夏休み

第24話 辺境の国に遊ぶ

 憂鬱ななにもかもから目を背けたくて、愛馬のゼフィアと浜辺を駆けた。

 ゼフィアは波の満ち引きが好きで、生き物のように浜辺を這い上がろうとする白波を楽しげに踏みつけては嘶く。珍しく浜辺を歩いているミユビシギが驚いて走り去った。

 その間抜けな様子に、潮風をたっぷりと吸いこんでから、私は笑った。


「プリマヴィーラさま!」


 遠くから乳母の声が聞こえてくる。血反吐を吐くような嗄れた声だ。もう年なのだから無理をしなくてもよいのに。

 私は手綱を握り締め、ゼフィアを引き返させる。乳母に近づくにつれ歩調を緩め、その目の前まで迫ったとき、私は背から降りた。


「探しにきてくれたの?」

「そりゃあ探しますよ。プリマヴィーラさまが突然いなくなるのはいつものことですが、今回は特に辟易されておりましたから。毎度毎度探し回る私の身にもなってください」

「いつも感謝しているわ」

「相変わらず皮肉がお上手ですね」


 皮肉ではないのだけれど。なんだか悔しくて視線を落としたら、乳母の手にまた新しい手紙が見えたので、私は本当に臍を曲げることにした。私が舌を打つと、乳母は「お行儀が悪いです!」と責める。


「乳母がそんなものを持ってくるから」

「今朝届いたようですよ。この他にも、五日も手紙を溜めこんでいるでしょう。早くお返事なさってくださいとあれだけ言い含めましたのに。おかげで次から次へと届いて、きりがありません」

「適当に代筆しておいて」

「なにを書いてもよろしいのですね。私めはプリマヴィーラさまによき相手が見つかるよう最善を尽くしますが」

「やっぱり自分で書く……物騒なことを言って脅さないでくれる?」

「なにが物騒なものですか。さあさ、屋敷に戻って書きますよ。便箋やインクは既に用意しております。なんとしてでも明後日までには全ての手紙の返事を書き切ってくださらないと、ラムールからでは届けられますまい」


 先を急ぐ乳母の後ろにつきながら、私は浜辺を振り返る。

 深い蒼の水平線は穏やかだ。潮の匂いと波の音が生温かく広がる。海鳥の鳴き声につられて視線を上げれば、燦々と照る太陽に目を焼かれた。

 太陽だけじゃないのだ。波打ち際の、空を映して青褪めた砂に、光の輪が幾重にも並んだきめ細かな水面に、澄んだ水が深く青く滲んでいく水平線に、瞼の裏側まで焦がされる。

 明後日を迎えれば、この景色ともひと月はお別れとなる。

 リーベ南部の国境を隔てるラムール貴族との親交を深める使節団の一人として、私は、ブルーメンブラットの辺境の先へと赴くことになるのだから。


「どれもこれもフェアリッテがベルトラント殿下と婚約したせいよ」

「こら! 滅多なことを言うものではありません!」


 事の発端は、夏の草の月の下旬、夏休みが始まってすぐのパーティーにまで遡る。






 フェアリッテの王太子妃内定を発表するパーティーは盛大に開かれた。

 ベルトラント殿下の婚約を交わし、晴れて婚約者となったフェアリッテは、オペラ色の頬で爛漫の笑みを浮かべていた。

 フェアリッテと殿下が楽しげにダンスしているのを、私はパートナーであるフィデリオと眺めていた。フェアリッテをエスコートする必要がなくなり、お役御免となった彼は、これまでどおり私のエスコートを買って出たのだ。


「フェアリッテ、嬉しそうだね」

「そりゃあそうでしょうよ」あたしは目を眇めて返した。「去年はあれだけ大変だったんだもの。フェアリッテが殿下と婚約したことで、やっと落ち着くかしらね」


 フィデリオから肯定が返ってくるものだと思っていたが、隣の彼は返事もくれず、難しい顔をしていた。

 以前、相槌を打てだの無視をするなだのを言っていたのは誰だったか。

 皮肉ってやろうとしたとき、彼はやっと口を開く。


「それは……どうだろうね」

「何故?」

「フェアリッテが王太子と婚約したからこそ、大変になることが増えるだろうし」

「ああ、それもそうね。フェアリッテは王太子妃としての教育が始まって忙しくなりそうだわ。三姫の中から婚約が決まったことで、かえってフェアリッテに攻撃が集中する可能性もあるし……恐ろしいことを考える者ならば暗殺だって企ててもおかしくないものね」

「いや、そうじゃなくて」

「はい?」

「君、あと何曲は踊れそう?」

「いきなりなによ」

「いや、君なら嫌なときは断れるし、相手も選ぶとは思うけど。俺はいるべき?」

「何語で話してるの? 私が母国語以外で聞き取れるのは、エルガー古語とフェルス語の日常構文、それだけよ」

「そもそも、俺がここまで気を遣うのも、おかしな話か」

「……なにを気遣ってるの?」


 いよいよ私はフィデリオを見上げる。

 彼は甘い瞳の向こうでなにやら思いつめているようだったけれど、私の視線に気づくや否や、私を見下ろした。

 しばし見つめあったのち、彼はふいと目を逸らした。彼の心意を理解することはできなかった。


「俺はアーノルドたちに会ってくる。君はどうする?」

「パトリツィアとカトリナを探すわ」

「そう。ではまた」


 そう言って、フィデリオは去って行く。

 私はその背中を見つめながら、なんだったんだと首を傾げた。

 ファーストダンスはとっくに終えて、フィデリオと話しこんでいたので、喉が渇いてきた。

 パトリツィアたちを見つける前に飲み物を取りに行こうと歩いていたとき、ダンスを申しこまれた。喉が渇いているのでと断って、飲み物を選んでいると、また別の男性から挨拶をされる。こちらも適当に挨拶を返したのち、二言三言交わすうちにダンスを申しこまれそうになったので、そうなる前に「では」とその場を去る。

 それからも、何故か声をかけられることが増えた。令息だけでなく令嬢も、学校で滅多に話さないひとまで、私に挨拶をするのだ。

 またクラスメイトの令嬢に声をかけられたことで足止めされ、彼女の家族を紹介され、彼女の兄であるという令息が、私に微笑みかけた。誰だこいつ。微笑みを浮かべたまま、私はもやもやしていた。

 入学してからの二年間で私のゴシップは天高く積み重ねられた。上手くやるつもりが、気づけば醜聞まみれになっていた。触れれば火傷を負いかねない、とんだ腫れ物である。君子ならばこの危うきには決して近寄らない。

 にもかかわらず、目の前の令息は、愛想のいい笑みで私に話しかけてくるではないか。

 どことない居心地の悪さを感じていたとき、ついにそのときはやってくる。彼はうやうやしい態度で「アウフムッシェル嬢。一曲いかがですか?」と私をダンスに誘った。


「申し訳ありません。人を探しているところでしたので」

「さきほどからダンスを断られておられるようですが、もしや先約でも?」

「それは、」

「そうなんです」


 そこで、会話に割って入る声がした。

 聞き馴染みのある声だったのでそちらを見遣れば、案の定、ジギタリウスが、無垢な微笑を浮かべてそこにいた。

 ジギタリウス・フォン・ボースハイト。五大侯爵家の一つであるボースハイト家の嫡男であり、フェアリッテと王太子妃争いをした雪のひと——ガランサシャ・フォン・ボースハイトの弟である。

 ジギタリウスは人好きのする態度でこの場にいる全員に挨拶を交わしたのち、「ご無沙汰しております。プリマヴィーラ嬢」と私にお辞儀をした。


「終業式のときの約束を覚えていてくださったんですね。嬉しいです。ぜひ、今宵、貴女のダンスの手を取らせてください」


 約束と聞いて、目の前の令息は怯んだようだった。どうせ私の言葉をその場の言い訳と捉えていた——実際にその場の言い訳である——のだろうが、約束の相手らしいジギタリウスが現れたことで、引き下がらざるを得なくなったようだ。

 終業式のあれを約束としたつもりはないけれど、これ幸いと、私はジギタリウスに乗っかった。ご機嫌ようと会釈をしたのち、ジギタリウスの手を取って歩きだす。


「いやあ、僕の祝福に感謝ですね。本当に貴女と踊れるなんて」

「あの場を離れるために手を取っただけ。さようなら」

「ええ? やめておいたほうがいいですよ、プリマヴィーラ嬢」


 私が手を離そうとすると、ジギタリウスはその手を強く引き止めた。私の顔を覗きこみ、内緒話をするみたいな声で囁く。


「フェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット嬢が王太子と婚約した今、貴女はどこを歩いても、蜜をたっぷりと含んだ花です。手を伸ばす者は尽きませんよ」


 は?

 私の心情は表に出ていたようで、ジギタリウスはくすくすと苦笑して「お気づきでなかったですか?」と尋ねてくる。


「どういうこと」

「簡単な政治ですよ。軸となるのはブルーメンブラットの後継問題ですね。ブルーメンブラットにはフェアリッテ嬢しか後継はおらず、彼女が王太子妃に、いえ、王妃になれば、その後継ぎに困り果てます。春、貴女方の学年の経営学の授業で、同じことが議論されたと伺いましたが」

「……フェアリッテと殿下が子に恵まれれば解決する問題よ」

「ええ、そうですね。第一子を王太子に、第二子をブルーメンブラットの後継に。それで解決しますね。しかし、それでは問題は先延ばしになるだけですし、思うように事が運ばない場合もあります」

「……はあ」

「現実逃避しても無駄ですよ。お気づきのとおり、もっと簡単に片づける方法がありますよね」ジギタリウスは続ける。「貴女です。アウフムッシェル邸で匿っていた、ブルーメンブラットの私生児。後継問題を抱えたブルーメンブラット辺境伯は、プリマヴィーラ・アウフムッシェルを本邸に戻すのでは……と噂されています」


 ジギタリウスの言っていたように春の経営学の課題発表にて、フェアリッテが後継として私の存在を明言したことも大きいのだろう。

 もちろん、ブルーメンブラットが後継問題を抱えたとて、私にお鉢が回ってくることは絶対にない。私はブルーメンブラットとはなんの血の繋がりもない。私を受け入れた時点で、ブルーメンブラットは潰えると言っていい。

 しかし、表向きには、私はフェアリッテと異母姉妹だ。私がブルーメンブラットとして婚姻する可能性はじゅうぶんにある。

 また、フェアリッテと異母姉妹ということは、次期国王である王太子・ベルトラント殿下とも義兄弟という関係になる。

 つまり、私との婚姻は、ブルーメンブラットの当主の座だけでなく、王室との繋がりまで手に入るような、垂涎の的——蜜をたっぷりと含んだ花というわけだ。


「今宵のパーティーの影の主人公は貴女ですね、プリマヴィーラ嬢。華やかな婚約を決めたフェアリッテ嬢に握手を求める裏で、まだ誰のものでもない貴女に近づこうとする者は多いでしょう」

「高嶺の花より泥中の水妖ってわけね」

「泥中の蓮でしょう、貴女は。花は妖精が姿を変えたものですから、不用意に近づくとどうなるかは知れませんが」

「貴方はどうにかなりたいの?」

「僕の足も踏めない妖精など怖くありませんよ」ジギタリウスは首を傾げ、顎に手を遣る。「他の者も、わかりやすい欲には目が眩むものです。先刻まではアウフムッシェル卿が貴女に侍って壁の役割をしてらっしゃったので、貴女が一人になるのを見計らって、声をかけたんでしょうね」

「そういうこと」私は鼻を鳴らす。「ジギタリウス。言っておくけれど、無駄よ、私がブルーメンブラット邸に戻されることはない。その噂もでたらめだったっていずれ皆も気づくでしょう」


 どうせ面白がっているのは今だけだ——そう思っていたのだけれど。

 そのパーティー以来、私のもとにはたくさんの手紙が届くようになった。

 夏休みに入ってまだ半月しか経っていないというのに、その数は三十通に上っている。いまだかつてない数字だ。

 自室のテーブルに積まれた手紙の束を見て、私は呆然とした。


「こちらはトラウト家から。他にもマイヤー家、グラーツ家。アルソン家からも」

「……乳母、適当に返しておいて」

「ご自分でお返事を。全部が全部、下心のある文というわけではありますまい。プリマヴィーラさまと少しでも仲良くなれればという、ご挨拶にございます」


 それが信じられないのだ。これまでは私に見向きもしなかったくせに。フェアリッテが王太子妃になるからって、この私にまでおべっかを使おうだなんて。

 私が蜜をたっぷり含んだ花なら、こいつらは虫である。


「奥様も、よい機会だとおっしゃっておりましたよ」

「アウフムッシェル夫人が?」

「プリマヴィーラさまはこれまで他家との交流が薄かったでしょう。素行の悪さゆえに婚約者を見繕うのも気がかりでしたし、旦那様もたいへん気を揉まれていました」

「余計なお世話よ」


 本当に余計なお世話だ。

 もちろん、この血は紛い物でも、アウフムッシェル邸で育った貴族の娘という立場上、いずれはそういう話も出るとは思っていた。

 けれど、こんなふうにいきなり態度を変えられて、丁重に扱われても、それはそれで困ってしまう。正直、気味が悪い。


「フェアリッテさまも婚約されたことですし、プリマヴィーラさまのお相手も探したほうがよいだろうと、奥様が。もちろんすぐに決めろとは言いませんが、貴女さまの性格上、相手を選ぶのにも、相手から選ばれるのにも、時間はかかるでしょうから、早いうちから準備をしておかねばなりません…………聞いておりますか?」


 まずい。結婚させられる。

 それからは手紙を返すのも億劫で、やっと筆を執ったとしても適当に返していたというのに、相手はさらに返事を寄越してくるのだから、私は途方に暮れた。

 どれだけ蔑ろにしているのか伝わっていないのだろうか。便箋も封筒も、なんの変哲もない既製品を選んでいるというのに。

 フェアリッテやパトリツィア、カトリナへ送る手紙なんかは、箔押し装飾された便箋に藍鉄色のインクで字を綴り、香水を振ってから銀蝋で封をする。さらに浜梨の花を緑のリボンで飾りつけるという手のかけようだ。

 何気なく受け取っているに違いないが、筆不精の私が手間暇をかけるのは貴女たちくらいのものだと、むしろ気づいていてほしいのだけれど。

 さて、社交界に顔を出すのも嫌になった私は、パーティーを欠席するようになった。

 そんな私を、アウフムッシェル夫人はなんとか外に出させたがったけれど、意外なことにフィデリオは私を庇った。情勢が変化して混乱しているだろうから、そっとしてやってはどうか、と。

 私は夫人に睨みつけられながらも、悠々と邸に籠っていられたが、それでも手紙は尽きない。中には、花束を贈ってくる者も出てきた。

 どうして私がこんな目に遭わなくてはいけないのよ。

 そうやさぐれていたとき、フェアリッテの手紙を読み返し、はっとする。


——そういえば、もうすぐラムールのジャルダン家との交流会の時期だわ。

——貴女は知っているかしら。初夏に入ると、ブルーメンブラットはラムールの貴族と和平のための交流をするの。

——私も毎年参加していたのだけれど、今年は次期王妃教育があるから行けないの。

——代わりに、他家からの志願者を募って、ラムールへの使節団を編成すると、お父様がおっしゃっていたわ。

——クシェルさまも志願されるそうだから、お土産話が楽しみなの。


 私はすぐに筆を執り、フェアリッテへと尋ねた。


——ねえ、その使節団には、どうすれば志願できるの?


 夏休みのあいだだけでも文から逃げてやろうと、私はラムールへ行くことを決めた。つまりは、こういうことである。






 リーベ南部と隔てる深い森、そこを越えた先がラムールだ。

 ラムールは歴史的に見ても芸術の栄えた国で、絵画や彫刻に限らず、文学や演劇、音楽なども盛んだと聞く。また、洒脱で洗練された品物も多く、文房具から家具から香水に至るまで、幅広くリーベに輸出されている。


「私はラムールの文化に興味がありますの。お父様もラムールの技術をリーベに取り入れることができればとお考えですわ。そのため、ボースハイト家を代表する形で、私とジギィも、この使節団へ加わったのですけれど……まさかプリマヴィーラ嬢と同行することになるとは思いませんでしたわ。貴女のように遊学への興味も薄そうな方が、どうしてラムールに? 運命の殿方でも見つけにゆくおつもりかしら」


 馬車の中で向かい合わせで座るガランサシャに、私は「まさか」と返した。

 無事に使節団へと加わることのできた私は、荷物を積み、ラムールへ向かう馬車へと乗りこんだ。そこで知ったのだけれど、今回の使節団には、顔馴染みであるガランサシャやジギタリウス、また、ノイモンド・フォン・シックザールも参加していた。

 貴族間交流とはいえ、国境を越えた交流になるのだから、これは国交だ。リーベ貴族を代表してラムールへ遣わされるため、当たり前のことだが、外交官職を担う貴族がほとんどだ。その中でも、今年の卒業生であるガランサシャやクシェルはかなり若々しい顔ぶれで、在校生である私やジギタリウスなどは最年少にあたる。

 使節団は幾つかの馬車で隊列を組むようにして移動しているが、歳の近さゆえか私とガランサシャは同じ馬車に配置され、二人きりで揺られていた。仲良くするつもりなどなくても会話は生まれる。

 ガランサシャはさきほどの私の返事に、「それもそうよね、」と笑んで返した。


「今の貴女は社交界で引く手数多でしょうし、わざわざラムールに赴いてまで婚約相手を探す必要もないのだから。解せないと言えば解せないけれどね。これほど都合のよろしい時期に、逃げるようにリーベを出なくてもよいのではないの?」


 逃げるようにではなく本当に逃げだしたのだ。婚約相手を探すのではなく、探したくなくてラムールに赴いている。

 私はこれ以上突っこまれたくなくて、話をすり替えることにした。


「それよりも、元気そうね、貴女。フェアリッテが王太子妃に選ばれてむしゃくしゃしているんじゃなかったの。ジギタリウスからそう聞いていたけれど」

「そんな時期もありましたかしら」ガランサシャはなんでもないように答える。「しかし、最早、王太子妃に未練はありませんわ。おそらくディアナ嬢も同じ考えでしてよ」

「ディアナ?」私は顔を顰めた。「どうして彼女の名前が出てくるの? というより、貴女、彼女のことを名前で呼んでいたかしら?」

「ふふふ。プリマヴィーラ嬢は近頃とんと社交界でお目にかからないものね。私、ディアナ嬢と仲良くなりましたのよ。昨日の敵は今日の友ですね。実は文通もしておりますの」


 馬車に揺られているあいだ、ガランサシャは、あらかじめ持ちこんでいたらしい大量の手紙に目を通していた。そのうちの一つにはディアナのものも含まれていたのかもしれない。

 しかし、かつて雪月花の姫君として鎬を削った彼女たちが、雪のひとと月のひとが、仲良く手を取り合うことがあるだろうか。まさかとは思うけれど、なにかよからぬことを目論んでいるのでは。

 そんなことに思いを巡らせていると、それを目敏く感じ取ったガランサシャが「あらあら、心外ですわねえ」とわざとらしく肩を竦めた。


「ディアナ嬢とは利害が一致したまでよ。私たちは目的を違えているのだから、そもそも敵対する理由がなかったということ」

「王太子妃の座をめぐって争ったというのに?」

「けれど、彼女の真の目的は違うでしょう?」

「■■■■■■■■■■■■■ことだものね」


 口に出して、私は驚愕した。たしかに台詞を発したはずなのに、音は捻じ曲がり、正しいものとして聴覚が拾いあげなかったのだ。体面にいるガランサシャも目を見開かせている。その顔のまま、「これが《調停の祝福》でしょうね」とこぼした。

 ディアナの本懐たる運命殺しについては、ノイモンド・フォン・シックザールの《調停の祝福》により、一切口外できないようになっている。同様に、ディアナは私のしでかした罪についても、一切口外できない。


「……ともかく、王太子妃になることが真の目的ではなかったから、貴女とディアナが手を組むのはなんらおかしくはない、ということね」

「手を組むだなんて。お互いに助け合いましょうと申しでただけよ」

「けれど、貴女はどうなの? 未練はないと言うけれど、貴女はたしかに王太子妃になろうとしていたじゃない。それを諦めたなら、次の貴女の目的はなに?」

「あら。貴女に話してなんになるかしら」


 ガランサシャはにっこりと笑んで告げた。

 嫌な女である。

 私が鼻を鳴らすと、ガランサシャは言葉を続ける。


「気分を害さないでくださいな。言葉のとおりよ。プリマヴィーラ嬢に話したところでなんともならない話なのです」

「ディアナに話せばどうにかなるの? 彼女は王太子妃でも聖女でもなんでもない、ただの侯爵家の令嬢だというのに」

「いまはね」

「はい?」

「帝国に嫁いではどうかと提案しましたの」

「……はい?」

「貴女にリーベの王妃は役不足でしょうと。彼女の真の目的には生半可な地位では足りませんし、より大国の皇妃に、いえ、皇后になってはいかがかと、お話したのよ」


 私はいま自分が息をしているかもわからないほどに驚いていた。皇后になったディアナは——想像に難くなかった。彼女ならなにがなんでも登りつめるに違いないと思った。そういう意味では、彼女がリーベ王妃の座を諦めてくれてよかったと言えるけれど、代わりに帝国の皇后とは、ぞっとする話である。

 しかし、意外だ。帝国の皇后ならば、ガランサシャだって狙うだろうなと思っていたので。ディアナと同じくらい、ガランサシャがその座に就くのは想像できた。


「王太子妃争いを終えて、わかったことがあるのです」ガランサシャは言った。「私たちはどれだけ努力したところで、結局は選ばれる側なんだわ」


 ベルトラント殿下が選んだのはフェアリッテだったけれど、ガランサシャもディアナも、リーベで指折りの才女だった。家柄も能力も兼ね備えた、美しき令嬢たち。雪や月や花として喩えられた彼女たちは、本来ならば一人一人が夢物語の姫君のような存在なのだ。

 ガランサシャは私に引く手数多だと言ったけれど、彼女こそよっぽど手を差しだされているはずだ。王太子妃として選ばれなかったとはいえ、候補として名の上がったボースハイトのご令嬢なのだから。

 婚姻をするにも適齢期。我こそはと名を挙げる家は多いはず。誰もが彼女を選ぶ。


「私は選ぶ側に回りたい。己の才覚を、力量を、存分に発揮して、それを評価されるでも称賛されるでもなく、私は素晴らしいと胸を張りたいのです。ディアナ嬢と仲良くするのは、そんな未来への積み重ねと言ったところかしら」


 そんな話をしているうちに、馬車は深い森を抜けたらしい。燃える空の下、夏の匂いを帯びた木々の向こう側に、大きな城が見えた。ラムールの貴族・ジャルダン家の城だ。

 屋敷をかまえるリーベの貴族とは違い、ラムールの貴族は各地の城を守る城主である。つまり、ジャルダン家は一城の主というわけだ。リーベの宮殿よりは小ぶりではあるものの、貴族の邸とは比べ物にならない荘厳な建物で、私もガランサシャもほうっと息をついた。

 城門の前で馬車は止まり、形式上の検閲ののち、私たちは通される。馬車を下りると、家令らしき高年の男を先頭に、多くのメイドたちが「ようこそおいでくださいました」と出迎えてくれた。

 使用人にしてもなかなかの規模だ。他国の貴族の出迎えだけで、これだけの人数を割けるのなら、全員でどれくらい仕えているだろう。

 田舎貴族とはいえ西海岸を束ねるアウフムッシェル家でも、アウフムッシェル伯爵の近侍兼家令に、家令補佐たる執事が一人、夫人の侍女、乳母、シェフ、庭師、御者二人、女中が数人と、両手で数えたのち指を折るかというほどの人数を抱えるのみだ。客人の出迎えなど、どれだけ人数を割けても三人ほど。

 城の風格と出迎えだけで、ジャルダン家がラムールでも力のある貴族であろうことが伺えた。

 私たちは長旅の疲れを癒やすため、離宮の部屋まで通してもらった。案内された部屋がここで寝起きする仮住まいにもなる。日が暮れるまでは各々自由に寛ぐよう告げられた。夜には歓迎の宴に出席する流れだ。

 荷解きさえ後回しにしてベッドへと身を投げ出したかったけれど、宴への支度を考えれば時間はあまりなかった。そのため、ジャルダン家のメイドに世話をされながら湯浴みだけをして、用意された夜会用のドレスへと着替えたのだった。

 準備を終えて宴の広間へ辿り着けば、すでに何人もの者が集まっていた。使節団の慰労のために、今宵の宴は夜会のように催されると聞いた。ラムールの音楽家が艶のある音色を奏でている。ジャルダン家の親戚筋の家や交流のある家門なども参加しているらしく、まるで小規模なパーティーだ。

 私がぼんやりと立ち竦んでいると、背後から声をかけられる。


「よい夜ですね、アウフムッシェル嬢」

「シックザール小侯爵」私は振り返って挨拶をする。「ご無沙汰しております」


 ノイモンド・フォン・シックザール。

 五大侯爵家の一つであるシックザール家の令息で、王太子妃争いをした月のひと——ディアナ・フォン・ミットライトを後押しする派閥にいた男だ。

 とはいえ、彼は、最後の最後でとんだ手の平返しをディアナにしてくれたわけだけれど、あの後、二人がどうなったかは、私の知るところではない。

 シックザール小侯爵と目線を合わせると、彼を仰ぎ見るような姿勢になる。彼は私と五つほど歳が離れているはずだけれど、それを差し引いても、彼は上背がある。私を気遣ってか、彼は数歩だけ後ずさった。


「意外ですね。アウフムッシェル嬢がラムールに興味があるとは」

「ふふふ、この数日でよく言われるようになりました」微塵も興味がないことは言っていないけれど。「シックザール小侯爵も、ラムールに興味がおありで?」

「ラムールもリーベと同じく運命ファタリテートを信仰しておりますから、シックザール家として、交流の機会は少なくありません。使節団として参加したというよりは、シックザール家の者として出向いたようなものです」


 シックザール家は神聖院と深い繋がりを持っており、かつて運命信仰を広めた立役者と言える家門である。

 ディアナが聖女として他国へ赴くこともあると聞くし、彼がそれに付き添うこともあるだろう。


「しかし、アウフムッシェル嬢。ラムールの装いもお似合いですね」彼は厭味いやみのない微笑を浮かべる。「いつもと雰囲気が違うので、一瞬どなたかと思いましたが、まるで貴女のために手がけられたかのようです」


 私たち使節団の面々は、ジャルダン家から用意された衣装を着用している。当然ラムール製で、リーベの夜会で着るようなドレスとは異なり、かなり独特だ。

 まず、ウエストの位置が高い。これは普段着用と夜会用のどちらにも見られるラムール製の特徴だ。たしかに高い位置で絞りこんだ形だと胸元は豊かに見えるし、すらりと落ちるドレスの裾は上品で、優美なシルエットになる。リーベと比べるとトレーンも少し長いが、足元の煩わしさは感じさせない。

 また、露出も最小限に抑えられている。夜会用になると肩や鎖骨や背中など、ある程度の肌を見せるリーベとは違い、ラムールでは夏でも腕を見せることは珍しい。ドレスの膨らんだ袖には縦に切りこみが入っていて、中に着こんでいる詰襟のブラウスの純白が眩く覗いている。

 ドレスの中にブラウスを着ているなんて、リーベでは普段着用でなければまずないことだが、ラムールではそれが普通なのだ。貞淑であることが女性には求められる。リーベから来た私たちも、「あまり肌は見せないように」ということで、ラムールの衣装を用意されたのだ。

 他にも、生地の質感を活かすため、装飾は少ないという特徴がある。静かな真珠や繊細なレースなどは見られても、大仰なフリルやさんざめくビジューがあしらわれることはほぼなかった。あったとしても控えめで、あくまでもドレスの生地を際立たせるためだ。

 私がいま着ているドレスも、光沢のある真紅と金の刺繍があるのみ。うなじを見せないよう髪は下ろしている。カチューシャのようなヘッドドレスのおかげでみすぼらしくは見えないはずだ。


「シックザール小侯爵もお似合いですよ」私はマナーどおりに褒め返す。「やはり、男性の服も、リーベとラムールでは形が異なりますね。小侯爵は背もお高いので、すらりとして見えます」


 一方で、紳士服の装いについては、リーベよりも派手だ。軽やかなフリルのあしらわれた襟元が目立ち、ボタンにいたるまで繊細な刺繍が施されている。

 彼は濃紺の生地に金の刺繍が映える装いをしており、その髪も優雅に撫でつけていた。


「光栄です。貴女にそう言われると、面映い気持ちになりますね」


 見事なものだ。褒め返したのに、さらに上回られた気分だった。

 シックザール小侯爵は社交的な性格だ。謙虚な仕草も、それでいて一貫して相手を褒めそやす姿勢も、なに一つ厭味いやみがなく、人好きのするものだった。社交人としてはフェアリッテの性質に近いだろう。

 シックザールとしての所用のためとのことだったけれど、そうでなくとも、彼ならば使節団の一人に他薦されていたかもしれない。

 そこで、彼は視線を上げて、「いらっしゃいましたね、」とこぼす。私も彼の視線の先を追う。遠くのほうには、艶々とした瞳を持つ、恰幅のいい紳士がいた。


「あちらにいらっしゃるのが、ジャルダン家の現当主フレーズ・ル・ジャルダン卿です」


 私も「彼が」と頷く。

 逃避行に近いラムール訪問とはいえ、私も視察団の端くれとして、ジャルダン家の面々については頭に入っている。

 現当主フレーズ・ル・ジャルダン。ラムールの辺境伯にして、生地や縫製の売買により富を築いた豪商と聞いている。

 ブルーメンブラット辺境伯よりも幾分か年老いた印象のある男で、十も離れた妻がいるはずだ。おそらく、隣に侍っている、か弱そうな女性が、彼の妻ミエル・ル・ジャルダン夫人だろう。

 夫妻には二人の子供がいて、夫人の生き写しのような顔立ちをしていると聞く。おそらく、夫妻の少し離れたところで人形のようにじっとしている令息と令嬢がそうだろう。

 ジャルダン家の長男であるノワイエ・ル・ジャルダンと、その双子の姉であるオルタンシア・ル・ジャルダン。

 二人とも、顔立ちは母親譲りだったけれど、瞳と髪の色は違っていた。薄青と見紛うような淡い灰色の瞳に、香ばしい飴色の髪をしている。

 ノワイエはチョコレートのように落ち着いた色合いの装いで、シャンデリアの光を受けるたびに金色の刺繍が煌々としていた。

 ふと目が合ったので、私は軽く微笑む。

 しかし、ノワイエはついとそっぽを向いてしまった。愛想のない男だ。たしか私よりも二つ年下だったはずだったけれど、令息ならば社交界デビューはとっくに済ませているはずだし、愛想がないというか礼儀がなっていない。ただ、友好関係を築くことがラムール訪問の目的なので、今回は目を瞑ってやることにする。

 ノワイエの隣に並ぶオルタンシアは、薄紫のドレスを着ており、ドレスと同じ色の小花たちが、長い髪に色を差すように飾られている。そのいでたちはまさしく紫陽花オルタンシア

 病弱なオルタンシアはデビュタントを遅らせたらしく、社交界にデビューしてから日が浅いと聞いている。そのためか、背後には背筋の綺麗なシャペロンを控えさせていた。

 私がオルタンシアを見つめていると、彼は耳打ちするように私に告げる。


「アウフムッシェル嬢は、オルタンシア嬢のお相手をする機会が増えるでしょう」

「心得ています」


 使節団まで編成するような交流会で、未熟な令嬢令息に、重要な仕事を任せることはない。私が特別に畏まったり、必要以上に当主と話す必要はないのだ。そういうことは爵位を持つ大人の仕事なので、爵位を持たない子供は、子供同士仲を深めましょう、ということである。

 つまり、私の仕事は、リーベの令嬢としてラムールの令嬢や令息たちと交流し、互いについて理解を深めることなのだ。

 そういうわけで、私は緩やかな微笑みを浮かべながら、ラムールの令嬢たちへと声をかけていく。ドレスの裾を浮かせた跪礼カーテシーで敬意を示しつつ、へりくだった印象にならないよう、右手は毅然として胸元へ添える。淑女の方便はこの二年で板についてきた。淀みもなく「白百合のようなドレスがお似合いですね」「まあ素敵ですわ」「そのようなお心遣い、感謝いたします」と言葉を吐く。相手のお世辞にも喜ぶふりをして流せば、談笑と呼べる程度の会話にはなっていた。

 管弦楽と歌姫の声が華やかに響く中、しずしずと控えめな足音がこちらへ近づく。

 オルタンシア・ル・ジャルダンと彼女のシャペロンだった。

 私がすぐさま跪礼カーテシーで迎えると、オルタンシアもおもむろにドレスの裾をつまみ、跪礼カーテシーでお辞儀をした。デビューしたての令嬢と考えれば及第点の出来栄えだった。


「オルタンシア・ル・ジャルダンさま。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません。リーベから参りました、プリマヴィーラ・アウフムッシェルと申します」

「こちらこそ、別の方とすっかり話しこんでしまいましたので、なかなかお声がけできずにおりました。お初にお目にかかります。オルタンシア・ル・ジャルダンにございます」


 そう言うと、オルタンシアはすっと背後に目を遣って、「こちらは私に付き添ってくださるネリー・ブーレンビリエ夫人です」とシャペロンを紹介した。ブーレンビリエ夫人が「はじめまして、アウフムッシェル嬢」と薄く笑んだので、私も「はじめまして。よろしくお願いいたします」とお辞儀をする。

 さきほどまで話していた私と令嬢が、「聞いてください、オルタンシアさま」と朗らかに話の輪へ誘う。


「アウフムッシェル嬢は狩りをされるそうですよ。馬を走らせるのも弓を射るのもお上手だと伺いましたわ」

「そうなのですか?」

「自慢できるほどの腕前ではございません」

「せっかくですし、滞在されているあいだ、ジャルダンの森でも狩りをなさってくださいね。父も弟のノワイエもよく出かけるので、天気のよい日にでもぜひ。その際は私から話を通しておきますので」

「お心遣い、感謝いたしますわ」

「アウフムッシェル嬢は織物などもされますか?」

「最後にしたのは謝肉祭のころですね。皆さんはよくされるのですか?」

「ええ。去年まではこの時期にブルーメンブラット家のフェアリッテさまがいらしていたので、よく一緒に刺繍で遊んだものです」

「アウフムッシェル嬢はリーベにいらっしゃるのですし、フェアリッテさまともお話はされますか?」


 どういう意図でフェアリッテの名前を出したのかしらと顔色を窺ったものの、彼女たちには悪意や害意はなさそうで、思い出話に花を咲かせるのと地続きの表情だ。

 もしかして、私がブルーメンブラットの私生児だと知らないのかも。

 ラムールに来てからずっとアウフムッシェルの姓で名乗っているし、わざわざフェアリッテと異母姉妹という建前を口にすることもなかった。そして、当然だが、私とフェアリッテは顔が似ているということはないので、言及されなければ絶対に縁者だとは思わない。

 私が、かつて社交界で蔑まれたようなブルーメンブラットの私生児だと、彼女たちの誰も知らないのだ。

 肩透かしを食らったような気分だけれど、ならば、わざわざ明かしてやる必要もない。


「ええ。フェアリッテとは学友ですので」

「まあ! そうだったのですね」

「今年はフェアリッテさまがいらっしゃらず、そのことはとても残念でしたの。彼女はお元気にしてらっしゃいますか?」

「もちろんです。リーベの王太子であらせられるベルトラント殿下と婚約したことは?」

「聞いておりますわ!」

「素晴らしいお話ですよね。私たちも我が事のように嬉しく思っております」


 ブーレンビリエ夫人がそっとオルタンシアを見遣る。すると、オルタンシアは思い出したのを誤魔化すように背筋を正し、私へと告げた。


「本来ならば、直接祝いの言葉を述べたかったのですが……フェアリッテさまはお忙しいでしょうし、お手紙とプレゼントを贈らせていただきたく存じます。使節団の方に預けてもよろしいでしょうか?」


 なるほど。ジャルダン家からブルーメンブラット家への祝いというわけか。否、それならばすでに当主が贈っているはずなので、これはオルタンシア・ル・ジャルダンからフェアリッテ・フォン・ブルーメンブラットへの祝いなのだろう。

 貴族の娘としての礼儀に近い。家名を背負う令嬢として、これからも親交を続けたいという、ささやかな意思表示だ。


「もちろんです。フェアリッテも喜ぶでしょう。必ず届けますわ」


 私がそう言うと、オルタンシアはわかりやすくほっとした顔をした。

 初々しい態度で新鮮だ。私が新入生だったころもこんな感じだったのかしら。

 それからどれほどが経っただろうか。シックザール小侯爵と歳の近いラムールの貴族と談笑しはじめていて、堅苦しい空気のほどけてきたころだった。

 元々そのように打ち合わせをしていたのだろう。広間で美しい歌声を響かせていた者に混じって、ガランサシャも歌を披露した。ラムールとの親交を深めるためか、リーベではなくラムールの曲で。

 リーベとラムールの言語は方言ほどの差異しかなかったが、それさえも擦り合わせた完璧な歌唱で、ガランサシャは華やかに歌い切った。ここに呼ばれた音楽家や歌姫は、みんな金で雇われたプロだろう。その中に混じって自らの歌声を大勢の前で披露したのだから、大した度胸である。

 皆が拍手を送るなか、ひそひそと「まあ」「なんてこと」「あちらの方は?」と令嬢たちが漏らしているのが聞こえた。

 ちりちりと火をつけられているような妙な囁きだ。そこには驚き以外にも蔑みが滲んでいるような気がしたので、おや、と私は目を眇める。


「見事でした。ボースハイト嬢。素晴らしい歌声をありがとうございます!」


 フレーズ・ル・ジャルダンの一声で、より盛大な拍手を贈られたガランサシャは、真っ白い微笑みを浮かべながらこちらへ近づいてきた。

 ガランサシャは、月光に当たるとひらひらと繊細な文様がきらめくような、鮮やかな深緑のドレスを着こなしている。珍しく髪は結わえており、このラムールでそのスタイルを選んだのは詰襟のドレスだったからだろう。彼女のすらりと細い首筋が晒されることはなかった。


「お疲れさまです。ボースハイト嬢」最初に声をかけたのはブーレンビリエ夫人だ。「こちらが聞き惚れるような素敵な歌でした」

「ありがとうございます。今日のために練習した甲斐がありましたわ」


 ガランサシャと一緒に歌っていた歌姫たちも、喉を休めるためか、歌を止めていた。

 広間には華やかな管弦楽だけが流れる。

 そのために、令嬢たちの声は嫌に大きく感じられた。


「私は、少し驚きましたわ……ラムールでは貴族女性が歌うことはありませんもの」

「ボースハイト嬢のお気持ちはとても嬉しいのですが、次からは控えられたほうがよろしくてよ」

「オルタンシアさまも誤解しないでくださいね、こういうことは滅多にないのですから」

「そうなのですか?」

「ええ! しかし、リーベの文化を知ることができて、私たちも勉強になりました。ボースハイト嬢自ら歌声を披露されるとは……もしかして次は、踊り子のように舞を披露してくださるのでしょうか」


 冗談めかしてくすくすと笑う。他の令嬢たちもそれに合わせて笑っていた。そのうちの一人が、「芸人の真似事など、私なら恥ずかしくてできません」と漏らす。

 なるほど。ラムールでは、歌や踊りを目的に宴に呼ばれる女は軽視されるらしい。

 彼女たちはまるで見せ物のように軽んじているし、実際にそのように振る舞えば軽んじられるのだろう。あるいは、芸で貴族に、特に男に取り入ろうとする者を見下しているのかもしれない。そういう侮蔑が、彼女たちの言葉の端々から感じられた。

 波風を立てないようガランサシャにも気を配ってはいるのだろうが、それでも、歌姫と共に芸を披露したガランサシャを蔑む心意は滲んでいた。シャペロンであるブーレンビリエ夫人は、この場で唯一の大人の女性だったけれど、笑う令嬢たちを叱ることもなく、涼しい顔をしている。

 私は私で、この状況の珍しさに、間を抜かしていた。私がそばにいながら、私でなくガランサシャが笑い物にされることがあるなんて!

 しかし、この状況を面白がるには、時間が足りなかった。何故なら、ガランサシャが口を開いたので。


「あら。ラムールは文化の最先端だと思っておりましたのに、声楽を極める者に対しての待遇はよろしくありませんのね」


 ガランサシャは堂々としている。自分を侮って笑い者にしている人間がこれだけいるなかで、まるで自分にだけシャンデリアの光が降りているかのような威容だ。

 ドレスよりも深い色合いの扇子を己の顎に翳し、ゆらりと首を傾げる。


「話には伺っておりましたが、まさかここまでとは……おいたわしいわ、リーベでなら、いえ、私なら、才気溢れる貴重な人材に対してそのような扱いはいたしませんのに」


 ここまでの発言なら、まだ予想のできる応酬だった。予想のできないことをするのだろうと予想させる意味で、予定調和だ。

 もう少しでも狼狽えてくれたなら驚けたものを。王太子妃争いを経て、私はじゅうぶんに理解している。彼女はあのガランサシャ・フォン・ボースバイト。ここがラムールであろうとどこであろうと、一歩だって退いたりしない。

 ガランサシャは、目の前で笑う令嬢たちではなく、少し離れたところで佇んでいた歌姫たちへ振り返り、しかと告げる。


「ここにいる盆暗たちにはわからずとも、貴女たちの類稀なる才能を、私はきちんと見抜いていてよ。みんなまとめてリーベへいらっしゃいな。いまよりもよい条件でボースバイトが後援いたしましょう」


 令嬢の一人が「はっ?」と素っ頓狂な声を漏らした。他の令嬢たちも、突飛になんの話を持ちだしてきたのかと混乱し、石像のように固まっている。

 オルタンシアだけはわけもわからずおろおろとしていて、一方のブーレンビリエ夫人は目を見開かせながらも眉を険しくしていた。

 しかし、ガランサシャに声をかけられた歌姫たちは違った。先刻までこちらの話を傍聴していたらしく、自分たちを侮る令嬢たちを見る目は冷たかったけれど、ガランサシャを見つめる眼差しは真剣だった。

 その眼差しに応えるようにガランサシャは微笑んで、「私は本気よ」と言葉を重ねる。

 すると、どこからともなく現れたジギタリウスが「詳しいお話は別室で」「周りに興味のありそうな音楽家がいましたら、ぜひ声をかけておいてください」と歌姫たちに声をかけていく。彼に案内されるままに、歌姫たちは広間を出て行った。

 手慣れすぎている。もしかしたら、ガランサシャは、歌を披露する前の楽屋で、すでに話を通していたに違いない。いや、今日昨日のことではないのかも。馬車の中で確認していた大量の手紙、もしやあれも関係しているのではないか。

 才能のある者の引き抜き。ボースハイト家が、あるいはガランサシャが使節団に加わったのは、全てこのためだったのかもしれない。

 ようやっと正気を取り戻したらしい令嬢たちは、どこか強張った表情でガランサシャを問いつめる。


「ラムールで活躍する芸人や音楽家をみんなまとめて買収するおつもりですか?」

「まあ、人聞きの悪いことをおっしゃるのね。これでは私が悪者ではありませんか。私はただ、才能ある者はその力量にふさわしい場所にいるべきだと思ったまで……皆さんがいらないというから欲しいと言っただけですのに」

「そんな」

「別に、いらないとは、」

「だって、皆さんにとっては恥ずかしいことなのでしょう? 目利きのなさこそ私にとっては恥ずべきことですが、その有無にしたところで才能と呼べるでしょうし、自らの学の浅さをお気に病む必要はありませんわ。私が教えてさしあげますから」


 有無を言わさない態度でガランサシャは捲し立てる。絶好調の彼女は雪崩みたいなものだから、正攻法では誰も止められない。

 ガランサシャは、呆気に取られる令嬢たちの顔をそれぞれ一瞥したのち、一人の令嬢へと視線を戻す。扇子を広げて口元を隠したとて、その瞳がせせら笑っていたのが、はっきりとわかった。


「貴女は背が高いから舞に向いてらっしゃると思うわ。ボースハイトの名で買ってあげてもよくってよ」


 ブーレンビリエ夫人の息を呑む音が聞こえた。私の失笑も、その音に掻き消されたことを願う。

 ガランサシャに嗤われた令嬢を、ちらりと見遣る。これ以上ない侮辱を受けたという顔で肩を震わせていた。

 そうよね、まさか自分が笑い者の見せ物扱いされるなんて、思ってもみなかったわよね。リーベとラムールの親交なんて鼻息で飛んでしまうわ。

 すると、凍りついたこの場に足を向ける者が一人現れた。にこやかな目尻を持つ紳士で、一直線にガランサシャヘと近づいた。

 彼が「ボースハイト嬢」と声をかけると、ガランサシャは「あら、ブーレンビリエ伯爵」と向き直った。その名前から、ブーレンビリエ夫人は彼の奥方なのだろうと察することができた。

 伯爵は事の成り行きを眺めていたのか、取り成そうとするような態度でガランサシャに接した。


「申し訳ありません。ボースハイト嬢。とんだご無礼がありましたようで」

「そのようなことはありませんわ。ラムールの文化を勉強する機会に恵まれ、私は満足しておりますもの」

「寛大に受け止めてくださり、誠にありがとうございます。しかし、きっと気分を害したことは事実でしょう」

「伯爵が心を痛めるようなことではありませんわ。私だって相手の気分を害してしまうことはありますからね」


 気分を害していないとは返さなかった。

 なので、伯爵は「ボースハイト嬢へ謝罪を」と令嬢たちに促す。

 先導したのはオルタンシアだった。そもそも世間知らずだったために状況をよく理解していないのだろう。大人に叱られたことに気を止むように、素直に「申し訳ありません」と頭を下げた。

 他の令嬢たちやブーレンビリエ夫人もガランサシャヘ詫びていく。自分を侮った娘たちに謝らせたというのに、「お気になさらず」という言葉は彼女たちにではなく伯爵に告げた。はなから彼女たちなど眼中にないらしい。

 ガランサシャは「それよりも、」と伯爵に言葉を続けた。


「先ほどお伝えしたように、やはりラムールの音楽家たちには目を瞠るものがあります。私の父も最近はラムールの歌ばかり聞いておりますのよ。今宵、素晴らしい宴の席で傾聴できて、私も嬉しい限りです」

「そのようにラムールの芸学を気に入っていただけたのは光栄です。歌を披露したあの者たちは、本当にボースハイト家が?」

「そうそう。そのことを、この場を用意してくださったジャルダン家や皆さまにも、ご相談させていただきたかったのです。彼女たちとは以前から個人的なやりとりをしておりましたし、最終的な判断は彼女たち次第でしょうけれど、ラムールの貴族の方々が目にかけている方がいらっしゃるなら、その者までリーベへと誘うのは、私たちボースハイトの本意ではありませんので」


 令嬢たちの前では強く出たものの、実際、ガランサシャは早急に話を進めるつもりはなかったのだろう。伯爵との応酬は毅然としていながらも、社交人としての礼儀も見られた。べらぼうに敵を作りながら、味方につけるべき相手はきちん選ぶ。この女はそういう性質たちだ。

 令嬢も夫人も口を噤むしかないなか、滔々と語るガランサシャの態度は、自分は爵位のある者とも対等に渡り合えるのだというアピールにも見えた。

 そこで、別の貴族に声をかけられたので、私は微笑みを湛えながらそれに応えた。ラムールの夏の夜はまだまだ続く。

 憂鬱ななにもかもから目を背けたくて、遥々ラムールまで逃げだしたけれど、思ったよりも見応えのある遊学になりそうだ。

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