第15話 それは私と聖女が言った

「——狩猟祭に出る?」


 面食らったような表情で、私の告げた言葉をそのまま反芻するフェアリッテ。

 冬の早朝というだけあって特に冷えるこの時間。部屋の扉を叩いた私を、制服の上に羽織ショールをかける格好で、フェアリッテは出迎えた。そして、挨拶もなおざりに本題を切りだした私へ、その目を瞬かせたのだった。

 彼女は何気ないそぶりで部屋を出て、廊下で話すことを促した。扉の奥ではヴォルケンシュタインたちが身支度を整えている最中だったので、開けっ放しにしておくのも気がかりだったのだろう。ぱたん、と後ろ手で扉を閉めると、「どうして」と私に尋ねる。


「昨日の夜、ベッドの中で思い立ったの」

「急に……? フィデリオたちに、人手が欲しいって言われた?」

「そういうわけじゃないけれど」

「だったらどうしてヴィーラが狩猟祭に出ることになるの?」

「そっちのほうがいいと思ったのよ」

「そっちのほうがいいって……」


 フェアリッテはまばゆい眉間を曇らせる。淡褐色ヘーゼルの瞳が長い睫毛に覆われていく。どこか傷ついたような顔をしていた。


「タピスリは?」

「……ごめんなさい。私は参加できないわ」

「これまで一緒にがんばってきたのに。みんなで修復するって言ったじゃない」

「本当に申し訳ないと思ってる」私は言葉を重ねる。「でも、前夜祭があんなことになった以上、狩猟祭にも尽力すべきだと思ったの。リッテやパトリツィアに任せてしまうのは心苦しいけれど……私は針仕事に秀でているわけではないから、むしろ馬術や狩りのほうが力になれるはずよ」


 そう言っても、フェアリッテの顔色は変わらなかった。羽織ショールの裾を胸の前で掴んで、唇を震えさせる。言いたいことはたくさんあったに違いないが、そのどれをも美しい御髪おぐしの中へと潜ませて、たった一つを選ぶようにして、フェアリッテは告げた。


「力になんてならなくていい」

「…………」

「私は、貴女と、みんなと前夜祭に参加できれば、それでよかったわ」

「……そうも言ってられないでしょう。リッテ」

「いいえ、そう言うわ。ねえ、覚えてる? 私がトラウト子爵家のパーティーで言ったこと。貴女だけは、私を置いていかないでね、って」


 私は小さく「覚えているわ」と告げた。それをフェアリッテが聞き取れたかは定かではない。間を置かずに、「もしかして、ヴィーラは最初から、前夜祭じゃなくて狩猟祭に参加したかった?」と言葉を連ねたから。そして、フェアリッテの突飛な言葉があまりに検討違いすぎて、私も「そういうことではないの」とそちらを取りあげざるを得なかった。


「でも、去年、ヴィーラは狩猟祭に参加していたでしょう? 本当は今年も参加したかったのに、前夜祭に一緒に参加しないかって私が誘ったから、断れなかったのかもって」

「私は本当に、狩猟祭に参加する気なんてなかったわ。でも、事情が変わったから」

「事情って?」

「それは……」


 馬鹿正直に本当のことなど言えるわけもなく、数瞬ばかり言葉を詰まらせる。次の瞬間には毅然とした態度で「いえ、そんなことはどうでもいいのよ」とねようとしたけれど、フェアリッテがそれを許すことはなかった。


「狩猟祭に出る気もなかった貴女が意見を変える事情って? 私に関することでしょう? 前夜祭で、タピスリがあんなことになって、私が王妃になる日から遠のいたから、だから狩猟祭に参加しようとしてるんでしょう? フィデリオやアーノルド卿だってそうだもの。そうやって、ヴィーラも……私のために、私を置いていくんでしょう?」

「貴女のためじゃないわ」


 これ以上追究されるのが億劫で、気づけば語気が強くなっていた。私の口から飛び出たのはとしては冷酷な台詞で、はっとなった私は両手で口元を押さえる。

 けれど、目の前のフェアリッテは、驚きこそすれ、傷ついた様子はなかった。丸めた目をゆるりと細めて、苦笑を浮かべる。その柔らかな仕草に言いようもないわびしさを感じたのは、私のほうだった。

 フェアリッテは肩を落として「だったらいいの」と囁くように言う。


「私は、それが本当に貴女のしたいことなら、応援したいわ……タピスリのことは残念だけれど、貴女の狩りの成果を待つのも、きっと楽しいと思うの。引き止めてごめんなさいね、ヴィーラ。狩猟祭、がんばってね」


 去年の狩猟祭でも、フェアリッテは言っていた。私の思いが一番大事だと、私のしたいことをすればいいと。

 あのときはその言葉がむず痒いほど心地好くて、けれど、今は、鉛のように重く、冷たく、いっそ貴女にはわからないでしょうと吐きだしてやりたくなる。

 わかるわけがない、わかってたまるか、と思うのと同じくらい、どうしてわからないのだとか、わかってよだとか、そういった感情が胸を渦巻いた。いますぐにでもその肩を鷲掴みにして叫び散らしてやりたかった。それほどまでに憎くて、しかし、その感情を噛み砕いて飲み干す。


「……ええ、頑張るわ。応援していてね」


 言うが早いか、私は踵を返す。

 階段を下り、寮舎を出た。

 狩猟祭の舞台である森へは、例年どおり馬で行くこととなっている。校舎内の出発地点まで迎えば、狩猟祭に向けて馬を牽く者と、見送りきた制服姿の者たちとが集まっていた。

 昨年も見た光景の中の、身支度の終えたフィデリオとギュンターを見つけ、私は歩み寄っていく。

 フィデリオは昨年と同じいでたちだったけれど、ギュンターは雪豹の毛皮のついたジャケットを着こんでいた。遠目から見ても目立つ代物で、彼の高潔な身のこなしによく似合った。

 この日のためにとフェアリッテたちが刺繍を施したスカーフを、フィデリオは腕に巻き、ギュンターは腰から下げていた。

 二人は私に気がつくと、「挨拶は済んだか」と言って近づいた。


「ええ」私は手袋を深く嵌めなおす。「挨拶というか、説得だけれど」

「フェアリッテが驚くのも無理はない。俺だって朝一番に“狩猟祭に出ようと思うの”なんて君に言われて、本当に驚いたんだから」

「奇遇ね、私もよ。このことを驚かないのは乳母くらいのものじゃない? どうせ言うに違いないわ、やはりプリマヴィーラさまは狩猟祭に出たかったのですね、とかなんとか」

「なにはともあれ、君もいてくれると心強いな」ギュンターが腕を組んで笑う。「それに楽しみだ。去年の狩猟祭では、僕たちはそれぞれ、違う陣営で参加していただろう? それが今年は仲間として一緒に参加できるだなんて」


 ギュンターの言葉に「そうだね」とフィデリオも微笑む。

 周囲を見渡すと、別の陣営の参加者も揃っている。

 王太子妃争いのなかった去年とは違い、今年の陣営派閥は、区別があまりに顕著だった。フィデリオやギュンターなどのブルーメンブラット陣営が、それを象徴する刺繍の入ったスカーフを身につけているように——ボースハイト陣営は銀箔に染められた羽根を、ミットライト陣営は月光石の装飾の入った矢筒を携えていた。それらを身につけていない、他の参加者が浮いてしまうほどだった。

 ちなみに、急遽参加することとなった私も、陣営の象徴を身につけていない者の一人だ。そんな私に目が行くのか、参加者や応援の者たちからの視線がうるさかった。クシェルやなどは、話しかけてくることこそなかったけれど、すれ違ったときには、狩猟祭に出る私を意外そうに見ていた。

 そのクシェルといえば、王領伯家の者で脇を固めたベルトラント殿下に付き従っている。ベルトラント殿下は王家の紋章の施されたネクタイをつけていた。美しいビジューが朝日に煌めいている。

 少し視線を滑らせれば、日の下ではやけに目を引く、夜をそのまま切り取ったかのような黒髪が二つ見えた。ガランサシャとジギタリウスだ。

 ジギタリウスも狩猟祭に参加するようで、ひときわ大きな銀箔の羽を胸に差している。弟を見送りに来たガランサシャは、どこか浮かない様子だった。そんな姉を、ジギタリウスは気遣っている。


「タピスリのことは残念だけど、心を痛めなくともいいよ、シシィ」ジギタリウスは励ますように笑った。「僕が誰よりも立派な獲物を狩って、壇上で言ってあげるからね。“この栄光をガランサシャ・フォン・ボースハイトに捧ぐ”って」

「きっとよ、ジギィ。だけど、怪我はしないようにね。ぎりぎり馬に乗れるくらいの腕だったでしょう、貴方」

「大丈夫。僕よりも優秀なひとが陣営にはたくさんいるから」


 二人の会話を横目にしつつ、私は別の姿を探したけれど——存外、見つけるのは早かった。

 なんてったって、月虹の広がるような髪は、冷たい空気の中でこそ眩く光る。たとえひとまとめにされていても人目を惹きつける。集めた数多の視線すべてに等しく応えるような眼差しは実に静かだった。昨晩、あんな話をしておいて、ディアナ・フォン・ミットライトは、なにも変わらない、聖女の顔でそこにいた。

 私の目的はただ一つ。

 狩猟祭に紛れて、彼女を殺すことだ。






 狩りに事故はつきものだ。獲物を狩るために武器や毒、罠などを用いるが、それが自分に返ってこないともかぎらない。加えて、狩り場たる森は樹木が茂り、視界も悪い。また、足場の崩れやすい場所もあるために怪我のおそれもある。

 それは学校の狩猟祭にも同じことが言える。いくら道具の危険性を排したとはいえ、学校の管轄する場所で狩りをするとはいえ、安全性は万全ではない。

 だから、事故を装って殺したところで、事件性を疑われることもない。

 とはいえ、こんな時分なのだから、いくら事故に見せかけたところで、犯人が割れてしまえば障りがある。プリマヴィーラ・アウフムッシェルがディアナ・フォン・ミットライトを殺したとあれば、人々はそこに事故ではなく事件を見出す——敵対派閥の王太子妃候補を殺めたのだろうと。

 つまり、誰が殺ったかわからないよう、工作する必要があるのだ。

 まずは彼女を射殺すための矢だ。ただし、これに関しては、狩猟祭では学校で支給される矢を用いるため、参加者の誰の射たかはわからないはずだ。次に、やじりに塗る毒。狩り場に毒を持ちこむことは禁止されているが、その場で調達するならば話は別だ。森に着き、陣営の張ったテントから離れて彷徨えば、自生する鈴蘭を見つけた。花から毒を抽出し、致死量を塗りこんで毒矢を作った。確実を期するならば罠も必要だ。虎挟みでもあれば完璧だったけれど、持ちこみが禁止されているため、無難なのは落とし穴だろう。幸いにして、去年の誰かが掘ったと思われる落とし穴がまだ残っていた。

 ここまでは実に順調である。あとは標的であるディアナだ。ここまで誘き寄せるか、あるいは追い詰めるかして——彼女を鈴蘭の毒矢で射抜き、落とし穴に落とし、誰にも見つけさせず、誰にも治療させず、死に至らしめる。

 私は、鬱蒼とした瞳を狭めた。

 瞼を閉じても輝く、冬の日差し。抉るように吹き抜ける北風。今年は天の高くなるような晴天で、雨の一滴ひとしずくすら落ちる気配はない。なにも洗い流しはしない。残忍な思いまでがこの土を汚すのだろうと思われた。


「どうしたの? プリマヴィーラ。顔色が悪いけれど」


 フィデリオに声をかけられたので、視線だけ彼のほうへと遣った。獣の足跡を見つけるため共に探索をしていたフィデリオは、私の様子を気遣っているようだった。けれど、いまの状況としては、そうやって気遣われたほうが面倒だ。私は「別に。なんともないわ」と彼から顔を逸らした。


「そうかな。疲れてるんじゃないかい? 昨日はあんなことがあったのだし……あとは俺たちに任せて、無理せずテントで休んでいたら?」

「余計なお世話よ」

「余計なって……仮にも君を心配している相手に向かって、口が悪いよ」

「そりゃあ賎民の子ですもの、教養がなくて当然よね」


 この場に私たちしかいないのをいいことに、私はフィデリオの弱点たる手札カードを切った。私が開き直れば直るほど、彼が下手したてに出るのは理解している。案の定、表情を濁した彼は、「またそんなことを言って……」とこぼしながら、私へ肉薄する態度を緩めた。それを機に、私は「こうやって憎まれ口を叩けるくらいなんだから元気に決まっているでしょう」と畳みかける。


「なら、いいんだけど」フィデリオは煮えきらないようだった。「去年の狩猟祭では怪我をしたこともあるからね……本当に不調なら俺に言ってくれよ」

「はいはい。お節介。まるで乳母みたい」

「君ねえ」

「第一、あれはファザーン卿の射た矢が原因だもの。今の私は五体満足よ」

「狩猟祭ではなにが起こるかわからない。万が一もありえる」


 その万が一を引き起こしてやろうとしているのは私だ。フィデリオの言葉が忠告のように思えて、私は「そうね」としか返せなかった。

 昨晩のディアナの言葉を思い出す。

——たとえ欠けても月は月です。

——いずれは枯れ落ちる花も、地べたで踏みしめられる雪も、月の光を見上げることしかできない。

 王太子妃になる人間は、それは私なのだと、まるで運命を啓示するかのように、彼女は言いきった。傲慢にも、そうなるに決まっているのだと、けれど聖女の顔で。憎しみを煮え滾らせるよりも先に、おぞましいと臆してしまった。なにをされるかわからないと思った。邪魔をするなら許さないと告げた彼女は、聖女と呼ぶには壮絶すぎた。

 だけど、私だって、邪魔をするなら容赦はしない。


「……君、本当に大丈夫?」


 フィデリオが蜂蜜色の瞳を細め、私の顔を覗きこむ。彼の目は細められると、まるで蕩かされたようになる。甘さが引き立つ。彼の持つ優しさなのだと知っている。

 けれど、それをいなしている余裕が、私にはなかった。再び「大丈夫よ」と言った声は沈むように低く、私の眼差しを見た彼はため息をついた。


「酷い顔のうえに、怖い顔。アーノルドも泣くよ」

「アーノルド卿? 貴方、彼を呼び捨てているの?」

「彼は俺をフィデリオと呼ぶよ」

「ずいぶん親しくなったのね」

「今日までずっと一緒に訓練していたから。君だって、コースフェルト嬢やリンケ嬢を名前で呼ぶようになったそうじゃないか。仲良くなったんだね」

「…………」

「夏に、ただのルームメイト、と言っていたのが嘘のようだ」


 そう、フィデリオは嬉々とした色を声に滲ませたけれど、昨夜、私はそのうちの一人に裏切られたところなのだ。フレーゲル・ベアはまだ見つかっていない。そのことについて、結局、問い詰めることもできなかった。

 気を許すのではなかった。彼女は、いや、彼女たちは、一度は私を貶めた人間だったのに。それを忘れたわけではなかったのに。なのに、名前で呼び合って、馬鹿みたい。おかげで私はまた奪われてしまった。

 そればかりか、永遠に葬ろうとしていた秘密まで暴かれ、脅されている。

 昨日の月夜が、瞼の裏に焼きついている。


「とにかく、一度テントまで戻ろうか」フィデリオが言った。「足跡はいくつか見つけたし、罠も張り終えたしね。それから、温かいスープでも飲もう。天気がよかろうと、冬の光の月の寒さは身に堪える」


 私たちは馬に乗って、その場から離れた。

 もみの木の群れを切り開いたような獣道を駆ける。雲まで凍てつくような風がさらさらと葉音を立てていた。馬の足音がそれに被さる。か細い草花と雪の名残が踏み揉まれていた。そんな景色のすり抜ける視界の端で——月虹が閃くのが見えた。


「……先にテントへ帰っていて」


 私はフィデリオに告げた。

 馬の速度を緩めて振り返るフィデリオ。

 彼がなにかを言うよりも先に、私は言い捨てる。


「獲物を見つけたの」


 馬ごと身を翻した私の背中へ、フィデリオは声をかける。

 かまうものか。彼を振り払い、私は、先ほど見つけた一閃を探した。

 見間違いではないはずだ。茂る緑の中ででもひときわ眩しく閃いていた。この世のものとは思えないような月虹。ディアナ・フォン・ミットライト。

 不用意に近づいては、馬の足音で気づかれてしまう。彼女のいた場所まで駆け抜けると、私は馬を下りた。

 彼女のものらしき小柄な足跡を見つける。彼女は身一つで川辺へと向かっているようだった。歩いていたから、馬はどこかに置いてきたのかもしれない。それを辿れば、やはり川沿いに着いた。

 木陰に身を潜めて彼女の姿を探す。ややあってから、浅瀬で飲み水を汲む彼女を見つけた。

 なるほど、水を汲みに来ただけだったから、一人だったのね。

 そう納得しながら、この後の算段を練る。彼女を馬で追いつめて穴に落とす手筈だったけれど、この近くには私の知るかぎり落とし穴はない。そこまで彼女を誘導するのは面倒だ。彼女がこの場から離れるのを待つか。待っているあいだに陣営の者と合流したらどうする。周辺に付き人がいるかもしれない。そもそも彼女のテントはここから近いのか。

 脳に犇めくあらゆる可能性に、脈拍を圧迫される。自然と荒くなる息が白くなって吐きだされる。視野が狭まるような不安に駆られ、考えれば考えるほど、むしろ今が好機なのでは、と思われた。

 私は背負っていた弓を構える。

 矢筒から一本の矢を取りだし、弓に番えた。

 研ぎ澄まされたやじりの先に、きらびやかな聖女の姿が映る。

 遠いけれど、決して射貫いぬけない距離ではない。一発で仕留められないなら二本目、三本目を放てばいい。

 絶好の機会なのだ。いま殺らなければ、いつ殺れるかわからない。あとは矢を離せばいいだけ。

 わかっているのに、私の手は汗を掴みながら小さく震える。

 なにを恐れることがある。一周目の私も、憎き相手を矢で射貫いぬこうとしたのだ。あれが本当に殺すつもりだったかはさておき、フィデリオの言うを誘発するような行為だった。

 フェアリッテへ向かう私の殺意には、果てしない嫉妬や怒りがあった。私からすべてを奪っていった女への憎悪。

 だから、憎悪のためでなく、口封じのために誰かを殺そうとするのは、初めてだった。

 ああ、みじめだ。

 どうして、私は、こんなことをしている。

 弓を構えながら、こんなにも震えている。

 次期王妃になるなどとのたまう不届き者を始末しなくては。これ以上邪魔をされないうちに、なにをしでかすかわからないうちに、あの恐ろしい聖女を殺さなくては。

 腹に鋼鉄でも詰められたみたいだ。そのまま泥沼にでも沈められたみたいだ。陰惨な感情に囃したてられる。かちかちと鳴る歯を噛みしめる。

——やっぱり、貴女が憎いわ、フェアリッテ。

 私は弓柄ゆづかをぎゅっと握りしめ、いよいよディアナを射殺してやろうとして、


「なにをしているの、プリマヴィーラ」


 背後から弓を掴まれて、そう、耳元に囁かれた。

 ぞくりと背筋を甘ったるい怖気おぞけが走る。そして、瞬く間に心臓で火花が散った。その熱が全身に伝播するころには、体は凍てついたように強張っていた。熱いんだか寒いんだかわからない居心地の悪さに声も出なくなって、しかし、その声の覚えに唇を噛み締める。

 後ろから覆い被さるように抱きすくめ、弓を下ろさせたのは、フィデリオだった。


「……危ないわね、フィデリオ」


 私は努めて平静の態度を装うため、静かに息をつく。


「君こそ。いったいなにを仕留めようとしていたの?」

「カワセミよ。貴方が邪魔をするから逃げられちゃったじゃない」


 私はゆっくりと彼へ視線だけ遣る。

 すぐ真横に会った彼の顔は、その声音と同じくらい緊張している様子だった。

 私は己の横髪に頬を潜ませたけれど、彼は亜麻色の奥の私を突き止めようとしていた。川辺のほうを一瞥して、その目を細める。


「……俺には、君が、ミットライト嬢を射貫いぬこうとしているように見えたけれど?」


 視界の先では、水を汲み終えたディアナが、その場を去ろうとしていた。

 好機を逃した消沈より、この場を取り繕おうとする焦燥より、己の決意を踏みにじられた怒りが、苛烈を増した。

 私がどんな思いで夜をすごしたかも知らないで、どんな思いで矢を番えたかも知らないで、この男は、よくも。

 私は弓と矢を握っていた力を緩める。

 それを感じとったらしいフィデリオは、私を覗きこむように顔を寄せた。

 その瞬間——私は彼の胸倉を掴み、持っていた矢を握りなおして、彼に突き刺そうとした。


「っ、プリマヴィーラ!?」


 すんでのところでフィデリオは私の手首を掴み、制止させた。

 彼の首元ぎりぎりのところで、私の握り締めた毒矢の先が光る。少しでもそれが彼に届いてくれれば、その皮膚を突き破って毒を挿すことができれば、彼を無力化できるはずだった。


「どういうつもりだ、君は、なにをっ」


 しかし、武術を選択教養としているフィデリオは、日ごろから鍛錬をしていることもあって、私の力など押し返せてしまうようだった。息を荒げながらも、私の手を捻りあげようとしている。

 不利を悟った私は、彼の腹を膝蹴りした。拘束が緩くなったのに乗じて毒矢を振り上げたのだが、彼は再び私の手首を掴み、そのまま地面へと押し倒した。馬乗りになって見下ろされる。彼の手を振りほどこうとしても、びくともしなかった。


「離して、この、乱暴者!」

「君、それをよく俺に言えたね」フィデリオは私から矢を奪い取る。「こんな危ないものを振り回されて……さすがに俺も傷ついたんだけど?」


 私はもう一度フィデリオの胸倉を掴み、手繰り寄せる。近づいてきた彼の顎に思いっきり頭突きを食らわせた。怯んだ彼をそのまま地面に押さえつけて、今度は私が馬乗りになった。


「いいから邪魔をしないで」

「君が人殺しになるのを黙って見てろって?」

「物騒ね、私はカワセミを仕留めようとしたのよ」


 しかし、すぐにフィデリオは私の両肩を掴み、地面へと押さえこんだ。

 毒矢を取りあげられ、両手を頭上に縫いつけられ、私は本当に手も足も出せなくなる。


「そんな嘘が俺に通用すると思っているのか」フィデリオは私をじっと見る。「いきなり狩猟祭に出るだなんて変だと思ってたんだ。君、これが目的だったんだろう」


 背負っていた矢筒は腰のあたりに転がっていた。弓はとうに失くしていて、どこにあるかもわからない。力で敵わない相手にこうも押さえつけられ、武器もなくては、八方塞がりだ。私はフィデリオを睨みつける。


「……どうしてこんなことを?」


 その問いかけにも一切口を開かなかった。

 目を逸らすことなく敵意をぶつける。


「まさかとは思うけれど……狩猟祭の優勝候補であるミットライト嬢を殺せば、フェアリッテが王太子妃の座に近づくから? だとしても、こんなの、許されないおこないだ。愚行であり愚策だよ。改心したと思っていたのに、まさか、こんなこと」


 フィデリオは眉を顰めて、私の手首を掴む手に力をこめる。せめてもの抵抗として、「痛い」と抗議した。しかし、彼がその手を緩めることはなかった。


「たしかに君は、フェアリッテが王太子妃に選ばれるよう協力すると言った。でも、考えてもみておくれ。たとえ少し脅かしてやろうとしただけだったとしても、もしこのことが明るみになったら、君だけでなく、フェアリッテまで巻き添えを食うんだぞ……それとも、君は……そうなってしまえばいいと、思っているの?」

「はあ?」


 さすがの私も口を開かざるを得なかった。怒り心頭とはまさにこのこと。

 手足を振り乱せば、フィデリオが体勢を崩した。私は彼を押し倒すのではなく、振り払い、矢筒の中の毒矢を掴み取る。そのまま彼から距離を取り、毒矢を構えて凄んだ。


「だって……そうだろう」フィデリオは立ちあがり、腰を落として言った。「元々、君は、フェアリッテが王太子妃になろうがなるまいが知ったことではないと言っていた。王太子妃候補争いにも非協力的だった。きっと君はもう彼女を殺そうとなんてしないんだろう。けれど、俺は。アーノルドやクシェルや、周りがどう信じようと、俺だけは知ってるんだ。君が、一度はそうなるまで、彼女を憎んでいたことを。本当の意味で彼女を愛していないことを」

「さっきから、そのやかましい口を塞げないわけ?」


 私はフィデリオへと飛びかかり、毒矢を振りかざした。

 フィデリオが身をかわして避けていくのを追撃する。


「君がフェアリッテを貶めるためでないと言うなら、どうしてこんなことを? こんなことをしても、フェアリッテは悲しむだけだって、何故わからないんだ!」

「上手く殺るつもりだったのよ! それが、あんたのせいで台なしだわ!」

「ふざけるな、」

「私は本気よ!」


 フィデリオに食ってかかった。

 すると、フィデリオは、毒矢を持つ私の手を弾き、そのまま腕ごと抱えこんで、私の体を背負い投げた。

 地面に叩きつけられた衝撃で、数瞬、息ができなくなる。必死に酸素を取りこもうと喉が引き攣っている間に、フィデリオは私を制圧した。


がすぎるぞ、プリマヴィーラ」


 私の腕と肩に自身の体重を乗せ、フィデリオはそう囁いた。

 ようやっとまともに息を吸えるようになったとき、私はフィデリオをじろりと睨みあげる。


「プリマヴィーラ」

「嫌よ」

「……ヴィーラ」

「嫌」


 息を荒くしながら、私は彼の呼びかけをねた。そのあいだも彼を振りほどこうと藻掻く。こんな男にかまっている暇はないのだ。さっさとディアナを見つけて、今度こそその息の根を止めなければ。

 しかし、一向に態度を覆さない私になにを思ったのか、フィデリオは表情を削ぎ落して「わかった」とだけ呟く。

 そのことに思わず身が竦んだ。

 彼は握りこぶしを作り、振りかぶる。

 まさか殴る気か——と反射で目を瞑ったのも束の間、彼はその拳ですぐそばの地面を殴りつける。

 一瞬だった。

 落ち葉に隠れていた縄網が巻きあがり、私とフィデリオを包みこむ。視界が大きく上下した。落ち葉ごと私たちを引っ張りあげた縄網が遥か頭上で大きく絞られ、そのまま巾着のような形を作った。まるで鳥籠に囚われたかのようだ。その比喩は奇しくも遠からずなのだろう。縄網に掻っ攫われた私たちは、身動きもろくに取れずに木にぶら下がっていた。

 罠にかかったのだと理解したとき、私と一緒に落ち葉と揉みくちゃになっているフィデリオが、「ならば、頭を冷やすしかないな」と小さくこぼした。


「あんた……これ……」

「言っておくけど、これはさっき俺と君とで仕掛けたものだから。覚えていなかったほうが悪い」

「どうしてくれるのよ、ナイフもないのよ?」

「誰かの助けを待つしかないよね。しょうがない」


 私は「最っっ……低」と片手で顔を覆った。

 怒りと屈辱でくらくらした。

 それと同時に脱力もする。

 もうなにもかもに辟易としていた。


「君がよからぬことを企んでいるようだから、こうするのが手っ取り早かったんだ。同じ陣営の者たちには心配も迷惑もかけることになるだろうけれど……」


 力なく崩れた私は、落ち葉に埋もれながら黙りこむ。

 フィデリオは縄網にもたれこみ、首を竦めてため息をついた。


「俺には、君がなにを考えているのか、わからないよ……君は本気で、ミットライト嬢を殺そうとしていたの?」


 もうこれ以上かわすのは億劫だった。沈黙して追究されつづけるのも面倒だった。現状に心を折られた私は、素直に口を開くことにした。


「したわ」

「……本当に、君って、」

「だけど、怖くてできなかった」

「…………」

「貴方が止めてくれて、よかったかもしれないわね」


 そもそも、下手に矢を射て、ディアナに当たったとしても、そこからの策がなかったのだ。

 誰にも見つけられることなく、どうやって彼女の体を隠すのか、本当に周囲に人はいなかったのか、なにも明確でなかった。あれは突発的な行動だったと言える。

 彼女を葬らなければという強迫観念に突き動かされていた。万が一、失敗していたら、きっといまよりも最悪の状況になったはずなのに。


「フェアリッテのときは、怖いなんて思わなかった。それよりも、憎くてたまらなくて、殺してやるっていう感情のほうが勝ってた。奪われた数が違うのよ」

「奪われたって?」

「私のフレーゲル・ベアが盗まれたわ」

「え?」


 フィデリオがぎょっとした。蜂蜜色の瞳を見開かせて、「どういうこと?」と眉を顰める。


「そのままの意味よ。実際に盗んだのはカトリナだけれどね」

「えっと? ミットライト嬢が、コースフェルト嬢を使って、君のフレーゲル・ベアを盗んだって? 何故そんなことを」


 未遂の殺人行為は話せても、完遂した不正行為を白状する気にはなれなかった。

 しかし、口を噤んだ私に、フィデリオは「ヴィーラ」と咎めるような目を向ける。


「……嫌がらせをしたのよ」

「どんな。具体的に」

「学期末試験のときに、彼女の答案の改竄を」

「君ねえ!」


 フィデリオは落ち葉を掻き分けて、私ににじり寄った。彼の避難轟々な眼差しを受け、私はこれ以上下がれもしないのに、縄網へと背中をこすりつける。

 彼は開いた口も塞がらないようだった。私をなじろうとしたものの、しかし一瞬で顔を蒼褪めさせて、「信じられない……」と力なく呟く。


「よくも、そんなことが」

「おかげで貴方が一番になれたじゃない」

「ちっとも嬉しくないよ。道理で、おかしいと思った。彼女が空欄で提出するなんてありえないって。なにが、その弛まぬ努力を誇ればいい、だ……君のせいじゃないか。おまけに本人にばれて、馬鹿じゃないのか」

「うるさいわね」

「なんてことをしてくれたんだ……本当に、もう、勘弁してくれよ……どうして君はいつもそうなんだ」

「そりゃあ賎民の子ですもの、教養がなくて当然よね」


 先刻も言った言葉を、私は吐き捨てる。

 そうやって私が煙に巻こうとしたのだと、フィデリオは考えたのかもしれない、今度は一寸も怯むことなく「ふざけるなよ、ヴィーラ」と声を低くする。


「これはもう、そういう問題じゃないだろう」

「そうよね。もう取り返しがつかないものね。貴方もこれを公表する?」

「公表することで傷がつくのは、君の名でもアウフムッシェルの名でもない。フェアリッテや、ブルーメンブラットなんだ。そんな迂闊な真似はできないさ」

「だったら、いくら怒っても、すぎたことよ」

「すぎてはいないよ。只中ただなかなんだ。犯したことや、しでかしたことが、これからもずっと君を追い回す」でも、とフィデリオは俯く。「悔やむことは、いつだって遅くないから……せめて、もう、そんなことは二度としないでくれ」


 誰がこんなことを好き好んでするというのか。できることなら私だってしたくなかった。

 反論したくて、苛々して、けれど無駄だと悟って、私は腕を組む。


「そんなことより、ここからどうやって出るのよ。こんなに騒ぎたてても誰も来ないのよ? このまま見つけられなくて、ここから出られなかったら? 狩猟祭が終わってしまうわ」

「さすがにそれまでには誰かが見つけてくれるって信じてるけど」

「自分で仕掛けた罠に嵌まって、こんなまぬけなことったらないわよね」

「背に腹は代えられなかった。誰のせいだと思ってるの?」

「貴方のせいでしょう」

「君のせいだよ」

「なんですって」

「なにさ」

「——おい」


 そのとき、下から声が聞こえた。

 私とフィデリオははっと見下ろす。

 縄網を揺さぶりながら体勢を変え、声のしたほうへと目を遣ると、驚き呆れた様子のクシェルが、私たちを見上げていた。


「お前たちは、そこで、なにをやっている」


 っすらと引いたようなクシェルの表情に、フィデリオは「ご覧の有様ありさまだけど」と息を漏らした。

 クシェルは、こんなまぬけは見たことがないというような態度で、やわりと首を振った。


「……まさかとは思うが、罠にかかったのか」

「下りられなくて困ってるんだよ」

「どうか助けてくださいませんか」


 クシェルは深く、深く、途方もないほどのため息をついたあと、私とフィデリオを救出してくれた。

 やっと落ち葉からも縄網からも解放された私たちは、軽く伸びをしてから身なりを整えた。


「ありがとう、助かったよ、クシェル」

「お前たちのあんな姿を見たときの僕の気持ちがわかるか?」

「さぞかし不憫だったんだろうね。君が心優しい紳士でよかったよ」

「いや、訳がわからなくて、声をかけなきゃよかったとすら思った」


 そんなことを言いながら、しっかり私とフィデリオを助けたのだから、クシェルのそれも毒を吐いているだけなのだろうと思われた。いや、どうだろう、私に関してで言うのなら、本心なのかもしれない。

 乱れた髪を整えながら、そんなことを考えていると、クシェルは「おい」と私に声をかけた。


「はい?」

「礼儀がなっていないんだな。なにか僕に言うことはないのか」


 高慢な態度でクシェルは言った。

 これまでは私がなにを言ったところで相手にもしなかったくせに、昨日の夜からわけもわからぬ、面倒な男である。

 だが、これ以上突っかかってこられるのも煩わしくて、私は「助けてくださりありがとうございました」と頭を下げた。

 クシェルはうむと頷いてから、再び口を開く。


「状況はどうだ?」

「状況、とは?」

「狩りの状況だ。ブルーメンブラットの陣営は、なにか獲物を捕らえたか?」

「小物は何匹か。でも、大物がまだかな。もしかしたらアーノルドあたりが狩っているころかもしれないけど、俺たちはさっきまで吊るされていたから」


 ああ、なるほど。狩猟祭での戦況が聞きたかったわけね。

 私が納得していると、クシェルは「そうか、」と目を瞑る。


「どうやら、ミットライト陣営の者が、大物のキツネを捕らえたらしい。ボースハイト陣営も、大小かぎらず大量の獲物を捕らえたと聞く。お前たちの様子だと、おそらく劣勢だぞ」


 クシェルは私たちに負けの忠告をした。

 フィデリオは「そうか」と顔を濁し、「教えてくれてありがとう」と告げた。


「僕はなにかをしてやれるわけじゃないからな」

「わかってる」

「とはいえ、たまたま通りかかってよかった。顔馴染みとしては、気になっていたからな」クシェルは私へ目を向けた。「昨日は眠れたか?」


 そのことに少しだけ驚いて、けれど、私よりも驚いているのがフィデリオだった。フィデリオは目を瞬かせて、「昨日って?」と首を傾げている。私は答えなかった。

 クシェルは私の返答を待っているようだった。しばしの沈黙のあと、私は「おかげさまで」とだけ返した。

 それ以降、クシェルと私の話は終わった。彼はフィデリオといくつか言葉を交わしてから別れ、私たちもブルーメンブラット陣営のテントへと戻っていった。

——結局、この狩猟祭においては、ミットライトが勝者となる。

 ブルーメンブラットやボースハイトの提出した供物とて並々ならぬものだったけれど、ディアナの提出した『奇形角の牡鹿』の狩り映えには敵わなかったのだ。その角は仰々しく巻かれていて、いまにも供物の頭蓋を穿たんとしていた。そんな哀れな牡鹿に慈悲を与えたのだ、さすがは聖女だと、ディアナは方々で称賛された。

 彼女を殺すことはおろか、脅かしてやることも、そればかりかろくな獲物を狩ることも、なにもできないまま、私は、狩猟祭を終えたのだ。

 今宵も美しく月が嗤う。

 また眠れない夜が来る。

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