第18話 仇も情けも貴方から

 ガランサシャに瑠璃蝶草ロベリアの間に呼び出されてから、特に変わり映えのしない日々を過ごした。

 校内での私への風当たりも、フェアリッテの様子も、ディアナの静寂も、なにもかもが不変だ。

 私に“愛するということを教える”と言ったフィデリオとはそばにいる時間が増えたものの、具体的にどのようにするべきかは教えてはくれなかった。

 そうしているうちに学期末試験を終えた私たちは、春休みを迎え、実家へと帰省することになった。

 そして、帰省して早々、前もってフィデリオから言伝されたように、私は仕置き部屋と呼ばれる地下牢へ押しこめられている。


「よかったじゃないか、春休みに入る前に、お母様の機嫌がなおっていて」鉄格子の向こうで、フィデリオが暢気に言った。「俺に手紙を寄越したときなんて、三日間も夕餉を抜いて水だけしか与えない、と言っていたよ。よほど腹に据えかねているようだった」

「夫人も過激よね。もしそうなっても、乳母がなにか持ってくるでしょうけれど」

「それほど衝撃だったんだよ、君のおこないは。事情を知る俺だって、未だにどうかしてるって思うよ。事情を知らないあのひとならなおさらだ。これ以上、乳母に綱渡りさせるような真似をしないでくれ」


 アウフムッシェル邸に戻るなり、弁明の余地もなく、私は地下牢へと入れられた。たとえその余地があったとしても、本当のことなど言えようはずもないが、もう少し躊躇いがあってもよいのではないかとは思う。夫人は私を前にすると平静ではいられない方なのだ。

 私はベッドの上に座り、フィデリオの持ってきた朝食をいただいていた。

 着ているのは普段着用の質素なドレスなので、食べかすがこぼれても皺が寄っても気にしないけれど、三日も風呂に入っていないことが気になった。まだ春の花の月とはいえ、まったく汗を掻かないわけではない。

 鉄格子の向こう、どこぞから椅子を持ってきたフィデリオは、それに腰かけながら、春休みの課題として出された本を読んでいる。アルトゥール・シュレーゲルミルヒ著の『夢さながらの現実』だ。有名な題名タイトルだが、実際に読んだことはない。フィデリオならばとうの昔に読み終えているだろうに、律儀なものである。

 朝食を食べ終えた私は、空になった皿を鉄格子の向こうへと通す。そして、すぐにベッドの上へと戻れば、フィデリオは呆れたようにため息をついた。


「君って、本当に“ありがとう”や“ごめんなさい”が苦手だよね」

「ご馳走様でした」

「食材に対しての礼じゃなくって、これを作ってくれたシェフや、わざわざ持ってきた俺に対して」

「それは初めに言ったじゃない」

「心がこもってない」

「心って」


 私の声には嘲笑が滲んでいた。実際に鼻で笑ってしまったほどだ。

 そんな私をフィデリオは眇める。半ばまで読み進めていた本をぱたんと閉じて、「俺が君に教えるって言ったのは、そういうことなんだけど」と告げた。


「そう、それについてよ」私は足を組む。「なにがよ。春休みに入るまでも、そうやってこやかましいことを言うばかりで、ちっとも教えてくれないじゃないの」

「こうやって言うことが大事なんだよ。時を遡る前と比べれば、君はある程度、他人に好かれる振る舞いを覚えた。覚えたけれど、それは感性ではなく、理論として覚えたんだろう。技術や習性として理解したんだろう。君がなにかを与えられたときにお礼を言うのは、ありがたいと思っているからじゃなくて、“そう言ったほうがいい”と考えているからだ」


 だからどうした、という意味をこめて、私は目を眇めてみせた。

 それに小さく息をつくフィデリオ。


「それがだめだと、否定はしないけどね。人間は誰しも習慣から始めるものだし。習慣が身につき、心映えとなる。これは持論だが、心から礼を言える者はそうなるべくしてなった。幼いころからその習慣があったから、そのような心が身についたんだ。君はその経験に乏しいから、いまの有様ありさまというわけさ」

「その言いよう、本気で苛立たしいわ。つまり?」

「他者から好かれるのは、相手の心に寄り添えるからだ。そして、相手の心に寄り添えるから、君の言うということをおこなえる」

「心を教えるなどと言っておいて、結局は理屈じゃない」

「君のためにわかりやすくしたんだよ。これも俺の気遣いだね」

「まあ、そのお気遣いには痛み入るわ。なんてお優しいのかしら。さすがフィデリオね。私を憐れんで救ってくださった慈悲深きお方。“ありがとうございます”」

「言ったそばからこれだ。皮肉としてしか使えないの?」


 胸の前で手を組んで礼を言えば、フィデリオは額に手を遣り、呆れた表情をした。


「ああ言えばそう言って、話を有耶無耶にするからよ」

「斜に構えず冷静に俺の話を聞けばわかる。俺は一貫してるって。君は感情的なくせに、意外と理屈っぽいところがあるから。基本的には体感で学んでいくしかないけど、それだと納得しないだろうから、ロジックも用意してるんだ」

「あらそう。私の体感では、なにも学べていないのだけれどね」

「君が鈍感なだけだろ。君は、愛されたことがないから愛しかたを知らないって言うし、それには一理あると俺も思うけど……乳母も俺も、だいぶ君には情を持って接しているつもりだよ」

「どうかしらね」私は肩を竦めた。「たとえそうだったとして、だから本当は上手に愛せるだろって? ああもえらそうに教えると言ってきたのは貴方じゃない」

「そして、えらそうに教わってもいいと言ったのは君。俺が言いたいのは、君はまったくの愛し下手ではないという話。相手の望むものを気がつくこと、それを差しだすことを知っている。直感的にでも論理的にでも理解しているはずだ。どうやら俺にはそれをしてくれないみたいだけど」


 ならば自分はそれを私にしたことがあるのか。

 そんなふうに睨みつけていたからか、フィデリオは「たとえば、」と言葉を続けた。


「君は紅茶よりも珈琲コーヒーのほうが好ましいことを俺は知っている」


 真である。

 だから、フィデリオの部屋へ出迎えられるときは、私のカップに紅茶は注がれない。

 去年の夏休みに集まったときなどがそうだ。


「それに、甘いものよりさっぱりしたものを好む。君のテーブルの前にはジャムたっぷりのビスケットなんて置かない。フェアリッテと張り合っていただけで、過度な装飾のドレスも好きじゃない。動きやすくてラインの綺麗なものをよく選んでいるね。淡い色のものは安っぽく見えるからか、似合わないと思っているからか、避ける傾向にある。おかげで、俺の夜会用の服も深い色合いのものがほとんどだ」

「……わざわざ私に合わせてるの?」

「おい、気味悪がるなよ」フィデリオは本気で嫌そうにした。「俺には特にこだわりなんてないから、隣に並ぶことの多い君と揃えただけだよ。おかげで、いま、苦労してる」


 いま、というのは、フェアリッテのパートナーとして並ぶとき、という意味だろう。フェアリッテは私とは違って淡い色合いのドレスを好む。

 フィデリオが彼女の名前を出さなかったのも、私への気遣いというやつだろうか。


「あとは、そうだな……ギュンターのことは嫌いだったけど、扱いを覚えたいまでは、話し相手としてそこまで悪くはないと思ってる。だから、俺が君のパートナーを降りたとき、彼を推薦したんだ」

「彼が勝手に名乗りを上げてくれたのよ」

「事前に俺が頼んでたんだよ。君、誰かにお願いするなんてできないだろ」


 以上のことが本当なら、たしかにフィデリオは私のためを思った行動をしてくれているのだろう。

 しかし、そんな話まで聞いてしまうと、気遣われているというより、根回しされているように感じる。正直、気分がいいどころか不快だ。

 私の不快を感じ取ったらしいフィデリオは、「まだわからない?」とわずかに眉を顰めた。

 そういうつもりではないのだが、はいともいいえとも言えず、彼の言葉を遮る機会を失ってしまう。


「話を誤魔化したいときは単語を二回繰り返す。それが通用せずに指摘されたときは、機嫌を損ねたふりをして話を逸らす。本当に機嫌を悪くされると面倒だから、俺は誤魔化されてあげるけど……そんなことばかりしていると嫌われるし、やめたほうがいいと思うよ」

「上から目線が癪に障るわね」

「それと最近は、“どうせ賎民の娘だから”と言えば、俺がなんでも言うことを聞くと思ってる」

「…………」もう二度とその手は使えないことを悟りながら、私は腕を組む。「ずいぶんと私を理解してくれていることはわかったわ」


 私は納得してやったのに、それをフィデリオは断じる。


「理解しているだけなら、ただの知識だ。そこに気を遣って、やっと意味があるんだ。持て余していては意味がない。君の心ない上辺だけの“ありがとう”と一緒さ、ヴィーラ。皮肉だよ」


 つまり、相手のことを理解して、好ましいものや嫌っているものを与えたり遠ざけたり、望んでいるものを差しだしたりしろと言いたいのだろう。

 それが簡単にできていたら苦労はしない。与えたり差しだしたりするのが私の一番の不得手だと、どうして彼は理解できないのだろう。理解しようとしていないのではないか。

 私がそう思っていると、「君がなにを考えているかもわかる」と釘を刺される。


「言ったろ。いまの君は、相手の望むものはなにかを、理解しているはずだよ。でなければ、あんなに……フェアリッテと仲良くなれるはずがなかった」その名を口にして、フィデリオは私に囁く。「ただ彼女が君と仲良くしたがっていたという理由だけで、そうなれるはずがないんだから」


 私の欲しいものを全部奪いながら、私の欲しいものをただ一人差しだしてくれた彼女を、私が愛してしまったように——彼女の望むものを私は与えたのだと、フィデリオは言った。


「君だって相手の望むものを差しだすことはできるんだ。ただ、差しだせるものが自分の手元にない場合、誰かから奪ったり、誰かを傷つけることで、それを無理矢理に与えようとしてしまう。下手くそなのはそういうところ。そんなものを相手が望んでいないことくらい、わかっているだろうに」逡巡、フィデリオは続ける。「こんなことを君に聞くと、どう返ってくるかわからなくて、本当は怖いんだけど……君は、フェアリッテが我が身すら蔑ろにするやりかたで、君の望みを叶えようとしたとき、それを嬉しいと思うの?」


 それはきっと、フェアリッテと私が逆の立場だったとして、私のために、政敵の答案用紙を改竄したり、タピスリを台なしにしようと目論んだり、己が悪者になるようなことを言うのだろう。

 あのフェアリッテが万が一にでもそんなことをするはずがないけれど、たとえばもしそのようなことをしたとき、私はそれらを受け取れ、嬉しいと思えるのか。


「きっと嬉しいと思うわ」

「聞くんじゃなかった……」


 フィデリオは肩を落とした。片手で目を覆い、深く項垂れている。

 力ない声で「助けて、乳母……」とこぼすと、「どうしました、フィデリオさま」と乳母の声が聞こえた。

 実にちょうどよく、乳母が階段を下りてきたのだ。手には地下牢の部屋の鍵を握っている。

 なるほど、時間のようだ。


「乳母」フィデリオは顔を上げ、椅子から立ちあがる。「もうそんな時間か」

「ええ。それより、どうしました? またプリマヴィーラさまがなにか?」

「閉じこめられている私になにができるっていうのよ」

「信用なりません。その気になればいつでも抜け出せるではありませんか」

「その気にならなかったのだからいいじゃないの」


 私が舌を出すと、乳母は「またそんなお行儀の悪い!」と顔を顰めた。

 フィデリオは「いまはいいよ、乳母」とそれを宥める。


「……そうですね。フィデリオさまは、午後から旦那様たちと一緒に出かけられるのでしょう?」

「うん。すぐに準備をするよ。ヴィーラの謹慎ももう終わり?」

「はい。私としては、もう少し反省していただいたほうがよろしいかと思うのですが……しょうがありませんね。午後にはいらっしゃると先触れがありましたし、お客様をこんなところにお通しするわけにはいきませんから」

「できれば俺も付き添いたかったけれど、余計な邪魔をしないほうがいいと、二人に引っ張られてね」フィデリオは苦々しく息をつく。「乳母に任せることになるけれど、頼んだよ」

「不安はありますが、なんとかいたしましょう」


 渋々といった表情の乳母を見て、私は眉を顰める。いいからとっとと鍵を開けてくれないかしら。

 足を浮かせるようにして爪先で鉄格子を差すと、乳母は「本当に反省しているのですか!」と私を叱りつけた。私は「してるしてる」と返す。フィデリオは私が誤魔化しただけだと気づいたかもしれない。

 乳母はこれ以上なく表情を硬くして、「わかっていらっしゃるのですか、」とおもむろに首を振った。


「今日、ブルーメンブラット辺境伯が、プリマヴィーラさまを訪ねられるのですよ」


 そうだ。だから準備しなければならないのだ。

 あのひとが、私のもとを訪ねる。

 アウフムッシェル夫妻でも、フィデリオでもなく、私を。






 ブルーメンブラット辺境伯。

 フェアリッテの実父にして、長らく私の父親だと思っていたひとだ。

 物心ついたときには、私は彼の私生児だと言われていたし、それに疑いを持つことなんてなかった。実際のところは、賤民の娘を彼が同情で拾ったというだけの話だったが、私と当時の彼の体裁を保つため、私生児という扱いでアウフムッシェル家で養うことを決めたらしい。

 それを知るのは、彼とその夫人、アウフムッシェル夫妻にフィデリオという、ごく少数のみで、私が知らされたのも去年のことだった。

 もっと早くに知らせてくれればと思わなくもないが、いまとなってはどうでもよい話だ。

 とにかく、彼と私はなんの血も繋がりもない、アウフムッシェル伯爵のような養父でもない、言いようのない関係ではあるのだが、私にとって、特別な立場の人間、ということで間違いないだろう。私を邸に住まわせているアウフムッシェル伯爵よりもよっぽど、私を甘やかすも、処罰するも、どうとでもできてしまうはずだから。

 きっと今日はそのをしにくるのだろうなと、私は理解していた。

 今年の狩猟祭における後夜祭の一件について、彼が耳にしていないわけがない。

 よりにもよって、自分の“私生児”が自分の娘を傷つけたのだ。これまで謀っていたと宣言して、髪まで切りつけた。おかげで悲嘆に暮れるフェアリッテを見て、娘想いの彼がなにも思わないはずがない。

 なにしろ、私には、言い逃れできぬ前科がある。昨年の春の一件により——踏みとどまったとはいえ——私がフェアリッテの殺害計画を企てたのを、彼は知っているのだ。

 クラウディアの《真実の祝福》により映しだされた私の計画と殺意は、あの夜、ブルーメンブラット邸の騎士と、わずかの使用人、そして彼自身が目にしている。計画を企てた理由などは私の身の上を考えれば明らかなことで、彼もそれを悟っているはずだ。

 このことを踏まえての今回の騒動。

 私の存在がフェアリッテを危ぶむと、彼が訝しむのは道理だ。

 むしろ、ここまでよく見過ごされていたな、と思う。同情で拾っただけの娘であったのに。あの春の一件でアウフムッシェル邸を追い出されていたとしても、誰も文句は言わないだろう。私からは絶対に文句を言わせていただくけれど。

 とにもかくにも、おそらくそういうことで、ブルーメンブラット辺境伯は、私を尋ねに訪れることになっている。

 私は風呂に浸かったあと、鏡台の前に座り、乳母に髪を梳いてもらっていた。

 着替えたのは普段着用の中でも上等なドレスだ。白波を思わせるレース仕立てのブラウスに、裾からフリルの覗く花緑青のジャンパードレス。

 乳母は珍しく首飾りや髪飾りなども引っ張りだしてきた。金細工がきらきらときらめくものを選び取っていく。


「着飾っても機嫌を損ねるだけじゃないの?」

「客人と接するための礼儀ですよ」

「まあ、アウフムッシェルの体裁を保つためには、つい先刻まで地下牢に幽閉されていたと思われないようにしなくちゃいけないものね」

「もし本当にブルーメンブラット辺境伯がお怒りになっているなら、そのことについてはむしろ喜ばれそうですが」乳母は苦々しく続ける。「……プリマヴィーラさまも、お久しぶりに父君に会われるのでしょう? このくらいめかしこんでも罰はあたりませんよ」


 乳母は真実を知らないので、いまも私がブルーメンブラット辺境伯の私生児だと思っている。妾の娘が正妻の娘に手を出して、父親に叱られるのを待っていると思っているのだ。

 客人と接するための礼儀だと言ったけれど、もしかしたら、私を着飾らせて親子の愛を引き出そうとしているのかもしれない。そうだとするなら実に空振りした努力であるが、私は「そうね」とだけ答えた。

 乳母は私の髪に手を通し、結わえていった。

 私つきの侍女はいないので、乳母がそのまま侍女の仕事もしている。昔、私が何人もの侍女を追い出してしまったためだ。私に近しい使用人のくせに、私を見下す態度が丸わかりだったり、仕事が気に食わなかったりと、私がいじめ抜いてやった。

 入れ替わりが激しかったため、顔も名前も覚えていないが、結局は乳母が「私がやります」と名乗りを上げ、いまの状態へと収まった。

 フィデリオの言うように情を持って接しているかはともかくとして、私を一番世話してくれたのは、間違いなく乳母だった。


「綺麗ですよ、プリマヴィーラさま」


 すべてを整え終わると、乳母がそう言った。

 鏡には身なりを整えた娘が映っている。たしかに悪くない仕上がりだ。


「応接間でお待たせしております」

「わかったわ」


 私は立ち上がり、部屋を出た。

 着苦しいわけでも、首飾りが重いわけでもないのに、心臓がいつもよりも早く脈拍を打つ。

 緊張しているんだな、と自覚していた。

 たしかにあのひとにはもう未練はないけれど、それはどう思われてもいいということではない。応接間の扉を開ければ業を煮やしたあのひとの顔があるんだろうか、と思うと、自然と足も重く感じた。

 応接間の前まで辿りつくと、乳母が扉を開ける。

 青の絨毯に白亜を思わせるテーブルに椅子、向かって左側の壁を大きく横断する西海岸と杉林の絵画、そのちょうど目の前のゆったりとしたソファーに、ブルーメンブラット辺境伯が腰かけていた。

 扉が閉まる。

 この部屋にいるのは、私と彼だけになる。

 私は「お待たせいたしました」と言ってから、向かいの椅子に座った。


「ご無沙汰しております」

「……久しぶりだな。私から君に会いに来るのは、ちょうど一年ぶりだろうか」

「そうですね。お変わりありませんか?」

「大事ない。君は……」言いかけて、口を止める。「いや、なんでもない」


 私の近況や容態を聞こうとして、それを躊躇ったのだろうとは理解できる。しかし、彼の表情から、その心境は伺えなかった。


「今日はフィエラブラスもチェネレントラもいないのだな」

「はい。神聖院へ祈祷に。二人とも、おもてなしができないことを心苦しく思っておりました」

「なるほど。二人の信心深さは知っている。帰ってきたら、気にしないように、と伝えておいてくれ」


 フィエラブラス、チェネレントラとは、それぞれアウフムッシェル夫妻の名だ。

 フィデリオの父であり、アウフムッシェル家の当主である、フィエラブラス・アウフムッシェル伯爵。そして、フィデリオの母であり、なにかと私と折り合いの悪い、チェネレントラ・アウフムッシェル伯爵夫人。

 当代ブルーメンブラット辺境伯の夫人は、アウフムッシェルを出自とし、当代アウフムッシェル伯フィエラブラスの姉君である。

 つまり、フィデリオにとってのフェアリッテは、父方の従姉妹にあたるわけだ。

 リーベの西南にある国・ラムールとの国境線の砦となるブルーメンブラットと、西海岸地方を占めるアウフムッシェルは、かねてより領土の統治においても協力関係にあったことから、当代の両家が婚姻による親戚関係となったのは納得のいく話であろう。政略婚かどうかは私の知るところではないけれど。

 そして、アウフムッシェル夫妻だが、彼の言うとおり、実に信心深い方々だ。私からしてみれば思いこみが激しいと言わざるを得ないのだが、一ヶ月に一度、神聖院に祈祷へ行くことを欠かさない。なんでも、アウフムッシェルの地が塩害に遭っていたとき、ディアナを“運命ファタリテートの化身”と掲げていた神聖院へ祈祷に行ったあと、状況が回復したらしい。

 ただの偶然か、施策が効力を発揮した結果だと、客観的に見ればわかるのだけれど、二人はそれが運命ファタリテートの導きによるものであると信じている。

 その並々ならぬ信心深さは、現在の王太子妃をかけた争いにおいて——もしかすると親戚という義理がなければアウフムッシェルはミットライト派閥だったかもしれない、と思うほどだった。


「今回、私が会いに来たのは、二人ではなく君だ」


 目の前の彼は、あらかじめ出されていただろう紅茶には一口もつけていない様子だった。

 だとしたら、上辺だけの会話など無駄よね。

 私は白々しい態度で、「それで、ご用件は?」と尋ねる。


「学校とチェネレントラから詫び状が届いた。特にチェネレントラからは、己の監督不行き届きと、君のおこないを陳謝する旨が書かれていた。フェアリッテの髪を切りつけ、鋏を投げ、惨い言葉を浴びせたのだとか……学校から届いたものも似たような内容だった。フェアリッテに確認しようにも、あの子はいま……多くのことを話したがらないから。だから、君に確認したかったんだ。これは事実か?」

「事実です」私はきっぱりと答えた。「それらの手紙にどこまで書かれているかは知りませんが、お話しされたことに嘘や誤解もありません」


 膝の上で重ねた手の、下側の手を、私は小さく握った。指先は生冷たくて、わずかに湿っている。それを悟らせないよう、表情には出さなかった。


「君がボースハイトに誑かされたという話も聞く」

「誑かされただなんて。後から口を出されたにすぎません」

「あくまで君の独断だったと?」

「ええ」

「前夜祭ではタピスリが引き裂かれたとも聞いた。それについては?」

「お答えできることはありません」

「……君がやったのではないかと疑う者もいるらしいが」

「そうですか」


 私は平然と答えるも、肯定も否定もしなかった。

 タピスリを引き裂いたのはディアナだったけれど、ゴシップまみれの今、その事実を知らない人々が、私を犯人として怪しむのは、当然の流れだったはずだ。

 もちろん、あくまでも疑惑というだけで、実際にそのように糾弾されているわけではないけれど、そう噂されているうちは、さらなる悲劇の被害者として、フェアリッテに目が向けられる。

 彼女を注目させるため、私が醜聞を纏っておくことは、決して愚策ではないはずだ。

 今日、彼は、私から真実を聞きだすため、その椅子に座っているようだけれど——私は、彼に正直に話すつもりなど毛頭ない。


「……フェアリッテにしたことに対しては、本当だと?」

「そのとおりです。何故、とは聞かないのだから、貴方だってわかっているのでしょう。どうしてこんなことになってしまったのか」


 適当に話を合わせるつもりだった。

 そうして有耶無耶に誤魔化して、とにかくこの場を凌げればそれでよかった。

 それなのに、思った以上の感情が、私の声には乗った。一芝居打つつもりが、かぎりなく本音に近しいものが溢れ出ようとしていた。

 このひとを前にすると、私も正気ではいられなくなるらしい。夫人を馬鹿にはできない。

 私の様子を見て、彼は目を細める。


「……私のせいか?」


 彼女のものとよく似た、花咲く瞳が、悲痛な色を湛えた。彼女と似ているのではなく、彼女が彼に似ているのだ。

 私の心を掻き乱すその瞳が、おもむろに瞬く。


「私を、恨んでいるか」


 彼に正直に話すつもりなど毛頭ないけれど——これまでの私がどうしようもなく溜めこんできたものを、忘れたふりをするしかなかった思いを、口にできるのはきっと今しかない。

 どう思われてもいいわけじゃないけれど、きっとなにもしなければ、このひとは私になにも思わない。

 突き動かされるように、私の口からそれらは溢れだした。


「本当の父親でないことなんて、もうどうでもいいのです、いえ、よくはないわ、そんなことが私のこれまでの人生を捻じ曲げたのだから。貴方が同情なんかで私を拾わなければ、私生児として育てなければ、こんなことにはならなかった。父親でないひとを十年以上も待ちつづけなんてしなかったし、血の繋がりもないひとをここまで呪いたくもならなかった……私がこうやって貴方にまくしたてられるのも、貴方が生かしてくれたおかげなんだと理解しています。だけど、それでも、去年の春までの私への仕打ちは、あまりに非情でした」


 一度だって私と会おうとはしなかった。手紙だって寄越さなかった。なにかを話せていたら、変わっていたかもしれないのに。

 私をはりぼての令嬢にまでしておいて、彼は私の一切に関与しなかった。情をかけておいて、あまりに非情だった。

 こんなみっともないことを言いたかったのではないのに。


「貴方は、きっと、知らないでしょうけれど……私は、貴方からいただいたドレスを着て、デビュタントに出たのです」


 周囲の反感を買ってでも、貴方からくれた愛だと思って、私はそれを大事にしたのだ。特別な日に着てやろうと思ったのだ。結果は惨憺たるものだったけれど、それだけ私にとっては凄まじいものだったのだと知ってほしい。そして、そうなるまで私を追いつめたのも、貴方だということに。


「……君には申し訳ないことをした」

「いいえ、違います、謝らなくともいいのです。感謝はしているんです、本当に。ただ、貴方の目に止まりたくてしょうがなかった女の子がいたことは、知っていてください。去年、お見舞いに来てくださったときには、言えなかったので」

「同情で助けたのも、君を持て余していることも、認めよう。ただ、私個人としては、君は君の思うままに生きてくれたらと思っている。言われずとも、君はそうするかもしれないけれど」


 言われずとも、そうする。そうするけれど、そのように見透かされるようなことを言われたら、いいえと言って縋りついてやりたくもなる。貴方に傷つけられてみじめになった賤しい娘の姿を見せつけてやりたくなる。

 畢竟ひっきょう、私はこのひとに後悔してほしいのだ。

 それなのに、彼はやはり紅茶に口もつけず、話を終えたような顔をする。


「そろそろお暇するとしよう」

「……私をお叱りに来たのではないのですか?」

「フェアリッテの髪を切ったことや、鋏で傷つけようとしたことをか?」彼は苦く笑う。「君のことはアウフムッシェルに任せている。いまさら君について、私がなにを言う必要がある。そうでなくとも、娘の人間関係に大人が口を出すことほど、野暮なことはないよ」


 そう言って、彼は席を立つ。見上げる私に、「ただ、」と、一度言い淀むように口を噤んでから、再び私を見た。


「それが私のせいならば、君の口から聞ければと思った。言ったろう、プリマヴィーラ。私は君と話したかったんだよ。私は……君のことをなにも知らないから」


 でしょうとも。

 言わずとも、私の感情は表に出ていたらしい。

 それを彼は読み取って、しかし、今度は謝罪を口にすることはなかった。ただ、やりようもなく目を細め、静かに息をついた。


「礼を欠くような差しでがましい申し出だが、見送りを頼んでも?」


 私は頷いた。爵位を持たない令嬢が辺境伯の爵位を持つ客人をお見送りをしないことのほうが礼を欠く振る舞いだ。言われずともそのつもりでいた。

 部屋を出ると、乳母と目が合った。こちらを気遣わしげな様子だったが、「お見送りをするわ。ついてこなくて大丈夫」と告げた。

 乳母は丁寧に腰を折り、言われたとおりに下がっていく。客人の前だから、私に歯向かうような余計なお節介はしない。そういうところは弁えたひとだ。

 邸を出て、門の前まで行けば、立派な馬車が停まっていた。

 綺麗な身なりをした御者が、恭しく籠の扉を開ける。

 籠はたいそう大きく、奥行きがあり、扉を開けただけでは中の様子までは見えない。たとえ人が乗っていたとしても、その姿は見えなかっただろう。さすがブルーメンブラットの馬車だ。

 彼はその馬車に乗りこもうというところで、私へと振り返った。


「……君はフェアリッテをどう思っている?」


 最後の最後の確認のつもりだったのかもしれない。彼の聞きたかったことは自分に対する恨みだったようだから、いまの今まで忘れていたのだろう。

 かわいい娘を思えばその質問はあまりに遅すぎたけれど、一度は娘の暗殺さえ企んだ相手を訝しむのは当然であり、彼にとって明を得ない悩みだったはずだ。

 もしかすると、未だにその命を狙っていて、今回のことはその兆しだったのかもしれない——そんな彼の疑心が、やっと問いかけになったのだと感じた。


「君にとって、フェアリッテはどういう人間なんだ?」


 私は彼を見上げながら口を開いて、逡巡、閉ざす。

 一言では表せない。フェアリッテを表そうとすると、いつも言葉のほうが足りないのだ。

 憎しみも、殺意も、愛も、悲しみも、全部が全部本当だ。それらは一つ一つが凄まじくて、たとえば大海の果てを眺めているときのような、気の遠くなるような心地がする。

 私はようやっと口を開いた。


「フェアリッテは、自分と同じものを好きになったから、自分たちは気が合うのだと、言っていましたが……私たちはきっとそうではなくて、なにも一緒でないまったくの別人で、本当は出会うことさえないくらい遠い人間だったと思います」


 血の繋がりのない赤の他人。出自が違えば身分も違い、見た目が違えばその魂だって違う。目の前の男が同情をかけなければ、フェアリッテがぬくぬくと生きているあいだに、私は冷たい死体になっていた。

 私と彼女はまるで違うのだ。それは、いまも昔も変わらない。事あるごとに身に沁みている。きっとこの先死ぬまで、そんな心地をずっと味わうことになる。


「だから、彼女へと向かう私の思いの丈は、途方もありません。愛だろうと憎しみだろうと、私だって測り知れない。どう思っているのではないのです。いつも、想っています」


 いつも、いつもいつも。

 想うのは私ばかりなのだ。

 羨むのも、妬むのも、殺したいと思うのも、愛してしまうのも、そして、その想いの先で藻掻き苦しむのも、いつだって私だ。

 息もできなくなって見悶えているのは私一人で、彼女はなにも知らずにきらきらと微笑んでいるだけ。

 その淋しさと虚しさに呑む息が、潮風のように震える。


「フェアリッテも同じように……私のことを想ってくれていたら、いいな」


 目も声も息も滲みそうになって、私はそれを噛み殺すように言いきった。顔を上げていたおかげで滲んだものがこぼれ落ちることはなかったけれど、そのため、俯くこともできなくなった。

 そんな私を見て、彼はなにを思ったのだろうか——少しだけ目を見開かせたあと、あるかなきかの、しかし、たしかに温度のある微笑みを浮かべたのだった。

 彼を乗せた馬車が去っていく。

 小気味のよい馬の足音と車輪の音色を聞きながら、私は呆然と見送った。

 どれだけそうしていただろうか。風に髪を掻きまわされる感覚が煩わしくて、私は目が乾いていることを確認してから、踵を返そうとした。

 しかし、そのとき、こちらへと向かってくる馬車に気がついた。

 漆黒の籠を銀色の縁で彩った上品な馬車だ。籠の窓にはカーテンがあったため、中の人物は見えない。

 その馬車は当然のように、アウフムッシェル邸の門の前で停まった。

 訪問の先触れはなかったはず。私は目を瞠りながら、何事かと考えていた。

 馬車の扉が開くと、中から一人の男性が姿を見せる。

 背の高い青年だ。襟足の伸びた黒髪を一つに結わえてある。ストラを思わせる帯刺繍の施されたジャケットを着ていて、その身のこなしも聖職者に近いような丁寧なものだった。

 彩りのない灰色の瞳と目が合う。

 彼は馬車を下りると、私のほうへと近づいてきた。


「プリマヴィーラ・アウフムッシェル嬢ですね」


 柔らかい表情で、その男は言った。

 どこかで見たことのある顔だとは思うのに、名前が出てこない。

 たしかいつかも、彼を背の高いひとだと思ったはずだ。まだまだ若々しいその顔を見上げるのに、首が痛くなるくらいだもの。柔和な笑みを浮かべる落ち着いた風貌。

 そこで私ははっとした。


「貴方は……ノイモンド・フォン・シックザール卿?」


 私が呟くように尋ねると、彼は「おや。ご存知でしたか」と返した。

 ノイモンド・フォン・シックザール。

 五大侯爵家の次期当主として、領地の運営の一部を任されている小侯爵だ。

 たしか一昨年の卒業生だったはずだから、私たちとは五つ歳が離れている。その上背にも匹敵する貫禄のある男だった。

 ただ、そのシックザール卿が私になんの用だろう——私はそこに不穏を感じた。

 何故なら、王太子妃候補争いにおいて、シックザールはミットライト派閥だったからだ。マイヤー侯爵家の次男坊の誕生日パーティーで、ディアナの共をしていたのも彼だった。シックザールとミットライトの繋がりは、ここ数代どころの話ではない、とても深いものなのだ。

 警戒を露わにした私に、シックザール卿は「すみません、」と口を開く。


「挨拶もなしにご無礼を。ご機嫌麗しゅう。ご存じのとおり、僕はノイモンド・フォン・シックザールと申します。このたびは先触れもなしに押しかけてしまい、申し訳ありません。どうしても貴女にお目通りしたく、こうして伺いましたことを、どうかお許しください」


 私の表情の翳りを、真実そのように捉えたわけでもあるまいに、シックザール卿は胸に手を当てて頭を下げた。

 その恭しい態度がかえって空々しく、私は目を細めた。


「私に、ですか? 事前にご連絡もいただけないとなると、ずいぶん急ぎのご様子ですが、いったい何事でしょうか」

「ちょうどアウフムッシェル伯爵とその夫人が出かけられるようでしたので。政敵から訪ねられては、貴女の心象もよろしくないでしょうし、なにより伯爵に突き返されると思いました。そのため、このような突然の訪問となってしまい……きっとアウフムッシェル嬢も驚かれたことでしょう」


 当然だが、政敵との接触が非常識なことであると、この男は理解している。彼は私の体裁以上に、自分の体裁も気にしているはずだ。そのぶん、ジギタリウスのときよりかは信用できた。しかし、彼が私に用事があるというのは理解できない。

 まさか、ディアナから言伝だろうか。

 しばらく音沙汰がなかったけれど、あの女が動きたしてもおかしくない時間が経った。私になんらかの圧力を加えようとして、シックザール卿を遣わしたのだとしたら——我が身が凍りついたかのように固まった。


「今日の用向きですが、実を言うと、貴女に……」


 彼の柔らかな表情が少しだけ強張りを見せる。

 私がそれに小さく息を呑んだとき、彼は私の目を見据えて言った。


「ディアナが王太子妃になるのを邪魔していただけれたらと思いまして」

「…………はい?」

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