第23話 錦上に時の花の挿頭を
ディアナ・フォン・ミットライトが一度ならず二度までも学年一位の座を他の生徒に譲ったという話は、瞬く間に校内で轟いた。
夏の草の月、学年末試験が終わり、その結果が返却されると同時に、クラスメイトは自分の結果さえ後回しにして、ディアナとフィデリオを見遣った。ちなみに、前年の狩猟祭と同様、実際の金銭取引はおこなわれないものの、「トラウトの名に賭けて」「マイヤーの名に賭けて」と、貴族の誇りが軽率に賭けられていたらしいが、前回のときとは違い、王太子妃争いに少なからず影響を与えるとなると、家の名を賭けるのは妥当と言えた。
固唾を飲みながら見守るなか、提示された二人の結果は——ディアナが全科目満点、フィデリオが全科目満点にプラス五点というものだった。
二人は筆記実技共に一つのミスもない完璧なスコアを叩きだしたのだが、勝敗を分けたのはもちろんその五点。
経営学の試験の論述問題において、フィデリオは満点以上の内容を提出したのだという。
なんでも、試験前、フィデリオは経営学の教師に多くの質問をし、また、自分の考えについての助言を聞きに行ったそうだ。その中で経営学の試験の傾向を深く探ったのは言うまでもなかろうが、その前向きな姿勢と改善の末、実際の試験で提出された論述は、経営学教師の想定を遥かに上回る素晴らしい出来だったそうだ。
あまりに抜きん出たその解に加点をする他なく、結果、フィデリオはディアナの得られなかった五点を勝ち得たというわけである。
もしディアナに余裕があれば、フィデリオと同じように、経営学の教師のもとへ通うことができたかもしれない。しかし、彼女の自由時間はほとんど無に等しく、試験対策さえ全員が寝静まった真夜中にしていたほどだ。自分なりに研鑽するのに精一杯だったはず。
いや、もしかしたら、ディアナに余裕があったとしても、フィデリオと同じことはできなかったかもしれない。ディアナは聖女だから、完全無欠な体裁を守るため、教師に質問をしに行くなんて泥臭い真似はできないだろうから。
とにもかくにも、この結果を受けて、さらに盤上は動く。
フィデリオの優秀な成績はすぐさま社交界でも噂されるようになり、また、選択教養では際立った成績を修めたギュンターの功もあり、未来のブルーメンブラットの周りには類い稀な人材が揃うことが予見された。
これにより、この終盤まで事態を見守っていた中立派がまず傾いた。
次に、煽られるようにして鞍替えをした中堅貴族、その後を追うようにあらゆる家々が流れに流れ。
そしてついに、王室からブルーメンブラットへと、書簡が届いたのだった。
質のいい巻き紙を金系で結び、王家の紋章の押された赤い蝋で封をしたそれは、一目で並一通りの要件でないことが伺い知れただろう。本来ならば可及的速やかに確認すべきものだろうに、しかし、その手紙を受け取ったブルーメンブラット夫人は緊張のあまり一晩寝かせ、翌朝それを見せられたブルーメンブラット辺境伯は驚愕のあまりさらにもう一晩寝かせたらしい。
二晩を経てようやっと開かれた手紙には、もちろん、第一王子ベルトラント殿下との婚約の内定についてが書かれていた。
夢幻と疑ったブルーメンブラット夫妻はここからさらに一晩寝かせ、朝起きても現実であることを確認してから、学び舎にいる娘や親戚、後援してくれた貴族たちに、内密の文を飛ばしたのだという。三日三晩も寝かされた鮮度に乏しい報せだったけれど、受け取った者はそんなことも気にせず、諸手を挙げて祝福した。
私も、先日、アウフムッシェル家からの文を受け——あの家、特に夫人から私に宛てて文を届けることはそうない。よほど嬉しかったと見える——フェアリッテと殿下の婚約が内定したことを知った。まだ正式な発表はしておらず、一部の家にのみ伝えていることであるため、軽々しく吹聴しないようにと、畏まった字で言いつけられた。万が一、この情報が先に出回り、ガランサシャやディアナに訝しまれては、よからぬ策を弄される可能性もある。私は夫人の言いつけをお行儀よく守ることにした。
私は夫人からの手紙を部屋の机の引き出しにそっと隠して、ぼんやりと窓の外を見つめる。
春は終わりを見せはじめていて、夏に咲く花が少しずつ蕾を綻ばせている時分だ。
去年の夏から始まった王太子妃争いが、ついに幕を閉じようとしている。
いろいろあったけれど、時を遡る前と同じように、フェアリッテが次期王妃として王太子妃に選ばれた。張り詰めた糸が切られたような、やっと息のできるような、現実味のないゆらゆらとした心地がする。
終わったなら、もう、いいだろうか。
全てが片づいて、なんの
晴れ間のきらきらとしたとある放課後、私はついに、フェアリッテへと声をかけた。
「——フェアリッテ、」
振り返った彼女の花咲く瞳が、わずかに膨らんで、私を見る。
その瞳とまっすぐに向き合うのをもう随分と久しく思う。鮮やかな
呼び止めたはいいものの、なんと声をかければよいかわからない。彼女は待ってくれていると思ったけれど、なにを言うべきかが見つからない。フィデリオの言葉を思い出す。時間が経てば経つほど話すのは難しくなると。嫌になるほどあの男の言うとおりだ。せめてもっと考えてから声をかけるべきだった。
なにせ、彼女の周りにいるルームメイトたちが、警戒するように私を睨みつけている。控えめな性格のリューガーについてはどちらかと言えば怯えに近かったが、自分の意見をはっきりと言うヴォルケンシュタインや、しっかり者のグラーツは、私がなにか仕出かすのを注視しているのが見てとれた。
彼女たちがなんとなく邪魔で威嚇してやりたかったけれど、そんなことをしてはさらに空気が悪くなる。私はただ、フェアリッテと話がしたいだけなのに。
「あの、」
私の舌はこの先を綴れなくなる。力なく咥内を彷徨うだけだ。響くのは呼吸だけ。
フィデリオはなんと言っていたっけ。たしか謝れと。本当は後悔していると、仲良くしたいと、愛していると、そう言えばいいと。
今言うの? 無理。
もっとこうなにかあるだろう嫌だ無理だと心のどこかで躊躇して、けれど、心のどこか以外では早く縋りたくてしょうがない気持ちでいる。誰かに許してほしいなんて思ったことがないからわからない。空っぽに等しい頭で次の言葉を組み立てる、あるいは思い出す。教えなさいよ、フィデリオ。私はまず最初になにを言うべきだった?
「……髪を切ってごめんなさい」
選び抜いたそれは、あまりに言い慣れない言葉で、きっと私は生まれて初めて、死んで初めて、甦って初めて、それを言った。
酒でも飲んだみたいに浮ついたまま、どうすればいいかわからないまま、私は素直にこの気持ちを口にした。
「貴女と仲直りがしたいんだけど、どうすれば許してくれる?」
こんなに下手くそなことがあるか。でも、それが本心で本音でどうしようもない。私は私の全部を出しきって、思いを告げた。
もう周りの目とかはどうでもいい。貴女の目だけが見える。髪型も関係も変わってしまって、それでも何一つ変わらないのは、彼女の真心の形、その輪郭くらいだ。
彼女は一つ瞬きをしてから、ルームメイトを一瞥し、「先に行って」と告げた。その返事を待たずして、私の手を取る。そうして走り出したので、私は足下の覚束ないまま彼女について行った。
訪れたのは旧校舎。寄付をした家の生徒たちが別個の部屋を所有できる建物だ。当然、辿り着いたのはブルーメンブラットの所有する花弁の間で、フェアリッテに通された私は静かに足を踏み入れる。
時を遡る前に来たときとそう変わらない部屋だった。ウォールナットな色調に、偏光する純白のレースに金装飾。家具の木目の静かさが心地よい、明るく穏やかな雰囲気だ。テーブル周りが華やかなのは、主に友人とお茶を楽しむためにこの間を使うことが多いためだろう。頻繁に手入れをしているためか、花瓶に生けられたダブル・デライトの薔薇は、萎びることも枯れることもなく、美しくそこにあった。
フェアリッテと私は、赤いソファーに隣同士で腰かけた。白や金のクッションを脇に寄せ、私たちは互いを見遣る。
どれほどの間を置いただろうか。フェアリッテはおもむろに口を開いた。
「もういいの?」
なにが、とは聞かずともわかった。たとえなにがあったとしても、私たちはいつも想い合っている。私たちは知っている。
「……もう終わったから」理由くらいは言うべきかしらと、私はさらに続けた。「ベルトラント殿下との婚約内定、おめでとう」
フェアリッテは息を呑んだ。しかし、次第にその唇は歪んでゆく。なにかを噛み締めるような、噛み砕くような形を模した。
瞳を揺らしながら、フェアリッテは「私、置いていかないでって言ったわ」と呟いた。
「そうね」
「私の気持ちを無視して、おだてたり、持ち上げたり、心を砕いたり、差しだしたりするのはやめてって。貴女はわかってくれたはずだったのに」
「うん」
「裏切られた気分だわ」
「裏切ったのよ。気分じゃなくて、本当に」
「狩猟祭のとき、自分のためだって、貴女は言ったじゃない」
「ええ、私のためよ」
「私の力になることが貴女のため?」
「特別なひとにはそうすることにしてる」
「私はちっとも嬉しくなかった」
知っている。なにかを犠牲にして与えられることをフェアリッテは嫌う。そんなこと、フィデリオに言われるよりも、良識としてよりも先に、フェアリッテが言っていた。夏休みのパーティーから、彼女はそのことに傷ついていた。
嫌がっている相手に無理に差しだすのは加害だ。私はそれを理解したうえで、下手に愛するよりは、上手に傷つけようとした。失敗して、こんなことになっている。
「それにね、フェアリッテ。後夜祭で私が貴女に言ったこと、全部が全部嘘というわけではないのよ。私たちは何一つ同じでない赤の他人だから。かつて私が傷ついたように、貴女も傷ついてくれればって、きっと思ってた」
「傷ついたわ」
「ごめんなさい」
「本当に傷ついたのよ」
「ごめんなさい」
「許す、許すわ、だけど、ずっと私はどんな気持ちでいたと思う?」フェアリッテの声はだんだんと上擦っていく。「大好きなひとと顔を合わせるのも怖いなんて、あまりにも不幸だったわ。でも、なんでって、どうすればいいのって、貴女に縋りつきたくてしょうがなかった。貴女との時間の全てを疑った。貴女のことが理解できなかった。みんなが貴女を悪く言うのにどう返せばいいかわからなかった。貴女の言葉が忘れられなかったから。よくも、よくも私に、あんな酷いことが言えたものね」
フェアリッテは喉を震わせ、今にも泣き喚きそうな顔をした。けれど、その瞳は苛烈なまでに私だけを見ている。怒っているし悲しんでいる。フェアリッテは完璧な女の子のようで、ただの女の子だから、その心は硝子のようにすぐに亀裂が入る。優しく温かいだけではない。傷ついたそこへと手を伸ばせば、私の指は切りつけられた。爛漫に咲き誇る薔薇にも棘があるのだ。彼女は花のひと。
「……ごめんなさい」
私は謝ることしかできない。
フェアリッテは私の胸に頭を
「貴女を傷つけて本当にごめんなさい。どうか許して。嫌いにならないで。私は……」
いつも想っている。いつまでも想ってやまないはずだ。貴女のことが大嫌いで大好き。憎くて愛してる。程遠いけれどそばにいたくて、傷つけたけれど笑っていてほしい。
私の庭に花なんて咲いていなかった。どこにも春なんてなかった。薔薇も浜梨も蘭花藻もない。誰かに愛されたくて傷つき疲れていた私の血ばかりが赤かった。だから、私の庭に花が咲いたのは、その花が赤かったのは、貴女のおかげだ。
「貴女の愛してくれた私と、私の愛している貴女が一緒にいる、そんな生きかたを選ぶことができて、よかったと思っているわ」
拳を開いて、フェアリッテが私を抱きしめる。私の胸ではなく肩に、その小さな頭を預けた。幾度か啜る音を鳴らして、「私もよ」とフェアリッテは頷く。
「私も、ずっと仲良くなりたいと思ってた貴女と一緒にいられる人生で、よかった」
囁かれた言葉は、フェアリッテが思うよりもきっと深く私の心に刺さった。その棘は永遠に抜けないだろう。フェアリッテの望んだものとは違う人生を、私は知っている。私は愛されないまま死んでしまったけれど、残された彼女も、愛せないまま生きたのかもしれない。
この痛みは、私がいまの人生を再び生きている証だった。
フェアリッテはすんと鼻を鳴らしてから、ゆっくりと顔を上げる。少し身を離すようにしてフェアリッテと向かい合った。その瞳は潤み、赤くなった目元からは涙が流れていた。それを人差し指で拭いながら、フェアリッテは力なく笑う。
「私ばっかり泣いててずるい」
そんなことを言うから、私も笑った。
「私も隠れてずっと泣いていたわ。フィデリオが取り乱したり笑いだしたりするくらい」
そう返すと、フェアリッテはあはあはと笑って、今度は「フィデリオったらずるい」なんて言った。
「私と違って、小さいころから貴女のそばにいるんだもの。彼のほうが貴女をよっぽど知っているんだわ」
「知らなくていいことまで知っているから憎たらしいわよ。それなのに知らないふりをしたりもするから本当に小癪」
「ねえ。プリマヴィーラ・アウフムッシェルについて教えて」フェアリッテは首を傾げて言った。「私たち、お互いのことをもっと知るべきだと思うのよ。貴女はなにが好きで、なにが嫌い?」
フェアリッテはすっかりいつもの調子だった。私は座り直しながら足を組み、ソファーに背凭れる。ちょっとだけ目を眇めて、口を開いた。
「私ね、本当は、好きなものより嫌いなもののほうが多いの。私の好きなものなんて、ほんの少ししかないのよ」
「でも、馬に乗ることは好きでしょう? だってあんなに上手なんだもの」
「アウフムッシェル邸に残した愛馬が一頭」
「名前は?」
「ゼフィア」
「
「それに気まぐれで偏屈。私以外にはなかなか懐かないところもかわいくて好きよ」
「ドレスはどう? 私たちの着るものってけっこう趣味が違うじゃない」
「ひらひらしたりぎらぎらしたり、動きにくい服はあまり好きではないの。みすぼらしいのは嫌だけど、リボンやフリルや宝石は、さほど望んではいないわ」
「では、どんなものが好きなの?」
「シルエットが綺麗なもの。なるべく落ち着いている
「うーん。淡い色や明るい色のものが手持ちには多いわね。どんな飾りも好きだけど、シルエットは大体がベルラインかしら。細身のものがあまり似合わないの。色の深いものも、かえって貧相に見えてしまうというか……だから、ヴィーラが羨ましいわ」
「羨ましい? 私のことが?」
「ええ」
私は驚いて目を丸めたのに、フェアリッテはなんでもない様子で返した。
これまで気づかなかっただけで、私がフェアリッテに憧れたように、フェアリッテが私に憧れたこともあったのかもしれない。
フェアリッテは弾んだ調子で「他には? ヴィーラは紅茶よりも珈琲が好きよね? 食べ物の趣味は?」と続ける。
「……スパイスの効いたものが好き。牛肉と玉葱のグラーシュや、サーモンのムニエル」
「甘すぎるものはあんまり好きじゃないんでしょう? ジャムたっぷりのビスケットなんて、五分と経たずに手もつけなくなるもの」
「貴女は好きよね。ジャムたっぷりのビスケット。ミルクチョコレートケーキも、バニラティーも、私の苦手なものはなんでも好き」
「嫌な言いかた。そういうのは好きじゃないわ、私」
「いいわね、嫌いなものの話もしましょう。そっちのほうが口の滑りがよいわ」
「ヴィーラったら……」
「雨は湿気があるから嫌い。勉強も試験も嫌いだけれど、馬鹿にされるのはもっと嫌いだから、がんばることにしているわ。数学自体は嫌いじゃないけれど、数学のオーマン先生は嫌い。あと、虫やネズミも嫌いよ。地下牢も」
「地下牢?」
「滑りすぎたわ」私はわざとらしく口元に手を当てる。「そういえば、アウフムッシェル伯爵夫人は私のことを嫌っているから嫌い」
「どうしてその流れで夫人が出てくるの?」
「今日はどうにも滑りがよすぎるわね。誰か私の舌にオイルでも塗ったのかしら」
「言っておくけれど、私は嫌いなひとなんていないわよ。ヴィーラの話を聞くことはできても、その話じゃあ盛り上がりたくても盛り上がれないわ」
「苦手なひとくらいいるでしょう。それこそ、ディアナ・フォン・ミットライトやガランサシャ・フォン・ボースハイトはどう?」
「ミットライト嬢は聡明で親切で素晴らしいご令嬢よ。たまに考えが合わないときがあるくらい。ボースハイト嬢については……否定はしないわ。あの方も私と仲良くしたいとは思っていないでしょうし」
「むしろリッテだって仲良くしたくはないでしょう」
「そんなことはないわ。仲良くしがたいひとがいる、というだけよ。ボースハイトで思い出したのだけれど、彼女の弟君と貴女の仲がいいという噂は本当なの?」
「根も葉もないわ。誰よ、そんな戯言で花を咲かせているやつは」
「話していたのはイドナよ。でも、イドナよりも先にみんなが言っていることだわ。貴女は彼とパーティーで踊ったこともあるくらいだし、ボースハイト家と手を組んで私を陥れようとしたようだし?」
「あれは全部が全部嘘というわけではないものの嘘のほうの話よ」
「あーあ、私が悲しんでいるあいだ、貴女はいろんな人と仲良くしていたのよね。もちろん誰かと仲を深めるのは素敵なことだし、貴女の自由だけれど、貴女を偲んでいた私に対してこれより残酷な仕打ちってある?」
「でも、おかげでベルトラント殿下と話す機会は増えたでしょう?」
「…………え、もしかしてそれのため? 嘘でしょう? 嘘だと言って!」
「信じる者は救われると言うものね。貴女の信じたいように信じましょう。かの聖女もそう言っているわ」
「だからフィデリオが手紙で、彼女は馬鹿なだけだから、って言っていたのね!」
「お待ちなさい。誰が誰に馬鹿ですって?」
と、そこで、コンコンコンという硬質な音が響く。
誰かが花弁の間の扉をノックしたのだ。
私は声を止ませる。わざわざ旧校舎の、それも、ブルーメンブラットの私室である花弁の間を尋ねるなんて、どこのどいつだろう。フェアリッテは怖ず怖ずとした様子で「どなた?」と返した。
「僕だよ、フェアリッテ」
その声は扉越しであったとしても、ベルトラント殿下のものであるとわかった。
私でもわかるのだから、フェアリッテにもわかったはずだ。驚きに目を見開かせ、途端におかしそうに肩を震わせる。
「僕とはどなたでしょうね。クシェルさまかしら」
「ええ? そんな意地悪を言う? 僕だよ、ベルトラント・エーヴィヒ・アン・リーべ」
「あら、殿下、ちっとも気づきませんでしたわ」くすくすと笑うフェアリッテは私を一瞥してから。「いま向かいますわ。少々お待ちになって」
そのように言って、フェアリッテはソファーから立ちあがる。しかし、自分の顔がみっともないのではと気づいたのか、ぎこちなく立ち止まり、制服のポケットから小さな鏡を出した。私も立ちあがってフェアリッテにハンカチを差しだした。受け取ったフェアリッテは涙がわずかに残る目元を拭い、乱れた髪を整える。そのあいだに、フェアリッテの裾が翻っていたのを整えてやる。数秒とない間、私がソファーへ座りなおしたのと、フェアリッテが扉の前へ立ったのは同時のことだった。ゆっくりとその扉が開かれる。
殿下はフェアリッテを迎えるなり、「やあ」と爽やかに微笑んだ。フェアリッテは片手で扉を開けたまま、「リーベの若き君へ、
私は立ちあがり、離れた場所から
「まさか。けれど、久しぶりに楽しく話しておりました」
「仲直りはできたようだね」
「ええ、おかげさまで」
「僕はなにもしていないよ」
「そんなことをおっしゃらないで。ずっと私たちを気遣ってくださっていたではありませんか。殿下のあたたかい言葉に救われましたわ。本当にありがとうございます」
「本当に、僕はなにもしていないし、しようとしたとしてもできなかったよ。けれど、君たちが前のように戻ってくれてよかった。アウフムッシェル嬢も……君にもいろいろあるのだろうけれど、君を大切に想っているひとはたくさんいるのだから。今後はフィデリオ卿やアーノルド卿たちにも心配をかけないようにね」
なんでそこでそいつらの名前が出てくるんだと思ったけれど、私は決して口にせず、「ご迷惑をおかけしました」と言うにとどめた。
しかし、そこで私は気づく。ベルトラント殿下とフェアリッテの婚約が内定したと聞いていたのに、目の前の二人にあるのは絶妙な緊張感だ。もちろん親しくて朗らかな雰囲気なのだけれど、どこかぎこちないというか、お互いの出かたを伺っているというか、たとえば、フェアリッテは畏まった言葉遣いから崩さないし、殿下は花弁の間に上がることを躊躇っている。婚約が内定した二人にあってもよさそうな甘やかな香りはしない。
もしかして、と頭を
「ベルトラント殿下、」私は再び立ちあがり、
あえて家の名前を出し、儀礼的な畏まった表現をしたことに、殿下は困惑していたけれど、逡巡、「ありがとう」と返す。フェアリッテの表情は少し
しょうがないから、最後にお膳立てしてやろう。少しの意地悪をこめて。
私はにっこりと笑みを浮かべて、再び口を開く。
「ボースハイト以上の経済力やミットライト以上の影響力はございませんが、ブルーメンブラットは辺境の要ということもあり、軍事力には一家言ございますもの。王室並びに殿下もその点を評価してくださったのでしょう。その期待に沿えるようがんばりますわ。でしょう? フェアリッテ」
私の言葉に、「ヴィーラ、私は、」というフェアリッテの言葉と、「アウフムッシェル嬢、僕は、」という殿下の言葉が重なる。二人はお互いに顔を見合わせて、ぽかんとした顔で固まる。遅ればせながら、気づいたみたいに。
リーベにおいて、第一王子は王太子だ。その殿下と婚約するということは王太子妃、つまり次期王妃となることを意味する。国の将来をかけた結婚なのだから、当然のごとく、地位や権威や名誉や財産や、ありとあらゆる思惑が動き、計算が蠢く。当事者が一番理解している。
だからこそフェアリッテは殿下の愛を欲した。自分自身を好きになってほしいと願った。
その願いは叶っているのに、二人の想いは通じ合っているに違いないのに、肝心の二人はそのことに気づかないでいるらしい。
気づいてしまえ。あとは口にするだけだと。
ブルーメンブラットの邸に送られた格式張った手紙よりもよっぽど大事で、
邪魔者は退散するに越したことはないので、「私はこれにて失礼しますわ」と一つお辞儀をする。それからフェアリッテに微笑んで、花弁の間を出ることにした。
入れ違いになるようにして、殿下は花弁の間へと入っていく。その扉が閉ざされる間際、「殿下、」と呼ぶフェアリッテの声が聞こえた。
「殿下にお伝えしたいことがございます」
「うん。僕も」
きっと勇気を振り絞って告げたことだろうに、お互いに呆気なかったみたいに、頓珍漢な調子だった。
本当に馬鹿みたい。白ける。がんばって損した。勝手にやっててくれと思いながら、私は聞こえないふりをする。
「とても大事な秘密みたいに、君だけに伝えたいことがあったよ」
花弁の間の扉が閉ざされる。
その後の二人の会話はダブル・デライトの薔薇だけが知っている。
「忘れ物はない? カトリナ。もしもなにか置いて帰ってしまっては、ひと夏は取り戻せないわよ。去年、お気に入りの耳飾りを忘れてしまったとかで、貴女、すっかり落ちこんでいたでしょう?」
「まだその話を引きずるの? もう大丈夫よ、パトリツィア。隈なく確認して完璧に荷物に詰めたから。もう遣いの者が馬車まで納めてくれているわ。あとはこの身一つのみよ。ところでプリマヴィーラは? 最後の荷物を詰めているようだけれど」
「もう詰め終わったわ。あとは口を閉じるだけ」
「そこが一番の重労働なのよね。もっとお利口さんならよいのに」
「手伝いましょう。私の荷物の口も
終業式を終えた私たちは、夏休みに入る。
残りの夏の草の月と、夏の文の月、夏の風の月を自領ですごすことになるのだ。
私はルームメイトであるパトリツィアとカトリナの二人と、帰り支度を進めていた。
一時はお互いに口も利けない状況で、あまりに凍えた空気のままに初夏を迎えたものだったけれど——きっかけは経営学の課題発表だったか、学年末試験を終えてからだったか、とにかく私たちはお互いに歩み寄るようになった。
まずはパトリツィアが「ルームメイトと息の詰まる関係をするのは嫌です」と言い、カトリナが「ごめんなさい」と泣きながら謝り、私は二人に頷いた。
なにもかもを話したり、許したり、取り戻したりしたわけではない。パトリツィアはきっといまでも私やカトリナを不審に思っているだろうし、カトリナは、ディアナの味方もフェアリッテの味方も、あるいは私の味方もできないまま、曖昧に静観するに終わった。
私は、後夜祭でフェアリッテにしたことの弁解を、まだ二人にはしていない。
弁解もなにも、理由はあれど私がフェアリッテを傷つけたことは真実で、そこにどんな意図があろうが揺るがない。
私とフェアリッテが仲直りをしたという噂は、春風よりも早く広まったものの、相変わらず私は腫れ物扱いだ。
ただ、フェアリッテが姉妹喧嘩だと言ってくれたことは大きく、私からこれ以上は触れないでほしいと二人に伝えると、二人はなにも言わないでいてくれた。
そして、それらのうえで「パトリツィア」や「カトリナ」と私は呼びたいと、改めて告げたのだ。
荷物が詰め終わる。私が「ありがとう」と言うと、二人は微笑んだ。
もう手紙を書きますだなんて誰も言わない。届くかもしれないし、届けるかもしれないし、届かないかもしれない。
ただ、義務ではなくなったということは、私の心を軽くした。そういう気を彼女たちには遣わなくていいのだと思えば、それは何故か価値のあることに思えてならなかった。
もし、もしも彼女たちから手紙が来たなら、そのときは、私なりにいっとう丁寧な手紙を返そうと思う。
「では、また秋に」
「ええ。秋に」
「お元気で」
そのように別れを告げて、私たちはそれぞれに去っていく。
パトリツィアが小さく手を振りながら部屋を出た。
少ししてからカトリナも立ちあがり、扉に手をかけてから、私を振り返る。
「……ミットライト嬢から言伝よ。例のものを彼に預けています、と」
私が息を止めるのも見ないうちに、カトリナは身一つで部屋を出て行った。
彼女の足音が遠ざかっていくのを私はぼんやりと聞いていた。ややあってから、閉じた荷物を持って、私は部屋を出る。
アウフムッシェルの遣わした馬車にはすでに大きな荷物は乗せ終えていた。
あとは私の持つ荷物だけだ。私が下りてきたのを見て、御者が扉を開ける。
まだフィデリオは乗っていないらしい。
御者は扉を開けたままにするのが忙しいのか、私の持ってきた荷物を上げようとしない。アウフムッシェルに帰るってこういうことよね、としみじみしながらも、そう重い荷物ではないので、私は自分で持ちあげようとした。
すると、背後から私の手の上に別の手が重ねられる。その体温も手の形も、誰のものかを判断するには至らなかったけれど、雪のような真っ白さだけは雄弁で、私は思わず睥睨した。
「ジギタリウス。なんの用?」
私が軽く見上げると、屈みこんでいた彼はにっこりと笑った。
「貴女が見えたので、つい。手を貸しますよ。天井の荷物棚に置くのですか?」
「足元でいいわ。クッションを入れているのよ。アウフムッシェルの馬車はずっと座っていると痛くなってしまうから」
「おや、大変ですね。ボースハイトの馬車で送りましょうか。そのまま貴女を連れ去ってしまうかもしれませんが」
「アウフムッシェルに帰るくらいならいっそ連れ去ってほしいところだけれど、あとで叱られるだけだからよしておくわ。とっとと荷物を置いてくださる?」
目を白黒とさせている御者に「こんにちは、失礼」と挨拶をして、ジギタリウスは馬車へと荷物を運んだ。その後、私が馬車に乗りこむまでのエスコートまで買って出る。
御者の反応が面白かったので乗ってやることにした。彼の真っ白な手を取って、私は馬車へと乗りこむ。
私が座ったのを見届けたジギタリウスは、馬車の扉を閉める。けれど、そのまま去っていくことなく、窓の外から私に話しかけてきた。
「こうして顔を合わせるのもお久しぶりですね」
御者はおろおろしながら御者台へと戻り、貝のようにじっとする。
私は窓からジギタリウスを見下ろし、「次に会うのはもっと久しくなるでしょうね」と突っ返した。
ジギタリウスは食らった様子もなく、「どうでしょうね」と告げた。
「プリマヴィーラ嬢にも、おめでとうございます、と言うべきでしょうか」
「なにが?」
「ベルトラント殿下とブルーメンブラット嬢の婚約についてです」ジギタリウスは肩を落とす。「もうすぐ開かれる王室主催のパーティーで正式に発表されることになるでしょうね。文が届いたときは家族揃って放心しました。シシィも荒れていますよ」
「そうは言っても、王太子妃候補として名が上がったのだから、第二王子のアインハルト殿下との婚姻を見込まれる可能性は高いでしょう」
「僕もそう言ったのですが、第二王子に興味はない、って」
「……あの女、いつか不敬罪で捕まるわよ」
「その日までにはシシィも権力を握っていることでしょう。弟としてはなんとか逃げきってほしいところですね」
リーベ王室以上の権力を握るなんて、それこそ帝国に嫁ぐ話になるだろう。ガランサシャに限っては本当にありえるので恐ろしい。高笑いをして、手に入れられなかったティアラの代わりに王冠を被るのかもしれない。
「ともあれ、王太子妃となる令嬢のお披露目パーティーでは、きっとお会いすることになるはずです。その際はぜひ僕とも一曲ダンスを。あの夜のように」
「また踏まれたいの?」
「生まれてこのかた貴女に踏みつけにされた足はございません」
「貴方の好運って本当に厄介」
「いやあ、よい祝福を授かりましたね」ところで、とジギタリウスは目を瞬かせる。「祝福といえば、貴女に伺いたいことがあるのですが」
私は目を眇める。《持たざる者》である私を相手に祝福について尋ねるなどと、いったいどういう了見だろう。
遠回しに馬鹿にでもしているのかしらと思ったけれど、ジギタリウスは弁明するように「ブルーメンブラット嬢の《除災の祝福》に関することなのです」と言葉を続けた。
「貴女は後夜祭であの方の髪を鋏で切りつけましたが……よく鋏が通ったものだな、と後々思い至りまして。あらゆる刃や災厄を跳ね返すのが《除災の祝福》でしょうに、貴女はどうやってその祝福を擦り抜けたのですか?」
「おかしなことを言うのね」私は鼻で笑う。「もしも《除災の祝福》が髪切り鋏さえ弾くなら、フェアリッテは一生髪を切れないわよ。あれはそういうこと」
いくら祝福を受けていようと、脅威にも満たない何気ない刃さえ跳ね返していては、日常生活さえも送りがたい。なので、そういったことに対しては、あの祝福ははたらかないのだ。
それは、私が時を遡る前に《除災の祝福》を受けていたときから理解していたことだった。
また、フェアリッテの髪を切るときは祝福が邪魔をしなくても、鋏を投げつけたときは祝福がそれを防いだ。これについてもあらかじめ予想していたことだ。
普段から悪意に曝され慣れないせいで、フェアリッテは《除災の祝福》についてそれほど理解していないだろうけれど、私は細かい制約や範囲まで知り得ている。後夜祭の一件は、その知恵を利用した行動だった。
ジギタリウスは納得したように「なるほど。そうだったのですね」と頷く。
「なに? フェアリッテを毒殺してやるだとか、ガランサシャが息巻いているの? だとしたら無駄よ。あの祝福に穴はないし、毒をも無効化するわ」
「いくらなんでも毒殺なんて、さすがのシシィでもしませんよ。純粋に疑問だっただけです。それに、そうやって裏で手を回すようなことは、シシィの考えとも違いますから。よく言っていますよ、」ジギタリウスは少し声を高くする。「“正々堂々とおやりなさい”!」
あの女から陰湿を戒められるなんてどんな茶番だと思ったけれど、言われてみれば、あの女はいつも真っ向から貶めて罵っている。絶対に隠れてこそこそなんてしない。正々堂々と、裏表なく、あからさまに悪意を振り撒く。
私が渇いた笑みを漏らすと、ジギタリウスは「ね?」と首を傾げた。
「では、フェアリッテは無事に殿下と婚姻を結べるということね。安心したわ」
「僕たちとしては残念ながら」
「もっと残念なことを一つ。内定と言っても、何人かはもうご存知のようよ」
「でしょうね。僕もクラスメイトの何人かから話を持ちだされましたし」
「人の口に税はかけられぬということね。フェアリッテのルームメイトなんて、今から式で使われるブーケのことで頭がいっぱいみたいよ。みんなどの花がいいかで盛りあがっていると聞くわ」
「令嬢らしい楽しみですね。ちなみに、プリマヴィーラ嬢の予想は?」
「家紋の薔薇が使われるのは間違いないでしょうね。二人のこれまでを考えると、芥子の花があしらわれてもおかしくはないわ。色味で調和を取るのが難しいでしょうけれど。私としてはアイビーを添えれば完璧」
「貴女も楽しんでらっしゃるようでなによりです。貴女の結婚式のブーケでも、同じように薔薇やアイビーがあしらうのでしょうか」
「考えるだけ無駄よ。私のブーケはどうせ浜梨だろうから」
「浜梨の花とは貴女らしいですね。悲しくそして美しい」
「私の趣味ではないわ。アウフムッシェル夫人ならそのように選ぶと思っただけ。いくらあの方でも家紋の帆立貝を持たせようとは思わないでしょうし」
「僕なら、貴女には
「私なら貴方には胡蝶蘭と
「光栄です。幸せになりましょうね、僕と」
「貴方とは無理。お互いの幸せを見つけましょう」
私が面白がってそう返すと、ジギタリウスは肩を竦め、「また僕は振られるんですね」とぼやいた。
またもなにも、王太子妃争いが決着したいま、ジギタリウスが私を篭絡しようとする理由はない。私がフェアリッテに害をなす一手になるという見込みは慧眼と言えたけれど、それも過去のことだ。いまとなっては私がジギタリウスに靡こうが靡くまいが、なにもかもが手遅れだった。
なので、私は答え合わせをしてやる。
「言ったでしょう。貴方が下手くそだっただけ」
かの夜にジギタリウスは言った——ボースハイトの令息の隣は、きっと今よりも見晴らしがよいでしょう。
せっかくの慧眼だったとしても、あんなので私が靡くと思っていたなら、見当違いもいいところだ。あれは完全に失策だった。
私だってフェアリッテと同じで、地位も名声もいらない。華々しいドレスや美しい宝石に興味はないし、誰かを見下ろしてやろうなどと望んではいなかった。
「貴方が私を愛すると言ったなら、私は靡いていていたかもしれないわ」
「…………」
「きっと貴方に溺れた」
ジギタリウスが真顔でぼんやりするのがおかしくて、私はくつくつと喉を鳴らす。目の前で手を打ち鳴らされた猫みたい。惜しいことをしたわね、なんて言って煽ってやろうかしら。
しかし、そのとき、ジギタリウスの背後で柔らかな栗毛が覗く。片手にトランクを携えたフィデリオが、「ンッンー」と喉を鳴らした。
ハッとジギタリウスは振り返り、「これはこれはアウフムッシェル卿」と声を弾ませる。
「君の迎えの馬車はまだ来ないのかい? よければアウフムッシェルの馬車で送ってさしあげようか」
「いえいえ。そのまま連れ去られても困ってしまうので」
「は?」
「こちらの話です。僕はここでお暇いたします」ジギタリウスは私へと向き直り、胸に手を当ててお辞儀する。「では、プリマヴィーラ嬢。よい夏を」
そう言って、ジギタリウスは去っていく。
私がその背中を見送っていると、フィデリオが馬車の扉を開けた。
御者が慌ただしくフィデリオからトランクを受け取ろうとするのを、フィデリオは「大丈夫」と言って制した。
この御者、本当にふざけている。
私が足を組んで御者を睨むと、体面に腰かけたフィデリオが私の足を爪先で小突き、無言で窘めた。いちいちうるさい男だ、しゃべってはいないが。
私がため息をついて足を下ろすと、フィデリオは窓枠に肘をつく。どこかぶっきらぼうに「それで、」と口を開いた。
「俺になにか言うことは?」
は? なんだこいつ。
私は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。そうでもしないと、飛びついて殴りかかりそうだった。
けれど、フィデリオの言いたいこともわかるのだ。憎たらしく小癪で腹は立つが、本当に嫌だが、私は素直に口を開いた。
「……フェアリッテに謝ったわ」
「のようだね」
「貴方の言ったとおり、謝って、彼女は私を許すと……仲直りができた。貴方のおかげ、だと思うわ」
「そう。よかったね」
フィデリオはこちらを見ない。まだ歩き出していない馬車の外になにか面白い風景があるわけでもあるまいに、その蜂蜜色の瞳を細めて窓の向こうを眺めている。
そんなに窓の外が気になるなら、胸倉を掴んで頭から突き落としてしまおうかしら。
よっぽどそうしてやろうとして、けれど、私はなんとか踏みとどまる。
こういうことじゃないんだろう、彼の望む言葉は。でも、私が彼にそう言うことはなにかおかしい気がするのだけれど、彼は本当にそんなものを望んでいるのだろうか。
とっくに馬車に荷物を詰め終えていた彼がいまさら持ってきた新たな荷物に、その中身に、気づかないわけがなかった。
フェアリッテに仲直りの申し出をするときと同じくらい私は困り果てて、けれど躊躇わずに告げる。
「ありがとう」
私の言葉に、フィデリオは蜂蜜色の瞳をツイとこちらへ向ける。令嬢たちが騒ぐ甘さなんでどこかへ売りに出したかのような鋭さだった。裁かれてでもいるような心地に身震いがして、けれど、私は目を逸らさなかった。
ややあってから、彼は深い深いため息をついた。その肩の動きで彼は首を
すっかり息を吐き終えてから、彼は低い声で「どういたしまして」と答えた。及第点はもらえたらしい。
「いや、もう、本当にさあ」フィデリオはだらしなく続ける。「俺はよくやったと思うよ。わからず屋で業突く張りな君のために。何度挫けそうになったか、自分の決断を呪いそうになったかわからないけど、やりとげた。もっとありがたがって」
「…………あ、」
「やっぱりいい。これ以上は言わせたことになるから。君の本心でないならいらない」
「そろそろ殴るわよ?」
「殴るなよ。じきに馬車が出る。暴れては君まで怪我をするぞ、ヴィーラ」
フィデリオの予言どおり、馬車は出た。
小刻みな振動がこの身を揺らす。アウフムッシェル領までの道のりは長い。無駄な体力を使うべきではない。
私がむっつりしていると、フィデリオは隣に置いていたトランクを持ちあげる。膝に置き、それを開けると、中からは亜麻色の毛を持つクマのぬいぐるみ——私のフレーゲル・ベアが出てきた。
「遅くなったね。誕生日おめでとう」
フィデリオはそれを私に差しだす。
私は、ずっと気にしないようにして、それでも期待していたものが目の前に差しだされたことに、喉を震わせていた。
居ても立っても居られない。今すぐ抱きしめてしまいたい。けれど、私はその欲望よりも、この瞬間に覚えた奇妙な心地に胸を打たれていた。
「大丈夫。無傷だよ」なにを勘違いしたのか、フィデリオは緩やかに微笑む。「ミットライト嬢になにを言われたかは知らないけど、そう乱暴には扱われたわけではないみたいだ。まあ、所詮はクマのぬいぐるみだしね。だけど、その価値は君が一番よく知っているはずだよ。素直に受け取るといい」
私はゆっくりと両手を出す。
フレーゲル・ベアの脇に手を通し、ふわりと預かった。柔らかな毛並みに懐かしい重み。私の目の色と同じ瞳とリボン。
ぎゅっと抱きしめて、その頭に額を寄せる。
目の前の彼がふっと笑った気がした。
「君がそこまで喜んでくれるなら、俺の努力も報われるよ」
違う。それもだけれど、それだけじゃない。
きっと彼がしてくれたであろうこれまでの全てに、私はそう言ったのだ。ずっと見えなかっただけで、理解していなかっただけで、気づかなかっただけで、彼は差しだしてくれていた。
視線を上げれば、どこまでも思いやりのある眼差しで、穏やかに私を見つめている。
貴方のおかげで、貴方のせいで、私だってもう見えてしまうし、理解してしまうし、気づいてしまう。
この男は私に、愛するとはどういうことかを、教えようとしている。
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