第3話 デビュタントは踊る、されど

 妾の娘というだけで、どこへ行っても嘲蔑ちょうべつの視線が剥がれることはなかった。

 不義の子である私にアウフムッシェルの人間は冷たく、私がなにかをしでかせば、機をとらえたように仕置き部屋と呼ばれる牢へと閉じこめた。隙間風に震える私を、出来のいいフィデリオや、本妻の娘であるフェアリッテと比較し、罵った。使用人ですら私を侮る者もいた。心ない陰口を耳にするたびに、どうして私がこんな目に遭うのかと呪った。 

 入学することで、そんな生活からもやっと抜けだせると思ったのに、待っていたのは潔癖で残忍な貴族の社交場コミュニティ。アウフムッシェル邸での仕打ちなんて生温いと思えるほど、貴族の令息令嬢からの嫌がらせは陰湿で無情だった。

 フェアリッテに媚び諂うように、私を貶めて、嘲笑う。

 いくら怒りに震えようと、屈辱に打ちひしがれようと、思い嘆こうとすべてが空虚。私の感情だけが無闇に消耗されてゆく。

 人生に一度のデビュタント。

 華々しいドレスを着て、はじめて社交界に参加する日。

 手持ちの衣装に乏しい私でも、そのときばかりは美しく着飾ることを許された。私の瞳と同じ色のドレスを身に纏い、きらきらとした化粧を施し、亜麻色の髪を流麗に結わえて、いよいよ足を踏み入れた舞踏館は夢のように絢爛豪華で。

 けれど、さめるのは一瞬だった。

 頭からシャンパンを浴びた私は、ずぶ濡れになって立ちつくしていた。


「お可哀想に。せっかくのドレスが台無しじゃない」

「まるで濡れ鼠だわ」

「なんてみすぼらしいんでしょう」

「どなたか毛布でくるんで会場から連れだしてさしあげて。こんなありさまで踊りつづけるなんて、きっと恥ずかしくてできないでしょうから」


 嘲笑う声。哀れむ目。無関心な横顔。こんなにも身を焦がしている私の感情だけがひどく滑稽だった。

 フェアリッテの「プリマヴィーラ!」と気にかけるような声が、近づく足音が、さらに私をみじめにする。

 私に差しだそうとするフェアリッテの手を振り払い、その切なげな眼差しを睨みつける。


「あんたのせいよ」


 全部全部この女のせいだ。この女がいるから、私がこんな目に遭う。こんな思いをさせられる。私の怒りや屈辱はすべてこの女のせいだ。

 フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット。

 世界で一番憎い女。

 結局、私は自ら踵を返した。彼女たちの言うとおり、こんなありさまで踊りつづけるなんてできなかった。冷たい夜風に吐く息が混じり、踏みだすたびにシャンパンが涙袋から顎へと伝い落ちてゆく。

 あの日の月光ほど、薄情な色はなかった。






 嫌な過去を思い出して朝を迎える。

 眉間に皺を寄せたまま、私は身を起こし、ベッドから降りた。

 ルームメイトはとうに起きていたらしく、化粧台や洗面台などの鏡の前で、身支度を整えていた。

 備えつけの洗面室へと顔を洗いに行けば、麗しい黒髪ブルネットを櫛で梳かすクラウディアを見つける。夜着のままの私とは対照的に、彼女はすでに制服を着こんでいた。涼しげな声で「おはよう」と告げられ、私も「おはよう」と返した。


「ひどい顔ね。大丈夫?」

「最悪な夢を見たのよ」じゃばじゃばと顔を洗い、タオルで拭きしめた。「そういう貴女は上機嫌ね。珍しく鼻唄なんか歌っちゃって」

「実家からドレスが届いたのよ」

「あてましょうか? きっと曇り空のような薄青色にレースを重ねたドレスよ」

「……まさか届いた荷物を漁ったの?」

「箱を開くとき、リボンは緩んでいた? 見事なトリプルリボンのままでいたなら貴女の荷物は無事よ。私、シングルリボンでしか結べないもの」


 クラウディアのドレスは前の記憶で知っていただけ。疑り深い彼女は私を見つめていたが、私が素知らぬ態度で洗面室を出ると、すぐにどうでもよくなったのか、身支度へと戻った。

 クラウディア以外のルームメイト、パトリツィア・リンケとカトリナ・コースフェルトも、それぞれ自身のベッド際にある化粧台に腰かけている。鏡越しに私を見つけると「おはよう」と静かに微笑んだ。

 一時は私を見下していた二人も、先の中間試問を経て——その心中までは如何様いかようかは知れないものの——いまでは私を対等と見なして接している。厚意にかこつけた忠告も、恩着せがましい言い様もなくなった。そのぶん、関わる機会も以前よりは減ったけれど、互いに気を遣うことも減ったのだから、よい変化だ。

 リンケは化粧台にあった香水を振った。薄く開けた窓から吹く風に煽られ、その馨しさが鼻腔をくすぐる。コースフェルトは「あら、素敵な香り」とリンケを見た。


「フランキンセンスよ。ネロリを少し」

「珍しいわね。パトリツィアが香水なんて」

「持ってきていたのを思い出したの。貴女もいかが?」

「ぜひ。私のものはベルガモットのシングルノートだから、すごく新鮮だわ」

「アウフムッシェル嬢とフォルトナー嬢もいかがかしら?」

「嬉しいのですが、生憎と準備を終えていませんので。あとで時間があればぜひ」


 私がやんわりと断ると、洗面室から「また今度。自分のものをもう振ってしまいましたの」というクラウディアの遠い声も響く。リンケは深追いをせずに、コースフェルトへと香水瓶を渡した。白んだ朝日にきらりと硝子が光沢する。

 ルームメイトがこれほど浮き立っているのは理由があった。

 あと幾夜かを越せばデビュタントなのだ。

 リーベの令嬢は、入学を終えてすぐの冬にデビュタントを迎える。本来のデビュタントは、令嬢が結婚相手を探すために社交界へとお披露目する意味合いを持っていたようだが、時代は流れ、令嬢も令息と同じように学校へ通うようになったことから、現在では一人前の淑女になるための成人の儀という意味合いが強い。

 事実、人脈を広げるため先に社交界に参加している令息と比べれば、令嬢はいまだに半人前という認識だ。家族やパートナーの同伴がなければ夜会などの集まりには参加できず、血縁以外の邸宅に遊びに行くこともできない。この日の儀を以てはじめて、一人前の淑女になれる。

 私たちの学校は王都から少し離れていることから、成人の儀の舞踏会デビュタントボールも王宮ではなく、校舎内にある舞踏館にて催されるならわしだった。

 特に今年はリーベの第一王子が入学したとあり、彼が誰をエスコートするかが話題となっている。人生に一度の日なのだから誰もが夢見ずにはいられない。時を遡る前は、私もその日を指折り数えたものだ。

 けれど、いまでは悪夢として見る。

 思い出したくもない、屈辱に伏したあの日。

 あとから聞いた話によると、事の発端は、ジビラ・ラインハルトとマルゴット・ファザーンの二人。それぞれラインハルト伯爵家とファザーン子爵家の令嬢である彼女たちは、品行方正なフェアリッテに心酔しており、また、不義の娘である私を卑しみ、忌み嫌っていた。

 《漂動の祝福》を受けていたジビラ・ラインハルトが、その力を用いて、私の隣にあったシャンパンタワーを倒し、ぶちまけたのだ。

 大勢の前で水浸しにされた私は、ただその場を去るしかなかった。思い出すだに腹が煮える。

 身支度を終えて、部屋から出ると、同じタイミングで部屋を出たであろう、別の部屋の女子生徒たちと鉢合わせた。

 偶然その中にジビラ・ラインハルトを見つけて、私は目を見開かせる。

 皆一様に「ごきげんよう」と挨拶を交わす。しかし、ラインハルトが頑なに私へと視線を向けようとしないことに気がついた。


「今日はいい天気ですね」


 私はラインハルトに向けて言葉を重ねたけれど、彼女はそれを無視して去っていった。

 その後ろ姿を眺めながら思考する。

 中間試問に続き、先日おこなわれた学期末試験において、私の成績は上位十位に食いこんでいる。前の記憶から試験範囲を知っていた私からすれば当然の結果だったけれど、中間試問の件と学期末試験の結果を経て、校内での私を見る目は模範的な令嬢と呼べるものに変わり、それに伴って態度まで改められた。たとえばリンケやコースフェルトのように。

 けれど、いまは鳴りを潜めているだけで、私に反発したい者はいるはずだ。

 前の記憶があるからこそわかるが、潔癖で残忍な貴族の社交場コミュニティは、容易くはない。どれだけ上に立とうと、それをよく思わない者は絶対にいる。むしろ、上に立てば立つほど、その足を引っ張ろうと下の者は躍起になるのだ。対象が噂の私生児侮りやすい相手であればなおさら。

 思い出すのは、つむじから被ったシャンパンの匂い、したたり落ちていく屈辱の味。

 あんなみじめな思いになんて二度となってやるものか。

 私はラインハルトの後ろ姿をじろりと睨みつけ、踵を返した。






 この時期になると、どこへ行ってもデビュタントの話題ばかり。

 それはフェアリッテとて同じだった。


「ねえ、ヴィーラはデビュタントで誰にエスコートをしてもらうの?」


 フェアリッテはうきうきとした表情で私に尋ねてきた。

 昼休み、私とフェアリッテは中庭にある小さなガゼボの中でお茶をしていた。草木の緑と花々の彩色に飾られた空間のなかで、紅茶の匂いがひときわ鮮烈だ。

 フェアリッテの好みは紅茶だけれど、実のところ、私は珈琲コーヒーのほうが好きだ。甘かったり酸っぱかったりする味を楽しむふりをして、にこにこと彼女と対面している。


「エスコートなら、私はフィデリオに頼んでいるわ。入学したばかりで他によく知る相手もいないし、彼とは邸でもお互いにダンスの練習相手をしていたから」


 頼んだというより、なし崩しだ。

 フィデリオは「君をパートナーに選ぶやつなんていないだろうから」と不遜に名乗りでてきたし、私も私でどうせもフィデリオにエスコートしてもらうだろうなと踏んでいたから二つ返事で了承したのだ。


「慣れた相手だと踊りやすいものね。貴女とフィデリオの身長差ならベストパートナーだと思うわ。よかったじゃない。ルームメイトのイドナがね、フィデリオのことを素敵だって言っていたの。彼って、他の女の子たちに人気があるみたい」

「そうなの? 私はずっと一緒に住んでいたから、よくわからないわ」

「私も。従兄弟がもてはやされてるのって変な感じ。たしかにフィデリオの瞳は蜂蜜のように甘くて優しいけれど」


 そう言いながら、フェアリッテはくすくすと笑った。


「それで? そういうリッテは誰にエスコートをされるの?」


 私はテーブルに肘をついて尋ねた。

 聞かずとも、フェアリッテの相手はとうに知っている。

 今もなお噂される時のひとだ。

 フェアリッテは少し躊躇いがちに、けれど浮ついた気分を隠しもしない顔で、「あっ、あのね、」と口を開いた。


「実は……ベルトラント殿下にエスコートしていただけることになったのよ」


 やはり今回もそうなのか、と私は目を細める。

 フェアリッテは頬に手を添えて、照れくさそうに言葉を続けた。


「たまたまね、殿下が雨に濡れていらしてね、ハンカチを差しあげたの。それは私が刺繍を施したものだったんだけれど、殿下が気に入ってくださって……何度か話すうちに、もしよかったらって……」


 こうなることはあらかじめ予測していた。たしかも、クシェルと知己だった殿下が、彼の襟元にある刺繍を見て、「それはどなたが?」と興味を持ったのだ。そして、偶然フェアリッテのハンカチを見て、それこそ糸が繋がるように、二人は出会った。

 このデビュタントがきっかけで、二人の仲は深まることとなる。

 邪魔をしてやるつもりが、すっかり出遅れてしまった。近頃は試験などの対策で手いっぱいだったから。

 あんたは恋にうつつを抜かせていいご身分ね、とは思うのだけれど、フェアリッテは実際にいい身分だし、うつつを抜かしていたどころか、彼女は学期末試験で学年七位の成績を誇っている。私よりも成績がいい。実に憎らしい。

 まあいいわ。邪魔なんていつでもできるもの。

 私は手を重ねて「まあ、素敵ね!」と笑みを浮かべた。


「デビュタントを殿下と踊れるだなんて光栄じゃない。幼いころから社交界にいらっしゃる殿下は、これまでにたくさんの女性をエスコートしてきたはずよ……リッテのことも素晴らしくリードしてくださるに違いないわ」


 リーベの令息は令嬢よりも先に社交界デビューをしているが、それは王子とて同じことである。王位継承者として、あるいは人脈を広げる機会として、社交界へと進出しているのだ。

 つまり、第一王子であるベルトラント殿下も、フェアリッテをエスコートするより前に、社交界で多くの女性をエスコートしてきたはずだ。

 だから、貴女が選ばれたのはなんら特別なことではないのよと、暗にそう伝えると、フェアリッテは「それは、そうよね」と顔色を落とした。逆上のぼせあがりそうだったさきほどまでの勢いが緩まる。

 欲したとおりの反応が得られて、私の機嫌は静かに浮上した。


「ふふふ、リッテもダンスの練習をしておかないとね」

「うん、そうね」フェアリッテは気を紛らわせるように、別の話題を探した。「そういえばね、やっと実家からドレスと靴が届いたのよ」

「あてましょうか? 白薔薇のパニエを仕込んだ真珠色のドレスよ。裾には、そうね、金糸で薔薇の刺繍でもしてあるんじゃないかしら。靴には月長石のビジュー」

「あたり! すごいわ、どうしてわかったの?」

「貴女に似合うものを想像したらそれだったの。たまたまよ」

「本当? 似合うかしら?」

「似合う似合う」


 適当に返したのにフェアリッテは嬉しそうに「もう」と呟いた。


「ヴィーラはどんなドレスなのかしら……待って、私も当てたいわ!」

「当てられるかしら。五秒以内よ」

「え、待って、そんなの無理よ……ああっ、言わないで」

「正解は、私の瞳と同じ緑のオフショルダードレスよ。サイドにドレープが入っていて、裾には金刺繍とヘリオドールのビジュー」


 私がそう告げると、フェアリッテは「まあ、緑ですって」と目を見開かせた。

 感嘆ではない。純粋な驚愕だろう。

 この学校でのデビュタントでは、淡い色のドレスしか着てはいけないというしきたりがあるからだ。

 そもそもの学校の校章が、白を基調とするためである。それに見合った純白あるいは薄色のドレスが推奨されている。逆に、濃い色のドレスはよしとされない——私の言った、緑のような。パートナーとして、私のドレスの色を知るフィデリオにも、「絶対に着てはいけない」とこやかましく説教をされるほどだった。

 だからこそ、フェアリッテも見るからに動揺していた。


「とても素敵だと思うわ、ヴィーラ。貴女の瞳の色だし、よく似合うと思う。だけど、誰もそんな色のドレスなんて着てこないはずよ。とても……目立つと思うわ」


 角が立たないような言葉を選んでいるようだったが、私を批判しているのは明白だった。

 淡いカラーのドレスの群れの中、痛烈に目を惹くこの色を、模範生のフェアリッテが許すはずがない。

 けれど、彼女を丸めこめる自信もあった。


「でもね、これは私の手持ちのドレスの中でも、一番のお気に入りなの」私は言葉を続ける。「それに、せっかくのデビュタントなのよ? 人生にたった一回しかない特別な日。そんな日なのだから、自分の一番似合う色で、自分の一番好きなドレスで、成人の儀の舞踏会デビュタントボールを踊りたいと思うじゃない?」


 他人の感情に振り回されやすいフェアリッテには、同情を引くくらいがちょうどいい。性格上、こう言えば強くは出られないことなど目に見えている。

 そもそも、規則ならともかく、あくまで慣例なのだから、それを破ろうと大したことにはならないのだ。

 それに、手持ちのドレスの中で一番のお気に入りというのは本当だった。純白のドレスも持ってはいるけれど、デビュタントにはふさわしくないような、地味でみすぼらしいものだ。あれを身に纏うだなんて絶対に御免被る。

 フェアリッテは薄く口を開いたまま、おもむろ俯いた。どう説き伏せても無駄だと察したのだろう。きっと次に口を開けたときには、それはそうよねと曖昧に笑っているに違いない。

 ややあって、フェアリッテが口を開く。


「……そうよね」


 と、か細く声を漏らした。

 予想どおり。だけれど。


「私もね、本当は、好きなドレスを着ていきたいなって思っていたの! せっかくのデビュタントですもの。そんな日にいっとう素晴らしいドレスを着ることができたら、どんなに素敵でしょう……貴女のおかげで勇気が出たわ、私もみんなが着ないようなドレスで踊ろうかしら!」


 続いた言葉は歌うようになめらかで、私は瞠目した。

 ぱっと顔を上げたフェアリッテは、淡褐色ヘーゼルの瞳をきらめかせている。やや紅潮した頬がふっくらと笑みを形作る。

 純粋な肯定と共感。

 思っていた反応とは違うものが返ってきてしまって、私は呆気に取られた。

 そんな私に気づかずに、フェアリッテはテーブルについた両肘に細い顎を置き、私の顔を覗きこみながら、嬉しそうに目を細めた。


「私たちって気が合うわね、ヴィーラ」


 そんなことを、暢気に言う。

 いまの自分の顔が引き攣っていないかが心配だった。だって、フェアリッテの言葉があまりにもまぬけなだったから。

 とんだ勘違いだといますぐにでも反論してやりたくなる。なんなら、思いあがった無様な頬を思いっきり抓って、その髪を乱して、白い耳元に怒鳴り散らしてやりたい。

 しかし、そんな衝動を押し殺し、私は「そうね」と笑んで見せた。

 いまそんなことをするべきない。来たる日のために我慢しなければ。せっかく、この身に纏わりついた醜聞を払拭しかかっているというのだ。これまでの努力をこんなところで水の泡にするわけにはいかない。

 そのとき、フェアリッテがため息をつく。


「だけど、どうしようかしら。私の用意してあるドレスは真珠色のドレス一着だけなの。家から送ってもらおうにも時間がかかるだろうし、学外へ買いにいくにも、このあたりのブティックを知らないから……」


 フェアリッテは本当にドレスを変えようとしているようだった。その髪に似合う金刺繍の艶やかなドレスを剥いで、周囲の反感を買いかねない華やかなドレスを選ぼうとしている。

 そこで、私は閃いてしまった。

 とびっきりのアイディアを。


「……だったら、こういうのはどう?」


 私にとって最高のデビュタントにするためのアイディアを。






 デビュタント当日。

 髪は丹念に櫛で梳き、一本の乱れもなくアップにする。編みこんで編みこんで、結わえて押さえて、残った髪をサイドに垂らし、仕上げにつむじから金粉を振る。そうすると、光を浴びて、私の亜麻色は透きとおるような金髪ブロンドへと化けた。

 オイルを塗って水光する肌は、まばゆく、馨しい。化粧はドレスに見劣りしない程度に薄く施したが、瞼に乗せたのは存在感のあるスモーキーな色合いのものだ。唇にも艶やかな紅を差せば、完成。

 身支度を終えた令嬢たちは、校内にある舞踏館へ行く前に、寮舎の外でパートナーの令息と待ち合わせる。

 エスコートのために寮舎の前まで迎えに来ていた燕尾服の令息たちは、己のパートナーを見つけ、優雅に手を取りに行く。

 一緒にヘアメイクをしたフェアリッテと、私は並んでいる。彼女がぱっと顔を華やがせて「素敵よ、ヴィーラ」と囁いてくれるので、私は「ありがとう」と返す。

 そんな私の手首を、誰かが強く握った。


「その格好はどういうこと?」


 振り返った私は、手首を掴む彼に答える。


「フィデリオ。ひどいエスコートね」

「どう? 素敵でしょう?」かたわらのフェアリッテは暢気に微笑んでいる。「ヴィーラの提案でね、私たち、お揃いのアレンジをすることにしたのよ。どうかしら?」

「とてもよく似合っているよ。もちろん君もだ、ヴィーラ。ただし、」フィデリオは蜂蜜色の瞳で私を睨みあげる。「そのドレスを着てくるなと言ったはずだけど?」


 フィデリオは私の緑色のドレスにたいそうお怒りのようだった。

 他の令嬢に人気らしいその甘い眼差しを凄めている。

 その隣で朗らかにしているのがフェアリッテだ。私を庇うように、あるいはフィデリオをなだめるように、「そんなにだめなことじゃないと思うわよ。それに、ほら、とっても似合っているじゃない」と縋りついている。彼女のドレスの裾にある金色の薔薇の刺繍が、頼りなさげに揺れた。


「リッテもこう言っているわ」私はフィデリオの手首を払った。「貴方がするべきなのはパートナーを責めることではなく、誉めそやすことよ。それがあるべき紳士の姿なのではなくて?」

「女神のように美しいわ、ヴィーラ」

「ありがとう、リッテ。貴女こそ、妖精のように可憐よ」

「愚かな……」

「もう、あんまりな言いようよ、フィデリオ。せっかくのデビュタントなんだから」

「せっかくのデビュタントなのに、悪目立ちしてるじゃないか」


 たしかに、他の令嬢は、ぎょっとした顔で私を見ていた。彼女たちを迎えに来た令息も、私を見るなり眉を顰めている。それほど私の格好は目立っていた。


「いいから部屋に戻って、」

「部屋に戻って着替えろなんて言うんじゃないでしょうね。生憎と私はドレスをこの一着しか用意していないし、いまから準備するなんて無理よ」


 実際、新たなドレスに着替える時間などなく、それをフィデリオも理解しているから、難しい顔をしながらも、二の句を継ぐことはなかった。

 私は首を傾げて笑った。


「さあ、フィデリオ。早く私をエスコートなさって。ヘリオドールのビジューはシャンデリアの下でこそきらめくはずだから」


 海よりも深いため息をついて、フィデリオは私をエスコートした。

 舞踏館の扉が開かれると、幾百もの蝋燭の灯りを点すシャンデリアが輝かせた、豪華絢爛な舞踏会場ボールルームが広がっていた。

 きらきらとした世界。

 馥郁たる花々が鮮やかでありながら、全てが優美で洗練されている。

 そして、白に近い淡い色のドレスを着こむ娘の多いなかで、強く映える私の緑。

 しきたりの合間を縫うように極限まで色を残したドレスを着る者もいたけれど、私の緑には敵いやしない。どれだけ美しく着飾ろうと、私を際立たせるためのものに思われるほどだ。舞踏館は私を中心にしていた。悦に入るほどの快感だった。

 しかし、それも一瞬だった。

 第一王子のベルトラント・エーヴィヒ・アン・リーべにエスコートされたフェアリッテが、扉をくぐり、現れたからだ。

 第一王子にエスコートされた令嬢とあれば、周囲の視線は、彼女へと集約する。

 その照り輝くような金髪ブロンドに、花咲く瞳に、可憐な面差おもざしに、たおやかな姿に、誰もがほうっと感嘆の息を漏らす。

 絵になる二人だった。まるで画家の名作や昔ながらの童話から抜けだしてきたかのよう。彼女は彼にふさわしく、彼は彼女にふさわしい。そのありさまは、手も足も出せないほどだった。

 彼女は全ての人間の視線を奪ったまま、流れるように響いた曲の始まりに、殿下へとお辞儀をし、手と体を重ねる。

 それに倣うように、他のペアもお辞儀をして、ダンスへと踏みだそうとした。いつの間にかフィデリオもお辞儀をし、私の返しを待たないで、腰に手を回していた。

 リズムに合わせ、フィデリオが息を吸ったのが、合図だった。私は彼のリードに委ねるよう、一歩踏みだす。

 くるくるひらひら。

 ゆったりとしたリズムながらに息をつく暇はない。

 ターンをしたとき、クシェルを見つけた。彼はフェアリッテのルームメイトのエスコートをしていた。相変わらず私の存在を認めたくないようだったけれど、緑のドレスを視界に捉えたときはさすがに眉を顰めていた。

 次はクラウディアを見つける。彼女はたしか上級生にエスコートされていたはずだ、どこかの侯爵家の令息の。外行きの微笑みを貼りつけて、どこか緩慢に踊っている。目が合ったのでにっこりと微笑んだけれど、ダンス中だったためか無視された。

 リンケとコースフェルトも見つけた。リンケはすれ違うとフランキンセンスの香りがした。コースフェルトはベルガモット、ただしその香りはミドルノートへと移り変わる途中だった。

 しばらく踊っていると、ラインハルトの姿が見えた。

 同級生の令息をパートナーにする彼女は、白桃の色味をしたドレスを着ている。同じ色のカチューシャをつけていて、きっと彼女からも桃の香りがするはずだ。

 そんな彼女は棘のある目で私を見ていた。彼女もフィデリオのように、私のドレスがお気に召さないようだ。

 私は彼女の視線に気づかないふりをして優雅に微笑む。こんなに素晴らしいことはないでしょうと、彼女に見せつけるように。

——もっと私への憎しみを募らせるがいいわ、ぶつけたくてたまらなくなるくらい。

 曲も終わり、私とフィデリオは対面してお辞儀をした。

 二曲目が始まろうとしていたけれど、私もフィデリオもフロアの端へと移動した。

 同じように続けて踊らないことを選択した者たちで溢れかえっている。殿下とフェアリッテも抜けてきた。何人かの令嬢が、自分とも踊ってくれないかと殿下に誘っていたけれど、彼は「さっきの曲で疲れてしまったから」という断り文句で返す。そして、フェアリッテには「飲み物を取りに行くよ」と優しく告げるのだ。二人はすでに打ち解けはじめていた。

 その様子を眺めていると、同じように飲み物を取りに行ってくれていたフィデリオが、私へグラスを差しだす。グラスの中身は、リヒト・シャンパインというアルコールの入っていないシャンパンだ。金平糖とオレンジを浸して飲むことが多い。シャンパンタワーにもこの飲み物が注がれている。私は「ありがとう」と受け取った。


「君は殿下へダンスの誘いを申し込みに行かないんだね」

「残念だけど、相手にはされないでしょうからね」


 フィデリオの言葉に、私はグラスを傾けながら返す。


「以前の君なら、一も二もなく飛びこんでいったと思うけど……」


 間違いない。一周目の私は、他の令嬢と同じように、殿下へと乞いに行った。しかし、それは断られている。彼が受けたのはフェアリッテとのダンスだけ。それを知っているから、自ら恥を掻きに行くつもりはない。

 フィデリオは「君は変わった」と呟いた。私は「どうかしら」と返した。

 

「それより、貴方、機嫌は治ったの? エスコートのときはずいぶん顔を顰めていたじゃない」

「君がそのドレスを着てくるからだろう。俺まで悪目立ちしたじゃないか。純白のドレスがあったはずだ、お母様のおさがりの」

「夫人の趣味であって私の趣味ではないし、あんな古臭いドレスなんて着てきたら、それこそ恥を掻くほど目立つわよ」それに、と私は続ける。「どうしてもこれがいいの……これは、お父様が私に贈ってくださった、唯一のドレスだから」


 私の隣でシャンパンを飲んでいたフィデリオが、ちらりと私を一瞥した。

 傾けていたグラスの中で金平糖がふよふよ転がる。

 このドレスは、入学前、デビュタントの年になったのだから夜会用にと、ブルーメンブラットから送られてきたものだ。私の手持ちのほとんどはアウフムッシェル夫人のおさがりで、こんな見事なドレスは見たことがなかったから、私はとても嬉しかった。

 この場に父がいたらと切に思う。


「……もし、いまの私の姿をお父様が見たら、美しいと褒めてくれるかしら。似合っていると微笑みかけてくれるかしら」


 間を置いて、フィデリオは答えた。


「学校で催されるデビュタントは親を伴わない。ここに現れるとは思えないな」

「もしもの話をしているのだから、水を差さないでくださる?」私はフィデリオを眇める。「……まあ、でも、もしこの場にお父様がいらしても、真っ先にリッテのもとへと向かうのでしょうね。そしてきっと、美しいと、とてもよく似合っていると、彼女を褒めるに違いないんだわ」


 フェアリッテはいつも私の欲しいものを奪っていく。

 そんな彼女が昔から憎くて、大嫌いだった、心から。

 私はグラスを預け、踵を返す。フィデリオに「どこへ行くの」と尋ねられたので、「化粧直しに」と答えた。






 それは、ワルツの五曲目、踊り疲れた生徒たちが会話を楽しみ始めるころだった。

 化粧と姿を整え終えた私は、テーブルの食事にありついていた。パートナーを連れずにただ食事する娘を、周囲は気にも留めていない。私はそろそろだろうと口元をテーブルナプキンで拭った。

 やはり、時は来た。


「きゃああああああ!」


 少し離れたところで少女の叫び声が響く。なにかが崩れたような音。ざわめきたつ群衆。私はテーブルナプキンの下でにやりと微笑んだ。その場を離れ、叫び声のあったほうへと駆け寄る。その場の惨状を見て、私は口元を押さえて叫んだ。


「——ああ! なんてこと!」


 崩落したシャンパンタワー。あちこちに散乱したグラスに水浸しの床。

 そしてその真ん中に立つのは——

 私は彼女に駆け寄り、「どうしたの? 怪我はない?」と彼女を気遣うふりをする。髪もドレスもシャンパンに浸されていた彼女は、悲痛な顔で首を横に振った。彼女のルームメイトも「フェアリッテ!」と心配そうに駆け寄ってくる。

 惨憺たる悲劇だ。

 私が望んだとおりの。


「なにがあった」教師も惨事に気づき、歩み寄る。「これは……大丈夫か、ブルーメンブラット嬢! いったいなにがあったんだ!?」


 誰かが持ってきたタオルで、フェアリッテは包みこまれる。もう少しそのみじめな姿を晒していてほしかった。なんてもったいないことを。こんな見もの、他にはないのに。

 美しく着飾り、第一王子にエスコートされ、注目を集めていた、この場の誰よりも幸福であったはずの娘が、一瞬でみじめに落ちぶれてゆく。

 暢気な幸せ面がシャンパンと涙で滲んでいく。あのときの私と同じ姿の、みすぼらしいフェアリッテ。たしかにこれは嘲笑わずにはいられない。私は唇を噛みしめることで、にやけてしまいそうになるのをこらえていた。

 近くにいた事件の目撃者たちが一様に囁きはじめる。


「シャンパンタワーが倒れたのよ」「その近くにいたブルーブラット嬢がシャンパンを被ってしまったようだ」「彼女は《除災の祝福》を受けていたから割れたグラスで怪我をすることもなかったようだが」「さすがにシャンパンは防ぎようがないだろうな」「お可哀想に」「怪我がなくてよかったけれど」「でも、シャンパンタワーが倒れるなんてあると思う?」「私、見ていたけれど、タワーの様子がなんだかおかしかったわ、まるで中のシャンパンがグラスからひとりでに飛びだしたみたいで」


 私のときでは起こらなかった憐憫が、犯人の追求が、じわじわと滲んでいく。憤りはあるものの痛快だ。その声が大きくなればなるほど、犯人は追い詰められる。そして、いよいよ、王手をかけられた。


「……どうしたんだ、ラインハルト嬢にファザーン嬢。そんなに顔を青褪めて」


 フィデリオが、少し離れたところで棒立ちになっている二人に気がついた。

 指摘された二人は息を呑む。ファザーンは実行犯であるラインハルトを縋るように見つめた。ラインハルトは「いえ、その、私は、」と言葉を詰まらせる。

 私は口を開いた。


「貴女たちがやったんでしょう?」


 私の言葉に、ラインハルトは肩を震わせた。それから、強い語気で「なにを言っているの!」と反論をする。周囲も疑り深く私を見ていたけれど、私は堂々と告げる。


「そちらの令嬢もおっしゃっていたわ。まるでシャンパンがひとりでにグラスから飛びだしたようだったって。これほどの騒ぎになってしまっていたたまれないから、それほど顔色が優れないのよ。違っていて?」


 他者の言葉を借り、現状を整理することで、私は正当性を身につける。そのあとすぐに「ラインハルト嬢は《漂動の祝福》を受けていらっしゃるのだから、シャンパンタワーを倒すことなんて簡単でしょうし」と続ければ、信憑性の増した私の指摘を鵜呑みにした教師が「そうなのか、ラインハルト嬢」と彼女へ詰問する。こういうときのために、教師の信頼は勝ち得ておくべきなのだ。教師が私の話を信じたことにより、周囲もラインハルトを疑いはじめる。

 しかし、ラインハルトは「どこにそんな証拠が!?」と白を切った。

 言い逃れをしようとしても無駄だ。

 私は「クラウディア」と、近くにいた彼女へ声をかけた。


「《真実の祝福》で証明して」


 ざわっと空気が膨らむ。

 クラウディアは涼しげな態度で「わかったわ」と返事をした。

 それを受け、ラインハルトとファザーンの顔がさらに血の気をなくした。

 《真実の祝福》——その者のあらゆる真実を映し見ることができる。その祝福を受けたクラウディアは、この事件の犯人すらも、皆に知らしめることが可能だった。

 かつての私はそれに気づかなかった。事件後、クラウディアに犯人を教えてもらってじめて、私は自分を貶めた者を知ることができた。その場で気づいていたら、そのとき責めることができたら、と後悔していた。だから、今度こそ逃がすわけにはいかない。


「真実を映したまえ——ジビラ・ラインハルトとマルゴット・ファザーンは、シャンパンを倒したか否か」


 クラウディアが問いかけると、まるでヴェールがかかったかのように、頭上がきらきらと光りだす。シャンデリアの光と相俟あいまって、まるで夜空のようだった。そして、そこへ真実が映しだされる。

 ドレス姿のラインハルトとファザーンが映った。この成人の儀の舞踏会デビュタントボールでの出来事らしい。カーテンの奥のバルコニーで話しこんでいる。おそらく数刻前のことなのだろう。二人は不満に満ちた声で『私生児のくせに』『恥ずかしくないのかしら』『今日だって癪に障るドレスを着て』と呟きあっている。私生児、という言葉から、ざまに罵られているのは私であることがわかった。


『恥を掻いてしまえばいいのよ。あのドレスを台無しにしてやるとか』

『いいわね。あの色はとても目立つもの。シャンパンタワーの近くを通ったら、すぐに崩して、ずぶ濡れにしてあげるわ』


 そうして、ラインハルトは時を伺い、シャンパンタワーに近づく緑のドレスを見つけて、少し離れたところからシャンパンがこぼれ落ちるように念じた。瓦解していくタワーの下にいるのが、私ではなく、フェアリッテであることも知らずに——

 真実のヴェールが溶けるように消えていく。呆然と見上げていた生徒たちは「まさか本当に」「そんな」と騒ぎだす。教師もラインハルトとファザーンに近づき「なんてことを!」と怒りを露わにしていた。


「……つまり、本当はフェアリッテではなくプリマヴィーラを狙ったものの、二人がドレスを交換したことを知らず、ドレスを目印にしたせいで、フェアリッテへシャンパンをかけてしまったと」フィデリオが呆れながら話をまとめる。「フェアリッテはただ巻き添えを食らってしまったわけか」

「こんなつもりじゃなかったのよ……まさかブルーメンブラット嬢になんて!」ラインハルトはつんざくような声を上げる。「だいたい、どうして貴女なんかがそのドレスを着ているの!」

「フィデリオも言っていたでしょう。ドレスを交換したのよ」私はラインハルトに返した。「リッテも鮮やかな色のドレスを着たいと言うから、途中で私のドレスに着替えさせてあげる約束だったの。代わりに、私がリッテのドレスを着てね」


 これが私のアイディアだった。

 前半は私が緑のドレスを着て、後半はフェアリッテが着る。そうすれば、私もフェアリッテも鮮やかな色のドレスで踊れるだろうと、話を持ちかけたのだ。フェアリッテはまんまと頷き、事は上々に運んだ。目論見通り、フェアリッテを私と見間違えたラインハルトは事件を起こしてくれた。

 私とフェアリッテの髪型を揃えたのもこのためだ。おまけに私は金粉まで振っている。普段の亜麻色だったならば、ドレスを交換した程度では騙せなかっただろうが、いまの私とフェアリッテの髪色は、遠目から見れば瓜二つなのだ。ラインハルトも騙されてくれるはずである。

 化粧直しから帰ってきたあと、ドレスの色が変わっていることにフィデリオもびっくりしていたけれど、フェアリッテが嬉しそうに緑の裾を揺らしているのを見て、さらにびっくりしていた。

 誰もが驚愕した。たったそれだけのことが、こんな悲劇を巻き起こすなんて。

 これは悲劇である。

 フェアリッテの悲劇は、私にとって、極上の喜劇となる。

——ああ! 最高のデビュタントだ!

 私はタオルを被るフェアリッテの背を撫で、「とにかく部屋へ戻りましょう」と告げた。私と彼女の普段の仲を知っている周囲は、私に彼女を預ける判断をしたらしく、教師すらも私たちを見送った。教師はラインハルトとファザーンの処遇に忙しいようだった。周囲に冷めた目で見つめられた二人はいまにも倒れそうな顔色だった。彼女たちを懲らしめることもできて、一石二鳥の夜である。

 私たちは会場の外に出て、夜風の吹き抜ける廊下を歩いていた。フェアリッテのしとどに濡れた髪から、裾から、爪先から、シャンパンが伝い落ち、床を濡らしていく。フェアリッテは震えて嗚咽を漏らしていた。


「ああ、リッテ、どうか泣かないで」


 そう囁きかける私の声は、フェアリッテのデビュタントを台無しにしてやったという高揚感で震えていた。どうせタオルを被って俯いている彼女には見えないのだからと、笑みさえも浮かべ、心はこれまでにないほど踊っていた。

 可哀想なフェアリッテ。

 髪も、化粧も、ドレスも、みんな滅茶苦茶にされて。

 きっと誰もが貴女のみじめな姿を覚えたはずよ。

 どうかこんな素晴らしい夜を屈辱で泣き明かして。

 私は愉悦で踊り明かしているから。

 タオルの奥から、フェアリッテが「あ……ったが、」と小さく声を漏らす。私は努めて優しい声を作って「大丈夫よ。どうしたの?」と囁く。すると、嗚咽をやませた彼女が、涙を流しながら、一つ息を呑んで言った。


「貴女が、このドレスを着ていなくて、よかった」


 私は思わず足を止めそうになって、実際に止まってしまった。

 けれど、それをフェアリッテが不思議に思うことはない。毛布の奥の顔は真っ赤になっていて、化粧も涙でぐちゃぐちゃだった。ぎゅっと瞑られた目でさめざめと泣いている。それを拭うこともせずに、フェアリッテは再び口を開く。


「私ですらこんなに悲しいのに、このドレスを着て踊ることを楽しみにしていた貴女なら、どれだけ傷ついていたかわからないもの……」


 冷たい夜風に乗る吐息。伝い落ちるシャンパンの匂い。真っ暗な廊下での涙。

 こんなみじめな後ろ姿になんか見向きもしないで、背後ではいまも絢爛豪華で夢のような舞踏が繰り広げられているはずだ。そこから棚引く笑い声を聞きながら、私たちは二人きり、しばらくのあいだ、立ちつくしていた。

 その日の月光は薄情ではなかった。

 ただ、言いようもない色で私を照らしていた。

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