に私へのプレゼントを取りだした。

 クラウディアが用意してくれたのは、今日の紅茶にぴったりなバタークッキーだった。添えられたカードには銀刺繍で「誕生日おめでとう」と書かれている。リンケとコースフェルトもぎこちない様子だったが、優雅な贈り物と「おめでとう」の言葉をくれた。リンケからは、リーベカケスの羽根ペンと鮮やかな金のペン先。コースフェルトからは、ガルバナムとシトラスのすっきりとした香りの香水だ。フィデリオからもらったのはブローチだった。真珠と螺鈿でかたどった薔薇に繊細な金の葉をあしらったもので、フィデリオがその場で手ずからつけてくれたのだが、私のドレスに不思議とマッチした。他の令嬢たちからも、リボンや本などをいただいたところで、私の両手やテーブルなどでは収まりきらないほどの量になっていた。

 私は素で茫然とした。思えば、こんなにたくさんのプレゼントをもらったことなんて、いままでなかった。いつもは夫人と旦那様から一つ、フィデリオから一つ、乳母から一つで終わっていたのだ。それなのに、いまの私の目の前には、その倍以上の数の品々が鎮座している。一つ一つを受け取るときですら驚いていたのに、こんな光景を見てはほうけてしまうのも無理はなかった。

 令嬢たちは水面のそばに寄り、きらきらとした波や泳ぐ魚を眺めている。一人、テーブルの席で座る私に、フィデリオが「よかったじゃないか」と声をかけた。


「ええ、そうね、でも、こんなに贈られたことがなくて、なんだか、」

「嬉しい?」

「……くすぐったいわ」

「へえ、照れてるんだ、珍しい」

「しょうがないでしょう、本当にはじめてなんだもの」

「この一年、いろんな噂も、もあったけれど、君は愛想もよく、模範的な生徒で、フェアリッテとの仲も良好だった。そんな君を好ましく思う人間がこれほどいたということだよ」

「好ましいだなんて。誕生日だから、気を遣ってくれただけよ」

「ただの気遣いならわざわざここには来ない。それこそ断りの手紙とささやかなプレゼントを贈って終わりだ。今日この場で君に手渡したということがなによりの証拠だよ。それに、招待状を贈らなかった人間からもある」フィデリオは懐から細い箱を取りだした。「ギュンターから預かっていたんだ。トップにエメラルドのついたペン軸らしい。あと、誰からだっけ……何人かのカードも持ってる。君に渡すようにと」

「…………」

「好ましい態度を示せば、相手からの好意で返ってくる。当たり前のことだよ」


 好ましい態度——いまの私の立ち振る舞いは、時を遡る前とはまったくの別のものだった。誰からも愛される見本を倣おうと、あらゆることでフェアリッテを真似た。きちんと挨拶をした。よく気をつけ、よく褒めた。勤勉であり、傲慢でなかった。よしんば心では思っていたとしても、口に出すことはしなかった。理不尽にも品位を欠かずに対処した。なるたけ笑顔を浮かべた。

 いつもはこまっしゃくれた面が目障りで聞く耳を持てないフィデリオの言葉でも、今日ばかりはしみじみと感じられる。私にとっては大いに面倒で煩わしくて理解に苦しむようなことばかりだったけれど、これまで心がけてきたそれらは、今日という日を格別に変貌させた。

 はじめからこうしていればよかったのか。

 そうしたら、私だって当たり前に、受け取ることができたのだろうか。

 だけど、それができなかったから、私はこんなふうに生きている。


「君は変わった。プリマヴィーラ」


 どうかしら。私が好ましく思われるように振る舞うのは、今日のための打算だ。これからしでかすことを疑われないように。プリマヴィーラ・アウフムッシェルが、フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットを殺しただなんて、思いもしないように。

——湖の上をゆくゴンドラに乗れば、いよいよだ。

 視界の隅では、船着き場に何艘かのゴンドラが辿りついていた。フリンジのついた天蓋に、サテンのクッションを敷いた、豪華絢爛な船だ。漕ぎ手の準備が整ったらしい。私は席を立ち、令嬢たちを船着き場へと誘導した。二人一組に別れて船へと乗る。客室はゆったりとしていて、ちょうど向かい合わせに座るようになっていた。

 フェアリッテは、私の手を引いて、ゴンドラへと乗った。

 二人で乗ったのを確認すると、カーテンの外側にいる漕ぎ手が、櫂で漕ぎだしてゆく。他のゴンドラも令嬢たちを乗せ、同じように岸辺を離れた。フィデリオの乗る船にはクラウディアが相席していて、それを羨ましそうに見遣る令嬢もいた。

 けれど、湖上をゆっくりと進む船はあまりにのどかで、瞬く間に無益な情緒の一切を削ぎ落とす。

 くすくすと楽しそうに談笑する誰もが見入るばかりの爛漫な風景だ。太陽の光を浴び、櫂に押され、飛沫しぶく波音がこそばゆい。岸辺に咲いたミモザが散って、水面を泳いでいくのが見えた。睡蓮やらん花藻かもと混ざり、世にも鮮やかな美景となる。対面に座るフェアリッテが、うっとりとした様子で「美しいわね」とこぼした。

 けれど、私には優雅な景色を鑑賞できるだけの余裕はなかった。

 水魔に足首を掴まれたような怖気おぞけに、支配されていた。


「……ヴィーラ?」


 気取けどったフェアリッテが不思議そうに私を呼んだけれど、それに返事をすることもできず、私の指先は震えていた。

 フェアリッテを殺すことばかり考えていたせいで忘れていた。

 水は——私の死の原因だ。

 見ているだけならなんともなかったのに、いま水上にいるんだと思うとだめだった。溺れ死んだあのときの息苦しさや冷たさを思い出し、血の気が引いた。平静ではいられず、呼吸も荒くなる。宝石のようにきらめく水面を、透き通った水に映る絵画のように美しい景色を、こんなにもおぞましく思う。

 ゴンドラへ振動として伝わるほど、私の体はがくがくと震えていた。そういえば、狩猟祭で川に浸かったときもこうなっていた。緊張と冷えが原因だと思っていたけれど、もしかしたら、あのときは気づかなかっただけで、水がトラウマになっているのかもしれない。

 でも、やりとげなくちゃ。せっかくここまで来たんだから。

 俯いて両腕を抱きしめる私へ、フェアリッテは「大丈夫? 顔色が悪いけれど」と心配そうに問いかける。私は「少し酔っただけ。大丈夫よ」と返した。その声のか細さといったらなかった。フェアリッテも同じことを思ったのが「でも、」と心配そうに返す。


「少し休んだほうがいいと思うわ、ヴィーラ。岸辺まで引き返してもいいのよ?」

「だめよ!」


 私は顔を上げ、声を張って断じた。

 フェアリッテはびっくりして固まる。

 その顔を見て、あ、だめだ、と思った。こんなの、らしくない、取り繕わなくちゃ。頭の隅から必死に言葉を探して、私はフェアリッテへ言い訳をする。


「……私ね、今日をとても楽しみにしていたの。平気だから、もう少しだけこうしていさせて」


 どう言えば彼女が頷いてくれるか、この一年近くで理解したつもりだ。染みついた思考回路は、この場における最適解を導きだす。

 案の定、私の言葉を受けたフェアリッテは、ゆったりと微笑んだ。ちょっとだけ困ったように、けれど慈しむように。


「そうよね。せっかくの誕生日だものね。こんなに天気のいい日に、こんなに綺麗な景色を眺めて、たくさんの友達にも囲まれて、なんて素晴らしい日なのかしら」


 楽園にいるように輝くフェアリッテは、水上の絶景を見渡した。それはまるで物語の一場面をいたみたいで、地獄の思いで震える私はただ薄目で見つめる。

 そうだ。今日は本当に素晴らしい日なのだ。

 やっと終われる、フェアリッテと比較して苦しむ日々が。

 もう誰からも愛される彼女を見なくていい。幸せそうな彼女を見なくていい。私は彼女のように愛されなかった、幸せではなかった。そんな不公平が呪わしくて、忌々しくて、私のこれまでの人生は、己と彼女との差に絶望するだけのものだった。

 だけど、今日、彼女を殺すことで、私は報われる。たとえなにも手に入らなかったとしても、楽になれる。この冷たく禍々しい水の中へ、彼女を突き落としさえすれば。

 しかし、そんな私の心を読み取ったわけでもないのに、フェアリッテは空を飛ぶ鳥を眺めていた目を、ぱっと私へ向けたのだった。


「ヴィーラ。さっきも言ったけれど、誕生日おめでとう」


 その言葉に、私の殺意は逸らされた。

 フェアリッテは暢気な幸せ面で微笑んで、「実は貴女に渡したいものがあるの」と囁くように言った。フェアリッテは、その背にあるたくさんのクッションの中から、花柄のリボンで飾られた大きな袋を取りだす。

 突飛な出来事に、私は目を丸くする。

 ゴンドラの中にどうしてそんなものが。


「貴女を驚かせようと思って、フィデリオに頼んでおいたの」

「フィデリオに?」

「ほら、彼、ここに早くに着いたって言ってたでしょう? これを隠しておいてもらうためだったのよ」

「これは?」

「貴女にプレゼント」

「さっきもらったけれど……」

「もう一つあるの。ほら、開けてみて」


 私は、フェアリッテに促されるまま、手渡された袋のリボンをほどく。

 中に手を突っこむと、ふわふわとした感触。まるで指先から蕩けそうな甘い毛並み。柔らかくて、綿の詰まった大きな形で、中に入っているものがぬいぐるみだということがわかった。

 まさか、とかんぐった私は勢いよくを取りだす。


「……フレーゲル・ベア」


 それは、愛の象徴としてリーベの子供たちを虜にした、クマのぬいぐるみだった。

 実物を見るのははじめてだ。きゅっとした口元が愛らしい。想像以上にふわふわとした亜麻色の毛並みに、翡翠のような緑の目、私のためにと選ばれたであろう首のリボンも、同じく緑色だ。

 日差しを受けてその一つ一つが眩く見えた。抱きかかえる手が小さく震える。驚いて瞠目どうもくする私に、フェアリッテは身を乗りだして言った。


「懐かしいわよね。あのときよりも見つけるのは簡単だったわ」

「これを、私に?」

「貴女、昔に欲しがっていたでしょう?」


 さらに驚いて、私はフェアリッテを見る。そんな私の様子に、フェアリッテも嬉しそうに目を見開かせていた。どうして、という言葉は、知らず知らずのうちに、私の舌から滑りだしていた。


「あのね、私、幼いころにフレーゲル・ベアをねだったことがあるの」フェアリッテは思い出すように言葉を続ける。「お父様だけでなく、アウフムッシェルの方々も、私のために探し回ってくれたそうよ。そうして、フィデリオの乳母が、たまたま見つけてくださったのですって。それが最後の一つだったと聞いたわ」


 そうだ。フェアリッテの持つフレーゲル・ベアが、最後の一つだった。

 だから、私は、彼女に私のクマを取られたと思って、それが全ての始まりだった。

 だが、乳母が見つけたという話は聞いたことがない。私が責めたときだって、乳母はただ、申し訳ありません、と答えたはずだ。まさか私に嘘をついていたのか。

 答え合わせをするように、フェアリッテが言葉を重ねる。


「アウフムッシェル伯爵夫人が、フィデリオの乳母に頼んで、それを私にと譲ってくださったそうよ。夫人の頼みならフィデリオの乳母も断れなかったでしょうね。そのフレーゲル・ベアは私のもとへ来て……だけど、いつだったかしら、フィデリオが言ったのよ。あの子もそれを欲しがっていたな、って」


 あの子と聞いてぴんと来たわ、とフェアリッテは笑った。

 それはもちろん私のことだ。


「それで、考えてたの。フィデリオの乳母が見つけてくれたと言っていたけれど、もしかしたら、これは私にではなく、その子のためにあったものなんじゃないかって。嬉しかったのに途端に申し訳なくなって、だけど、ごめんなさい、やっぱり嬉しくなったの。私たちは同じものに胸をときめかせたのねって。だったらきっと私たち、とても気が合うはずだって思ったわ。いつか貴女に会える日を楽しみにしながら、絶対に仲良くなれるって思ってた……」


 夏の風が激しく終わりを告げる日。

 忘れもしない、フェアリッテと初めて会ったあのとき。

 彼女は私に言った——貴女に会える日をずっと楽しみにしていました。仲良くなれると嬉しいですわ。


「同じ学校に通えると知ってからは、その日を指折り数えたわ。初めて会ったときだって、貴女がこちらこそって笑い返してくれて、どれだけ嬉しかったか……やっぱり少し不安だったの。嫌がられたらどうしようとか、私ばっかりのわがままじゃないかとか。だって、これまで離れて暮らしていたのに、ある日突然姉妹になるなんて、普通なら難しいわよね。だから、本当は友達でもいいの」フェアリッテは私の手に己の手を添え、顔を綻ばせる。「私はね、ただ、貴女と仲良くなりたかったのよ」


 ぬいぐるみの柔らかさが、日差しの温かさが、私に触れた手の優しさが、この一瞬の甘さが、なによりも強く私を抱きしめた。

 その心地好さとは裏腹に、胸を穿たれたような衝撃が突く。

 フェアリッテはそっと目を瞑り、感じ入るように言葉を続けた。


「だから、いまがとても幸せ……こうして貴女と仲良くなれて、貴女の誕生日という意味深い日を近くで祝えて、私、本当に嬉しいの。生まれてきてくれてありがとう、ヴィーラ。これからもどうかよろしくね」


——生まれてこのかた誰かに愛されたと思えたことがなくて、満たされないなにかを埋めたくて、必死に探していた。

 でないと、いまにも溺れてしまうから。苦しくて生きてゆかれないから。どんどん醜く落ちていく我が身を、もっとみじめに思えてしまうから。だから。

 私は、ずっと、が欲しかった。

 じわじわと視界が滲んでいく。震えた唇から息が揺らめく。粟立つ肌に吹く風は優しく、濡れた瞳に映る世界がきらきら崩れていく。そのなかでもひときわ溶けてゆく彼女が、驚いたように目を見開かせていた。その隙に私が固く目を瞑ると、いよいよ涙がこぼれ落ちた。なにも言えずにただただしゃくりあげる私に、「えっ、どうしたの、ヴィーラ」と焦ったように腰を上げる。


「そんな、泣かないで、ああ、どうしましょう……お化粧が崩れちゃうわ、せっかく綺麗におめかしをしたでしょうに」


 フェアリッテはハンカチを取りだし、私の涙を拭った。

 私はされるがままになっていたけれど、拭っても拭っても涙はこぼれていった。熱のこもった吐息すら水浸しで、口を開いても、声にならないものしか出てこない。


「どうして泣くの? ヴィーラ。教えて。私、そんなつもりじゃなかったのよ」


 私だって、こんなつもりではなかった。

 よりにもよって、他でもない、フェアリッテなんかに与えられてしまうだなんて。

 けれど、いまは、その悔しさよりも、途方もない感情で極まっていた。魂ごと揺さぶられたような眩惑に頭が真っ白になって、涙を流すことしかできなかった。

 そうして延々と泣きつづける私の目尻へ、フェアリッテが指を伸ばす。

 花咲く瞳と目が合う。

 そのとき。


「きゃっ!」


 短い悲鳴と共に、フェアリッテの指が離れていった。

 私は目を開く。湖上を勢いよく滑空していた鳥が、フェアリッテのすぐ真横を飛んでいったのだ。驚いたフェアリッテがバランスを崩す。揺れるゴンドラの上で腰を浮かせていたフェアリッテは、体重を傾けたまま、たちまち水面へと落ちていった。


「フェアリッテ!」


 どぼん! と立ちあがる水飛沫。

 私はゴンドラの縁を掴み、彼女を飲みこむ水面を覗きこむ。

 らん花藻かもが彼女の身体を絡めとる。水上へと藻掻くその手を押しこめてゆく。彼女の足を取るのは纏わりつくようなドレスだ。幾重にも嵩張った大量の布地は重く、手足を掻けば掻くほど湖底へと誘っていった。彼女の金髪ブロンドが沈んでいくのに、時間はかからなかった。

 カーテンの外で飛沫を見つけた漕ぎ手より先に、私は水面へと飛びこむ。

 大きく飛沫しぶく水の音と、それを見届けた令嬢の叫び声が重なる。水の中は曇るような無音だった。睡蓮や藻に覆われる水中には、思ったよりも光が届かない。金髪ブロンドが見えない。なによりも眩しく見えたあの色を探して、私は必死に湖を泳ぐ。

 体が冷たい。纏わりつくドレスが重い。腰の紐とリボンをほどき、私は水中でドレスを脱いだ。いくらか動きやすくなったけれど、息がたなかった。水草のない光のある場所まで泳ぎ、「っはぁ!」と水面から顔を出す。


「プリマヴィーラ!」ゴンドラの上のフィデリオが張り叫んだ。「大丈夫か!」

「私より、フェアリッテを!」絶え絶えの息で私は言う。「彼女がゴンドラから落ちたの! でも、見つからなくて……早く彼女を探して! 死んじゃう!」


 私のゴンドラの舵を担当していた漕ぎ手は、とうに湖の中へと潜っていた。他の漕ぎ手たちも一斉に湖へ飛びこむ。私も再び水の中へと潜った。

 殺そうとしていたくせに、こうなることを望んでいたくせに、私は彼女のために湖に深く潜っている。肌を刺すような冷たさに体が縺れそうになった。視界の狭まるような息苦しさを噛みしめた。涙は湖に溶けていく。赤くなった目尻も頬も、きっと青白くなっている。

 深い水を掻き分けながら、なりふりかまわず彼女を探した。

 けれど、結局は耐えきれなくて。

 大きなあぶくを吐きだした私は、冷たい湖の中で、意識を失った。






 目を覚ますと、冷たく薄暗い闇に包まれていた。

 まだ湖で溺れているのかと一瞬冷や汗を掻く。

 しかし、荒くなった私の呼吸に気づいた監視が「おい、目を覚ましたようだぞ」と話しだしたから、ここは水の中ではなく、牢の中だということがわかった。

 どうして私が牢に?

 自分の体を見下ろす。着ていたドレスもブラウスも、ドロワーズすらも脱がされていて、アウフムッシェル邸でよく着る夜着姿だった。おまけに、この牢の間取りにも見覚えがある。邸の地下にある仕置き部屋だ。格子の嵌められた窓からは薄い月明かりが差しこんでいた。私は、さきほどまで横たわっていたベッドから抜けだして、監視たちの立つ鉄格子へと近づいた。

 監視たちは、ブルーメンブラットの抱える騎士団の姿をしていた。そのことを不思議に思ったけれど、私は状況を理解するために彼へ近づき、「今日は? あれからどれくらい日が経ったの?」と問いかける。


「フェアリッテ嬢とプリマヴィーラ嬢が溺れてから、二日目の夜です」監視をしていた騎士の一人が恭しく答えた。「医師に診られ、お二人とも、一命をとりとめました。フェアリッテ嬢の意識はまだお戻りになっていないようですが、ベルトラント王子殿下が間もなく到着するとのことです」


 とりあえず、フェアリッテは無事らしい。

 それに安堵して「よかった」と肩を落とす。

 騎士たちは狼狽うろたえたような顔を見せたけれど、私は気にも留めず、「それで、どうして私はここに?」と尋ねる。


「……プリマヴィーラ嬢は、治療が済んでから、アウフムッシェル伯爵の指示でこの部屋へ移されています」

「なるほど。旦那様と奥様のいつものいうことね」私は納得した。「パーティーの途中でフェアリッテが死にかけたんなら、私を懲らしめたくもなるわよね。私を治療してくださっただけ上々だわ。鉄格子の外に乳母ではなく騎士がいるのははじめてだけど……それで、私はあと何日ここで我慢していればいいの? 誕生日に悲劇を被ったことに免じて、早く解放してくださるといいのだけれど」


 私が不遜な態度を取ったのがいけなかったのか、それとも初めっからのか、騎士はひやりとした視線を私へと浴びせた。私は竦みあがる。彼らの視線の意味がわからなかったのだ。狼狽する私に、騎士は淡々と言い放つ。


「解放することはできません、プリマヴィーラ・アウフムッシェル嬢。貴女には、フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット嬢の殺害未遂の容疑がかかっています」


 は?

 突拍子もなく言われたそれに、私は呆然とした。

 しかし、そんな私の様子にも呆れるように、騎士は冷たい視線を向ける。

 ちょっと待って。殺害未遂の容疑?

 私は鉄格子にしがみつき、騎士に食ってかかった。


「どうして……!」

「証言があります。貴女がフェアリッテ嬢を殺そうとしたという」

「それって、湖でのこと? フェアリッテは足を滑らせて湖へ落ちたの、あれは事故よ! 私はフェアリッテを助けるために、湖に飛びこんだのよ!?」

「それも事故に見せかけるための偽装工作だと疑われています」騎士は続けた。「プリマヴィーラ嬢がお目覚めになられたら、裁判が開かれるとのことです。弁論はそのときになさるとよろしいかと」


 騎士が「目を覚ましたというお伝えを、伯爵へ」ともう一人の騎士へ指示を出した。頷いた騎士がその場を去っていく足音を聞きながら、私は地べたにへたりこむ。

 どうしよう。何故か私がフェアリッテを湖に突き落としたことになっている。

 時を遡る前のように、殺そうとしたと疑われている。

 けれど、違うのだ。私は本当に突き落としたりなんてしていない。そもそもあれは事故だった。フェアリッテのもとへ運悪く鳥が飛んできて、驚いた彼女がバランスを崩し、ゴンドラから落ちたのだ。それなのに騎士は聞く耳を持たない。私が彼女を殺そうとしたと信じているようだった。このまま罪に問われ、弁論の余地のないまま、もしもまた死刑にでもなったら——死の恐怖を思い出し、ぶるりと我が身は震えた。

 いいや、落ち着け、あのときとは違う。私は本当にやってない。

 それに、対外的に見て、私にはフェアリッテを殺す動機がない。誰が見ても頷くほど、私とフェアリッテは仲のよい異母姉妹で——実際は血の繋がりなんてない赤の他人だったけれど——彼女を殺す計画を実行してもそれを咎められないよう、これまで尽くしてきたのだ。いまは気を失っているようだけれど、目が覚めればフェアリッテだって証言してくれるはずだ。この疑いもいずれ晴れるはず。

 それからどれほど経っただろうか。私はベッドの上で膝を抱えていた。

 硬い足音が聞こえたと思ったら、鉄格子越しの階段から騎士が下りてきて、「二組の面会がある」と監視の騎士に告げた。騎士は「容疑のかかっている者に面会を許すのか」などと言い合っていたが、結局は許可したようだった。

 私はおもむろに顔を上げる。

 すると、火の灯った燭台を持つフィデリオが、夜闇に紛れた階段から下りてきた。

 面会人とやらは彼のようだった。この邸の令息とあって、恭しい態度で騎士に出迎えられた彼は、「プリマヴィーラと二人きりにしてほしい」と言った。はじめは首を横に振っていた騎士も「彼女は俺と同じようにアウフムッシェルで育った令嬢だ。きちんと話がしたい」と言った。ここがアウフムッシェルの邸である以上、ブルーメンブラットの騎士も強くは出られないようだった。彼の言葉を受け、騎士は渋々階段を上がっていったのだった。

 私はベッドを降り、鉄格子の前に立つ。

 フィデリオは騎士が去っていくのを見届けてから、私へと言った。


「プリマヴィーラ。体調はどうだい?」

「この状況でそれを聞く?」

「聞くだろう。君はずっと寝たきりだったんだ。湖から引き上げたときなんて、顔が真っ青だった。だけど、立ち歩いている姿を見るに、もう心配はいらないようだ」

「今は別の心配のほうが勝るでしょうよ」

「そうだな。その件について、確認したいことがある」フィデリオは私の目を見据えて問いかけた。「君はフェアリッテを湖へ突き落としたのか?」

「突き落としてないわ。あれは事故だったのよ。私は彼女を助けようとしただけ」それなのに、と私は続ける。「どうして私が疑われているのよ。殺人未遂の容疑で裁判が開かれると聞いたわ。これはどういう状況なの?」

「……容疑のかかった君を、アウフムッシェルが拘束したんだ。フェアリッテが死にかけたこともあり、ブルーメンブラットも動いている。校内でもずいぶん噂されてるんだ。賎民の子である君が、フェアリッテを嫉み、殺そうとしたって」


 私は鉄格子を掴み、「違うわ!」と否定した。


「私は突き落としたりなんてしてない!」

「それは本当か?」

「本当よ!」

「……僕は、君が、フェアリッテを憎んでいたことを知っている」フィデリオは目を細めて告げた。「この邸で共にすごしてきた十数年を知っている。いまはどうかは知れないが、少なくとも、かつての君はたしかに彼女を憎んでいたと、この名に懸けて誓える。君はどうだ、プリマヴィーラ。君も、自分の言葉は真だと、誓えるか」


 フィデリオの蜂蜜色の瞳は、燭台の火を受けて、ゆらゆらと燃えている。私を見定めるような目をしていた。二人きりの薄暗闇の中、彼の瞳だけがきらめいていた。

 私は顎を引き、その瞳をまっすぐに見つめ返して答える。


「誓えるわ。この命に懸けて」


 しばしのあいだ、私たちは見つめあっていた。

 隙間風に晒されて、私の髪や燭台の火が揺れる。

 その後、フィデリオは緊張の糸を断ち切ったように、深いため息をついた。肩を落とし、項垂うなだれ、「あー」という粗野で曖昧な、彼らしからぬ喚き声を上げる。


「では、もう一つ確認だ……君は時を遡る前のことを覚えているね?」


 続く言葉に、私はぎょっとした。

 目をいて彼を見つめた。

 彼はいま、時を遡る前、と言った。その言い様に、すぐ、私が溺死刑により裁かれたのことを言っているのだと悟った。これまで、このにおいて、そのときの記憶があるのは私だけだと思っていた。しかし、目の前の彼はそれを己も知っているような発言をした。


「どうしてそれを……」


 私は目を瞬かせて彼に問う。

 腰に手を当てて項垂うなだれていたフィデリオは、すっと私を見て、口を開いた。


「時間を巻き戻したのは、俺だから」

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