第2話 試験の霹靂

 私たちの通う学校は四年制だが、計算や語学などの基礎学問を学ぶのは初めの一年のみだ。そもそも、貴族の令息や令嬢は、学校に入学するよりも先に、家庭教師から指導を受けているためだ。

 基礎学問だけでなく、礼儀作法に言葉遣い、社会技能、武術に芸術など、ありとあらゆる知識を身につけたうえで、学舎でしか学べない高等な学問を修めに、私たちは入学しているのだ。たった四年しかない就学を、とうに履修した基礎学問で不意にするなんて馬鹿げている。先の三年で有意義な教養を身につけるため、必要最低限の復習や確認を、一年のあいだでおこなうというわけだ。

 そのため、新入生である私たちの一年のカリキュラムは、史学や経営学などの必修教養が八割、選択教養が二割となっている。選択教養は男女別に分かれており、男子は馬術と武術、女子は馬術と縫術から個人で選択ができた。

 私が選択したのは馬術だった。

 昔から刺繍は苦手だったけれど、馬を乗りこなすことには長けていた。暇さえあれば愛馬に乗って、邸の近くの浜辺や林を駆け回ったものだ。

 それは、同じアウフムッシェルで育ったフィデリオも同じだったけれど、彼は「すでに会得する技術を習うよりかは未知の分野を習うほうがいい」と、武術を選択していた。わざわざ得意でもない科目を選択するなんて馬鹿げている。乗り慣れた愛馬でなくとも、学校の敷地内の野を駆けるのは、こんなに気持ちがよいのに。

 駈歩どころか速歩どまりの生徒を抜き去って、清々しい風に身を晒しながら、馬の手綱を操る。秋の実の月の気候は遠乗りには最適なのだ。

 学校の馬も悪くない。よく手入れされているし、今乗っている馬は従順な子だった。冷静にリードすればまったくそのとおりに走ってくれる。

 途中、柵があったけれど、私は悠々と跳躍した。それを見ていた先生がはっと黄色い息を呑む。外周をぐるりと走り回ったのち、私は先生のいる場所まで戻り、馬を降りた。


「素晴らしい!」馬術教師であるグルーバー先生は雄々しい賛辞で私を迎えた。「馬を自らの一部のように操り、乗りこなしている! 生来より《騎乗の祝福》を受けたかのよう!」


 私はにこりと笑んで、「お褒めに預かり光栄ですわ、先生」と返した。

 時を遡る前から私に目をかけてくれていたグルーバー先生は、今回も私を褒め称えてくれる。この学園でも滅多にない、見る目のある教師だとは思っていたけれど、いま冷静に考えてみると、彼は、平民の出でありながら戦争で活躍、騎士爵を得て、怪我による戦線離脱と爵位返上後、教師としてこの学校に着任した経緯を持つ。己の才覚で生きてきた御仁だ。出自にこだわりのないぶん、他の教師よりも順当に平等に、私を評価したのだろうと考えられる。

 今回とて、気に入られて損はない。第一学年次の馬術は単なる乗馬だが、第二学年次には騎射であると聞く。狩猟を趣味としていた私にはうってつけだ。それを楽しみに馬術を選択しつづけることを見越せば、教師に媚びておくことは有益だった。


「お見事でした、アウフムッシェル嬢」

「馬の扱いがお上手ですわね」


 グルーバー先生と話し終えると、同じく馬術を選択した令嬢たちに話しかけられる。中にはルームメイトの姿もあり、私は「ありがとうございます」と愛想よく返した。


「邸にいたときは、よく狩りをしていたんですの。そのおかげですわ」

「どおりで乗りこなしていらっしゃるはずですね」

「駆け抜ける姿が実に凛々しかったですもの」


 学校に入学して、早一ヶ月が経過した。その間、余計な敵は作るまいとしていたおかげで、時を遡る前よりも、私への風当たりは生易しいものだった。

 いまこうして私を褒めたたえる彼女たちも、一周目——私がフェアリッテの嫌悪を露わにしていたとき——は、蛇蝎のごとく私を嫌い、罵ったものだ。

 しかし、この二周目において、私はフェアリッテと仲良く振る舞っている。正妻の娘と私生児という異母姉妹の関係を当初は疑ってかかっていたものの、互いの襟元に映えた刺繍を見て、認めざるを得なかったようだ。フェアリッテの私に対する親しげな言動も相俟あいまって、周囲もそれに倣い、私を過剰に敵視することはない。

 とはいえ、私を見る目の澱みが完全に晴れることはないらしい。私を褒めたたえたその舌の根も乾かぬうちに、彼女たちはたなごころを反した。


「ですが、多少は足並みを揃えていただかなくては……グルーバー先生もアウフムッシェル嬢ばかりを見られるわけではないのですから」

「この一ヶ月でアウフムッシェル嬢がどれほどの腕前をお持ちなのかはわかりましたもの。私たちも貴女のように上手に乗りこなせるようになりたいんですの」


 どれだけ自慢したいの? いい加減うんざりしてるから先生を独占するのはやめてほしいんだけど。

 要するに、そういうことだ。

 淑女たる教育を受けた彼女たちが、表立った非難をぶつけてくることはない。しかし、柔和な笑みと優雅な態度を崩すことなく、さきほどのような釘を差してくるのだ。陰湿で面倒な厭味いやみ

 下手くそは黙ってらして。

 よっぽどそう言ってやりたかったけれど、ぐっとこらえて冷静になる。

 ここで反発してはこれまでの努力が水の泡だ。彼女たちの反感を買ってしまえば、私がフェアリッテを殺したとき、足を引っ張られる可能性だってあるのだから。そういえばアウフムッシェル嬢が怪しいのではなくて、だとかそんなふざけたことを言って。

 正直、いますぐにでも彼女たちの涼しい顔を歪ませてやりたいところだったけれど、引っ張られる足は、返される手の平は、作るべきでない。


「まあ、気が至りませんで申し訳ありませんわ……」努めて詫びるような表情を作り、私は言葉を返す。「みなさんがそこまで思いつめてらっしゃったなんて。決して悪気があったわけではないんですのよ。ただ楽しくて夢中になっしまいましたの」


 慎み深い態度を取れば、彼女たちもこれ以上強くは出られなかったのだろう、「思いつめるだなんてそんな」と顔色を変えた。あるいは、私の様子に満足したのか、微笑んで「悪気がないというのもわかっておりますわ」と言葉を添えるのだった。


「ただ、今後は気をつけていただけたらと思っただけで……アウフムッシェルはリーベの最西端にありますし、これまで、家同士の交流も希薄でしたでしょう?」

「同じくデビュタントを控える身とはいえ、交流がなかったぶん、アウフムッシェル嬢は私たちよりも苦労されるでしょうから、なにかわからないことがあればぜひ聞いてくださいね」


 見下している。

 妾の子だから教育を受けていなくて当然よね——そういう心根が透けて見えて、私は静かに奥歯を食いしばった。

 ああ、鬱陶しい。その侮蔑に満ちた目でなにかを塗りたくるように私を見るさまが、あまりに煩わしく恨めしい。あんんたたちこそどういう教育を受けているのかしらねと、口に出せない鬱憤が溜まっていく。

 しかし、そんな彼女たちよりも鬱陶しいのが、ある生徒の視線だ。

 私は気まぐれのようにそちらを見遣る。目が合ったのは、ギュンター侯爵家の令息。時を遡る前から私を敵視していた男である。

 あのときは、私の馬術を嫉んで、事あるごとに噛みついてきた。かつての私は《除災の祝福》を受けていたため、どうせ怪我などしまいと、馬で脅してきたこともあった。暴れ馬を放たれ、あわや蹴られそうになったところを、蹄鉄を脅威と感知した《除災の祝福》が弾いたのだ。竦みあがっていた私を気遣うふりをして、その実、ひどく満足げな顔をしていたのを、いまでも覚えている。

 目が合ったギュンターは「な、なんだ」と声を上擦らせた。私は馬を曳きながら、彼に歩み寄っていく。彼は顔色こそ変えなかったものの、居心地を悪そうにしていた。そのさまがあまりに滑稽で、私はふっと笑みをこぼしてしまった。


「お見事でしたわ」

「……え?」

「授業中、先生のご指示で馬術の実演をされてらっしゃったでしょう?」

「あ、ああ」

「先生がアーノルド卿を目にかけるのも納得です」アーノルドとは彼の名だ。「まさにお手本のような腕前でしたわ。どうしたらそのように上達するのでしょう」


 知っている。彼の馬術は、かつては王室の家庭教師もしていたという祖父から直々に指導され、会得したものだ。それに対する彼の矜持は凄まじく、だからこそ、時を遡る前、独学で彼の上を行った私が目の上のたん瘤だったようだ。

 けれど、本懐に差し障る以上、彼の恨みだって買う気はない。

 媚びを売ってやるから、手の平を返し、その上で自ら転がっていろ。

 容易いことで、私の態度に気分をよくしたギュンターは「それほど褒められるようなものではないさ」と胸を張った。


「そういう君も、なかなかの腕前だった」

「恐れ入りますわ」

「粗削りで、勢い任せというところが玉に瑕だったがね」

「お恥ずかしい」

「女性なのだし、万が一、落馬して、その顔に傷がついてはたまったものではないだろう。今日、君に渡された馬はずいぶんと従順だったようだが、僕に渡されたような暴れ馬だったとしても、手綱を握れなくてはならない。君は己の身を守るようなものにも恵まれていないことだし、以後は気をつけるといいよ」


 手の平ではなく調子に乗ったらしい。

 彼は「失敬」と目を瞑ったけれど、恵まれていない——つまり、私が《持たざる者》であることをあげへつらったのは、非常に巧妙で、計算された失言だ。

 どれだけ非礼でも、それが真実である以上、私に反論の余地はない。ただ「そうですわね」となんでもないように微笑んで、その場を凌ぐしかない。

 彼らは、私が私生児であるということだけでなく、《持たざる者》であることにも、瑕疵を見出していた。むしろ、よりいっそう私の出自を貶める材料として囁かれることも多い——《持たざる者》なのは不義の子だから、と。

 私からしてみれば馬鹿げた話だ。本来、私には《除災の祝福》が与えられていたし、《持たざる者》なのはフェアリッテのほうだ。手違いでその立場が入れ替わっているにすぎない。フェアリッテが《持たざる者》だったときはなにも言わなかったくせに。

 現状、私が《持たざる者》であることも、不義の子であることも真実だ。

 なにも言い返せない。けれど、


「僕は祖父から馬術の教育を受けているからね。君がこれまで我流でしか精進できなかったと言うのなら、僕の技術を授けるのもやぶさかではないよ」


 ここまで馬鹿にされて、なにもやり返せない私ではない。






「クラウディア、試験勉強をしましょう」


 私がそう声をかけると、窓から私を見下ろす彼女は、涼しげな瞳を瞬かせた。

 馬術の授業後、厩へと馬を帰し、運動着から制服へと着替えるべく更衣室へ向かっていると、縫術の授業を終えた女子生徒たちが渡り廊下を歩いているのが見えたので、すぐさまそちらへと駆け寄り、黒髪ブルネットの女子生徒を探す。そして、すっきりとしたうなじを引き立たせるシニヨンを見つけた私は、その後ろ姿に「クラウディア」と声をかけたのだ。

 クラウディア・フォルトナー。

 フォルトナー伯爵家の娘で、前世でも私の味方だった、唯一の友達。

 はじめはただのルームメイトの一人だったが、ある日、彼女も「いい子ちゃんって嫌いなのよね」とフェアリッテを毛嫌いしていたことを知り、それをきっかけに仲良くなったのだ。

 一周目たる過去、私が死刑になる直前までそばにいてくれたのは彼女だった。二周目たる現在も、ルームメイトが《持たざる者》である私を嘲笑うなか、「なにがそんなにおかしいのかわかりかねますわ」と諫めてくれた。再び彼女と友達になろうと思ったのは当然のことだった。


「試験勉強なんて唐突ね、プリマヴィーラ。けれど、学期末試験はまだ一ヶ月以上も先よ。性急だわ」


 窓の外にいる私を見つけたクラウディアは、窓辺まで近寄り、私に返事をした。

 彼女の青い瞳は、日の光を浴びて、アイスブルーに煌めく。

 その爽やかな瞳を見つめ返して、あたしはふふんと笑んで見せる。


「あら、私が言っているのは学年末試験のことよ」

「性急どころの話じゃないわね。学年末試験は春の音の月の話よ?」

「知っているわ。それをいまから対策していたら、きっとよい点が取れるでしょう。私たち二人で学年一位二位を独占してやりましょうよ」

「呆れた」クラウディアは本当に呆れたように笑う。「それよりも、いま私たちが考えなければならない問題は、月末にある中間試問じゃないの。選択教養科目からの出題がないとはいえ、例年、非常に密で深い問題が出るって噂なのよ?」


 中間試問とは、口頭でおこなわれる試験のことだ。学期末試験への先駆けとして、これまで習った学をどれほど身につけているのかの確認をするのだ。試験時間内いっぱいに熟慮できる筆記試験とは違い、教師や他の生徒の視線に揉まれての受け答えが求められるため、学期末試験よりも恐れられることがしばしある。


「大丈夫よ、出題範囲は限られているんだから」


 けれど、なにを問われるかわかっている問題ほど、対策しやすいものもない。の記憶から、どのような試問がおこなわれるかを知っている私にとっては、大した脅威ではなかった。


「たしかに、試問内容は一ヶ月半の履修科目、それも基礎学問の延長だわ。けれど、そう気楽にかまえられるものでもないと思うわよ? プリマヴィーラ」

「ふふ、貴女でも焦ることがあるのね。そんなに不安なら、やっぱり、一緒に勉強しましょうよ。もしかしたら、一緒に勉強したところが出題されるかもしれないわよ」


 私は本気で言ったのに、クラウディアは「本当にお気楽ね」とため息をついた。

 彼女は私が時を遡ったことを知らないから、とんだ戯言たわごとだと思ったようだけれど、本当に出題されるところをそれとなく教えてあげるつもりだ。二人で勉強すれば、最優秀評価アインスだって取れるだろう。


「入学してからはじめての試験になるのだし、もう少し緊張感を持ったらどうなの」

「むしろ意外なのはクラウディアのほうよ。貴女でも緊張はするのね」


 さきほどまで縫術の授業を受けていた彼女の胸元には、裁縫道具が抱きしめられていた。フェアリッテほどとは言わずとも、クラウディアも刺繍の手練れだ。得意の刺繍が中間課題となっていたら、クラウディアもここまで思い悩むことはなかったはずだ。

 

「ご存知? プリマヴィーラ。貴女の得意な馬術だって、中間課題にはないの」

「あら、知っていてよ。でも私、学年順位の出ない試問なんてどうでもいいわ」

「ま、順位が発表されるのは学期末試験や学年末試験だものね」

「馬鹿にしてきた連中に一泡吹かせてやりたいの。だから一緒に勉強しましょう?」

「さっきのはそういうお誘いなのね」


 そこでクラウディアはやっと納得した。

 悠然と微笑んだかと思えば、しかし、窘めるように私に言う。


「でもね、もっと上手くやらなくてはだめよ。貴女が一矢報いるまで、その矢が届くまで、お行儀よく待っているつもり? 言ったでしょ、学期末試験までまだ一ヶ月以上もあるわ。そのあいだに、彼らはどれだけの矢を貴女に射ることか」

「だからって、中間試問でどうこうしろって? 点数を競うのではなく、あくまでも受け答えによる知識の確認じゃないの。そこで素晴らしい回答でもしろと言うの?」

「点数を競わなくとも、正答がある以上、及第点は決まっているわ。でも、その及第点が最高点というわけではないでしょう? 貴女はそれを優に超える回答をすればいいんだわ」

「なぞかけみたいね」

「考えることは大事よ、プリマヴィーラ。なにも正攻法だけが勝利ではないもの」

「それがクラウディアのってことよね」

「お利口さん。とにかく、私たちに勉強が必要なのは本当だし、貴女の誘いに乗るわ。今日の放課後、図書室に行くのはどう?」

「そうしましょう」

「あら、それってもしかして中間試問の話?」


 そのとき、私たちの会話に割って入ったのは、フェアリッテだった。

 クラウディアと同様に裁縫道具を抱きしめ、ふわふわと揺蕩たゆた金髪ブロンドを揺らしながら、私たちへと近づいてくる。

 その声を聞いたクラウディアは、一瞬うんざりした顔を見せたものの、フェアリッテのほうを振り返ったときには涼しげな笑みを浮かべていた。私が「ええ、そうよ」と返したのに合わせて、淑やかに「もうすぐですからね」と言葉を続ける。


「昨日は史学の先生にも脅されてしまいましたし」清涼な笑みから物憂げな顔へ、クラウディアは表情を完璧に変えた。「それに、ブルーメンブラット嬢もお聞きになられたでしょう? さきほどの刺繍の授業でシュナイダー先生がおっしゃられた、」

「計算には最低でも二桁の速算が求められるという話ですね」

「暗算は苦手ではないのですが、緊張して飛んでしまうのが心配で心配で」

「私は語学が心配ですわ。三ヶ国語での日常会話が求められると聞きましたけれど、エルガー古語のhの発音がどうしても苦手なんですの。先生は馬の嘶きに似ている、とおっしゃっていたけれど、私にはよくわからなくて……」

「わかります。あの独特の発音は、慣れるまで大変ですわよね」


 クラウディアはどれほど嫌いな相手でも卒なく交流する。協調性があり、親切で、決して嫌悪を露わにしたりなんかしない。彼女の余裕の態度を、私はたいへん好んでいた。私の前ではそれを少しだけ崩してくれるところも。


「それで、ヴィーラとフォルトナー嬢は中間試問に向けて勉強するの?」

「ええ、そのつもりよ」

「だったら、一緒に勉強するのはどうかしら」フェアリッテはぱっと顔を輝かせ、両手を合わせた。「図書館で試問対策をしようって、ちょうどフィデリオとも話していたのよ。二人も図書館で勉強をする予定なら、一緒にしたほうがなにかと協力できると思わない?」


 クラウディアは「アウフムッシェル卿と?」と目を見開かせた。

 同じ必修科目でも、男児と女児では学問域が異なるものも存在する。たとえば、経営学なんかがそうだ。未来の当主たりえる令息の学ぶ経営学は、土地運用や政治などを扱い、未来の貴族夫人たりえる令嬢の学ぶ経営学は、使用人の人事や予算編成などの家内管理だ。共に勉強して実になることは互いに少ない。時間の無駄だ。


「ええ。フィデリオは史学を得意としているから、フォルトナー嬢にとっても有意義なものになるはずよ」

 しかし、肯定を絶対のものと信じているフェアリッテは、そう柔らかに返す。

 ていのいい断り文句も思いつかず、無下にすることのできなかった私とクラウディアは、「いいわね」「ぜひ」とそれぞれ答えるしかなかった。

 その日の放課後、約束どおり、私たちは図書館で勉強することになった。

 学校の敷地内にある図書館は、外装や内装のすべてを象牙色で統一した、趣のある空間だった。国中のあらゆる書物を集約したとあって、本棚の数は夥しく、背丈は高く、知識量は豊潤だった。三層のフロアが吹き抜けになっており、その二階にある長机、に四人で向かい合わせに腰かけた。

 それぞれ教科書や本棚から持ってきた書物を広げている。フェアリッテは語学、クラウディアは史学と、それぞれ難航していた。


「……だめ、やっぱり発音が難しいわ」

「舌を上顎につけて発声するんだ」フィデリオはフェアリッテに助言した。「それと、フォルトナー嬢。この政策は革命以前のものだ、時系列に合わない。以後のものをお探しなら、こちらの三章に載っている」

「ありがとう、アウフムッシェル卿。どの書物のどこになにが載っているのかまで記憶していらっしゃるのね」

「たまたまだよ」クラウディアとの会話を終え、フィデリオは私を見遣る。「……君はちっとも筆が進んでいないようだけど? 俺がさきほど渡した参考文献はとうに読み終えているのだろうね?」


 時間の無駄。

 辟易とした気持ちを表情に出ないよう努めるので精いっぱいだ。

 フェアリッテもクラウディアも諮問内容から外れた箇所を勉強しているし、フィデリオが渡してきた文献なんて、とうに覚えている。試問内容の範囲だからと、授業中、特に真面目に聞いたところだ。要所要所の確認だけでいいのに、まさか全部のページのおさらいと、綴りの練習をさせられるなんて。

 範囲外の勉強をして、フェアリッテが痛い目を見るのは大いに結構なのだが、私を巻き添えにはしないでほしい。

 しかも、フィデリオが私を非難したことで、周囲の空気がわずかに揺れた。近くの長机に座っている生徒が、ちらちらと私のほうを見ている。あれが噂の。やっぱり出来が悪いらしい。そんな囁き声が聞こえた。

 私が小さくため息をつくと、フィデリオは「集中しろ」と追い打ちをかける。その顔にインクを撒かなかったことをありがたく思ってほしいものだ。


「……おや、フィデリオにフェアリッテ。お前たちも勉強か?」


 すると、頭上からそんな声が降り注いだ。

 名前を呼ばれた二人が視線を遣る。フェアリッテは「あら、クシェルさま。ごきげんよう」と挨拶をした。

 クシェル・フォン・ブルーメンガルテン。

 私たちの上級生であり、ブルーメンガルテン王領伯の次期当主たる令息だ。

 一応、フェアリッテの遠い血族ではある。ブルーメンガルテンを嫡流とするなら、ブルーメンブラットはその傍流にあたり、いわゆる本家と分家の関係だ。

 王領伯ブルーメンガルテンは、王都にて国政をおこなう、謂わば国王の側近だ。しかし、国の南西部から諸国との境界までの領地をごっそり統治するブルーメンブラットと比べて、ブルーメンガルテンに大した領地はない。そのため、今日こんにちのブルーメンガルテンとブルーメンブラットは、ありし日の追従関係を克服した、対等な関係にある。

 双家のあいだには並々ならぬ緊張があったが、フェアリッテはクシェルを兄のように慕っていた。彼の襟元にある三輪薔薇の家紋を刺繍したのも、たしかフェアリッテだったはずだ。その薔薇のような赤髪と同じように、いまも高慢に映えている。


「ちょうど、中間試問の対策をしていましたの。フィデリオが教え上手で」

「ほう。やるじゃないか、フィデリオ。昔からお前は要領がよかったしな」

「そうでもない。フェアリッテはまだエルガー古語をマスターできていないし」

「そんなことを言わないで、貴方のせいではないんだもの。それに、さっきちょっとだけ要領は掴んだわ。こうでしょう?」


 フェアリッテはエルガー古語の国家を歌った。フィデリオは「……このように」と項垂うなだれ、クシェルは「なるほどな」と息をついた。二人の反応に「なによ。これでも上達したんですからね」とフェアリッテは肩を竦めた。


「舌の動作はそのままに、口の形を磨り潰すように平べったくしてみるといい。完璧なエルガー古語のhになる」


 フェアリッテはクシェルの言うとおりにした。見事成功したフェアリッテは「まあ、すごいわ! さすがクシェルさまね!」と破願した。クシェルはどこか威張るように背筋を正す。ネクタイについた、監督生の証である白銀シルバーのバッジがきらりと光った。

 フェアリッテの賛辞に気をよくしたクシェルは、史学を勉強していたクラウディアを見つけると、またまたいらぬお節介を焼いた。


「入学して間もない時期の試験には、応用問題はほとんど出ない。その多くが基礎的な知識量を測る問題だ。時事問題については過去二十年分はさらっておいたほうがいいだろう」


 馬鹿げてる。記憶では、今回の中間試問での時事問題は、十数年前の恐慌について出題された。それさえマークしていればいいというのに、過去二十年分の復習をしろだなんて。外行きの顔で「なるほど」と相槌を打つクラウディアに、いま聞いたことは記憶の彼方へ追いやってかまわないから、と伝えたい。

 これほど下級生に介入してくるクシェルだったが、彼は一貫して、私に話しかけてくることはない。私をないものとして扱うのが彼の流儀だった。

 実に高慢でいけ好かない男である。突っかかってこられても面倒だが、このように黙殺されても面倒だ。ブルーメンガルテンの次期当主であり、一介の上級生でもある彼の態度は、周囲を安堵させる。私にとっては、都合の悪い方向に。


「ブルーメンガルテン卿が見向きもしないな」「あの子、ブルーメンガルテンにとっても鼻つまみ者なのね」「そりゃあそうでしょうよ」「そもそも、私生児がこの学校に通えることすらおかしいんだ」「聞いた? 《持たざる者》だって」「そりゃあ不義の娘ですもの、運命ファタリテートだってなにもお与えにならないに決まっているわ」


 漏れてくる、囁き。囁き。囁き。

 彼らや彼女らも、私に聞こえるように言っているに違いない。

 そうやって貶めて、屈辱に震える私を待ちかまえているのだ。

 かつての私は、それに真っ向から反論して、怒鳴り散らして、さらに白い目を向けられた。そんな真似、するだけ無駄なのに。

 それに、彼らは囁くだけで、それ以上はしてこない。そのほうがよいのだ。来たる日に私の邪魔をしないのであれば、この屈辱だって耐えてやろう。

 本に集中するふりをして、私は素知らぬ態度を貫いた。しかし、フェアリッテも囁きを聞きつけたのか、顔色を変え、周囲に目をみはる。クラウディアもどこか苦い表情をしていた。

 またどこかと席でくすくすと声が上がるのに、いい加減にうんざりしていたとき、フィデリオが「ねえ」と、笑い声の上がったほうへと話しかけた。

 声をかけられたのは同じクラスの令嬢たちだった。彼女たちは、数瞬、私を揶揄したことを責められるのだろうか、という不安で肩を震わせたけれど、続く「図書館では静かにしてくれないか」というフィデリオの言葉に、ほっとした表情で「そうですね、すみません」と軽やかに返事をした。


「せっかく勉強をしているのに、こうもうるさくては敵わないからね。他の生徒たちもいるんだし、あまりおしゃべりをしないでもらえると助かるよ」フィデリオは肩を竦めた。「巷では、俺を謗る噂も多くて困っているんだ」

「えっ?」

「アウフムッシェル卿を?」

「そうなんだ。君たちも聞いたことはあるかな? 《持たざる者》なのは不義の子だからだとかという不名誉な噂を」

「まあ、それは貴方ではなくて、」


 とそこまで言いかけて、彼女は息を呑む。

 彼女だけでなく、周囲もまた押し黙ったのは、皆が気づいたからだろう。

——フィデリオ・アウフムッシェルもまた、《持たざる者》であったことを。

 そもそも、《持たざる者》は、噂されるほど稀有な存在ではない。国の二割の人間がそうであり、毎年の新入生にも何人かはいるという。それが今年は、私であり、フィデリオだっただけの話のはずだ。

 フィデリオは重々しく息をつき、彼女たちを見据えた。


「無礼極まりない。そんな馬鹿げたことをまことしやかに囁く者たちは、よほど俺やアウフムッシェルを陥れたいと見える」


 学生とはいえ、貴族の令息と令嬢だ。

 家同士の抗争にまで繋げることはしたくない。

 フィデリオと相対していた令嬢も「まさか! そんなつもりは……」と顔を蒼褪めさせる。そんな彼女たちに、フィデリオはきっぱりと告げた。


「そんなつもりでもないのなら、二度とこんな世迷言を口にしないよう、気をつけていただきたいものだね。アウフムッシェルを陥れるということは、ブルーメンブラットを陥れるということにも繋がる」すっと目を細めて。「配慮に欠けた心ない言葉で、誰の名に傷がつくのかわかったものではないから」


 フィデリオに、場の空気は凍てついた。

 もう誰の笑い声も囁きも、この図書館に響くことはなかった。

 派閥争いをいかに避けて通るかが、社交界の紳士淑女には求められる。先のフィデリオの言葉により、海産の要たる西海岸地方を統治するアウフムッシェルと、辺境の守りたるブルーメンブラットを敵に回す可能性を垣間見てしまったのだ。

 何事もなかったふりをして、彼や彼女らは口を閉ざしていく。

 ややあって、フィデリオも手元にあった書物へと視線を移した。緊張の糸が解けたようにため息をつき、強く目を瞑る。


「……すまない、フェアリッテ。ブルーメンブラットの名を後ろ盾に使ってしまった」

「いいのよ。貴方がしなければ、私がしていたわ」

「あのように白昼堂々と噂立てる者は捨ておけ。品のない連中の相手など、するだけ無駄だ」クシェルは令嬢たちを静かに眺めたのち、フェアリッテを見下ろした。「万が一にでも、ブルーメンブラットの名が廃れば、当家ブルーメンガルテンの名を汚すことにもなる。付け入る隙を与えるなよ。もっとも、」クシェルの目がほんの一瞬、私を見遣った。「こいつがいてはどうしようもないが」


 ああ、やはり我慢ならない。

 私という存在を恥や醜聞として弄ぶ彼や彼女らも、私への侮辱を貴族同士の諍いとして処理されることも、どれだけこらえてもこらえきれない。湧きたつ憤怒に血管がはちきれそうになる。

 ここまで馬鹿にされて、なにもやり返せない私ではない。

 なにもやり返さない私ではない。

 もう私を見下ろすことなんてできない頭上から、付け入る隙すら与えず、完璧どころか完膚なきまでに、今度は私があなたたちを見下ろしてあげましょう。






 中間試問は口頭試験——そう一口に言っても、その様相は対話形式ではなく、会話形式だ。

 全科目の教師が集い、完全なランダムで質問をする。基本的には一問一答で、一人が答えれば次の質問は別の誰かへと移ろうが、そのために、試問のあいだ、生徒は誰一人として緊張を緩めることができない。次の質問が自分自身である可能性を考えつづけなければならない。

 また、特徴として、回答しても、その場で正否を告げられない、ということがある。教師は数珠つなぎに質問していき、その内容や科目は多岐に渡る。しかし、答えても「よろしい」や「誤りだ」などという声かけをされることはない。ただ、「なるほど」「どうしてそのように思う?」など、試すような言葉を返されるのだ。その教師の態度に屈し、過去には「すみません、やはりこうでした」と回答を変える者もいる。先の回答が正答であるにもかかわらず、だ。

 中間試問において、教師が測るのは、偏りのない知識量と毅然とした態度だ。特に後者は、貴族に必要な技量として、じゅうぶんな評価基準となる。わざわざ会話形式を取っている理由はそこにある。口頭試験たる中間試問なのだ。


「——では、次に、フォルトナー嬢。先の恐慌と併発したのはなんだと思う?」

「飢饉です」

「なるほど。もう少し詳しく説明することはできるかね?」

「主にリーベ北部に起こったものでしたが、北部の事業に出資していた多くの貴族も打撃を受け、その領土の穀倉も底を尽きました」

「危機に瀕したのは穀倉だけだろうか? トラウト卿」

「一部の領土では、同時期に流行った疫病が、川を伝って、」

「川を?」

「いえ……井戸水、が……」


 クラウディアの次に答えたトラウトは何点引かれたのだろう。それを考える間もなく、今度は語学教師がトラウトへと話しかける。しかし、エルガー古語で尋ねられたその質問を、動揺していたトラウトは聞き取れなかったようだ。小さく「すみません、もう一度お願いできますか?」と返したのを聞き、教師は「ブルーメンブラット嬢、さきほどの私の質問を、トラウト卿へ」とフェアリッテに告げる。

 フェアリッテはhの発音を克服した流暢なエルガー古語を発する。教師は「どうですか? トラウト卿」ともう一度トラウトへと問いかけた。

 このように、あらゆる角度、あらゆる学問からの質疑応答が飛び交う。史学と思いきや語学、その次には計算、また史学と、気を抜けばすぐについてゆけなくなる。


「そういえばアーノルド・フォン・ギュンター卿は、百五十年ほど前に『夢さながらの現実』を書いた有名な脚本家をご存知ですか?」

「もちろんです。アルトゥール・シュレーゲルミルヒですね」

「おや、そんな名前でしたか」

「ええ、先生」

「では、リンケ嬢、彼が晩年に書いた詩を聞いたことは?」

「“運命に心はない 牛の乳と同じ 飲み干すしかない”」

「牛乳と言えば、マイヤー家は大牧場を抱えていましたね。ちなみに、国内での牛乳生産量の一位を誇るのはどこか、コースフェルト嬢はお答えできますか?」

「……マイヤー領ですか?」

「おや、質問はこちらがしているのですよ、コースフェルト嬢。牛乳の生産量一位は、マイヤー領ですか?」返事がなかったので、教師は回答者を変えた。「……どうですか? アウフムッシェル卿」

「マイヤー統括領ですが、加工乳を加えればアインホルン領が勝ります」


 フィデリオの満点の見本のような回答に、コースフェルトは唇を噛んでいた。

 そろそろ私の番だろうと、そのときを指折り数えていた。


けやきが木材として適していないのは何故かな? アーノルド・ギュンター卿」

「割れや狂いが出やすく、加工しにくいからです。先生」

「では、加工しやすく優美な香りを持ち、一般的な木材として有用なのは? アウフムッシェル嬢」

「杉です」


 私の回答に、ギュンターは噛みしめるような笑みを漏らした。

 教師も「杉かい?」と反復する。親切なことに。

 知っている。私の回答は誤りだ。杉はたしかに加工しやすく、割裂性に富んでいるものの、独特の芳香は好き嫌いが分かれる。先の問題での適切な回答は、美しい木肌と優美な香りを持つひのきだ。双方は似ているためによく間違えられる。教師もそれを見越しての出題だったに違いない。しかし、これでよい。


「ええ。杉ですわ、先生」私は臆することなく告げる。「ひのきは高価であるため、木材として利用するにしても、杉のほうが適切です。また、アウフムッシェルでは杉が多く自生するため、より安価に提供でき、有用に扱える木材となります」


 俄然、空気が変わった。

 私の返答に、教師は「ほう」と興味深そうに笑む。

 その様子を見て、ギュンターや他の生徒の視線がざわざわと揺れる。

 けれど、私は姿勢を崩さない。

 これがもし筆記試験であったなら、私の振る舞いは減点に値する者だったに違いない。けれど、これは口頭試問だ。会話を以て、生徒は教師へと己の回答を伝えることができる。教師はそれを無下にすることはない。地理学教師が質問を続けた。


「そういえば、アウフムッシェル領は杉の名地でもあったね」

「西海岸付近の土地は銘木に恵まれませんでしたが、そのぶん、潮風に強い植物が生き残りました。塩害や土砂災害にも強いため、領民からも愛されています。先生は、先の恐慌と同時期にアウフムッシェルを襲った塩害をご存知ですか?」

「もちろんだとも。それにより、アウフムッシェル領の農作物の収穫が激減したと聞く。君の生まれて間もないころの話だろうが、詳しく説明はできるかな?」

「もちろんです、先生。そもそもアウフムッシェル領の風土は農作に適しておらず、また、杉の樹冠に日光が遮られるため、その林床に生存する植物はほとんどありません。野草で飢えを凌ぐこともできなかったのです」

「杉を愛したがゆえに、杉に裏切られた出来事だったね」

「いえ、私はこれを、杉を理解しなかったからこその出来事だと考えています」

「と言うと?」

「塩害の予防策として、海岸沿いには杉が植えられていました。しかし、中には挿し木のものもありました。たしかに挿し木ですと優良な品質を受け継ぐことができますが、倒れやすくなっていまいます。結果、杉が倒れ、潮風を農地に通してしまいました。それを予測できなかった、当時植林した統治者の責と思われます……私なら、予防策として、蘇鉄そてつの植林を取り入れます」


 教師たちはただ注意深く私を見るばかりだった。けれど、生徒の大半が互いに顔を見合わせるほど動揺しているのを、私は全感覚から感じ取っていた。近くにいるギュンターなどは息さえ呑んでいた。おののくような表情で私を見つめている。

 それもそのはず、私の回答は、中間試問レベルを逸脱したものだった。

 第一学年の試験、それも中間試問で求められるレベルは、あくまで基礎知識の習得である。どれだけ正確に知識を蓄えているのかを測定するためのもので、その知識を用いての応用——実務的な経営理論の構築は、第二学年以降の修学分野にあたる。

 しかし、私が語ったのはではなくだ。

 これまでの試問がお遊びかのような実務的な経営理論、それも、開発計画や土地運用といった、貴族当主の執りおこなう政策の発案。


「ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、蘇鉄そてつとは、海の向こう、東国の固有種です。生育は遅いですが、非常に強健で、潮風にも強い樹木です。また、救荒食物としての役割も果たすことができるため、もし当時に成木があれば、あのような事態は未然に防ぐことができたと思います」


 そもそも、“自領で起こりうる最悪の想定とその対応策”は、学年末試験の課題だった。第二学年次の修学に先駆け、令息は領地をまとめる政策を、令嬢は邸の予算管理を、羊皮紙一巻き分の文構成で論述しなければならなかった。やり遂げることこそできなかったものの、時を遡る前、すでに私も取り組んでいる。

 ただし、それはあくまでも一年間の必修教養および基礎知識の習得を経ての総括的な模擬経営課題であり、まだ入学して一ヶ月かそこらの私たちには文字どおりの無理難題である。

 そんな課題を、私はこの中間試問にて回答していた。

 経営学教師は「なるほど」と頷いたのち、再び試すように、私へと問いかける。


「……しかし、現実、君の言うような蘇鉄そてつの植林はおこなわれなかった。この場合、君はどうするべきだったと思う?」

「それこそ杉の出番でしょう。焼き杉の風除けを作り、それ自体を事業化します。農作物を塩害から守り、製作のための雇用も生まれます。資本は、アウフムッシェル邸の管理費の一部から捻出できると考えています。この場で、予算編成を組み立てもおこないましょうか?」私は笑みを浮かべる。「二桁以上の計算となりますので、試問回答として、数学教師のオーマン先生にもご清聴いただけるとありがたいのですが」


 感服の息をついたのは誰だったか、そのか細い音を最後に、室内からありとあらゆる音が消えた。それから幾許いくばくかの間を置いて、静寂は打ち破られる。教師陣の拍手だった。特に経営学教師は「素晴らしい!」と私を賛辞した。

 中間試問中に教師が生徒を採点または評価することはない。

 私の回答はそれだけ特異でずば抜けていたのだと、誰もが理解した。

——クラウディア、上手くやるって、こういうことでしょう?

 彼女のほうへ視線を遣れば、少しだけ口角が吊りあがっているのが見えた。


「実に興味深いお話でした。修学期間の浅い第一学年で、ここまで密度の高い政策を発案するとは……来年が楽しみでなりません」しかし、と経営学教師は苦笑を交える。「中間試問はあくまで基礎知識量を問うものですから、アウフムッシェル嬢の回答を正式に評価することはできません。つまり、採点不能ヌル。私個人としては、たいへん遺憾ではありますが」


 そうでしょうとも。

 問われている以上のことを答えてしまったのだから。

 私とてこの回答で正当に点数をつけてもらおうなどとは思っていない。

 けれど、私は無知を装い、「まあ、そうなんですね!」と頬に手を添えた。


「すみません。このような試験ははじめてで、どのようにお答えするのが正しいのかわからず……見当違いな回答をしてしまったようですね」私はギュンターを一瞥してから言葉を続ける。「どおりでアーノルド卿が呆れるわけですわ。なにも知らずに、申し訳ありませんでした。生憎と、教養がないもので」


 そう言いきった私から、きまりが悪そうに目を逸らす者が数名。ギュンターに、馬術の時間に私を見下したルームメイト、図書館で嗤った彼女たち。滑稽だ、このまま逃がすとでも思っているのだろうか。あれだけ馬鹿にされて、なにもやり返さない私ではないのに。付け入る隙すら与えずに、完膚なきまでの頭上から、私は、私を馬鹿にした者を見下ろすのだった。


「みなさんが親切で本当にありがたいと思っていますのよ。今後とも、私の知らぬことがあればぜひお教えください」


 私に教えられるものならね——

 さて。意趣返しは果たした。清々した気分で顔を上げた私は、教師に「一番はじめの質問をもう一度お聞かせ願えますか? 今度は正しく回答いたしますので」と告げる。教師もにこやかに頷き、当初の問題を私に尋ねた。


「アウフムッシェル嬢。加工のしやすさと芳香を特徴とする一般的な木材とは?」

ひのきです」


 それ以後、私を噂する声は学校から消えた。

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