第6話 絵に描いたクマは抱きしめられない
たとえば、狩りが好きだった。
欲しい獲物を自らの手で捕まえるというその本質が、私の性に合っていた。
けれども、刺繍や絵画は嫌いだった。
どれだけ丹念に真心をこめたところで、思うがままに描いたところで、それは全て
これは執念だ。誰かから奪い取ってでも手に入れたい。私はそれが欲しい。そんな私は、
狩猟祭ののち、私は一週間近くも部屋で寝こんでいた。
私が授業を休んでいるあいだ、クラウディアは代わりに板書を取ってくれた。リンケは「ずっと寝ていては暇だろうから、元気があれば読んでみて」と手持ちの恋愛小説を貸してくれた。コースフェルトは私のベッドの真横に花を活けてくれた。ギュンターの「馬術の授業は君がいないと張り合いがない」という
なにを大袈裟な、と思いはしたが、私の容態はそれほどよくなかったらしい。
解毒と止血こそ終えていたものの、心労のうえに冷やされた体、出血に猛烈な傷の痛み、そして最後の悪足掻き、それらを経て限界に達していた体は、高熱を出すにはじゅうぶんだった。
なんとアウフムッシェルから遣いも来た。乳母が学校まで看病をしにやってきたのだ。久しぶりの顔はひどく不機嫌そうで、「肝が冷えました」と呆れられた。
乳母は旦那様と夫人からの伝言も頼まれたらしく、「養生しなさい」という内容の手紙までもらった。入学してから半年ほどが経つけれど、手紙を送られたのは初めてのことだ。私の状態はそれほど深刻だったのだろう。
けれど、父親からは、見舞いどころか手紙すら来ない。
明日には学業に復帰するという日になっても、それは変わらなかった。
「ねえ、乳母」部屋のベッドで寝こむ私は、林檎を剥く乳母に囁きかけた。「ブルーメンブラットからの手紙はないかしら」
「ありません」乳母は目もくれずに答える。「ただ、来月には春休みだから帰省の準備はしておくと、フェアリッテさま宛ての便りが届いたそうです」
「……そう」
「そんな覇気のない声でどうするのですか。今日、私は邸へ戻るのですよ」
「お世話してなんて頼んでないわ。もう熱も下がったのだし」
「そうやって気を抜いていらっしゃると、またぶり返しますからね」
「平気よ。傷の縫合も済んだし、あとは抜糸くらいだって、お医者さまも言ってらしたわ。それよりも早く授業に出たい。ずっと部屋にいてはやることもなくて、暇で暇でしょうがなかった」
「プリマヴィーラさまは刺繍の趣味もございませんしね」しかし、と乳母はベッドのすぐそばにあるテーブルを見遣る。「このテーブルに飾られている絵は、幼いころにプリマヴィーラさまが描かれたものですよね? いくら小さいものとはいえ、額縁に入れて学校までお持ちになられるなんて。いつ絵画に目覚めたのですか?」
「……まさか。いまも昔も、私に絵を描く趣味はないわ。この絵だって、乳母が勝手に絵の具を押しつけてきたから、描いただけで」私はのっそりと上体を起こし、話題を変える。「そろそろ午前の授業が終わって、クラウディアたちも部屋に戻ってくるわ。乳母はどっか行っといて」
「なにをおっしゃいます! これまで散々お世話になったのですから、私も最後の挨拶をしておかねば」
「私が生意気なことを言っていないかとか、頑固で卑屈なところがあるとか、乳母は余計なことを言うから嫌」顔を顰めて私は言った。「学校では、上手くやっているの。乳母も邸でのことを彼女たちに吹聴しないでちょうだい」
私がそう言うと、意外にも乳母は「それもそうですね」と引き下がった。
「フィデリオさまからも話には伺っていたのですが……本当にプリマヴィーラさまが清く正しい友好関係を築いているようで驚きました。乳母は感激です。矢が降ってくるかと思いました」
「もう降ったわ」
「ルームメイトの令嬢たちもプリマヴィーラさまによくしてくださいますし、フェアリッテさまなどは部屋も違うのに毎日来てくださるではありませんか。プリマヴィーラさまも愛想よく応対していらして……あれほど嫌っていたことが嘘のよう。やはり矢が降ってくるかと」
「だから降ったのよ、私に」
「旦那様や奥様にもよい報告ができそうです。きっとご安心なさるでしょうね」
あのひとたちを安心させても、なんの意味もないのだ。私は、父親に心配してほしくて、そして、安心してほしい。こんなに寝こんでいるのに。フェアリッテなんかに手紙を送っている場合じゃないのに。
しばらくしてから、部屋にクラウディアが戻ってきた。午後の授業を終え、ランチに行く支度をするのだろう。私が「お疲れさま」と告げると、クラウディアは「すっかりよくなったのね」と私に近づいた。
「これからランチに行くんだけど、貴女もどう?」
「ありがとう。だけど、私は先に済ませたの。これからデザートの果物を」
「そう。明日からは授業にも出席するんでしょう?」
「ええ、だから明日はぜひご一緒させてね」
わかったわ、とクラウディアは部屋を出て行った。それと入れ違いになるように、リンケとコースフェルトも部屋へ戻ってくる。
「お疲れさま、リンケ嬢、コースフェルト嬢」
「アウフムッシェル嬢、顔色がずいぶんとよくなったわね」
「おかげさまで。明日には授業に出席する予定よ。遅れたぶんを取り戻さなくちゃ」
「貴女ならすぐに取り戻せるでしょうね」
「わからないところがあればぜひ聞いてくださいな」
二人が本心で私にそう言ってくれたのがわかったので、私は「ありがとう」と微笑み返した。二人とも同じく微笑んだものの、みるみるうちに表情を暗くする。どこか思い悩むような顔だ。なにかあったのだろうか。そう思っている間に、二人とも「気に病む必要なんてないわ、アウフムッシェル嬢!」「なにがあろうと、私たちは貴女の味方ですもの!」と言い、慌てて部屋を出て行った。私はぽかんとして二人の出て行った扉を見つめる。
「なんの話?」
「さあ。高貴な方々の考えることは、私にはわかりかねますので」
乳母は林檎を剥き終えると、「さて、私はそろそろ戻ります。どうぞお召し上がりください」と言い、帰り支度を始めた。私は私で
林檎を咀嚼しながら、やっぱりリンケとコースフェルトの様子が気になったけれど、思い当たる節なんてなかった。入学して以降、彼女たちとは次第に打ち解けていったはずだし、もう後ろ暗いことなんて彼女たちにもないはず。時を遡る前とは異なり私も素行を改め——たまに返礼をしてしまうことはあれど——すっかりこの学校に通う令嬢淑女として紛れていたはずだ。私は上手にやれていた。
それなのにどうして?
その理由は、翌日になって知ることとなる。
「君がブルーメンブラットの私生児ではなく、縁も
そのようにフィデリオに耳打ちされ、私は驚愕のあまり強く息を止めた。
フェアリッテの誕生日までおよそふた月ほどというときの出来事だった。
これまでの私を取り巻く噂の多くは、「不義の子」という事実、あるいは「《持たざる者》なのは不義の子だから」という妄言から来るものだった。前者に対しては「だからなに?」といった感じだし、後者に対してはフィデリオがじきじきに対処している。入学して半年、私の素行のよさも
しかし、ここにきて、新たな噂が囁かれているらしい——プリマヴィーラ・アウフムッシェルは不義の子ですらなく、ただ運よくブルーメンブラット辺境伯に拾われたにすぎない、血の繋がらない賎民の子である、と。
「はあ?」私は久々になりふりかまわない口を開かせた。「どういうことかしら」
「俺だってわからないさ」私の言葉遣いを注意することもなく、フィデリオは宙を仰いだ。「ただ、君の髪の色や、君の養生中のブルーメンブラット辺境伯の不通もあって、まことしやかに囁かれている」
私は己の髪の一房に触れた。たしかに私の髪は、フェアリッテのような美しい
「……それで? 私はあちこちでそう囁かれて、また貶められているの?」
「いや……」
「いや?」私は純粋に驚いた。「違うの?」
「たしかに、君を馬鹿にする者もいるが、敵対する家門だとか一部の人間だ。多くの人間はもう君を貶めようだなんて思っちゃいないさ」
「誰もその噂を信じてないってこと?」
「どうだろう、残念ながら、そうでなくて」フィデリオはため息をついた。「……君は哀れまれているんだ。実の親に捨てられ、ブルーメンブラットにもアウフムッシェルにも持て余された、誰にも愛されない娘だと……」
あまりの衝撃に、私は言葉を失った。
愕然として頭が真っ白になった。
そして、ぼんやりと、リンケとコースフェルトの様子にも納得がいった。なるほど、たしかに、貶められてはいない。入学当初のように見下されてもいない。ただ、同情されているのだ。誰かに捨てられた、誰にも愛されない娘だと。頭が沸騰するほどの怒りが沸いた。
「私はお父様の娘よ!」吠えるように言った。「誰がそんな世迷言を……私どころかブルーメンブラットの名まで傷つけるような行為だわ! いったい誰が、許さない、見つけだして剥製にしてやるから!」
「待て、落ち着け、君なら本当にやりかねない」
「もちろん本気よ!」
「だからさすがにまずいんだって」フィデリオは真っ赤になる私の両肩に手を置き、
最後にはおどけたように肩を竦めてフィデリオは言ったが、私は頭に上った熱が冷めやらず、むしゃくしゃしてしょうがなかった。
その後、フィデリオは「普通に授業を受けて、普通にすごせ。休養明けだから体には障らないように」と言い、私たちは別れることとなった。選択教養でフィデリオは武術を選んでいるから、授業が分かれるのだ。気を落ち着かせるように深呼吸をし、私は自分の授業に向かった。それからが最悪だった。
みんな授業に復帰した私を気遣ってくれるし、声をかけてくれる。けれど、視線はどこかよそよそしかったり、なにかを躊躇うようだったりと居心地が悪く、私をまるで腫れ物のように扱っていた。
そこに邪見がないのがどうしようもないところだ。侮蔑の色が少しでも滲めば、私だって責めてやれただろうに、ほとんどの生徒にそれが見られない。ただ、なんとなく、私を可哀想なものであるかのように扱う。それがさらに私を苛々させた。
もちろん、噂にかこつけて陰口を叩く者もいた。すれ違うたびに「賤民のくせに」だとか「場違いな子」だとか笑ってくるのだ。しかし、私よりも先にリンケやコースフェルトが過剰に反応して「なんですって!」だの「彼女に謝って!」だのと声を張りあげるし、クラウディアは「気にしないことよ、プリマヴィーラ」と私の肩を撫でるしで、本当にみじめだった。
フィデリオは動じなければ収まると言ったけれど、そのような兆しは見られなかった。いくらブルーメンブラットやアウフムッシェルの名を使って場を制したところで、相手の納得は口先だけのように思えた。いくらフェアリッテが「おかしな噂よね」と煙に巻こうと、フィデリオが「馬鹿げたことを」と断じようと、全校生徒があの噂を信じているようだった。
口を噤めば噤むだけ、誰かに庇われれば庇われるだけ、その噂が言い知れぬ真実味を帯びていくのを感じた。いっそ我が身を省みずに滅茶苦茶に否定してやりたくて、けれどそれもできぬような、もどかしい苦痛に脅かされる。
そういう日が何日と続けば、目に見えて私の余裕はなくなっていった。分刻みでルームメイトたちに「大丈夫?」と心配されるほど。私の揚げ足を取りたくてたまらないひとたちに、こぞって
学校の食堂で、クラウディアやフェアリッテたちとランチをしていたときが、まさにそうだった。
「——それで、どうなの? 賤民の子の貴女。実は貴女が貴族の私生児だという噂は本当かしら?」
私の周りにいた大勢の者が、大きく息を呑んだ。
わざわざ私の背後に立ってそんなことを言ってのけたのは、おそらく上級生であろう令嬢だ。私やクラウディアは顔を合わせたこともない相手で、社交場に出ているフィデリオやギュンターなどの令息たちのほうが、彼女に反応していた。その令嬢はぬけぬけと「あら、失礼、逆だったかしらね」と言い、うっそりと微笑んでみせる。
席に座ったまま見上げる私は、気づかれないように歯噛みをした。
「ボースハイト嬢」その令嬢に、フィデリオが声をかける。「まさかあの馬鹿げた話が上級生の耳にまで届いているとは驚きました……思慮深い先輩方と違い、俺たちの学年は未熟なもので、くだらない噂でお耳を汚してしまい申し訳ありません」
婉曲的にフィデリオはその噂を否定した。
しかし、ボースハイトは「ええ、だからその噂の真偽を確かめたくて」と
ボースハイトは、自身を取り巻く友人たちにも言い聞かせるよう、再び口を開く。
「ねえ、みなさんもご存じでしょう? かのクシェル・フォン・ブルーメンガルテン卿は、昔から、彼女についての話をしなかったじゃあないの。まるでその存在を認めていないみたいに」
「もちろん存じあげていますわ。ですから、
「そりゃあ、私たちのなかに卑しい身分の者が紛れこんでいたら、目を塞ぎたくもなるでしょうね」
ボースハイトをはじめとする令嬢たちが口々に言いあう。
クシェルの私への態度を知っている者は、反論できなくなった。
「クシェルさまは私やブルーメンブラットを気遣ってくださっただけですわ」そこへ、フェアリッテが冷静に言葉を返す。「姉妹と言えど、私たちは腹違いですから。品位のある方ですし、わざわざ家のことに口を挟むような無粋はなさいませんもの」
「あらあら、それではまるで私が無粋者だと言っているようなものじゃない。ブルーメンブラット嬢も酷いひとね。私はただ、貴女があまりにおいたわしくて、声をかけただけなのに」
ボースハイト嬢は頬に手をやってため息をついた。そんな、見ているだけで白けるようなわざとらしい被害者面でも、フェアリッテには
フェアリッテは他人を悪く言うことに慣れていない。彼女の良心が、それを
案の定、フェアリッテは尻込みをした。舌戦の不利を悟ったフィデリオが、フェアリッテの代わりに口を開く。
「フェアリッテのことを気遣うなら、これ以上その話はよしていただきたい」
「どうして? これまでブルーメンブラット嬢は騙されてきたのでしょう? 賎民の娘を妾の子などと偽られ、本当の姉妹だと思いこんでらっしゃるのよ。一刻も早く真偽を確かめて、その目を覚ましてさしあげなくてわ」
「真偽もなにも、噂はでたらめ、話は終わりだ。これ以上は家名を脅かすものと見なします」フィデリオは周囲すらも見晴らした。「爵位を継承してもいない僕たちの戯言が、貴族の当主の耳に入ればどうなるか、わからない者はいないでしょう」
令息令嬢は一斉に怯んだ。
あくまで噂は噂で、なにも
ただ、その醜聞が実に面白かったから。
面白くない。ちっとも面白くない。どうして、そんな根も葉もない話で私が貶められなければならないのだ。テーブルの下で、ドレスの裾を握り締める拳が震える。その様子が見えたのかもしれない、フィデリオの言葉で怯んだボースハイトが、息を吹き返したようにしゃべり始めた。
「貴女はどうなの? アウフムッシェル嬢」ボースハイトは私に話しかけた。「さっきから一言も話されないのは、やはり噂が本当だからなの?」
「ボースハイト嬢、いい加減に、」
「フィデリオ・アウフムッシェル卿。口の利きかたに気をつけなさって」ボースハイトはフィデリオの言葉に割って入った。「己より高位の者に対する振る舞いではなくってよ。貴方はアウフムッシェル伯爵家の令息であり、私はボースハイト侯爵家の令嬢。未熟な下級生として大目に見るのは、私が分別のついた上級生だからです」
今度はフィデリオが怯む番だった。
その隙を好機と捉えたのか、ボースハイトの連れ立っていた令嬢たちが、次々に口を開く。
「聞きました? アウフムッシェル嬢はデビュタントで、なんと、緑のドレスを着ていたらしいわよ」
「なんて分別のないおひとなのかしら! 校内のデビュタントでは淡い色のドレスでなくてはならないのに、そんなことも知らなかったんですのね」
「仕方ありませんわ。彼女は賎民の子で、教養がありませんもの。先の狩猟祭で、ファザーン卿も触れ回っていたではありませんか」
「違いますわ!」とうとうフェアリッテは席を立って反論した。「ヴィーラのドレスはお父様がヴィーラに贈ったものだったんです! だから、それを着てデビュタントにと、そう望んだだけよ!」
いつにないフェアリッテの剣幕にもかえって付け入る隙を見出したようだった。令嬢たちは「どうでしょう。それも怪しい話ですわ」といやらしく反論する。
「ブルーメンブラット辺境伯が彼女に贈り物だなんて」
「狩猟祭で怪我を負った際も、手紙一つ送らなかったと聞いておりますわ」
「そのドレスも、アウフムッシェル嬢が自分で買っただけでは?」
矢継ぎ早に言われてしまい、フェアリッテも「そんなはずないでしょう!」と必死に弁明する。その姿を見て、ボースハイトは余裕の態度を見せる。悪循環だ。まるで子供をあやすように、あるいは挑発するように、ボースハイトは高らかに言った。
「では、フォルトナー嬢が《真実の祝福》で証明してあげてはいかがです? そのドレスは本当にブルーメンブラット辺境伯が贈ったものなのか否か」
その言葉に、いよいよ私も発狂しそうになった。
ふざけるな。どうして、これが父から贈られたものだということまで、わざわざ証明しなければならないのか。誰かに証明してもらわなければならないほど、私という存在は疑わしいのか。これほどまでに侮辱されたと感じたことはそうなくて、一気に頭に血が上った。ドレスを握る手がどんどん固くなっていく。
私の憤慨と同じ感情を抱いたらしく、クラウディアも眉を顰め、「どうしてそんな証明が必要なのでしょう」と突っ返してくれた。しかし、その対応すら、彼女たちは「ほら、やっぱり」とほくそ笑むのだ。
「噂は本当のようね」
「アウフムッシェルで育てられていることだって、そもそもおかしかったのよ。もしも娘ならば、たとえ妾の子であったとしても、己の手元で育てるはずでしょうし」
「アウフムッシェル嬢もお可哀想にね……ブルーメンブラット邸で育てられた娘は愛されて育ったというのに、片や貴女は教養さえ与えられずに育ってしまって……」
「そもそもブルーメンブラット辺境伯が彼女に贈り物をしたことがありますか?」
「まあ、そんなことを言ってはお可哀想よ」
同情は口先だけで、令嬢たちは嬲り者にするように私を嘲笑った。握りしめた指が手の甲を突き抜けそうなほどなのに、彼女たちがこんなにも恨めしいのに、けれど、私には言い返す言葉が見当たらない。それをいいことに、ボースハイトはさらに言葉を続ける。
「ドレスだって手紙だっていただけないのに、彼女がなにを与えられるというの?」
——だから、私は、ボースハイトの顔へ、カップの紅茶をぶちまけたのだった。
ばしゃりと、中の温度よりも冷たい音が鳴って、鮮血のような飛沫が彼女を濡らした。髪にも頬にも制服にも
しばしの硬直のあと、令嬢たちが「大丈夫ですか!」「なんてことを!」と甲高く囀る。私は持っていたカップをそっとテーブルに戻す。そのとき、口元を押さえて驚愕していたリンケとコースフェルトが「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。ギュンターは信じられないものを見るような目で私を見ている。それさえも無視して、私は席を立った。
「待ちなさい! アウフムッシェル嬢……」
他の令嬢たちにハンカチで拭われたボースハイトが、立ち去ろうとする私の肩を掴む。しかし、肩越しに見た私の表情に、彼女は覇気を失った。
今、自分がどんな顔をしているのかはわからない。
けれど、私に振り返られた彼女は、魔物に凄まれたかのように竦みあがっていた。
私がふりほどくまでもなく、私の肩から彼女の手が力なく滑り落ちた。
それを見届けてから、私は黙って食堂を後にした。
誰もいない静かな廊下を歩くと、私の足音だけが鮮明に響く。そよそよと冷たく髪が靡く。白々とした空気が光と影を克明にした。私の気持ちなど知らないでキチキチと歌う小鳥の声が窓の外から聞こえる。それに混じって、私の吐息が鳴った。口から漏れる、いっそ殺意すら帯びるほどの、怒りの熱。はっと、吐きだしながら、柱に片手をつき、見悶えしそうなほどの屈辱を耐え忍んだ。
あんなことをすべきでなかったのに、これまで築きあげてきたものが一瞬で崩れ去るようなおこないだったのに、私にはああするしかなかった。言い返す言葉が、どうしても見当たらなかったから。
だって、私はお父様に会ったことがない。
ブルーメンブラット邸で育てられていない。
私が怪我をしても、熱で倒れても、お父様は便りさえくださらない。
噂以上にそれらは本当のことだった。不義の子だという噂も己の振る舞いが招いた醜聞も耐えられたが、私がなによりも歎じていたことを突きつけられては、無理だった。フェアリッテに与えられて私には与えられなかったものは、きっと私の知る以上に山ほどある。言い返すこともできないまま、こんなみじめな自分を晒しつづけるのが嫌だった。たまらなく悔しくて、
そうしておめおめと逃げだしてきた私へ、小走りの足音が近寄ってくる。
クラウディアが追いかけてきてくれたのだろうかと思ったけれど、「ヴィーラ」と呼ぶ声に、それがフェアリッテであると気づいた。
「来ないで」
いまの私に取り繕えるだけの余裕はない。振り向きもしない私の口から出た言葉には、限りなく本心に近い感情が乗っていた。
「……ヴィーラ」
それなのに、フェアリッテは切ない声で私を呼んだ。
ああ。嘲笑いに来てくれたのならば、いっそどれだけ清々したか。フェアリッテは私を勇気づけようとしているのだ。それがかえって私の神経を逆撫でるだなんて思ってもみないで。
彼女に同情されることが、一番の屈辱であり、苦痛だった。彼女への憎しみが破裂しそうになる。きっと振り返れば、そのきらきらとした目を痛ましそうに細めているに違いない。まるで我が事のように心を痛めているのだろう。その暢気でお幸せな心が一番嫌いだった。
私は貴女のように優しさをあげられないのに、どうして貴女にはそれができるの。どうして己の心をそれほどまでに砕き、傾け、差しだせるの。何度も胸の内で問いかけて、けれどわかりきっている。それは彼女の心が豊かだからだ。彼女がなんでも持っているからだ。与えられてきたから与えることができる。誰かを愛し、慈しむ真心も。清廉な優しさも。
これまで微笑みの下に隠していた憎悪が溢れだす。いまにも食ってかかりそうな己を必死に押し殺して、私は息苦しい声で紡いだ。
「かまわないで。一人にして」
そう言って、私は再び足を進めた——フェアリッテも後を追ってこなかった。
その後、私は再び体調を崩した。学校側には、狩猟祭からの不調がぶり返したことを理由として伝えたけれど、生徒の誰もが噂による心労が原因だと悟っていた。
私がボースハイトへ紅茶をぶちまけたことも早々に噂になった。しかし、私は気にしなかった。元々ひどい醜聞に付き纏われていたのだし、素行の悪さが足されたところでなんの痛手にもならない。
ただ、同室のリンケとコースフェルトは、ベッドで臥せる私に、なにも話しかけてこなくなった。クラウディアだけはいまでも心配してくれている。授業の内容やその日あったことをつぶさに教えてくれた。相も変わらず見舞いに来ているらしいフェアリッテへの「会えないと伝えて」という
そんなふうに気鬱な日々がすぎてゆき、もう少しで春休みを迎えるというころ。
父が学校へとやってきた。
部屋の窓から、ぼんやりと、校舎のそばで馬車が止まったのが見えた。誰だろうかとは思ったものの、次の瞬間にはすいっと目を逸らした私は、誰もいない室内を歩く。ずっとベッドの上にいたら体が固まってしまうから、休学している現在は、戯れに室内を歩いていた。ベッドの脇にあるテーブルには、小さな額縁と、クラウディアのくれたハンカチ、そして、コースフェルトの活けてくれた花。すっかり枯れて色褪せてしまったそれは、乾いた花びらを落として絶えようとしていた。人差し指で軽く撫でればかさついた音が鳴る。その上から被さってきたのは、部屋をノックする音だった。
いまは午前の授業が終わり、生徒が昼食を摂る時間帯だ。
ルームメイトがノックをするはずがないし、授業を終えた誰かがルームメイトを尋ねてきたのかもしれない。
けれど、生憎と部屋には私しかいないし、私は私で返事をするつもりがない。
そのまま居留守をきめこんでしまおうと思ったけれど、またノックが鳴ったあと、「アウフムッシェル嬢、起きていますか」という教師の声が聞こえた。
どうやら私を尋ねてきたらしい。
部屋着のままだったけれど、教師の声は女性のものだったので、私は服を改めることなく出ることにした。ドアの前に立ち、「はい」と返事をすると、「少しよろしいですか?」と返ってきた。了承として、私は部屋の扉を開ける。真っ先に見えたのは教師ではなく——黒い外套に身を包んだ、精悍な顔つきの紳士だった。
「プリマヴィーラ」
息を呑んだ私の名を、見知らぬその男は口にした。
あまりに馴染みのないその声に、私は呆然と見上げる。
その男の脇には教師がいた。よく眺めれば、廊下は人で溢れかえっていた。女子寮舎なので、さすがに令息の姿は見えなかったものの、どの令嬢も好奇の目で私を、というより、私たちを見つめている。それが言いようもなく不思議で、ただ、目の前の男の髪はやけに眩しく感じられた。
照り輝くような
教師は他の生徒へこの場を去るように言う。生徒たちの去っていく足音を聞きながら、「中に入っても?」という男の言葉に静かに頷く。部屋に通し、ドアを閉めると、突如、眩暈が襲った。こんなときに、と思ったけれど、立ち眩む私を男は支えてくれた。
「体調を崩していると聞いた。無理をする必要はない。ベッドへ戻ろう」
外の風に晒されていた外套や手袋は冷たかったけれど、私を気遣うような声や手には、手放しがたいなにかがあった。ばくばくと脈打つ心臓の音を悟られないよう、男に促されるままベッドへと潜りこみ、ふとんを首まで被る。
男は私のベッドの脇にある椅子に座り、私の顔を覗きこんでいた。
私も、
本当は優雅にお辞儀をしたかった。あるいは笑みを浮かべられたらよかった。なのに、お目にかかれたのがこんなときだなんて。何度か口を開こうと、逡巡、やっとの思いで紡いだ言葉は、あまりにか細いものだった。
「……お父様」
ブルーメンブラット辺境伯と呼ばれる私の父は、ゆるりと目を細めた。
「久しぶりだな……いや、最後に会ったのは赤子のときだったから、君にとってはこれがはじめましてのようなものか。当たり前だが、大きくなったものだ。最後に見たときはあんなに小さかったのに。母親に似たようだ、その緑の瞳も、面差しも」
あれだけ恋しかった父がいる。その父が自分を見てくれている。
どうしていきなりと思うよりも、父が私を訪ねてくれた感激のほうがよっぽど大きかった。溶けてしまいそうな高揚感と胸のすくような優越感に浸された。
いまこのとき、父はフェアリッテよりも私を見ているのだ。私の噂をしたひとたちに誰彼かまわず聞いて回りたいくらいだ、なにを言っているのか馬鹿めと。父の口から、きっと父がかつて愛しただろうひとと、その子供である私のことが、当然のように紡がれている。このひとの子供でないなんて、愛されていないだなんて、実に愚かしい噂だった。
父は「フェアリッテからの手紙に書かれていたのだ。学校で、君の出自にまつわる噂が囁かれていると」と告げた。彼女の名が出たのは嫌だったけれど、私のためにわざわざ来てくれたことはベッドの上ではしゃぎ回りたいほど嬉しい。
「ご迷惑を、おかけした、みたいで」
「気にするな。どこから漏れたかは知らないが、噂は噂だとこちらで対処する手筈だ。これ以上の大事にはなるまい。だが……君に説明しておくべきだと思った。そのために今日、君のもとへ訪ねたんだ」
父は私の額にある汗が髪を吸いつけたのに気づいたのか、私の髪の生え際へと手を遣って、髪をすうっと払った。遠慮がちな手つきだったけれど、私は目を細めて甘受する。父の手が離れていくのが寂しくて、それをずっと目で追っていた。
少し間を置いて、父は口を開く。
「どこから話そうか……そうだな、君の母親の話からしようか。たしかに噂どおり、彼女は賎民だった。名をゲネトリクスという、貧困街で春を
寝物語を紡ぐよう語る父の声に、私は耳を傾ける。
静謐な空間に父の淡々とした声だけが溶けていった。
「彼女はブルーメンブラット邸を尋ねてきたんだ。必死に懇願していたらしい、私に会わせるようにと。門番も使用人も取り合わなかったし、私も身に覚えがなかったので捨ておこうとしたが、彼女は無理矢理、邸の門を突破した。そして、幸運にも私を見つけ、足元に縋りついてきた。生まれたばかりの君を差しだし、“貴方の子です”と言った。淡い色の髪の薄く生えかかった、まだ目も開けられないような赤ん坊だった……君だよ、プリマヴィーラ」
はら、と音を立てて落ちたのは、頬を滑った私の髪か、それとも枯れた花びらか。
濡れた額がひんやりと冷めていくような心地がした。
「あのときの驚愕を、彼女の形相を、いまでも覚えているよ……必死の様子で言ったんだ、まぎれもなく私とのあいだの子供だと、だからどうかここに身を置いてほしいと。それがどうにも恐ろしくて、けれど、しょうがなかった。本当に貧しい時代だったんだ。君を抱えた彼女も痩せこけていて、君を抱く腕すら震えていた。母子ともに、いつ死んでもおかしくないような様子だった。神聖院にも孤児院にも受け入れてもらえなかったらしい彼女は、領主である私を頼ったんだ。私は首を横に振りつづけたが、それでも、彼女は諦めなかった」
——私と貴方の娘なんです。お願いです。そうだと頷いてください。私のことはかまわないから、せめて、この子だけは、ここに置かせてやってください。私では貧しくて育てられない、殺してしまう、この子だけでいいから、どうか。
「……そう、咽び泣きながら、今にも死にそうになりながら、彼女は“どうか娘を”と言い募った。彼女の懸命に折れた私は、赤ん坊の娘だけでも引き取ることにした」
ぞわぞわとなにかに浸されるような、あるいは滲みてゆくような、
これがどういう話なのか、否が応でも気づいてしまう。
「民の貧しさは、その領土を治める主の咎だ。目の前に晒されて無碍にはできなかった……償いたいと思ったんだ。しかし、困窮する者全員を救えるわけではない。見知らぬ娼婦の産んだ血の繋がりもない子を預かったことが噂になれば、同じような者が一気に邸へ押し寄せてしまう。だから、君を妾の子だと偽ることにした」
私はぎゅっとシーツを握りながら、そう囁く男の
ああ、そうだ、その瞳。なにかに心を砕いたり、傾けたり、慈愛と博愛を振り撒いたりする、豊かな瞳。このひとも、その瞳をしているのだ。私を絶望させる瞳。
「アウフムッシェルに預けたのも、ブルーメンブラットの本邸と離れた地でなら、真実を知る者もおらず、余計な噂を立てられる心配もないと思ったからだ。それに当時は恐慌に見舞われ、ブルーメンブラット領は貧しかった。アウフムッシェルのほうがまだましだろうと思い、預けることにしたんだ」
目の前の男が話していくことが信じられなくて、だけど、その顔を見ていれば認めざるを得なくなる。脳が理解するよりも先に心が悲鳴を上げていた。もうやめてと言えたらよかった。けれど、愕然とする私に気づいていながらも、彼は言葉を止めようとはしなくて、だから、私は押し黙るしかなかった。
「しかし、お前を預けた途端、アウフムッシェル領は塩害に遭ってしまった。迷信深い方々だから、お前に冷たく当たることがあったのだとしたら、お前が
立派な淑女だなんて、貴方の娘を殺してやるがために心を砕いてきたような人間に、この男はしみじみとそう言った。
私がどういう人間か、どんな気持ちでいるか考えもしない、お幸せなことをのたまう目の前の男に、私はなにを言うべきかわからない。
残酷なひとだ。ひときわ残酷で、なのに、私は彼に縋りついていた。
「……違いますよね」
声が震える。冬の光の月の冷たさよりもよっぽど凍てついた心が、ようやっと吐き出した言葉だった。素手で氷を砕きながら、必死に懇願する言葉だった。
「嘘だと言ってください、私は貴方の娘だと。貴方に会う日をずっと夢見てきました。貴方に見てほしくて、愛してほしくて、ずっと、私は、」
そのとき、目の前の男は初めて、痛ましいような、私を憐れむような顔をした。
けれど、まるで私の息の根を止めるかのように、男はただ告げるのだった。
「……書類上でさえも、君の後見人はアウフムッシェルだ。君に私との血の繋がりはない。とある女から預かった、赤の他人の娘だ、プリマヴィーラ」
——それから、男は、私の噂についてはきちんと対処するということ、これまでどおりブルーメンブラットの私生児として振る舞ってほしいということ、これからフェアリッテとも話をするということを告げ、部屋から出て行った。
気づけば、テーブルの上の花弁は、全て落ちきっていた。
どれだけベッドの上で呆然としていただろうか。
ひんやりと冷気を帯びる硝子窓の向こうで、馬車が去って行くのが見える。
私はおもむろに両手を上げ、
私はあのひとの子供じゃない。だから、あのひとのいるブルーメンブラット家で育てられることはないし、その愛を受け取れようはずもない。本来ならば、美しいドレスや宝石に囲まれるなんてのは夢のまた夢で、多くの者に気づかれもしないまま、きっと死んでしまう
私にはないものの全てを持っているフェアリッテが憎くて、フェアリッテのせいでなにもかも手に入れられないと思っていたけれど、でも、それは当然のことだった。
だって、最初から、全てはフェアリッテのものだった。
私のためにあったものなどなに一つなくて。
本当はずっと、私は持たざる者だったのだ。
「……っは、あ」
唇が、震えた。
引き換えて、瞳の奥からじわじわと熱く蠢く感触。
今にも流れそうになるそれに、両手で顔を覆い、蹲るように身を伏せた。
「ぅ、あっ、あぁああ……!」
奥歯を噛みしめ、目を
やめろ、消えるな、煮え滾らせろ、憎しみの炎よどうか燃えつづけて。
荒ぶる感情を憎悪で塗り固めないと、泣き崩れてしまいそうだった。そうしたら、私は、二度と正気ではいられなくなる。これまで幾度となく夢見て、手を伸ばして、けれど決して届かないと知ったそれに絶望して、生きてゆかれなくなる。
本当は。
本当は、美しいドレスも、名声も、王子との婚約もどうでもいい。フェアリッテが持っているから興味を示しただけで、私が本当に欲しいものはそれではなかった。
そんなものではないのだ。みじめに落ちぶれながらも欲し、喉から手が出るほど求め、それでも手に入らなかったものは。
死に体のように力なくベッドから腕を伸ばした。テーブルの上の額縁、幼いころに私がキャンバスへと描いた絵を掴みあげる。どうしても欲しくて、手に入らなくて、せめて
芳しいと名高い亜麻色の毛に、蕩けそうな顔をしたぬいぐるみ。
誰でもいいから教えて。それはどれだけ柔らかいの。どれほど大きいの。どんな甘さで、豊かさで、抱きしめたらどんな気持ちになれるの。私は、どうやったら、いつになったら、それを手に入れることができるの。
いつまでも夢見たクマのぬいぐるみは、私の描いた絵の中にしかいなかった。
抱きしめられないし、抱きしめてはくれない。
春の蝶が花と共に舞う日。
草花は風に流れ、真っ青に澄んだ空の光を目いっぱい浴びている。
温かなピンクの薔薇が綻ぶ庭園で、背丈よりも高い植木の迷宮を抜ければ、象牙色のテーブルに円になるように座った令嬢たちが、くすくすと楽しげに笑っていた。
その中の一人、今日の主役が、遅れて参じた私に気づく。
豊かな
「こちらこそお招きくださりありがとう」そして、と私は続ける。「誕生日おめでとう、リッテ」
「ありがとう」フェアリッテは幸せそうに微笑んだ。「今日を貴女とすごせるなんて本当に嬉しいわ。さあ、早くいらっしゃって。みんな待ちくたびれていたのよ」
フェアリッテは私を席へと案内した。
今日のフェアリッテの誕生会に招かれているのは、フェアリッテのルームメイトなど、特に彼女と親しくしている友人から、クラウディアにリンケ、コースフェルトなど、私に近しい人間もいた。きっとフェアリッテが気を遣ったのだろう。私の隣にはクラウディアが座っていた。
「もうお体は平気なの? アウフムッシェル嬢」フェアリッテのルームメイトの令嬢が心配そうに尋ねてきた。「春休みの前に体調を崩されていたじゃない。春休みも明けて、学校が始まってからは、授業にも出席されてはいるけれど……」
「お気遣いありがとうございます。すっかり調子も戻りましたわ」
「よかったです。一時期は心ない噂もありましたものね」
「本当よ。ボースハイト嬢なんて、フェアリッテにも無礼なことを!」
フェアリッテの友人は、彼女の気質によく似ている。誠実さを持ち合わせていて、私を気遣うのも、あの噂への憤りも、真なのだろうと思わせる善性があった。だから、あの噂のことを蒸し返されても、私は冷静に相槌を打つことができた。
どうして、誰が、あんな根も葉もない噂を流したのかは、わからなかった。
こんなこと、時を遡る前にはなかった。いや、もちろん悪し様に囁かれてはいたけれど、フェアリッテを虐げていたことに起因していた醜聞だ。その内容も、やはり不義の子だから、というもので、賎民の子だったなどと噂されたことはない。
せっかく時を遡る前とは振る舞いを改め、試験も、デビュタントも、狩猟祭も、フェアリッテとの関係も、なにからなにまで皮を被って、来たる日に備えてきたというのに。たとえフェアリッテを殺しても私が殺ったと疑われないようにしてきたのに、これじゃあ、賎民の子がやっかんでだとか言われてしまうかもしれない。
——だけど、本当のことだものね。
私はテーブルの紅茶に口をつけた。
「こうして学外で、休日に集まるのって、新鮮な気分です」コースフェルトは見回しながら言った。「それに私は、ブルーメンブラット邸に招かれたのははじめてですから。こんなにも美しい薔薇園を持っていらっしゃるのですね」
「ええ。一年中なにかしらの薔薇が咲いています。それに、庭師が今日のために格別の手入れをしてくれたようです」
「ふふふ、今日はリッテの誕生日だもの。使用人にまで愛されてるのね」
私がそう言うと、フェアリッテは頬を染めた。
私の言葉一つ疑わないフェアリッテ。彼女が純粋で心優しくて、いつでもふわふわきらきら笑っていられるのは、これまで彼女が愛されてきたからだ。だから、私がどう思っているかを、考えもしない。
たしかにいまのフェアリッテは《除災の祝福》を受けている。時を遡る前のように毒殺することはできない。けれど、その祝福については、私が一番知っている。力の強大さも、欠点も。
「……そういえば、みなさんはもうプレゼントを渡されたのですか?」
「ええ」私の言葉に、他の令嬢が頷く。「私は薔薇の香りのするインクを」
「私はブローチを」
「私は刺繍の入ったハンカチを」
「フォルトナー嬢の刺繍が見事で驚きましたわ。さすがでしたわね」
「それに、アウフムッシェル嬢がまだいらしていないときだったのですが、なんと、ベルトラント殿下から遣いが来ましたのよ!」
「そうそう、贈り物が届きましたの! 宝石を散りばめた煌びやかな靴でしたわ!」
「やっぱり殿下はフェアリッテを特別気にかけていらっしゃるのよ!」
みんな次々に贈り物を述べては、その感想を言い合っている。
ならば、そろそろ渡したほうがいいだろうと、フェアリッテに「私からも」と言って、用意していたプレゼントをフェアリッテに差しだした。
薄桃色の箱に黄色いレースのリボンを飾った箱だ。フェアリッテは嬉々とした表情で「開けてもいい?」と尋ねる。私は「もちろん」と頷いた。
しゅるしゅるとリボンをほどき、箱を開けると、フェアリッテは破願した。
「紅茶ね?」
「ええ、そうよ。貴女は
「ヴィーラは
「ちゃんと試飲して美味しいものを選んだわよ?」
「ふふふ、じゃあ、確かめてみなくっちゃね」フェアリッテは使用人を呼んだ。「この紅茶を淹れてちょうだい」
フェアリッテの指示を受けた使用人は、人数分のカップを用意した。陶器のティーポットで注ぎ、私たちの座るテーブルに並べる。
令嬢たちは「なんていい香りなのでしょう」と小さく囁きあっていた。けれど、カップには手をつけない。このテーブルの主人であるフェアリッテを待っているのだ。フェアリッテはみんなの視線を一身に受けながら、カップの紅茶に口をつけた。
「——美味しいわ」口に含み、味わってから、フェアリッテはそう言った。「香りと同じように素晴らしい味ね。ありがとう、ヴィーラ。本当に素敵なプレゼントだわ」
フェアリッテが絶賛したあと、令嬢たちは紅茶に口をつける。皆が一様に「本当に美味しい!」「甘いのにさっぱりしているわね」「アウフムッシェル嬢は素敵な茶葉をご存知なのね」と声を漏らした。
——時を遡る前でも、私がフェアリッテの誕生会に出席していたら、こうなっていたのだろうか。
あのときは招待状をもらってはいたけれど、出席することはなかった。彼女の誕生日なんて祝う気にもなれなかったし、フェアリッテの友人たちに囲まれるような針の筵に自分から行く意味がわからなかった。
だけど、こうして、彼女の好むような贈り物を選んで、招待状を持って行けば、ずっと望んでいたブルーメンブラットにも足を踏み入れることができた。何事もなかったように微笑みながら、平和にすごすことができた。空も風も光も花も、全てが心地好くて完璧で、あまりに優しく、穏やかな時間だった。
でも、それは私のためにあるものじゃない。フェアリッテだから持ち得るもので、私には絶対に手に入らないものだ。時を遡る前ならばなおさらだ。私のやることは変わらなかった。
フェアリッテが思い出したように、「そういえば、」と口を開く。
「たしか一週間後が貴女の誕生日だったわよね? ヴィーラ」
私はにっこりと微笑んだ。
春の蝶が花と共に舞う日から七日後の、春の蝶が海を渡る日。
その日が私の誕生日で——フェアリッテを殺す日だ。
時を遡る前から、私のやることは変わらない。私は、自分の誕生日に、自分へのプレゼントとして、フェアリッテを殺すことにした。
だって、私は持たざる者だ。
誰もなにも与えてくれなかった。
欲しいものは、自分で手に入れるしかない。
そよそよと風が吹けば、フェアリッテの髪が緩やかに揺れた。花咲く瞳は汚れを知らず、幸せそうな頬と口元は遠いほど目映い。私が羨み、憧れた女の子。
フェアリッテ。
もう、貴女を殺したとしても、私にはなにも手に入らないことなんてわかってる。
けれど、私にないものばかり持っている貴女を見るのが、つらくてたまらないの。
憎くて憎くて、妬まずにはいられないの。
私のために死んで。
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