第28話 胃の中の本懐を知る
週末、予定どおり、私たちはオペラを観に行く。
学校の手配する馬車の都合により、女子寮組と男子寮組に分かれ、劇場近くの広場に現地集合することになった。
身支度を整えた私たちは、三人で馬車に乗り、その広場へと向かう。学校から程なくした地点にあるため、談笑には物足りないほどの時間で到着した。
すでに先発した男子寮組は到着しており、馬車から降りようとする私たちをエスコートしてくれる。
その中に、フィデリオの姿はなかった。
「アウフムッシェル嬢、お手を」
「ありがとうございます」
シャリオット・ジーベルの手を取って馬車を降りるそのあいだも、私はしてやられた気持ちでいっぱいだった。
——そういえば、あの男、自分も行くとは一言も言っていなかった!
広場の珊瑚色の石畳に足をつけ、私は日傘を差す。今日は天気がよく、日差しも強いので、持ってきて正解だった。
カトリナが馭者に迎えにきてほしい時間を伝える。走り去る馬車を見送った。
レオン・リーデルシュタインが私たちへ、「今日はありがとうございます」と優雅に挨拶をする。その隣のアルヴィム・フォン・マイヤーも爽やかに微笑んだ。
「こちらこそありがとうございます。今週中ずっと、今日が待ち遠しかったです」
「僕たちもですよ」
「オペラは半年ぶりでしてね。ご令嬢たちはよく観に行かれるのですか?」
ジーベル卿の問いかけに、「母が好きなので」とカトリナが、「好きな演目のときだけ」とパトリツィアが答える。私は「あまり」と正直に答えつつ、「なので、今日を楽しみにしていました」と続けた。
「今日の演目は、恋の魔法にかけられた男女の物語らしいですよ。コミカルな場面も多いそうで、庶民からの人気も高いのだとか。特に、最終幕のフィナーレは壮大で、一秒たりとも聞き逃せない絶唱です」
「詳しいですね、ジーベル卿」
「と、さっきすれ違った紳士が言っていました」
パトリツィアが笑った。
「では、行きましょうか」
私たちは歩いて劇場を目指す。
休日の街は軽やかな足取りの人々が多い。そのほとんどが私たちのような学生だった。
貴族の子息子女の学校を構えるこの街は、上流階級に向けた店が多く建ち並ぶ。文房具を扱う店はもちろん、ブティックやサロン、宝飾店などもあり、その一角に、目的地の劇場が建っていた。
ふと、リーベルシュタインが言う。
「それにしても。皆さん、素敵な装いで、とてもよくお似合いです。リーベでは見慣れないドレスなので、少し驚きました。まるでラムールのお嬢さんと出かけてるみたいだ」
「ふふふ、ありがとうございます。実は、プリマヴィーラからいただいたドレスなんです」
私の贈ったドレスを着こなしたカトリナが、照れくさそうにはにかんだ。
彼女の瞳の色と合わせた、チョコレートのような甘いブラウンのドレスだ。色味としては地味だけれど、流石はラムールの生地、光の角度によって爽やかな翠色に偏光して、世にも稀な色合いになる。袖のないジャンパードレスだったので、カトリナは、ホイップを絞ったような袖のブラウスと合わせている。
パトリツィアに贈ったドレスも、彼女の琥珀色の瞳から離れすぎないように、落ち着いたイエローを選んだ。ドレスの裾の継ぎ目には、華やかなレースが覗いており、ラムールらしい生地感を活かしたものになっている。彼女のフランキンセンスの香水とも合っていた。
カトリナに続き、パトリツィアも答える。
「ほら、夏休みのあいだにラムールへ遊学に行っていたでしょう? そのときに見つけてくれたものだそうで」
「へえ。道理で」
「もしかして、ラムールの
「まあ。ジーベル卿、よくおわかりですね」
「シルエットと生地感がラムール独特のものですからね。それに、型と縫製のニュアンスも、
「それも、さっきすれ違った方から聞いたのですか?」
「いえ。これはアルヴィムの寝言で聞きました」
今度はパトリツィアだけでなく、カトリナも笑った。名前を持ちだされたマイヤーが「僕の寝つきが悪いみたいだろ」とこぼすので、さらに笑い声が続く。
そんな様子を眺め、私は満足する。
私の選んだドレスは予想よりもずっと二人に似合っていたし、リーベルシュタインたちの目から見てもそのように映るようだ。
「プリマヴィーラもラムールのドレスを着てきてくれたから、三人でお揃いみたいね」
カトリナが嬉しそうに微笑むのに、私は「そうね」と頷いた。
お揃いとは言うものの、今日はあくまでもカトリナとリーベルシュタインのデートである。主役を引き立たせるよう、私は目立ちにくいドレスを選んできた。
元々、乳母のために買ってきたもので、フィデリオの却下を経て、代わりに私の手持ちになった。銀刺繍が控えめに施されたミストグレーのドレスだ。乳母の体格に合わせて大判のものを選んだため、私の着丈には絶妙に合っていない。それを、日傘や
よく言えば清楚、悪く言えば質素。
上品に着飾ったカトリナやパトリツィアと並ぶと、控えめな印象になる。というか、最早手抜きだ。
二人とドレスの着合わせができれば私は満足だったので、失礼にならない程度に抑えた。
少し歩いたのち、劇場に辿り着く。
私たちは六人分の椅子の用意されたボックス席に通された。オペラグラスがなくとも舞台がよく見える、上等な席だった。
横に三席を二列ずつ配置されたシートで、彼らはそれぞれ「ご令嬢はこちらへ」と私たちを前の席に座らせようとしてくれたけれど、私の隣の席がカトリナだったため、私はリーベルシュタインに譲った。彼は少しはにかんで「ありがとうございます」と答える。
前の席にパトリツィア、カトリナ、リーベルシュタインが、後ろの席にはマイヤー、ジーベル、私が座り、開演の時間まで雑談になった。
「本当に、今日はリンケ嬢やアウフムッシェル嬢にも来ていただいて光栄です。急なお誘いになってしまったにもかかわらず、よいお返事をいただけて嬉しかったです」
「私たちも興味があったので、よい機会になりましたわ」パトリツィアが答える。「女性だけで外出するよりも、男性がいてくださったほうが、気兼ねなく外を歩けますしね」
貴族女性の外出時は、侍女か男性を伴うのが一般的だ。近年はその風潮も薄れているものの、保守的な考えを持つ者なら、侍女だけでなく騎士も伴って出歩く。
自立を重んじる我が学び舎の校風と、在校生のための街の整備により、学校の近隣は、貴族令嬢だけでも出歩きやすい場所なのだが、慎重なパトリツィアには抵抗があるのだろう。
「フィデリオのやつも来ればよかったのにな」
「そうですね。今日来たときから気になっておりましたの。てっきりアウフムッシェル卿もいらっしゃるのかと思っていたので」
「中間試問に向けて勉強するから、と断られました」
「勉強熱心ですね」
「監督生になったから、気を張っているのかもしれません。息抜きくらいいいと思うのに」
「これで彼の成績が俺より悪かったら、からかってやろうかな……“君、あのオペラ見なかったもんな。ちょうど試験範囲だったのに”」
そこで全員が笑った。
「僕たちの誰か一人でも、フィデリオの成績に勝てたら面白いんだけどな」
「やれるか? アルヴィム」
「できるわけないだろ。夏休みのあいだも真面目に予習とかしてくるようなやつだぞ」
「まあ。そうなの? プリマヴィーラ」
「そうね。邸でも本を読む姿をよく見るわよ」私はため息をつく。「あの男、こっちにまで勉強しろって口うるさいのよね。嫌になるわ」
「ははっ! アウフムッシェル嬢からそんなお話を聞けるとは!」
「貴女は夏休みのあいだ、林や浜辺を馬で駆けることが多いのだっけ」
「そういえば、乗馬がお得意でしたよね」
「騎射の技術も素晴らしいと、グルーバー先生から伺いましたよ」
「小さいころから馬が友達でしたから。ただ、今年の夏休みはほとんど走れていなくて……おかげで愛馬を恋しく思いますね」
「そうだ。アウフムッシェル嬢、ラムールはいかがでしたか?」マイヤーが尋ねる。「僕はラムールに行ったことがないので、どんなところだったのかお聞きしたいです」
「ジャルダン領から出たわけではないのですが、とても美しい国でしたよ。芸術の栄えた国というだけあり、街並みも工芸品も素晴らしかったですね。リーベとは違う文化に触れることができ、とても勉強になりました」
「ジャルダン家から歓待を受けたようですね」
「ラムールとは戦争をしていた時代もあるのを思うと、ここまで友好的な関係になれたのは努力の賜物よね。今回の交流会も何事もなく終われたようでよかったわ。お疲れさま、プリマヴィーラ」
「ええ、ありがとう。カトリナ」
そうやって話しているうちに開演を迎えた。
美しい演奏に、絢爛な衣裳に身を包んだ歌手たち。中でも、ラムールから来たという歌手の美声はひときわ響き、前の席のパトリツィアがうっとりするのが見えた。
私はオペラに明るくないけれど、噂の歌手がどれだけ高い歌唱力を持っているかは理解できた。ジーベルの言っていたようにロマンスものの演目で、愛しい人への切なる思いをドラマチックに歌いあげていた。
幕間になると、三十分のインターミッションを挟む。
リーベルシュタインたちはホワイエに休憩しに行ったけれど、私たちはお手洗いのために彼らと分かれた。
ボックス席を使う観客には、専用のパウダールームが用意されている。大きな腰かけや鏡の備えられた、広々とした空間だった。
鏡の前で髪を手櫛で梳かしているパトリツィアが、腰かけに座るカトリナに言う。
「リーベルシュタイン卿っていいひとね」
「いいひと……だと思うわ」カトリナは恥じらいながらも肯定する。「彼はとてもピュアなの。いきなり縁談の持ちあがった相手にも、すごく親切にしてくれるし」
たしかに、私の目から見ても、リーベルシュタインは好感の持てる男だった。カトリナが「ピュアなひと」だと言うのもよくわかる。ラムールで出会ったオルタンシアを思い出させる、無垢な反応。
「お似合いの二人になりそうね」
私がそう言うと、カトリナの頬に朱が散る。
パトリツィアがくすくすと笑う。
「オペラを観に行くのにしたって、私たちのことも気遣ってくれて、よい縁談じゃないの」
「でも、まだお互いのことをよく知らないから……私がよくたって、彼が私を嫌がる可能性だってあるじゃない」
「そんなひとには見えなかったけどね」
「カトリナのことを大事にしてくれそうだったわ」
「もう、まだ婚約したわけじゃないのよ?」
「わからないわよ。このままいいように進むかもしれないじゃない」パトリツィアは少し息をつく。「……私はカトリナが少し羨ましいわ。同い年の相手でよいひとを見つけられそうで」
「え、パトリツィアの相手は年上なの?」
「お断りした方だけどね。十五も上だったの」
「ええっ!?」
カトリナと同じくらい私も驚いた。
目を丸める私たちを見て、「ね?」とパトリツィアが苦笑する。そのままカトリナの隣に腰かけたので、私もパトリツィアの隣に座った。
パトリツィアはぼうっと宙を仰ぎ、力なく告げる。
「去年の冬に奥様を亡くしたみたいで、その後妻として望まれたの。爵位の低い方だったけどお金持ちでね、まだ跡継ぎがいないから、再婚相手には若い令嬢を探してらっしゃって」
「だからって、卒業もまだの年若い娘に?」私は顔を顰める。「断って正解よ」
「そもそも、一度話に上がったってことは、貴女のご両親はその相手を検討されたってことよね?」
「リンケは三姉妹で、私がちょうど真ん中なの。うちは貧乏ではないけれど、豊かというほどでもないから、全員が嫁ぐとなると、持参金で破産しちゃうのよね」
「娘が多いと、たしかにちょっと大変かも」
「それで、お金持ちの方と?」
「ええ。私が上手く片づいたら、嫁入りした家から支援を受けて、妹にもきちんとした額を用意できるかもしれないでしょ?」
パトリツィアは慎重な性格ゆえに考えすぎるところがある。その十五も上の相手にしても、自分の感情を無視して、一度は本気で考えたのだろうと察せられた。
「それで貴女が望まぬ結婚をしたって、貴女の妹は喜ばないと思うわ」
その言葉は、私の口から自然と出た。
パトリツィアは「そうかもしれないけどね」と苦笑する。
「同じお金持ちなら、ジーベル卿がいいと思うわ。子爵家だけど、リーベのあちこちに別荘をお待ちよ。同い年だし綺麗なお顔立ちをしてらっしゃるわ」
「ええ?」パトリツィアは目を眇める。「なにを言うの、カトリナ」
「もうちょっと話してみたら? 戻ったら、プリマヴィーラにお願いして席を変わってもらいましょうよ」
「もう、やめてよ。あの縁談はもう終わったことだし、私は大丈夫だから」
パトリツィアが強く言うので、カトリナは少しは不服そうにしながらも「きっといいひとを見つけるのよ」と答える。
カトリナとパトリツィアの話を聞きながら、第三学年に上がってからというもの、こういう話が急に増えたなと思う。右を向いても左を向いても、縁談だの、婚約だの。
夏休みのあいだはラムールに逃げることでその手の話を避けることはできたけれど、パーティーに出れば否が応でも機会は増えるし、学校が始まったことでより耳にするようになった。
嫌だわ。私は、このままがずっと続けばいいと思っているのに。
その後、私たちもホワイエへと移動して、リーベルシュタインたちと合流した。幕の上がる五分ほど前に先に戻り、オペラの第二幕を楽しむ。
オペラを終えたあとは、近くのカフェで感想を言い合い、馬車の迎えが来たので、日が暮れる前に寮に帰った。
帰寮の門限があるため、遅くまで外出はできないのだ。それでも一日出かけていたこともあり、寮舎に着くころにはへとへとだった。
帰り際、男子寮に戻ろうとしていたジーベルに、フィデリオを呼ぶように頼んだ。ジーベルは快く了承してくれた。
しばしのあいだ、寮の外で待っていると、フィデリオが出てくる。彼は私を見るなり目を細めて声をかける。
「やあ。オペラはどうだった?」
「退屈だったわ」
「君ねえ……そういう態度を彼らの前でも見せてないだろうな?」
「見せるわけないでしょ。カトリナのデートだったんだから、空気を悪くしたら可哀想」
「君もそういう配慮ができるようになったのか」
癪に障ったので、日傘でその脛を打ってやる。
今日一日この男が不満でしょうがなかった。
私の暴挙に、フィデリオはわずかに後ずさり、顔を顰めて言う。
「おい、なんだよ」
「なんで来なかったのよ」
「俺が?」
「彼らもついてくるなら、私は別に行く気なんてなかったの。貴方が行こうって言うから承諾したのに、一人だけ逃げるなんて、この卑怯者」
「それで怒ってるのか?」フィデリオは呆れたように腕を組む。「俺だって気を遣ったんだよ。君、パーティーに出ないし、手紙もまともに返さないし、このままだと卒業までに婚約相手を見つけられるかも怪しいだろ。少しは交流を待ったほうがいい」
フィデリオは私を眇めながら言った。
私は首を傾げて閉口し、話の続きを促す。
「俺が抜ければ、ちょうど男女三人ずつになるから、具合がいいと思ったんだ。彼らは真面目で紳士的で、君を悪いようにはしなかったろ?」
フィデリオの言い分に、私はどんどん表情をなくしていく。この男の善意で取った行動は、私の機嫌を損ねるものに他ならなかった。
「本当の、本当に、余計なお世話なのよ。私によく知りもしない殿方を当てがおうとしないでくださる?」
「知ろうとしなかっただけじゃないか、本当に見ず知らずの相手ならともかく、クラスメイトだぞ。アルヴィムもシャリオットも、相手の本質に重きを置くタイプだ。ブルーメンブラットの私生児としての価値ではなく、君の
それは、今日一日でも理解できた。
アルヴィム・フォン・マイヤーは、その場の空気を読むのに長けており、当意即妙の立ち回りを見せる。それでいてやはり、権力に対しての関心が極度に薄い。私に手紙を送ったのについても、深い意味はないのだろう。
シャリオット・ジーベルはユーモアがあり、気さくながらにも一線は見極める男だ。フェアリッテとジギタリウスを足して割ったようなタイプ。あの絶妙なバランス感覚には舌を巻いた。
レオン・リーベルシュタインも、カトリナを前にしたときのたどたどしさはあるものの、心根の善良さがよくわかる。
彼らはそれぞれ誠実な人格者で、類は友を呼ぶという言葉のとおり、フィデリオらしい友人たちだった。
「噂や時勢に左右される風見鶏のような人間はいい。でも、君と真摯に向き合ってくれる人間とは交流を持つべきだ。君が誠実に接すれば、彼らも誠実に接してくれるよ」
「…………気乗りしない」
「別に彼らの誰かと結婚しろとは言ってない。というか、相手が君なんて、彼らに悪い」
私はフィデリオの脛を再び日傘で叩く。
フィデリオは「事実だろ」と返した。
「……つまり、縁談に進める意図はなく、あくまでも交流として、彼らと懇意になれば、貴方のお気に召すのね?」
「まあ、そんなところかな。でももし、彼らのうちの誰かを君が気にいるなら、俺が間に入ることも吝かではない。できるかぎり力を貸すよ」
「やめて。絶対に、ありえないから」私はため息をつく。「それで? 私に交流を押しつけた貴方は、今日一日なにをしてらっしゃったの?」
どうせ試験勉強なんていうのは
「本当に試験勉強なんてしていたのなら、残念だったわね。ジーベル卿が言うには、今日のオペラの内容が試験範囲だそうよ」
「シャリオットの言うことは適当だから真に受けないように。まあ、自分で言ってしまったことだったからね、朝から図書室にいたけど」
「律儀ね」
「監督生になって業務も増えたぶん、成績を落とさないか不安なんだよ。君は図書館に行くことがほとんどないから知らないだろうけどさ、いまの時期から中間試問に向けて勉強する人間だって、けっこういるんだ。ラルスやリーゼンフェルト嬢、それにフォルトナー嬢も」
最後に紡がれた名を聞いて、私は眉を跳ねあげる。
そんな私の様子を見たフィデリオは、失敗したかという表情を浮かべた。彼の中で、クラウディア・フォルトナーの名前はタブーだ。私の情緒を崩すキラーワードだと思っている。
でも、私はあえてそこに斬りこむ。
「クラウディアと話したの?」
「……少しだけ」
「貴方の配慮がかえって気に障るわ。正直に」
「図書館で、たまたま席が近くなって。授業についていけない部分があるから教えてほしいと言われたんだ。一年も休学したんだからさぞかし大変だろうと、俺のわかる範囲で勉強を教えて……」
「それで?」
「それだけだよ。特に君の話をしたわけでも、なにか聞いたわけでもない」フィデリオは不可解そうに私を見遣る。「君たちって、仲直りしたんじゃなかったっけ? それとも彼女のことを許せない?」
仲直りなんてきっと永遠にできない。彼女については、許す許さないどころの話ではない。
けれど、フィデリオはそれを知らないのだ。
クラウディアがどのように私を裏切ったかも、私たちがどのように決別したかも、彼女が己にどのような想いを抱いているかも、なにも。
私は口を噤む。なにを言うこともできなかった。この世の誰に対しても、クラウディアとのことを話すことは躊躇われて、けれど、一番に言えないのはフィデリオだ。
視線の落としたまま私が石のように固まっているので、フィデリオは慎重に言葉を紡ぐ。
「ごめん。迂闊だった。彼女は、君が時を遡る前からの友人で、君が一番最初に心を開いた相手だったから……二人で話をしたのなら、もう大丈夫だと。ちゃんと君の気持ちを伺うべきだった。すまない」
私を傷つけまいとして絹糸で紡いでいく、真心の形をした彼の言の葉は、私の胸の裏側を柔らかく撫でていく。
私は小さく「違う」とこぼした。
ようやっとの思いで吐きだした音だった。
「……フィデリオ」
「うん」
「前から気になっていたのだけれど、貴方たちって、そんなに仲がよかった?」
「え? 俺とフォルトナー嬢?」フィデリオは蜂蜜色の目を膨らませた。「仲がいいって言っていいのかはわからないけど、入学前から顔見知りではあったよ。アウフムッシェルとフォルトナーは、西海岸交易において関係があるから、お父様の付き添いでフォルトナー家へ行くことが何度かあって、それでかな」
デビュタントを迎えるまで、貴族令嬢は、夜会に出向くことも、一人で他家へ行くこともない。
だから、クラウディアがフィデリオを好きになったのは、入学してからの話だと思っていた。
一年という期間の中で育んだ関係性のうち、友人の私と、想い人のフィデリオ、その両者を秤にかけ、私は選ばれなかったのだと。
けれど、入学前からクラウディアがフィデリオを好きなのだとしたら。その想いを募らせたうえで、私と出会ったのだとしたら。
それは、まさしく、かつての私と同じだ——父親からの愛に飢え、ずっとずっとフェアリッテが憎くて、それを隠して友人のふりをしていた、あのころの私と。
全てが嘘だったわけではないと信じていた。
真実、私たちが友達だった、そんな時間があると、信じていたのだけれど。
「……大丈夫かい?」
「平気よ」私は額に手を遣り、フィデリオから一歩後ずさる。「クラウディアの言うとおり、過ぎた話だから、貴方が神経質になる必要なんてない」
彼女の憎悪は本物なのだ。
じわじわと指先から熱が引いていき、頭も冴えていく。嫌な脈を打つ心臓とは裏腹に、冷静になる。
心から私を憎み、妬んでいる彼女が帰ってきた。愛を切望し、私を落としつけるためならなんだってしてしまうだろう、謀り上手な悪女。
殺したいほどに私を恨んでいるなら、本当に殺すだろう。私の持つものを奪ってやりたいのなら、本当に奪うだろう。
私が平気でないのは、彼女はなにをしでかすのかという恐ろしさだ。ずっと続けばいいとさえ思ういまの僥倖が奪われてしまう予感。
夜、フレーゲル・ベアを抱きしめながら、私は私の抱えるものを思い知る。この腕の中にぎゅっと匿って、離したくないもの。
愛を知った。
愛することを知ってしまった。
知らなければ、なにも恐ろしくなんてなかったのに。
「ヴィーラ?」
目の前の彼が、心配そうに私を見つめる。甘い目尻が憂うように垂れていた。その眼差しがどこまでも真摯である意味を、私はきちんと理解している。
フェアリッテだけじゃないのだ。
私の奪われたくないものは、まだある。
中間試問を終えた。
結果はあえて伏せる。
ただ、早くから試験対策をしていたフィデリオは優れた成績を修め、オペラは試験範囲外だったことだけは述べておこう。
さて、私の選択教養は馬術であり、第二学年からは騎射へと遷移したわけだが、第三学年からは一気に状況が変わってくる。
令嬢の大半が、縫術へと転科するためだ。
というのも、第二学年次、私と同様に騎射を選択した令息は、加えて騎槍も学ぶことになる。この学校が共学になる前は、当然ながら授業を男子基準に設定しており、選択教養の馬術においては、当時の名残が抜けきれていない。そのため、第三学年からは本格的な騎槍の授業に遷移してしまう。それに令嬢がついていけないのだ。
救済措置として、令嬢は騎射を学びつづけることができるのだが、教師は令息の騎槍を優先する。
そして、教師の熱意の薄れた授業を、元より馬や弓にこだわりのなかった令嬢たちは、自ら受けようと思わない。
結果、令嬢の大半は第三学年に縫術を選び、最後まで騎射を選ぶような物好きは、私とディアナの二人だけだった。
私とディアナは、馬に乗って槍を構える令息たちを、遠巻きに眺めている。教師もあちらにつきっきりのため、本当に二人きりだった。
秋の実の月も下旬になり、夏めいた空気は一気に消えた。学校の敷地内とはいえ、野を駆けるのは爽快で、髪を巻きあげる秋風が心地好い。それでも、ただただ馬を走らせるのには飽きてきて、いまは休憩するふりをして、適当に視線を投げている。
それはディアナも同じだった。
馬の鼻筋を正面から撫で、そのご機嫌を取るふりで、ディアナは退屈を隠している。
ディアナ・フォン・ミットライトは聖女だ。それが巧妙に作られた仮面だと私が知っているとはいえ、ここは貴族の通う学び舎だ。ディアナがその仮面を外すことは決してない。
神秘的な
私はその背中に話しかけてみた。
「ねえ、ディアナ。休学のあいだにクラウディアが神聖院に通っていたという話は本当なの?」
ディアナがこちらを振り返らなかったけれど、穏やかな声音で返答が来る。
「アウフムッシェル嬢に名前で呼ばれるとは、非常に面映ゆいですね。そのように私のことを親しく思ってくださっていたのですか?」
「いいえ。名前で呼び捨ててもかまわないと思っているだけ。それで、どうなの?」
「申し訳ないのですが、個人の訪問を軽々しく口にすることはいたしかねますので」
「来ていないならいないと言えばいいでしょう」
「来ていないかどうかさえも、個人情報にあたります。僭越ながら、他人の行動を詮索するような真似は控えたほうがよろしいかと」
来ているとも来ていないともディアナは言わなかったけれど、なんとなく、神聖院に通ったという話は本当なのだろうなと思った。
ディアナとは《調停の祝福》による不可侵を相互に定めている。ノイモンド・フォン・シックザールが縛った契約のようなもので、私たちの意思に関係なく、互いの秘密を口外することはできない。
私とディアナのあいだにある確執がきれいさっぱりなかったことになるわけではない。
私を疎むディアナと、私を憎むクラウディアが手を組む——想像するだにおぞましい可能性は
「じゃあ、話を変えるけれど。貴女が帝国に嫁ぐというのは本当なの?」
「ガランサシャ嬢ですね」
「知られたくないことならあの女に話さないほうがいいんじゃない? 自分が進言したのだと、自慢げに話していたわよ」
「知られて困ることではありません。まだ水面下の話ですが、上手く縁談がまとまれば、大々的に喧伝することになるでしょう。ミットライトはこの話に乗り気なのです」
「そりゃあ、王妃になるより皇妃や皇后になったほうが、聖女としての箔がつくものね」
「神聖院の考えはそうではありません。あくまでも乗り気なのはミットライトだけで、神聖院とは意見が割れています」
私は少し驚く。
「意外ね。あくまでもリーベでの権力にこだわっているのかしら」
「いえ。帝国の宗教観の問題でしょう」
私は眉を顰める。それを見ていたわけでもないのに、ディアナは「ご存知ないのですね」と振り返った。完璧な微笑みの下にある、私への皮肉を感じ取る。
「リーベは
リーベ以外にも
「同様の一神教は世界各地で散見されますが、同一神と見るかどうかは意見が分かれています」
似たような話を去年の秋ごろに聞いた覚えがある。あのときは、ディアナとフィデリオが熾烈な議論を展開させていた。
アトフは一神教だが、信仰対象を《
「唯一神を掲げる国には、土着した神がいるものです。ルーツは同じだと私は考えますが、その神を現す言葉も、神の遣いの名も、神への解釈も大きく異なります」
「宗教観の問題と言ったわね。帝国の
「はい。特に《祝福》について異なります。帝国では、それを《呪い》と表現します」
「呪い?」
ただごとでない表現だ。
異なるどころか正反対ではないか。
「
「そもそも、帝国では、私たちの言う祝福を受けることが稀なのです。洗礼の儀は、生後間もなくして。聖母の預言により、その者の運命が解き明かされるのだとか。預言を受ける際に、ごく少数の人間が、その身に余る災いについての啓示を受けるそうですよ。生まれたときから定められ、死に至るときまで逆らうことのできない、大いなる力……それが《呪い》です」
「貴女、
「だから神聖院は乗り気でないのです。帝国では《聖女》の力も弱まり、下手をすれば魔女狩り、いえ、聖女狩りですね。私の存在をどのように受容されているかにもよりますけれど、そんな博打を打つくらいなら、ラムールやアトフに送りこむほうが、神聖院としてはメリットが大きい」
「でも、ミットライト侯爵家は違うと」
「帝国の妃ですからね。貴族の娘として、最も高値がついたのです。王太子妃に選ばれなかったことさえ運命だと
さすが、運命殺しという復讐のために、王妃にまでなろうとした女だ。自分の運命を決める婚姻さえ、その手段のうちでしかなく、財や権力を目当てに心のない相手に売られることも、どうとも思っていないらしい。
パトリツィアのように顔を曇らせることはないかった。滔々と語るディアナの表情には瑕疵がなく、満ちた月のように美しかった。
「信仰対象である運命が同時に嫌忌の源でもあるというのは、私としても都合がいいのです」
美しい人でなしだった。
後光が差すほどに神聖な彼女は、この世の誰よりも運命を憎んでいる。
聖女ディアナは、ある意味では、私と同じ《持たざる者》なのだ。
「また邪魔をしようと言うなら、」ディアナが微笑みのままに私を見据える。「今度こそ、貴女をどのようにいたすか、考えなくてはなりませんね。せっかく仲良くなれたのですから、プリマヴィーラ嬢とはこれからも親しくしていたいと、私は思っていますよ」
私の名を呼ぶディアナの瞳は胡乱だった。
仮面の聖女とはいえ、彼女自身がこれまで築きあげてきた努力の賜物は、紛うことなき本物である。絶大な信奉と敬意を集める、比類なき才媛である彼女を、再び相手取る気には、到底なれない。
「ええ、私もそう思っているわ。王太子妃争いも終わったんだもの。貴女が次の夢に臨もうというなら、心から応援するわ」
これ以上争う気はないので好きにすればいいと、私はディアナに伝えた。
それをディアナが信じたかはわからないけれど、柔らかく目を細めて「ありがとうございます」と返ってくる。話は終わったと言わんばかりに、彼女のその目は馬へと注がれた。
風の吹く野に静寂が広がる。
私の所感では、ディアナとクラウディアが手を組んでいる可能性は低い。学校生活において、二人の接点は無に等しく、ディアナは帝国との縁談をまとめるのに忙しいはずで、私ごときに労をかける時間がない。それこそ、私が縁談の邪魔をしなければ、不可侵を継続するつもりでいるのだろう。
なんでもないような顔をして、叩けば埃しか出ないような私たちだ。調停どおり、なるべく穏便にすごしたいと考えているのは同じである。どうせ相手の罪を口外することは不可能なのだから。
けれど、私には懸念があった。ディアナがそれ気づいているかはわからないけれど——私たちの契った秘密が、第三者によって、暴かれる可能性だ。
一切の口外を封じた《調停の祝福》は、果たして、一切の事実を詳らかにする《真実の祝福》をも跳ね除けられるだろうか。
私を恨むクラウディアが、私の罪に勘づいたとき、《真実の祝福》の前では、《調停の祝福》はなんの意味も為さないのではないか。
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