夏休み
第9話 雪月花の君、最も憶はるるは誰
精巧で豪奢なファサードを携えた、大きな川沿いに立つ荘厳な城——それが、リーベの誇る王宮だ。
月夜を映しだす川を越え、馬車に乗って訪れた人々が、磨きあげられた長い階段を上っていく。門番をする衛兵に通されれば、大理石の
夏の草の月の下旬。
第一王子の誕生日パーティーが王宮にて開かれた。
伯爵家以上の貴族たちが招待され、今日というめでたい日を盛大に祝うのだ。
王宮の
ふと会場を見渡すと、数週間ぶりにリンケを見つけた。私のルームメイトである彼女は青と白のドレスに身を包んでいて、彼女の両親の後ろで静かに微笑んでいる。彼女たちの対面にいるのはコースフェルトだ。同じく私のルームメイトである彼女は、淡いピンクのドレスを着ている。リンケと同じように両親の背後に控えていた彼女は、私と目が合うなり目を丸めた。それを
「誰か友達でもいたの?」
それに気づいたフィデリオは、隣にいる私しか聞き取れないような小声で尋ねた。
「ただのルームメイト」
私は微笑みを崩さずに、フィデリオへと囁き返す。
フィデリオは薄く息をついた。
「ただの、って……君のルームメイトはリンケ嬢とコースフェルト嬢だっけ? 偏屈な君にしては、ずいぶんと親しくしているようじゃないか」
「親しくはしているけど友達じゃないもの」
「君の誕生日パーティーにも来てくれていたし、友達と呼んで差し支えないと思うけど」
「春に広まった私の噂、発端は別だとしても、広めたのは彼女たちよ」
「悪意はないだろう、許しておやりよ。彼女たちもかなり反省していた」
私はそばにあったフィデリオの手の甲を抓ろうとした。しかし、フィデリオはそれを避け、あまつさえ、エスコートの一環であるかのように私の手を掬いあげる。繋がれた手に力をこめながら、私はフィデリオを横目で睨みつけた。フィデリオは「躾のなっていない手だ」と漏らした。
「反省だけで許しを得られるなら罰はいらないわ」
「過ちを省みるのに遅すぎるということはない。省みること自体に価値がある。罪が消えずとも罰はいらないさ」反論しようとしたけれど、フィデリオがそれを制した。「おしゃべりはここまで。今日の主役のお出ましだ」
フィデリオを含むこの場にいる人間の目が、奥の大階段へと一斉に動く。
下りてきたのはリーベ王家の一同だ。現王陛下に、エスコートされる王妃殿下、その背後に控えるのは二人の御子である王子王女の三名。その先頭に控えていたのが、第一王子であり、誕生日を迎えられた、ベルトラント殿下だ。
今日の主役たる殿下は、実に気高く優雅な装いだった。純白のジャケットに金のあしらいが眩い。特に、襟や合わせのパイピング処理が格別で、東国イーリエンでよく見られる文様まで施されていた。彼のその黒真珠のように艶やかな髪や、
そんな殿下の背後には、第二王子のアインハルト殿下、二人の妹であらせられるヴィルヘルミナ王女殿下もいらっしゃった。踊り場の台座に据えられた、巨大で豪勢な
皆が一様に「リーベの君へ、
「皆、王太子の誕生日によく駆けつけてくれた。礼を言う」
威厳のある声で陛下が告げた。首を動かすたびに、王冠がきらりと光る。
陛下に促され、ベルトラント殿下が一歩前へと出る。
「僕のためにお集まりいただき、本当にありがとうございます。これほど多くの方々に祝っていただけて光栄です。重ねた歳のぶん、陛下のように立派なおこないのできる者になれるよう、努めてゆきたいと思います」一拍置いて。「せっかく参じてくださったのですがら、皆さんも今夜の宴を楽しまれてください。僕への気遣いは無用です。今の僕と同じように……心躍るひとときになることを願っています」
そう言った殿下へと一斉に拍手が贈られる。
すると、割れるような拍手のもとへ、殿下の足音が下りていった。確かな足取りである娘のもとへと向かう。ひそひそと囁く周囲。私は拍手を続けながら、彼が迎えに行く令嬢を思い浮かべる——どうせあんたなんでしょうよ。答え合わせでもするみたいに、足を止めたベルトラント殿下が彼女へと手を差しだした。
「フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット嬢。僕と踊っていただけますか?」
やはり、名前を呼ばれて軽やかに「はい」と返したのは、フェアリッテだった。
わっと空気が熱を帯びたとき——曲が鳴りだす。
その途端、私たちは互いのパートナーの手を取った。私はフィデリオと体を合わせ、音に合わせて一歩を踏みだす。ダンスの先陣を切ったベルトラント殿下と、彼のパートナーとなったフェアリッテへ、私は視線を遣る。
フェアリッテはマリーゴールドのような黄色のドレスに身を包んでいた。幾重にも重ねられたふわふわと可憐な裾が、大きな鐘のように膨らんでいる。そのドレスを彩るのは、淡い火花の散るリーベオパールのビジューだ。殿下にリードされる彼女の足取りに合わせ、ちらちらと光り輝くその様子は、絵にも描けない美しさだった。
一曲目が終わる。殿下とフェアリッテは互いへと恭しくお辞儀し、顔を上げた途端に微笑みあった。なごやかに「素晴らしいひとときをありがとう、フェアリッテ」「こちらこそ、ご一緒できて光栄でした」と言葉を交わし、その後、二人は別れた。
そんなフェアリッテを、薔薇色の髪の令息が迎えに行く。クシェルだった。彼は、合わせに蔓草模様の刺繍の施されたジャケットを着こみ、ペリースを左肩に羽織っている。ぺリースを優雅に靡かせながらフェアリッテへと手を差しだして「見事だった」と告げる。それにフェアリッテは「ありがとうございます」と言って応えた。
「やあ、フェアリッテ、クシェル」私をエスコートしながら、フィデリオは二人に話しかけた。「数週間ぶりかな」
「フィデリオか」クシェルはこちらを振り返った。「元気そうでなによりだ」
「久しぶり、フィデリオ。いい夜ね」フェアリッテは私を見遣った。「ヴィーラも。やっと会えて嬉しいわ。今日のドレスも素敵ね、貴女によく似合ってる」
フェアリッテの褒めた私のドレスは、孔雀のような青をしていた。ドレープとフリルで膨らませた裾には、銀糸の刺繍が施されている。青藍の装いをしたフィデリオも、私に合わせ、左肩に羽織るペリースには銀刺繍のされたものを選んでいた。
そうして私を立てたフィデリオやフェアリッテに挟まれようと、相変わらずクシェルは私をいないものとして扱っている。ならば私とて話しかけてやる謂れもないので、私はフェアリッテにだけ向き直って「ありがとう、リッテ」と返事をする。
「貴女も、見事なダンスだったわ。デビュタントのときにも殿下と踊っていたものね。息もぴったりで完璧だった」
「本当? 嬉しいわ。まさか誘っていただけるなんて思わなかったから、実は少し緊張してしまって……自信がなかったの」
たとえ足が竦んでいてても私は完璧に踊れるのよって、そう言っているように聞こえたのが気に食わなくて、「なら、きっと殿下のリードが素晴らしかったのね」と私は手の平を反した。しかし、フェアリッテは「ええ、とても」とうっとりしたので、私はやっぱりうんざりするしかなかった。
それから私たちは夏休みに入ってからの近況を話した。フィデリオと久しぶりにアウフムッシェルの林で狩りをしたこと。フェアリッテが新たな趣味として織物を始めたこと、それがなかなかに難しいこと。第一学年次の勉強の復習に追われていること。そんなことを話しているうちに、終わった曲数は片手を越えていた。
そうしてくると、人々はダンスよりも会話を楽しみはじめる。
特に、時のひとについて。
「ブルーメンブラット嬢は噂どおりの美しい方ね」
「ああ、一番最初に殿下がダンスを申しこんだ、あのご令嬢?」
「これまでの夜会を含めても、殿下と踊ったご令嬢は、ボースハイト侯爵令嬢、ブルーメンブラット辺境伯令嬢、ミットライト侯爵令嬢のお三方のみ」
「殿下ももうそのような
「ダンスの相手をしたということは、つまり、そういうことでしょう」
——王太子妃候補。
人々が静かに囁きあうのは、若きリーベの君たるベルトラント殿下の、未来のパートナーについて。殿下は誰とでもダンスを踊るような方では、それも、自らダンスを申しこむような方ではないため、殿下と踊った令嬢には婚約の話があるのではと、人々はときめいていた。リーベにおいて、第一王子は王太子だ。その殿下と婚約するということは王太子妃、つまり次期王妃となることを意味する。
やっとフェアリッテにもその話が持ちあがるようになったかと、私は内心で呆れていた。時を遡る前のことを考えれば遅すぎたくらいだ。あのときは第一学年の春には正式な婚約を決めていた。王太子妃候補として名が挙がったのなんて、狩猟祭を終えた冬でのことだ。
それなのに今回、その話がやっと出たのが第二学年に上がる前の夏だとは、
リーベの公爵は王族公爵家しか存在しないため、血の交わりを気にして、王太子は侯爵以下の貴族と婚姻するのがならわしだ。そして、その婚姻関係の多くは、リーベに五つしかない侯爵家のうち、いずれかの家で結ばれている。たとえば、大牧場も抱える豪農のマイヤー。神聖院と深い関りを持つシックザール。リーベ歴代の重臣であり、どこまでも遡れる古い家系のギュンター。そして、
私は人々の噂したボースハイト侯爵令嬢を探した。人々の視線を辿ればすぐに見つかった。どこかの家の者たちと会話する、やけに豪奢な令嬢。
ガランサシャ・フォン・ボースハイト。
氷肌玉骨というにふさわしい見目で、プラムの唇と紫のアイシャドウは、蠱惑的な
また人々の別の視線の先を辿れば、ちょうど殿下のダンスのお相手を終えたばかりのミットライト侯爵令嬢を見つけることができた。
ディアナ・フォン・ミットライト。
髪が艶々と照るのが月の輪のようで、思わず見惚れてしまう。どこもかしこも嫋やかで細く、王太子妃候補と噂される三人の中でも一番小柄ではあるものの、浮世離れした存在感があった。身に纏っているのは、おそらく、砂漠に覆われた国であるアトフの民族衣装をモチーフにしたドレスだろう。異国情緒のあるデザインが、見る者を引きつけるような独特の雰囲気を放っている。
とにかく派手に目立ちたがるナルシストと、周囲とは違う特別感に浸りたがるナルシストって感じね——人々は「ボースハイト嬢は華やかなおひとだ」「ミットライト嬢には謎めいた美しさがある」と誉めそやしていたが、私からしてみれば二人揃ってみっともなくって、いっそ笑えてくる。
しかも、目立ちたがりのボースハイト嬢のほうは、第一学年の冬、食堂で私に突っかかってきた、あの上級生の令嬢ではないか。ボースハイトはブルーメンブラットと敵対する家で、あのときのことは私までその火の粉を被っただけにすぎないが、思い出すだに苛立たしい思い出だ。やけに絡んでくるなとは思ったけれど、まさか王妃候補の一人に数えられていたとは。
家柄だけを考えるのなら、王太子妃候補として、ボースハイトやミットライトに不足はなかった。どちらもリーベに名高い侯爵家である。ボースハイトは金銀宝石の採掘される鉱山を三つも抱える大貴族で、ミットライトは国々を大きく跨ぐ
けれど。
人々の視線は、いつしか一人の令嬢へと集約していく。それはもちろん、今、私の目の前で楽しそうに会話をする、フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットだ。もう彼女の隣に殿下の姿は見られないのに、あのファーストダンスが頭から離れないでいる。憧れと期待。誰の目にも明らかなほど、殿下の隣には、フェアリッテがふさわしかった。
ふさわしい——否、あまりに収まりがよい。なにせ、白と金を基調とした殿下の手を、眩い黄色のドレスをめかしこむフェアリッテが取ったのだ。隣合うにはあまりに自然で、二人で色を合わせてきただろうことが、容易に見てとれた。
殿下の心映えのある、王太子妃の最有力候補は、ブルーメンブラット辺境伯令嬢だと、誰もが感じたはずだ。
「だが、」そのとき誰かがぽつんと漏らした。「ブルーメンブラットといえば私生児の娘がいただろう」
私は、フェアリッテの会話に相槌を打つふりをしながら、その声に耳を澄ませる。
「アウフムッシェルに預けられたとかいう、あの」
「いまちょうどブルーメンブラット嬢と話されているご令嬢?」
「春には殺人未遂の容疑にかけられたと聞いたが」
「事故だとのことだが、とんだお騒がせじゃないか」
私のことを話しているのは、おそらくブルーメンブラットと敵対する家門だ。王太子妃候補の家としてブルーメンブラットの名があれば、ブルーメンブラットやその令嬢であるフェアリッテを貶めるため、私の名を出すことは目に見えていた。
何故なら、揚げ足を取れるだけの瑕疵が、フェアリッテにはないのだ。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットという娘は、見目もたいへんに可憐で、教養にも秀でており、心優しく誠実で、明るい笑顔と話しかたをするため、彼女の周りにいる人間はみんな彼女を慕っている。時を遡る前の私は《持たざる者》であることしか欠点を見つけられなかった。けれど、いま《除災の祝福》を受けている彼女にはそれさえもない。完璧だ。下手に彼女を貶めれば、貶めた人間のほうが責められる。
そこで引き合いに出されるのが私だ。令息令嬢の通う学校でも噂され、《持たざる者》、不義の子、賎民の子、殺人未遂疑惑など、なにかとゴシップの多い私は、フェアリッテやブルーメンブラットの向こう脛なのだ。
案の定こぞって
フィデリオが私の腰にそっと手を添えた。もしかしたらフィデリオもこの声を聞きつけたのかもしれない、過敏に反応するなとでも思っているはずだ。案ぜずとも上手くやれるというのに。私はなんにも気にしておりませんという態度で、フェアリッテの話に「そうよね」と頷いた。
時を遡る前の私なら、踵を返して彼らに突っかかっていたかもしれない。けれど、それが下手なやりかただということは身に沁みている。
春での一連の事件は、殿下の力添えとブルーメンブラットの努力もあり、私にまつわる噂諸共きれいに収束している。表向きは、私も未だブルーメンブラットの娘であり、ゴシップにあるような非はないとされている。正直なところ、その話はわりと全て本当なのだが、噂していた彼らが知りようはずもない。ああ、そういえば、そういう騒ぎがあったな、というような見解だ。まさか彼らも本気であの噂を信じているわけではない。ただ、その噂が瑕疵になることには気がついていた。完璧な娘を、別の方向から傷つけられる、格好の生餌。
ブルーメンブラットを貶めるために私をだしにするとは、腹立たしい。
たとえフェアリッテが殿下と婚約できなかろうと、もはやなんの未練もないブルーメンブラットがその権威を落とそうと、私からしてみればどうぞお好きになさって、といった具合なのだが、そのために私自身を利用されるなんてまっぴらごめんだ。
彼らに私の悪評を囁かれるのも嫌だが、それに揺さぶられてやるのも嫌だった。
私は苛立ちを瞳孔の奥に隠すように睫毛を伏せた。
「——そういえば、ヴィーラ、春に私が湖に落ちちゃったことを覚えてる?」
ふとフェアリッテの告げた言葉に、私は素で「えっ?」と返してしまった。なんでいまその話? しかもよりにもよって彼らの前で? 私について噂していた彼らも、フェアリッテの言葉に興味を引かれたのか、おしゃべりな口を閉ざし、聞き耳を立てた。
反して、フェアリッテは両手を口元に遣って、楽しそうに微笑んでいる。けれど、その花咲く瞳に強く囁かれたような気がした。私は「……ええ、もちろん」と話を合わせる。
「ふふ、忘れられるわけないわよね、あのときのヴィーラったらおかしくて、いつもの優雅な貴女らしくもない、すっごく驚いた顔をしてた」
「あらなに? からかってやろうって? それを言うなら鳥に足を取られた貴女もずいぶんとまぬけだったわよ」
「そんな私を助けようとしたせいで自分まで溺れたまぬけはどなた?」
「二人とも……いまだから笑い話にできるんだろうけど、当時、俺がどれだけひやひやしたかわかるかい?」いいところにフィデリオが割って入った。「従姉妹が揃いも揃って湖に沈んでいったんだ。
「かわいい従姉妹を助けてくださいって?」
「俺まで落ちたりしませんようにって」
フェアリッテは「まあ、ひどい!」と言いながらおおらかに笑った。
その様子を見て、噂していた彼らは口を噤み、苦い顔のまま「……そういえば、先月、イーリエンのお茶が手に入りましてね、」と話を移ろわせていく。
フェアリッテやブルーメンブラットを貶める材料として囁いていたあの噂を、当時者がなんでもないように話しているのだから、もはやそれは意味をなさない。懐かしい思い出話でしかない。そのようにフェアリッテが振る舞って、彼らを封殺したのだ。
ブルーメンブラットの令嬢として、フェアリッテは淑女教育を受けている。非難や野次のあしらいだって、決して不得手ではなかった。もっと徹底的にいたぶってやればいいのにとも思うけれど、敵を作らないようにいなすのが上手なやりかたというもの。今後、王太子妃候補同士の争いが起きようと、フェアリッテなら上手くやるだろう。時を遡る前と変わらず、殿下を射止めるのはフェアリッテに違いない。
しかし、これ以上、そういったいざこざに巻きこまれるのは億劫だ。
やるなら勝手にやっていてほしい。
私は「飲み物を取ってくるわ」と言い、フェアリッテたちから離れた。なんなら、戻らなくともよいかとさえ思えた。リンケやコースフェルト、踊りの最中にはギュンターの顔を見た。彼女らや彼に話しかけてはどうだろう。いや、前二人は絶対にないな、きっとあの二人なら、今は殿下と踊ったフェアリッテの話で盛り上がっているだろうから。となるとギュンターか。あの毒にも薬にもならない男なら、いまの気分にはちょうどよいかもしれない。
そう思いながら歩いていると、私の目の前を誰かが遮った。失礼、と言って身を躱そうとしたとき、その人物が先に声をかけてくる。
「突然すみません、美しいお方。どうか僕と踊っていただけませんか?」
一瞬、それが私への言葉だと理解できなかった。
しかし、そう言った彼が手を差しだしてきたので、私は顔を上げる。
どこかあどけない
「……すみません。喉が渇いてしまったので、飲み物を取りに行くところだったんですの。お誘いくださりありがとうございます」
そのように告げて、私は断った。彼が私を知っているかは知れなかったが、社交界で噂されるような私にわざわざ話しかけてくるなんて、いかにも怪しい。彼が自ら名乗らなかったことといい、信用できなかったのだ。なるだけ表情には出さず、申し訳ないという声音で伝えれば、彼は「そうですか、」と引き下がった。と思っていた。
「でしたら、林檎と野苺のショーレがおすすめですよ。僕もさきほど飲んだのですが、すっかり虜になってしまいました。甘いものがお好きなら、きっと気に入ると思います」
しかし、彼は当然のように私の隣に並び、テーブルまでエスコートしはじめた。テーブルに辿りつくなり「こちらです」と言って、私にグラスを差しだす。なんとなくしてやられたような気持ちに苛まれた私は、あくまでも拒絶の意思を貫いた。
「私、甘いものはあまり好きではないんです」
「そうなんですか、これは失礼。どういったものがお好みですか? ビーツやカシスもおすすめですが」
「どうでしょうね。ゆっくり選びたいので」
「たしかに、ここにある飲み物はどれも甘い。貴女好みのものを探すのも一苦労でしょう」彼は少しだけ首を傾げる。「でしたら……貴女が選んでいるあいだの時間を、僕に下さいませんか? ここで別れたあと、別の誰かと踊っている貴女を見つけたら、きっと僕は後悔すると思うので」
汚れを知らない白雪のような面差しとは裏腹に、色好きな言葉で話しかけてくる男だ。それなのに、めげない姿勢も、崩れない表情も、なにもかもが苦し紛れとは思えず、どこか品を残しているのだ。
私は少しだけ試してやりたくなった。
「……貴方は私をご存知なのですか?」
手元にあった適当なグラスを取り、私は彼に尋ねた。
話してやってもいいという態度を示した私に、彼は目を細めて笑う。
「プリマヴィーラ・アウフムッシェル嬢。恐ろしい水妖のような美貌。一目見て噂どおりの貴女だと思いました」
「貶していらっしゃるの?」
「褒めているんです。間近でお話すればより一層でした。美しい
「甘いものは好きではありません」
「白茶の味わい深さは酔いもすっきりと醒めるところにあります。目も冴えるような、怖気立つほどの美しさは、貴女と通ずるものがある」彼は林檎と野苺のショーレを手に取った。「好ましく思ってしまったんです……そう、素直に告げたら、吟味するなと、僕を叱りますか?」
縋るような言葉を吐いても、その目は確信しているように感じられた。揺らぎもなく私を見つめている。
見つめあっていると、不思議と、彼をどこかで見たことがあるような気がした。誰かに似ている、誰だろう、と思いを馳せていると、不意に彼が視線を俯かせた。細い睫毛が瞳に影を落とす。
「失礼」彼は呟く。「不躾でしたね」
「……こちらこそ」ぴんと来なかった私は視線を外し、グラスに口づける。「貴方をどこかで見たことがあるような気がして」
「おや、光栄です」
「ですが、思い出せませんでした。勘違いだったかも」
「運命、ということかもしれませんよ?」
「まさか」
「だってほら、いまちょうど、貴女はそのグラスを飲み干しました」彼は空になった己のグラスを見せつける。「そして、僕も。お互いに喉の潤ったところで、どうか一曲踊っていただけませんか?」
切り揃えられた髪の奥の瞳が、きらりと光る。
これ以上逃げては障りがあるなと思い、私は諦めて「喜んで」と手を差しだした。
彼のリードは強気だがエレガントで、まるで温かな吹雪に晒されているような、不思議な心地がした。だけど、悪くはない。フィデリオと踊っているときのようなしっくりくる感じはないものの、次はどこに連れてゆかれるのかという期待を感じさせられた。
ただ、視線が気になった。彼のではなく、周りのだ。彼と踊っていると、たまに何人かが、驚いたようにこちらを見つめるのだ。それに違和感を覚えて拭えない。私は彼をちらりと見つめる。彼は私と目が合うなり、また、飴を転がしたみたいに笑った。どうしてか嫌な予感がする。私はそこではじめて眉間に皺を寄せた。
曲が終わり、お辞儀をする。彼は私の手を取って口づけた。私が目を見開かせた隙に「夢のような時間でした。ぜひ、また」と告げる。あどけない顔で私へと微笑みかける。私が口を開こうとしたとき。
「ジギィ!」
という呼び声に、彼が顔を上げた。彼は声のほうを見遣って、「シシィ」と答える。私は彼の視線の先を追った。そこには、見間違えようもない派手なドレスの、ガランサシャ・フォン・ボースハイトが腕組みをして立っていた。
「それでは、アウフムッシェル嬢、よい夜を」
告げるや否や、彼は颯爽と去っていく。己を呼んだボースハイトのもとへ。
私が立ちつくしていると、どこからともなく「プリマヴィーラ」と呼び声がかかった。振り返ると、渋い顔をしたフィデリオがいた。
「フィデリオ……?」
「やってしまったね」フィデリオは続ける。「あれは、ジギタリウス・フォン・ボースハイト。今年、俺たちの学校に入学する、ボースハイト家の令息だ」
「ボースハイト嬢の弟ってこと?」
「どうして彼と踊っていたの?」
「知らなかったのよ、彼がボースハイト家の人間だって」私は息をつく。「……まずいことになる?」
フィデリオは「どうだろう」と返したけれど、その顔はやはり苦渋を浮かべている。私も、予感はしていた。
王太子妃候補に挙げられるのは三家。ブルーメンブラット。ミットライト。そして、ボースハイト。
ここから正式な婚約関係に至るまでの、熾烈な争いが繰り広げられることになる。
その幕開けがあるとするなら、それはまさに、この夜だった。
殿下の誕生日パーティーの翌日、私はコースフェルト家の邸で開かれたお茶会に参じていた。お茶会と言っても、この場にいるのは私とコースフェルト、リンケの三人のみだ。昨晩、コースフェルトと挨拶をした際に、「アウフムッシェル嬢、明日の昼のご予定はあって?」とものすごい剣幕で聞かれ、咄嗟に首を横に振れば、「では、正午、コースフェルト邸にいらっしゃってね」と告げられたのだ。正直に答えなければよかったと、いまは後悔している。
「——それでね、私、月のひととおしゃべりをしたのよ」コースフェルトはうっとりとした様子で告げた。「本当に神秘的なお方だったわ。お召し物もまたとなくて、まるで神話から飛びだしてきたようだった」
「月のひとは近寄りがたいわ、雪のひととは違う意味でね」リンケは口元に手を遣る。「けれど、二人とも、有力貴族からの支持は厚いみたいよ。特に雪のひとは他の二人と違って歳も一つ上だから……殿下をお支えする力は一番だと言われているのですって」
「そんな! 私はブルーメンブラット嬢を応援しているのよ?」
「それだけ月のひとに心酔しているのによく言えるわね、カトリナ」
「それとこれとは別よ!」コースフェルトは私を見遣る。「それで? アウフムッシェル嬢はどうなのかしら。ジギタリウス・フォン・ボースハイト卿と踊っていたけれど、まさか貴女も雪のひとを応援しているの?」
私は甘すぎる紅茶を口にしながら、どう返したものかと思いながらも、二人の話す内容に辟易としていた。
昨日の殿下の誕生日パーティーは、実質の王太子妃候補お披露目会だったと
そして、その三名のうちの誰が正式な婚約を結ぶのか——成り行きを見守り、思いを馳せるのが、蚊帳の外にいる貴族たちの役割であるらしい。
「私もリッテを応援しています」私はカップから口を離し、告げた。「たしかにボースハイト嬢のご兄弟の方とダンスをご一緒させていただきましたが……あれは話のなりゆきでしたし、深い意味はありませんもの」
「よかったです」リンケは肩を緩める。「ですが、今後の身の振りかたには気をつけないといけませんね……ボースハイト側についたのだと、誤解する者もいらっしゃるかもしれないもの」
そう——王太子妃候補争いにおいての肝要は、どこの家を取りこむか、あるいは、どこの家につくかだ。
これは、ブルーメンブラット、ボースハイト、ミットライトの三家による、一種の対立である。王族との婚約には、どうしても政治が絡んでくるためだ。候補に挙がった三家は他のどの貴族を味方につけるのか、三家以外の貴族はどの家の味方をするのか、心理戦であり勢力戦だ。アウフムッシェル家のように
「アーノルド・フォン・ギュンター卿は、昨日、ボースハイト嬢やミットライト嬢とは一度も顔を合せなかったわよ。ギュンター侯爵家はブルーメンブラットを支持しているんだと思うの」
「シックザール侯爵家がミットライトにつくのは確実でしょうね……両家の交友を考えると、月のひとを支持しないわけがないわ」
「マイヤー侯爵家はどうかしら?」
「ボースハイトの所有する鉱山からの鉱害で、マイヤーの所有領の作物が激減したと聞いたわ。その事件を考慮するなら、ボースハイトにつくことだけはないかもしれません」
「マイヤー侯爵家がブルーメンブラットを支持すれば、一気にこちらの有利となりますわね。全ての侯爵家が支持を表明すれば、他の伯爵家や子爵家も、次第に動いてゆくはずです」
リンケはさくりとビスケットを齧った。
「……私個人としては、花のひとを、ブルーメンブラット嬢を応援しているのですが、」コースフェルトは躊躇いがちに言った。「父がブルーメンブラットを選ぶかはわかりません。家の交友でいうと、ミットライトのほうが関係は深いので」
リンケは「仕方がないわよ」とコースフェルトを気遣うように囁く。当主でもない令息令嬢は、家の意向に従うほかないのだ。だから、コースフェルトもリンケも、応援しているとは言えど、支持しているとは言わない。
「父がブルーメンブラットを選ばなかったら……私は、ブルーメンブラット嬢とも、アウフムッシェル嬢とも、以前のようにお話することが難しくなってしまうのかしら」コースフェルトは苦笑した。「それが怖くて、今日、無理矢理にでも二人を呼んだのよ。ごめんなさい。誰かにこの不安を聞いてほしくて……」
「カトリナ……」
「パトリツィアは? リンケがどの家を支持するのかは聞いた?」
「いいえ、私もまだよ。おそらくブルーメンブラットを支持するとは思うけど」
「もしコースフェルトが他の家を支持しても、仲良くしてくださるかしら?」
リンケは痛ましそうな顔で「当たり前じゃない」と告げた。私も「もちろんですわ」とコースフェルトに囁く。私たちの言葉に慰められたのか、コースフェルトは落ち着いた様子で「ありがとう」と返した。
時を遡る前とは違ういまを辿っているため、未来がどうなるかはわからない。そもそも、このような派閥争いだってなかったのだ。争いが起こるよりも先に殿下はフェアリッテを選んだ。今回だってきっとそうなると信じているけれど、嫌な予感はずっとしていた。
いまは夏の草の月。
始業式はまだふた月も先である。
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