再生悪女の暗殺計画

鏡も絵

第一学年

第1話 微笑みあうのも他生の縁

「はじめまして。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットです。貴女に会える日をずっと楽しみにしていました。仲良くなれると嬉しいですわ」


 そう言った憎らしい女が、私に手を差しだす。の私は、そのきらきらした笑顔が気に食わなくて、紅茶をぶちまけて罵ったんだっけ。

 ブルーメンブラット辺境伯の令嬢・フェアリッテ。私の異母姉妹にあたる彼女と話すのは今日が初めてだったけれど、ブルーメンブラットの本邸で暮らす彼女のことを、私は強く嫌っていた。実際に話してみると本当に最悪で、私はとにかく眉間やら鼻筋やら、皺を寄せられるところを隅々までしかめ、この不快をあらわにしていたはずだ。

——けれど、二周目いまの私は違う。

 なんて愚かなことをしたのだろうと我が身を省みたのだから、私は今日、目を細め、口角を吊りあげ、目の前の彼女を真似るように微笑んだ。


「プリマヴィーラ・アウフムッシェルです。こちらこそ、仲良くしてくださいね」


 今度こそは上手に殺る。

 死ぬのはあんたよ、フェアリッテ。






 生まれてこのかた父の顔を見たことがなく、また、父の妾だったという母の顔も知らない——ブルーメンブラット辺境伯の私生児である私は、ブルーメンブラット辺境伯夫人の実家・アウフムッシェル伯爵家で育てられた。

 よりにもよって正妻の実家に養われていた私は、冷たくも険しい目に曝されつづけ、噂に聞くフェアリッテへの憎しみを、少しずつ募らせていった。

 フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット。

 父と正妻のあいだに生まれた、私の異母姉妹。

 心優しく、朗らかで、純真で聡明で、なにより、彼女は全てを手に入れていた。

 父のいるブルーメンブラット家で育てられ、その愛を独り占めにして、美しいドレスや宝石に囲まれて、多くの者に称賛されるなか、のちにこの国の第一王子との婚約まで決めた。彼女の人生は、まさに完璧だった。

 それが、耳から火が噴きだしそうなほどに恨めしかった。

 ただフェアリッテを傷つけたい。その暢気な幸せ面を泥まみれにして汚してやりたい。そのために、私は、あらゆる報復をも恐れることなく悪逆非道を尽くしていた。口を開けば罵倒を浴びせ、入学式の洗礼では恥を掻かせ、戯れに馬で追い回した挙句、矢で射ようとすらしたほどだった。けれど、そんなものでは、私の胸に溜まる鬱憤を晴らすことなんてできやしない。彼女がこの世に存在しているかぎり。

 ついには、誕生日に殺してやろうと、フェアリッテの飲む紅茶に毒を盛った。

 しかし、彼女は一命をとりとめ、私はその罪を問われることとなった。

 彼女へ嫌がらせをくりかえしたり、顔を合わせるたびに恨み言をぶちまけたりと、憎悪を大っぴらにしていた私だ。彼女の毒殺の首謀を疑われるのは道理だった。

 有罪判決を下されたものの、《除災の祝福》を受けていた私は、あらゆる刃や毒、炎までもを跳ね除けることができた。そのため、既定の処刑法では殺すことができず、私は溺死刑に処されたのだった。

 そうして、彼女を恨んだまま死んだ——はずだったのに。

 目を覚ますと、そこは、冷たい水の中でも薄汚い牢獄の中でもなかった。

 窓から潮騒の薫る、朝日の柔らかいベッドの中。

 夏の風が激しく終わりを告げる日。

 入学前の、フェアリッテと初めて出会った日にまで、時が遡っていたのだ。

 生温かい風が頬を撫でる。金色の陽光が音を立てる。死の間際に味わったものとは程遠い平穏の感触に、私は涙を流した。そして、それらの心地好さに酔いしれながら誓ったのだ——次は上手く殺る。

 自分から疑われるような馬鹿な真似はしない。

 味方のふりをしてフェアリッテに近づき、必ず亡き者にする。

 彼女の持つ全てを奪うのだ。

 そのために、いま、目の前で暢気にお茶を飲む彼女に、私は微笑みかけていた。

 ガーデンテーブルを挟んで体面に座る彼女の髪が、そよそよと心地好い風に靡く。アウフムッシェルの邸は王国西部の海岸沿いに位置しているため、まだ暑いこの季節にも涼しい潮風が吹くのだ。

 いまいる庭園に咲く浜梨の強い香りに、紅茶の匂いが混じり、噎せかえるような心地がした。鼻を押さえこみたいところを我慢して、私は口を開く。


「話には聞いていましたけれど、なんて綺麗な金の御髪おぐしなのかしら」

「まあ、本当?」

「ええ。それにその瞳も、まるでお花が咲いているよう」


 まずはその妬んでやまない容姿を褒めた。

 フェアリッテの波打つような長い金髪ブロンドに、淡褐色ヘーゼルの瞳がよく映えている。見れば見るほど小癪だ。私の、金に近い亜麻色の髪も、本物の前では霞んでしまう。

 私の賛辞に頬を染めた彼女は、砂糖を蕩かしたような腑抜けた顔をして「うふふ」と両手で口元を隠した。


「それを言うのなら、貴女の瞳だって、とても優雅ですわ」

「あら。そんなこと初めて言われました」

「私の瞳なんて足元にも及ばないような、鮮やかな緑ではありませんか。いま着ていらっしゃるドレスの色とも合っていて、本当に素敵です」


 いまの私は、首の詰まったブラウスにジャンパードレスを合わせたいでたちで、フェアリッテの着るドレスと比べれば質素でみすぼらしい。

 目の前に座るのが恥ずかしいほどなのに、情けをかけるようにお世辞を言われた。

 なんて嫌な女。

 私はテーブルの下でぎゅっとドレスの裾を握り締める。

 優雅で豪華なドレスに、繊細に輝くアクセサリー。余りあるほどのそれらを身に着けて、ふわふわきらきら笑っているフェアリッテとは違い、私の持ち物は限られている。正妻の娘ではないから。ブルーメンブラッドで育てられなかったから。

 せめて、好き好んで着ているわけではないのだと反論したいばかりに、「選んでくれた侍女のセンスがよいのでしょう」と咄嗟に言い訳をした。


「そういえばね、プリマヴィーラ」

「ヴィーラとお呼びください、フェアリッテ」

「だったら、私のことも、どうかリッテと。ヴィーラと私は同い年だと聞いたわ。だからね、もっと、くだけた言葉でお話ししてもいいと思うのよ」

「そうね。そうしましょう。リッテ」

「それで、あのね、ヴィーラ。私たち、同じ学校に入学するじゃない? もう貴女のところにも制服が届いたはずよね。それで、よかったら、ブラウスの襟に同じ刺繍をするのはどうかしら?」


 突飛な話題に「刺繍?」と尋ねると、フェアリッテは「そうよ」と頷いた。


「クシェルさまが教えてくださったのだけれど、ブラウスの襟にはどんな刺繍をしてもかまわないのだそうよ。多くの先輩は家紋を施してらっしゃるのだとか。だから、ブルーメンブラットの家紋である薔薇と花弁、アウフムッシェルの家紋である帆立貝をかけあわせたような刺繍をして、貴女とお揃いにできたら、素敵だなと思ったの。どう?」


 貴族の令嬢にとって、刺繍も身に着けるべき教養の一つである。けれど、私は、刺繍が嫌いだった。幼いころから浜辺を駆けるほうが性に合っていた私は、針を持つことさえ厭っていた。ブラウスの襟なんて真っ白であってもなにも困らないのに、どうして針仕事なんていう七面倒くさいことをしなければならないのか。

 しかし、時を遡る前、なんの刺繍も施さずに入学した私の目には、フェアリッテの刺繍を施した襟は、実に華やかに映った。困りはしないはずの己の襟を、恥ずかしく思うほど。あんなにみっともない思いをするくらいなら、いま、彼女の誘いに乗っておいたほうがいい。

 結局、「決まりね」と約束をしたあと、夕餉の時刻が迫ったのを期に、フェアリッテはブルーメンブラット邸へと帰っていったのだった。フェアリッテを乗せた馬車が去っていくのを見送ったのち、私も邸へと戻る。


「……フェアリッテを見送ったのか」


 部屋へと戻る階段を上っていると、踊り場にいたフィデリオに話しかけられた。

 フィデリオ・アウフムッシェル。

 現アウフムッシェル家当主の令息であり、フェアリッテの従兄弟にあたる。

 艶々とした栗毛に、薄い唇をした少年で、私やフェアリッテとは同い年だ。この夏が明けると、私たちは同じ学校へと通うことになっている。

 フィデリオは私が返事をするより先に、「仲良くはやれたかい?」と尋ねてくる。

 そういえば、フェアリッテとのお茶会の前にも“おとなしくしているように”と釘を刺してきていた。かねてより私の素行を睨みつけていた彼だ。自分の従姉妹が痛い目を見ていないか心配しているのだろう。彼の口やかましさに目を眇めつつも、私は「ええ」と答える。

 すると、フィデリオは刺すように「それは本当?」と尋ねた。


「もちろんよ」

「信じられない」

「心外ね。愛想よく受け答えをしろと言ったのは貴方なのに」

「フェアリッテに紅茶をぶちまけたり、乱暴な言葉を言ったりもしなかったの?」

「ええ。当たり前でしょう」


 嘘。それは一周目でやっている。

 私が「リッテと私は姉妹で、同じ学校にも通うんだし、これからは助け合っていきましょうねってお話したわ」と言葉を続けると、今度は眉を顰めるフィデリオ。


「君、彼女をリッテと呼んでいるの?」

「彼女は私をヴィーラと呼んでくれたわ。私たち、とても仲良くなったのよ」

「……どうして?」フィデリオは訝しげに尋ねる。「フェアリッテが今日うちに訪ねると聞いたときから、お母様に叱られるほど喚いていたじゃないか。昨日の夜だって、なにをしでかすかもわからない形相でいたのに……いったいどうしたんだ?」


 それはね、フェアリッテを殺すのに失敗して、死んでしまったからよ。あの運命を変えるためにふるまいを改めることにしたの。もちろんそんなことを言えるはずもないけれど。

 振り返れば振り返るほど向こう見ずだったと思う。フィデリオの言うようなことばかりしていたから、毒を盛った犯人であると疑われたのだ。そして、悲願の半ばで私は死刑となった。今度は、何事もなく彼女を殺してしまえるよう、彼女へ向ける嫌悪を誰にも悟らせないようにしなければ。


「言ったでしょう。仲良くなったって」私は目を細め、顔を背けた。「それに、もう夫人の怒りを買うのは懲り懲りだしね……昔みたく仕置き部屋に閉じこめられたりなんて、まっぴらだもの」

「君は抜けだすことも得意だったけれどね」

「とにかく。私はもう部屋に戻るわ。これから制服のブラウスに刺繍を入れなければならないから」

「刺繍を? 君が?」

「リッテが綺麗なビジューや糸をくれたのよ。素敵な襟にしましょうねって」

「……素敵な襟? 君が?」


 これ以上口を開くとぼろが出そうだったので、「じゃあね、おほほほ」とやや芝居がかった笑みを浮かべ、私はその場を誤魔化した。






 一周目の記憶を頼りに、この二周目を私の都合のいいように捻じ曲げる。

 時が遡った原因はともかくとして、この状況を上手く利用したい。

 いよいよ入学となり、屋敷を発つ日、私は刺繍の終えたブラウスに袖を通した。その上からデコルテの開いた漆黒の制服を着こめば、まるでイノセント・ドレスのような格好へと仕上がる。

 私たちの入学する学び舎は、親も侍女も従者もいない場所で生活することで、自立した紳士淑女を目指すという校風だ。それにふさわしい、シンプルだが上品な制服だ。

 荷物を持ち、学校まで馬車を走らせながら、フェアリッテを殺す日までの出来事を整理してみた。

 まずは、来たる入学式。通うのは、あらゆる貴族の令息令嬢が通う寄宿制の名門校。その入学式にて、唯一神・《運命ファタリテート》の御使みつかいから、聖堂にて洗礼と祝福を受ける。私が《除災の祝福》をもらいうけるのもこのときだ。

 祝福を賜ったあとは入寮となる。同室のメンバーは覚えていた。唯一の友達もいたけれど、なにかと煩わしい者もいた。同室の人間以外にも厄介なのが多少。一周目では嫌がらせをされたり邪魔をされたりと散々な目に遭ったものだ。

 今回は彼女たちも懐柔して、動きやすくしておきたい。機会があれば報復だってする。懸念すべきことはあるけれど、手の内はだ、その都度対処していけばいい。

 秋季の試験、冬季にはデビュタントに狩猟祭、春季を迎えるころには、私はフェアリッテの“一番の仲良し”になっている必要がある。私が彼女を憎んでいるなんて、そうして殺しただなんて、疑いもされないくらい。

 アウフムッシェル領から馬車を走らせ、何日かかけて入学式に出席する。いよいよ学校も間近になったころ、馬車から外を見遣れば、同じような格好をした令息や令嬢の姿が目につくようになる。

 学校に到着し、馬車から下りて校舎を前にすると、新入生で溢れかえっていた。その中に紛れるように、在校生や監督生が、「ようこそ」「新入生はこちらへ」と案内をしていた。懐かしい風景だ。

 少しだけ感慨深くなって眺めていると、背後から「ヴィーラ! フィデリオ!」とフェアリッテの声がした。振り返ると、フェアリッテがこちらへと駆け寄ってきていた。


「フェアリッテ」私の隣にいたフィデリオが数歩だけ迎えに行く。「そんなに息を切らして来ずともかまわないのに」

「ありがとう、フィデリオ。だけど、二人の姿が見えて、居ても立ってもいられなくなったの」フェアリッテはフィデリオから私へと視線を移す。「ごきげんよう、ヴィーラ。お茶会のとき以来ね……あら! なんて素敵な刺繍!」


 挨拶を終えるなり、フェアリッテは私の襟元を見つけた。

 玉虫色の糸や照り輝くビジューによって施された、薔薇と花弁と帆立貝の刺繍だ。

 ただし、やっぱり上手には刺せず、彼女のものに見劣りするのが悔しくて、ほとんど家庭教師に任せてしまったものだ。けれど、それは英断だった。一周目のときよりも、フェアリッテの刺繍は美しかった。家庭教師に任せた刺繍ですら、やはり見劣りするほど。

 なんて使えない教師なの。あんなにえらそうに指示しておいて、結局フェアリッテの腕には遠く及ばないじゃない。

 内心の憤りを隠して、私は「貴女のものこそ」とフェアリッテの刺繍を褒める。

 

「ありがとう、ヴィーラ。帆立貝を刺すのははじめてだったけれど、思ったよりも簡単だったわ。でも、貴女のものを見ると、そう思っていたのが恥ずかしくなってしまうわね……これほど鮮明に貝の模様を施せるなんてさすがだわ」


 アウフムッシェルで育ったのだから家紋くらい施せて当然だ、と言われた気がした。同様に、ブルーメンブラットで育ったフェアリッテの刺繍は、薔薇も花弁も茨も葉さえも、みな当然のように美しい。どうせ私が刺した刺繍ではないのだし、どれだけ見比べられてもかまわないと思っていたけれど、できて当然だと囁かれては、できなかった私が虚仮にされているのと同じだ。帆立貝しかまともに刺せないような教師のもとで教わって、私の腕が上達しないのは道理なのに。

 私が屈辱に押し黙っているのをよそに、フェアリッテとフィデリオは「緊張するわね、いよいよ入学だなんて」と話を続ける。


「そのわりには楽しそうだけれど?」

「当たり前じゃない! 私たち三人で通えるなんて夢のようだわ……さきほどクシェルさまにもお会いしたの。お祝いの言葉をくださったわ。あと、新入生は荷物を預けたあと、聖堂へ向かわなくてはいけないのだそうよ」

「ああ、彼は今年、監督生になったんだっけ。俺もこの前言われたんだ。“今年は殿下も入学されるのだから、無作法のないように”って」

「そういえば、第一王子殿下も入学されるのだったわね」

「君はもうお会いした?」

「いいえ。もしお会いしていたとしても、お顔を知らないもの」


 フェアリッテの返事に、ああ、そうだ、と私は思い出す。

 現在、フェアリッテは第一王子との婚約を決めていない。二人が関わりあうようになるのは冬休暇の前のデビュタントからで、二人が婚約を決めるのは来年の春季のことだ。いまから横槍を入れてしまえば、可哀想に、彼女が王妃候補となる未来を、跡形もなく潰してしまえるのだ。


「それよりも、洗礼を受けるのにどきどきしてしまうわ」フェアリッテはうっとりとした顔に両手を添える。「式のあとにはすぐ祝福の賜りがあるのでしょう? なんだか緊張してしまうわね。どんな祝福を受けるのかしら」


 フィデリオは「そういえば、そうだったね」と相槌を打ったけれど、私は呆れてしまいそうになった。

 私はこの先の未来を知っている。フェアリッテが祝福を賜ることはない。

 彼女は《持たざる者》だった。

 適齢になれば国民の全員が洗礼を受け、なにがしかの祝福を持つことになるが、稀に祝福を者が現れる。どんな者にも平等に祝福を授ける運命うんめいの御使いが、なんの祝福も与えずに去ってしまうのだ。それが《持たざる者》だった。

 それはあまりに哀れで、痛々しく、滑稽なことだった。そんなフェアリッテを、一周目の私は「きっと慈悲深い運命ファタリテートは、貴女にはなんにも必要ないからって、お与えにならなかったのよ! 精々、我が主を信じて、未来の栄光を待っていればいいんだわ!」と嘲笑したものだ。もうあのように大っぴらに蔑むことはできないけれど、彼女の落胆した顔ならたっぷりと拝めるだろう。

 それに気分が浮上して、私は自然と笑みを浮かべられた。


「フィデリオ、私たちも早く荷物を置いてこなくちゃ」

「あら、二人ともまだだったのね」フェアリッテは目を見開かせた。「私はさっき荷物を預けてきたところよ。そろそろ式が始まるようだし、二人も早く荷物を預けて、聖堂へ向かったほうがいいと思うわ」

「ああ、そうしよう。荷物はどこへ?」

「そこの赤い旗の立っているところよ。私は先に聖堂へ行っているから、またあとで会いましょう」


 私たちは荷物を預けに行った。途中、フィデリオは友人に揉まれるようにして列から外れたので、私は一人で聖堂へと向かった。

 日が傾いて、廊下はすっかり夜闇に包まれていたけれど、あちこちに灯った蝋燭の火により、恐ろしい気持ちにはならない。行き交う生徒は誰も、式の始まる空気に高揚していた。

 そのとき、誰かと肩をぶつけた。相手の不注意を責めようと目を遣って、しかし、その言葉を寸でのところで呑みこむ。ぶつかった彼が「すまない」と申し訳なさそうな顔をしていたからではない。たとえはじめて会ったのが今日だとしても、彼の顔を知っていたからだ。

 黒真珠のように艶やかな髪に、類稀たぐいまれな碧眼。

 ベルトラント・エーヴィヒ・アン・リーべ。

 この国の第一王子で、フェアリッテの婚約者となるひと。

 なんたる僥倖かと目を見開かせるも、咄嗟に跪礼カーテシーを取り繕い、私はこうべを垂れる。


「リーベの若き君へ、運命ファタリテートのご加護がありますよう」

「挨拶はかまわないよ」少し驚いたのち、殿下は柔らかく免じた。「そのリボンの色からするに、きっと君も、僕と同じ新入生だろう? 王族だからといって、同じ学び舎で研鑽する者を必要以上に敬う必要はない」


 私は垂れていたこうべを上げ、「ありがとうございます、殿下」と淑やかに微笑んだ。


「君の名前は?」

「プリマヴィーラ・アウフムッシェルです」

「アウフムッシェル……フィデリオ卿に姉妹なんていたかい?」

「いえ。私は、アウフムッシェルに身を置かせてもらっているだけですから」

「うん?」呟いて、はっとする。「ああ。君がブルーメンブラット辺境伯の……」


 私が私生児のプリマヴィーラであることに気がついたらしい。けれど、ベルトラント殿下はそんなことを気にも留めていない様子だった。屈託のない笑顔で「君もこの学び舎に通うんだね」と言葉を続ける。


「なら、きっとこれからも長い付き合いになるだろう。よろしく」


 私が「こちらこそ。よろしくお願いいたしますわ」と返すと、殿下は爽やかに笑って去っていった。その後ろ姿を眺めたのち、私も歩みを進める。

——彼を手に入れたら、フェアリッテは悲しむだろうか。

 それを想像するだけで、愉悦に達してしまう。にやけそうになる口元を手で覆いながら歩き、聖堂に着くと、いよいよ入学式が始まった。校長の挨拶、在校生による校歌などを終え、祝福の賜りのときが来る。まず令息から、家名のアルファベット順に前に立ち、祝福を受ける。それから令嬢だ。私はそのときを待ちながら、鳥肌が立つほどの高揚に浸っていた。

 前のときよりもずっと上々だ。一度紡いだ時間を正しながら辿っていけるなんて、あまりにもできすぎた話ではあるけれど。それでも、現に私はこうして、ここで生きているのだ。ならば、お礼をしなくてはなるまい。


ウフムッシェル。プリマヴィーラ・アウフムッシェル、前へ」


 はい、という私の返事が聖堂に響く。静謐な空間に足音が反響していた。

 登壇の前から不躾な視線が私を追っていた。壇上に立てば、その視線は一斉に私を刺す。あれがブルーメンブラット卿の。そうひそひそと囁く声を、教師の咳払いが制した。

 かつては癇癪を起したいほど耳に煩わしかったけれど、いまは気に留めない。ただあのときのように運命ファタリテート偶像イコンの前で手を組み、目を瞑る。

 ぶわっと、幾億もの光の粒を受けたかのような、酩酊。

 洗礼の光を浴びた視界が、暗黒から純白へと塗り潰されていく。

 そうだ、あのときもこうだった。

 ふわふわと眩惑していると、瞼の奥の正面に、御使いの姿が見えた。

 聖職者のようないでたちをした者だ。外套を深く被っているため、顔はよく見えないけれど、まるで自ら発光しているかのように、七色に照り輝いている。運命ファタリテートの御使い。私たちに祝福を届ける者。

 私は口角を上げ、の者を見据えた。


「ありがとう。私の命を救ってくれて」


 どうして時が巻き戻ったのかはわからない——けれど、夏の風が激しく終わりを告げる日、部屋の柔らかなベッドの上で目覚め、死の間際とは程遠い平穏の眩さに涙を流したとき、“生きろ”と言われている心地がした。


運命ファタリテートが定めたのでしょう。あんなところで死ぬべきではないと」


 私の人生は、ありとあらゆるものをフェアリッテに奪われていくような、そんな陰惨なものだった。彼女を恨みながら死んでゆく、悲惨なものだった。

 けれど、私は生きている。

 あの人生を書き換えろと囁かれたように、この運命に導かれた。

 だから、私は誓ったのだ——次はもっと上手く殺す。

 あんなへまなんてしない。彼女を陥れるための刃も毒も全部隠して、貴女の味方よと優しく微笑んで、今度こそその命を手折ってやるのだ。いまだけは咲き誇っていればいい。けれど、最後に笑っているのは、全てを手に入れているのは、この私だ。

 高揚感と全能感に支配され、私の体温は上がっていった。視界はいまだきらきらと眩い。私のこれからを暗示しているかのように思われた。

 佇む御使いは、ふっと息を漏らしたのち、おもむろに口を開く。


「なんの話だ?」


 え、と私は固まった。

 しかし、御使いは、男とも女とも知れぬ不思議な声色で、言葉を続ける。


運命ファタリテートは誰も救わない。ただそこにあるだけだ。人はそれを辿るのみ。そして、辿るに不足する力を、御使いは与える。誰を愛することも、憎むことも、救うことも、陥れることもしない」

「なら、どうして、私は時を遡ったのですか」私は呆然と紡ぐ。「抗えと、背中を押してくれたのではないのですか? 私がフェアリッテを殺す前に死んでしまったから、失敗してしまったから、だから次こそは上手くやれと、そのために……」

「次こそは?」そこで御使いは首を傾げた。「……なるほど。そういうことか。君はいつぞやにも彼女を殺そうとして、そしていまでも殺す算段でいるというんだね?」


 わけもわからず、尋ねられたままに頷いた。

 しかし、それが悪手だと気づいたのは、御使いの言葉を聞いてからだった。


「それはな」


——ばっと、視界が黒に塗りたくられる。

 まるで重い緞帳を落とされでもしたかのように、深く深く、現実味を帯びた黒に。

 気づけば、精神世界を彷徨っていたのはほんの数瞬のことだったようで、私は相も変わらず手を組んで、目を閉じたまま祈っていた。どれだけ待ってもなんの音沙汰もない。混乱して、動揺もして、けれど、本当は気づいている。心臓が忙しなく音を立て、熱を帯びるのに、全身が冷や水を浴びせられたかのようだ。

 壇下ではまたひそひそと声が匂い立っていく。


「遅いわね」「祝福はまだ賜らないのか?」「アウフムッシェル嬢がどれだけ祈っても偶像イコンが光らないということは、そういうことなのでは?」「……え、それって、もしかして」「そういうことでしょう」「まさか、彼女は、」


 《持たざる者》なの?


「どうして——!」


 私の悲痛な声も届かず、御使いが反応することはなかった。いつまで経っても壇上から下りない私を、教師は引きずり下ろした。じきに「ルーメンブラット。フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット、前へ」と声がかかり、フェアリッテが壇上に立つ。この先の未来は知っているはずだった。それなのに、嫌な予感がした。彼女が手を組み、祈った途端、偶像イコンは光を帯び、彼女の身体を照らした。

 はっと目を開け、彼女は頬を薔薇色に染めあげる。

 そして、花びらのような唇で、ひっそりと言葉を紡いだのだった。


「ありがたき幸せにございます。私、フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットは、《除災の祝福》を賜りました」


 それは私に与えられた祝福だったはずなのに、どうしてフェアリッテが!

 壇下で起こる儀礼的な拍手さえ、私には割れるような喝采のように聞こえ、ふらっと一瞬意識が遠のいた。私はどんな顔をしているのだろう。きっとたいそう蒼褪めて、ひどい色をしているに違いない。唇が、息が、手が震えた。じんじんと痛むような痺れを帯びて、私を硬直させる。

 フェアリッテは壇上から降りて、愕然とする私を見つけた。気遣うような顔で私に近づき、「……残念だったわね、ヴィーラ」と私の手を握る。あまりの忌々しさに顔が歪んだ。理性が怒りの荒波に揉まれてしまいそうだった。

 ふざけるなと罵ってやれたら、髪を引っ張ってやれたら、その体に飛びついて胸倉を掴んでやれたら、その暢気な顔を睨みあげてやれたなら、そんなことに数瞬のあいだ思いを馳せて、けれど、歯を食いしばることが私の精いっぱいだった。

——《除災の祝福》とは、その名のとおり、幾多の災いを跳ね除けるものだ。

 その祝福を受けた者には、どんな刃も毒も炎さえも届きはしない。強力な保護状態にあるということ。それがどれだけ強力なものであるかは、私が身をもって体感している。

 上手く殺るどころの話じゃない——フェアリッテは誰にも傷つけられない! どんな刃物や毒物だって、全て跳ね除けてしまうから! 最悪だ!

 私は唇を噛みしめながら俯くことしかできないというのに、彼女はさらなる追い打ちをかけるよう、「気にすることないわよ」と言葉を続ける。


「そもそも《祝福》とは恵まれなかったものへ与えられる恩寵だと聞いたわ。祝福を受けなかったヴィーラにはそれだけの幸福が待っているはずだもの」


 やっぱり、私はあんたが大嫌い。

 その暢気な幸せ面が大嫌い。

 フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット。

 私からなにもかもを奪っていく女。

 たとえあんたが祝福を受けていようと、やりとげるわ、今度こそあんたを殺す。

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