第二学年
第11話 落つ鳥を飛ばす
飛び越えるように夏を終え、私たちは第二学年を迎えた。
始業式はずいぶんと質素なものだったが、今年の第一学年の入学式は、私たちのときと同様、学校総出でおこなわなれた。クシェルは引き続き監督生として、私やフェアリッテは在校生として、新入生を出迎えることとなった。
そんな新たな始まりたる秋の芽の月もすぎた、秋の実の月。
私の選択教養である馬術は騎射へと変わっていた。
「——さすがです、アウフムッシェル嬢!」
馬を走らせながら的に矢を命中させた私へ、グルーバー先生は拍手を送る。
それに伴って、見ていた他の生徒もぱちぱちと手を鳴らした。私は馬の足を緩やかに止め、弓を背負って降りる。
そんな私の元へ「お見事」と駆けつけたのは、同じく馬術を選択教養としているリンケだった。
「ありがとう、リンケ嬢。貴女もさっきは見事だったわ」
「このひと月でやっと的に当たるようになっただけですもの。まだまだよ」
「このひと月で弓を安定させたということでしょう?」
「そう言ってくださると嬉しいです……でも、私も早く貴女のようになりたいわね」
リンケと並んで生徒たちの輪へと向かっていると、ギュンターからも「お疲れさま」と声をかけられた。
「見事だったね、アウフムッシェル嬢」
「アーノルド卿と比べれば」
「私からしてみれば、お二人とも比べようもなくすごいけれど」リンケは苦笑した。「やっぱり、第一学年で狩猟祭に参加した方々は実力がおありだもの。優勝したミットライト嬢だって……」
と、そこで、再びグルーバー先生の歓声が上がった。そちらへと視線を遣ると、ミットライトが騎射を成功させたところだった。
ミットライトの射た矢は的の真ん中をきっちりと射抜いていて、私のときよりも拍手の音は大きかった。
しかし、それを成しえたミットライト本人は悠々とした表情で、静かに馬から降りていた。的を正確に射抜いたことも、それによる賞賛も、当然だと思っているような態度。
「あのように、」リンケはさきほど打ちとめた言葉を続けた。「なんでもできてしまうんですもの」
私は馬を牽くミットライトを眺めた。
方々から月のひとと呼び声の高い彼女は、その
それだけでも神秘的なのに、いっそう彼女を浮世離れさせるのは、その瞳だ。
その身目もあり、王太子妃候補に選ばれる前から彼女を崇拝する者だって少なくはなかった。
「彼女を“聖女”と崇めて支持する者もいる」ギュンターはわずかばかりに苦い顔をした。「偉才の方だよ、本当に」
フェアリッテ以外にも、なんでも持っている人間というのは、いるものである。一物も二物も与えられながら、ミットライト侯爵家というたいそうな出自まで持つのが、ディアナ・フォン・ミットライトという人間だ。ミットライト家は、行商人の出発地点であり終着地点でもある
大勢の拍手がやんだころ、グルーバー先生は「ミットライト嬢の矢捌きは惚れ惚れしますね」と口を開いた。
「一昨年に卒業したノイモンド・フォン・シックザール卿からも話は伺っていましたが、ミットライト嬢の腕前は実に見事です。私の手にも余るほど」
「ノイモンドとは幼馴染ですから……彼の贔屓目もあるかと」ミットライトはあるかなきかの笑みを浮かべた。「これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします、先生」
シックザールという名に、ギュンターは敏感に反応した。
リーベの五大侯爵家のうちの一つ、シックザール。
古くは枢機卿を多く輩出した家柄だ。
当時、叙階も受けていない貴族当主が枢機卿を務めることはままあり、敬虔な司教から反感を買うことが多かったけれど、その苦境を救ったのがミットライトだった。
文明の行き交う
何十代と前の話のようだが、それ以降、ミットライトとシックザールは深い関係を持つようになり、それは現代まで続いている。
この王太子妃候補争いでも、シックザールはミットライトを支持していた。
大っぴらに言う話でもなかろうと、リンケは声を潜めて、「そういえば、マイヤー侯爵家はどの家についたのでしょう?」とギュンターへ尋ねる。
「マイヤーはまだ支持を表明していない」ギュンターも囁くように答える。「ギュンターはブルーメンブラットに、シックザールはミットライトについたから、マイヤーがボースハイトにつけば、勢力は拮抗するが……両家の関係を考えればそれはないだろう。ブルーメンブラットかミットライトのどちらかがマイヤーの支持を勝ち取れば、その勢力も抜きんでたものになるだろうな」
「マイヤーが動かないかぎり、派閥争いは膠着状態にある、と?」
「いかにも。だからこそ、マイヤーの関心を得るために、候補者同士の実績が必要になってくるはずだ」
実績と聞いたリンケが苦い顔をした。
ギュンターも同じような表情をする。
二人が考えているのは、つい先日の、中間試問のことだろう。
学期末試験の前におこなわれる中間試問でも、ミットライトは見事に回答していたのを思い出した——それは、たとえば、神聖学の教師の試問、「男神女神という概念が唯一神の《
「近隣他国から渡ってきたからです。先生もご存じのとおり、ミットライト領地にも伸びる
「隣国のラムールや南東にあるアトフなどは、同じく
「地中海を隔てたところにあるフィリアは多神教です。また、アトフは一神教ですが、信仰対象を《
「……アトフの神を《
「多くの研究者は同一説を信じています。あちらの経典の一部には、神からの啓示という形で、《
まるで託宣するようにそう言いきったミットライトへ、教師だけでなく、傾聴していた生徒からも、惜しみない拍手が贈られた。試問後、耳まで真っ赤にしたフィデリオは、ひどく落ちこんだ様子で「恥を掻いた……」と漏らしていた。学年次席の彼が挑んでも、学年主席の彼女には、瑕一つつけられなかったのだった。まさに完全無欠である。
あれは紛れもなく、ブルーメンブラット派閥とミットライトの直接対決だったろうが、当のミットライトが平然と応酬していたから、一触即発の事態も免れたのだろう。
ともあれ、そういう経緯で、中間試問はミットライトの圧勝に終わったのだ。
続く学期末試験でも彼女が一位を取るだろうと予測されている。
「……僕たちには僕たちのできることをするしかない」気を取り直したように、ギュンターは強く言った。「アウフムッシェルは、望みが薄いとわかっていても、先陣を切って仕掛けてくれたんだ。その意志に恥じないよう、僕たちも努力しよう」
「そうですね」リンケも頷く。「幸いにして、ブルーメンブラット派閥には成績優秀者が多いことですし……アウフムッシェル卿はもちろんのこと、ブルーメンブラット嬢も学年末試験では優秀な成績を修めているんだもの。それに、アウフムッシェル嬢だって勉学に優れていらっしゃるわ!」
どこか期待するように、リンケは私を見た。
私は「できるかぎりのことはいたします」と微笑んだけれど、リンケやギュンターからの期待の眼差しが、重石のように感じられた。
教養課程を理解していた去年とは違い、今年はそう上手くはいかないはずだ。中間試問ではなんとかなったけれど、学期末試験やこの先の試験で成績を維持するのは難しいだろう。
一応、真面目に授業も受けているし、らしくもなく図書館に通って自習なんかもしているけれど、正直、自分で吊りあげた己の虚像に、足元を掬われそうになっていた。
だが、いまの情勢で成績が下がりでもしたら、それこそ、他の派閥の人間に足元を掬われる。きっと後ろ指を差される。最悪だ。
馬術の授業を終え、厩へと馬を戻す。他の生徒が先に戻っていくのを見送りながら、馬の鼻筋を撫でることで、憂鬱な気分を紛らわせていた。
「……まあ、できることをしたあとに考えましょう」
「なんの話ですか?」
すると、後ろから声をかけられた。
新学期が始まって——というより、入学式を終えてから——こういうことが頻繁になってきたので、もうその声の主が誰なのかは振り向く前からわかっている。
私は笑みも作らずに「……こんにちは、ジギタリウス卿」と返した。
「こんにちは、プリマヴィーラ嬢。貴女に会えるなんて、やっぱり僕は運がいい」
「貴方もこれから授業ですか?」
「ええ。その前に馬に触れておこうと思いまして。プリマヴィーラ嬢は授業を終えたところのようですね。お疲れさまです」
「休み時間にも馬と戯れようとは、熱心ですね」
「グルーバー先生から伺ったのです。乗馬に長けた貴女はよく馬と対話していると。僕は生憎と乗馬が苦手で……少しでも上達できればと思いまして」
「素晴らしいことだと思います。では、私はお邪魔のようなので、これで」
最後だけは愛想よく微笑んで立ち去ろうとしたのだが、「さきほど呟かれていたのは学期末試験の話ですか?」と声をかけられる。よっぽど無視して歩みを進めてやろうと思ったのだけれど、ジギタリウスから「姉さんは試験対策として、休みの日には王宮に登城していますよ」と言われたので、私は足を止めるしかなかった。
「……王宮に?」
「ええ」私が振り返ると、ジギタリウスはにこりと笑った。「運営方法を学びたいとのことで。なにしろ第四学年ですからね。試験内容もより実務的なものになるみたいですよ。王領伯の面々とのお目通りが叶ったらしく、教えを乞うているようです」
さすがに一介の侯爵令嬢がそう簡単に王室と会えるとは思ってはいなかったが、ガランサシャの目当ては王領伯八家だったか。
その話が本当なら、ガランサシャは実に大胆な行動を取ったと言える。
クシェルも言っていたが、ブルーメンガルテンを含む王領伯八家は、今回の王太子妃争いにおいて、中立の立場を取っている。
王の領地を統治し、王の側近たる八家としては、将来的に仕えることになる相手なのだから、本来ならば恣意的に選びたいはずだ。また、直属の臣下の推す家の令嬢なら、陛下も蔑ろにはできない。とすれば、国母となる令嬢を、王領伯八家が決定することになってしまう。
それを防ぐために、代々の王領伯八家は、王太子妃争いに口出しができない。これまでも、事が終わるまでは静観を貫いていた。
その静観を、ガランサシャは崩そうとしているのかもしれない。
「……眉唾の話ですね。いまの時期に、あの八家が特定の家を受け入れるとは、にわかには信じがたいものです」
「まあ、そこは大人の事情ってやつでしょうね」ジギタリウスは肩を竦める。「僕もよくは知らないのですが、父は姉を次期王妃にしようと躍起になっていますから。姉は姉であらゆるところに顔が広いですし、
ガランサシャは夜会にも頻繁に出席しているし、社交界でも目立つタイプの人間だ。貴族当主とも対等に話をするし、どこぞの王領伯と懇意にしていたのかもしれない。
ブルーメンガルテン家の人間であるクシェルだって、あくまで中立の立場を取っているが、フェアリッテを贔屓にしているのは明白だ。それと同じように、ガランサシャを贔屓にしている家だって存在するのだろう。
私はジギタリウスを見る。
目が合うと、彼はまたにっこり笑って、首を傾げた。
あどけない笑顔で、嘘くさくはないけれど、信用もできない。第一、なんでそんなことを私に教えてくれるのかがわからない。
「ジギタリウス卿は、どうしてそのようなことを私にお話しなさるのかしら」
そう問いかけると、彼は答えた。
「貴女を引き止めたかったから」
人好きのするだろう自然な笑まいを浮かべ、じっと私を見ているジギタリウス。
臆面もせずに好意をぶつけて、それが自分に返ってくることを確信しているような態度だ。癪に障る。純粋で真っ白な彼を踏みつけて泥だらけにしてやったらどれだけ心地好いだろう。
そんなことを考えていると、口からそれは
「……貴方って、フェアリッテに似てるわ」
「えっ?」
「ちょっとだけね」
さすがのフェアリッテもここまで厚かましくはない。
戸惑った様子のジギタリウスを放って、私は今度こそこの場を去る。トラウト子爵家のパーティーで何枚か化けの薄皮を剥がして以降、ボースハイト姉弟に対して取り繕う必要はなくなったと見ている。多少の礼儀がなってなくとも、大した痛手にはなるまい。
リンケやギュンターと合流すると、武術を終えたフィデリオとも落ち合った。
フィデリオは私たちを見つけると「ちょうどよかった」と駆け寄ってくる。
「さっきフェアリッテとも話してたんだけど、この週末、みんなで勉強会をしないか?」フィデリオは言う。「そろそろ試験対策も大詰めだしね。俺も教えられるところは教えるし、逆に教えてもらいたいところもあるから」
「いいな」ギュンターは頷く。「僕も賛成だ。リンケ嬢もどうだ?」
「もちろんです」リンケは薄っすらと頬を染めて、フィデリオを見た。「あの、よかったら、カトリナも誘っていいですか? 彼女も試験勉強に行き詰っているようだったので……」
「コースフェルト嬢は語学が堪能だったね。俺も学びたいことがあるし、ぜひ誘っておいてほしいな」
フィデリオがそう言うと、リンケは嬉しそうに頷いた。リンケもコースフェルトも、彼の蜂蜜色の瞳に蕩けてしまう女の子の一人なのかもしれない。今後のためにも注意しておいたほうがいいだろうかと、内心で思っていた。
すると、フィデリオが「君もだよ、プリマヴィーラ」と私のほうを向いた。
「中間試問では健闘していたが、学期末試験ではどうなることか……正直、君のことが一番心配だ」
「そこまでか?」ギュンターは訝しむ。「アウフムッシェル嬢なら大丈夫だろう」
「そうですよ。第一学年の学年末試験でも、
ギュンターとリンケはフィデリオの言葉を不思議に思ったようだが、フィデリオは去年の私の成績が純粋な私の実力でないことを知っていた。
試験範囲の知得だけでなく、二度履修したことによる知識の定着ももちろんあるだろうし、そこまで心配される
フィデリオが危ぶむのも頷ける。相変わらず口うるさくはあるが。
方々からの声に、フィデリオは首を振って言った。
「俺は彼女に関して馬術しか信用していない」
「散々な言いようね」
「二人とも騙されないでくれ、彼女はそんなに器用じゃないから。もし、次の学期末試験で成績が下がったとしても、それは決して不調ではなく、彼女の実力だから」
「縁起でもないことを言わないで」というか、そのおしゃべりな口をさっさと噤んでしまえ。「……中間試問でミットライト嬢に負けて、神経質になっているのね。可哀想なフィデリオ。さぞ悔しかったでしょうね。大丈夫よ、貴方なら次こそは一番を取れるだろうから」
私が心配げな声で微笑むと、リンケも「そうですよ」と乗っかってくれた。
忘れたいだろう話を蒸し返され、フィデリオは片手で顔を覆い、「ああ、うん、ありがとう」とそっぽを向いた。その耳がわずかに赤くなっているのが見えたのか、ギュンターは苦笑する。
持ち直したフィデリオは、こちらを見据える。
「とにかく、週末、勉強会をするから。プリマヴィーラ、君も来るだろう?」
そう尋ねたフィデリオに、私は「ごめんなさい、」と口を開いた。
「週末はね、もう、別のひとと試験対策をする予定なのよ」
木々の緑が黄みを帯びてくる、ぬるい温度の晴天だ。
休日ということもあって制服は脱いだけれど、秋の只中というのは装いに困る季節ではある。普段着のドレスを漁ってみると、やはり冬場に映えるような深い色のものしかなかった。
そもそも私の手持ちのほとんどは重かったり濃かったりする色合いで、たとえばフェアリッテの好むような淡い色合いのものは、持ち合わせが少ないのだ。
しょうがないので一番色味の薄いものを選んだ。
ところどころにスカラップの入った、象牙色のドレスだ。萌黄色のショールと合わせて着こなし、シニヨンにした髪に金粉を振りれば、悪くはない仕上がりになった。
そのように身綺麗にして赴いたのは、ファザーン子爵家の邸宅である。
先ぶれもなしに押しかけたにしてはすんなりと門が開いた。わざわざ休日に訪れた学友を押し帰す野暮はできなかったのだろう。応接間に通された私は、出されたお茶に口もつけないまま、その者を待った。
ファザーンといえば、狩猟祭で痛めつけてやったファザーン卿を思い出すのだが、彼はいま学校にいるはずなので、目当てはその者ではない。
私の目的は、その妹——ジビラ・ラインハルトと共謀して私にシャンパンを浴びせようとした、マルゴット・ファザーンだった。
応接間の扉が開くと、青白い顔をしたマルゴットが顔を出した。
「お久しぶりですね、ファザーン嬢」
と、私が告げるも、彼女はなにも返さず、どこか余裕のない態度で体面の椅子に腰掛けた。対照に、私は悠然と彼女へ微笑む。
「謹慎処分が明けても学校にいらっしゃらないんですもの、心配いたしましたわ」
結局、この女は、謹慎が明けても学校には来ず、ずっと休学していた。
ジビラ・ラインハルトのほうはなんとか顔を見せているが、一度失った信頼は取り戻し難く、
そうなることを、彼女も恐れているのだろう。もしくは、私の贈った『花尾の首輪雉』が効いたのかもしれない。
そう思い、「お詫びの品は受け取られましたか?」と言葉を重ねた。受け取ったときの彼女はいまよりもひどい顔色だったのかしら。想像するだに愉快だったけれど、表情には出ないように努めた。
「……なんの用?」
やっと口を開いた。
マルゴットはこちらに目を合わせることもなく、テーブルの上のカップを睨みつけて、吐き捨てるように言った。
「なかなか復学されないファザーン嬢が心配だったんです」
「……自分を貶めようとした相手をわざわざ?」マルゴットは息を漏らした。「貴女に心配される筋合いはないわ。用がないなら帰って」
「まあ、そんな寂しいことをお言いにならないで」
「いいから早く、」
そうして彼女が私を見上げ、瞬く間に威勢は萎れていった。
窓からの日差しを浴びてきらめく、黄金を帯びた私の亜麻色は、あのデビュタントの記憶を蘇らせるもので——きっと彼女の心も折れてしまったのだと思う。息さえも止まったのではないかと感じさせるほど硬直したのだった。
なればこそ、言うなら今だと確信した。
「……ねえ、ファザーン嬢。リッテが王太子妃候補に選ばれたのはご存知ですか?」
フェアリッテの名を出すと、彼女は肩を震わせて俯いた。
その様子から、彼女が今でも罪悪感を感じていることが伺えた。
視界の外でほくそ笑んだ私にも気づかないで、彼女は「知っています」と覇気のない声で返す。
「デビュタントのときも、リッテは殿下のエスコートを受けていましたものね。覚えていらっしゃいますか? あの素晴らしい二人の姿を。ボースハイト嬢やミットライト嬢も美しいけれど、リッテならばそれよりもっと美しい妃になるでしょうね。そのときは、シャンパンの雨に降られなければいいのだけれど」
その俯いた姿でもわかるほど、彼女は砕けんばかりに歯を食いしばったはずだ。小さく歯と歯が擦れる音がして、おまけに呼吸がいっそう深くなった。彼女の握り締めた拳が真っ赤になっている。
実にいい見ものだったけれど、虐めるのはこれくらいにしておこう。
「……まあ、その前に、ミットライト嬢を下すのが先だものね」
本題に移るため、私は声調を変えた。
それをつぶさに感じとった彼女は、薄っすらと顔を上げる。
私は彼女と目が合うまで言葉を待った。静寂を不審に思った彼女がじわじわと首を
「リッテの力になりたくはない?」
え、と息を漏らす彼女の眉は顰められている。
そのいじましい不信感が滑稽で、上擦りそうな声を必死に抑えて言葉を続けた。
「リッテの敵である他の候補者の二人を知っていますか?」
「……ガランサシャ・フォン・ボースハイトと、ディアナ・フォン・ミットライトでしょう?」
「ええ。私たちの学年では、相変わらずミットライト嬢が学年主席よ。きっと誰もが彼女に期待しているわ。次の学期末試験でも、彼女が一位を取るでしょうね。だって、彼女は完全無欠の“聖女”なんだもの」私は苦い顔を作る。「可哀想なリッテ……今日もフィデリオたちと試験勉強に励んでいるのに、彼女こそが王太子妃にふさわしいのに、どんなにがんばったとしてもミットライト嬢には勝てないんだわ」
「…………」
「だけど、ファザーン嬢。貴女ならリッテを救えるのではなくて?」
貴女の《漂白の祝福》なら——そう言えば、彼女は
彼女の持つ《漂白の祝福》は、身の周りの汚れを清める祝福であり、土埃や食べかす、こぼれたインクすらもきれいに拭われる。
なんてことのない祝福だけれど、禊ぐ以外にも用途はさまざまだった。
特に、インクを消せるというのは実に便利だ。彼女自身もそのように使ったことがあるのだろう。だから、私の意図を、瞬く間に察したのだ。
インクを消すということは、書いたものを消すということだ。
消してやればいい。欠いてやればいいのだ。
その完全無欠を。
「まさか——ミットライト嬢の答案用紙の改竄を?」
彼女の呟きに、私は微笑んだ。
強く息を止めた彼女が、さらに顔を蒼褪めさせる。
「冗談じゃないわ! 私に、そんな不正行為を働けと言うの!?」
「なにを勘違いなさったかは知りませんが、私はなにも言っておりませんわ。ただ、ファザーン嬢でしたら、なにか力になれることがあるのではないかと」私は頬に手を遣り、首を傾げる。「私は《持たざる者》ですから、リッテの力にはなれません……しかし、祝福を持つファザーン嬢なら、ファザーン嬢にしか、できないことがあるのではないですか? それこそ、貴女の思うとおりに」
彼女は言葉を失ったようにして竦んでいた。土気た顔はみじめなほどで、震える唇まで真っ青だったけれど、その瞳には迷いが感じられた。
迷っているのだ。
試験の回答の改竄なんて、ばれたら退学だって免れない、社交界でも二度と日の目は見られないような暴挙を、彼女は迷っている。
——そりゃそうよね。どんな暴挙だったとしても、貴女にとっては挽回のチャンスなんだから。
私は立ちあがり、彼女へと近寄った。
まるで追いつめられたように震える彼女の足元へ跪き、その顔を覗きこむ。
私と目を合わせることにすら怯えたそぶりを見せるのに、決して逸らしはしない。その瞳に言い聞かせるよう、「考えてみて」と囁きかける。
「貴女の祝福は
フェアリッテを信仰するこの女のことは、いまでも虫唾が走るほど嫌いだけれど、利用しない手はなかった。
一度誰かを貶めようとした人間に、二度も三度も変わらない。罪の意識があるというなら、今度はそれを使って、ミットライトも嵌めてしまえばいいのだ。
私の目論見どおり、目の前の彼女は、見るからに揺れていた。瞳の奥には陶酔さえ見えた。
その顔になるのを待っていたわ。
「ファザーン嬢……リッテは貴女のことを待っているわよ?」
私が試すようにそう言えば、彼女は青白かった頬を上気させ、「本当に?」と呟いた。欲しい言葉を差しだされれば、きっと一目散にでも飛びつくだろう。
「ええ、本当よ」
だから、私は目を細めた。緑の目を隠し、フェアリッテの花咲くような笑顔を真似る。金粉を振った亜麻色の髪は、きっと日差しで輝いている。
フェアリッテならこうするだろうと、私は震えている彼女の手を取った。動揺したそぶりを見せたけれど気にしなかった。ただ、これ以上大事なものなんてないのだという手つきで、彼女の手の甲を撫でる。そして、あの蕩けるような口調で、歌うように囁くのだ。
「——“嬉しいわ、ファザーン嬢。私のためにそこまでしてくれたのね。貴女は私の一番大切なお友達だわ。大好きよ”」
花びらが舞うように。睫毛が煌めくように。砂糖を溶かすように。柔らかなぬいぐるみを抱きしめるように。あの暢気な幸せ面を思い出して、顔に浮かべる。
たったそれだけでは、まかり間違っても私をフェアリッテと重ねることはないだろうけれど、それでも、想起させることくらいはできたはずだ。
そして、その想起は、彼女の背中を押した。
彼女はうっとりとした様子で、私の手を握り返す。強く、強く。彼女の陶酔が指先を伝って私へと届くほど。その震える唇や瞳から発露するほど。フェアリッテのためにミットライトを落としつけることを、彼女は決意したのだ。
馬鹿な子。
フェアリッテがそんなことを言うはずがないのに。
貴女の信じたフェアリッテは、誰かを貶めるような企てを喜ぶような人間ではないし、どころか、そうと知ったら涙を流して責めるに違いない。そんなことをしてほしいわけじゃないのに、望んでないのにって。どうしてそんなことをって傷つくはずだ。
「……このことは、」私は緑の目で見据える。「私たちだけの秘密にしましょう?」
——私はなにも与えない。
与えられないし、差しだせない、施せるものがない。
奪って、謀って、陥れて、傷つけて、そういうやりかたでないとできない。
私には私のできることしかできないのだから。
フィデリオは私に、フェアリッテを愛していないのではと尋ねたけれど、なにかを与えることを愛と呼ぶのなら、たしかに私は、誰も愛することなんてできないんだと思う。
だけど、下手くそに愛してあげるよりは、上手に傷つけたほうがいい。
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