第19話 君の庭に咲く花はいつも赤い

 西海岸を見渡せるアウフムッシェル邸は、アウフムッシェル伯爵の治める領土の中でも、相当に辺鄙な場所に建っている。とはいえ、市街地への道は実に単純で、交通の便を見てもさほど悪くはない。道のほとんどは舗装されており、観光地であるために馬車は簡単に掴まえられる。開けた海の景色を背にしてゆけば、商店街の続く大通りまではすぐだった。

 そんな街並みを横目にしながら、私は目の前の男を見つめる。

 ノイモンド・フォン・シックザール——シックザール小侯爵と名高い彼だ。

 私は彼の乗る馬車の中、対面に腰かけながら体を揺らしていた。動きだしてからどれだけ経っただろうか。私は静寂を裂くように口を開いた。


「それで……さきほどのお言葉はどういう意味ですか?」


 先刻、アウフムッシェル邸に来てすぐに、彼は私に話しかけた。

 政敵からの接触とあり、緊張していた私だが、彼の言葉は私の予想の斜め上どころか、遥か彼方の星々にまで突き抜けるような、突拍子もないものだった。


「そのままの意味です」シックザール小侯爵は言う。「ディアナ・フォン・ミットライトが王太子妃に選ばれるのを邪魔していただきたいのです」

「……シックザールといえば、ミットライト派閥の代表のような家門ではありませんか。その言葉を貴方の口から聞いて信じられるとでも?」

「まったく話にならないとは思わなかったから、貴女も僕の馬車に乗ってくださったのでは? アウフムッシェル嬢」


 私は押し黙った。押し黙って、目の前の男の真意を探ろうとした。

 事実、彼の言葉が気にかかり、誘われるがままに馬車に乗りこんだのは私だ。いまごろアウフムッシェル邸では、私が消えたと乳母が慌てふためいているかもしれない。帰ったらまた謹慎だろうか。だとしたら、春休みのあいだに自由が利くのは今日が最後かもしれない。そう思えばこそ、私は目の前の男がなにを企んでいるのか、絶対に見極める必要があった。もしかしたら彼こそがディアナが私に仕掛けた罠なのかもしれないけれど、私はそれを確かめねばならないのだ。

 少し息をついたのち、シックザール小侯爵は告げた。


「……貴女からすれば僕の言葉が信じがたいのは、重々承知しています。シックザールの家を思えば、僕の行動は不審極まりない。ですので、今回のことについて、シックザールではなく僕個人の行動だとお考えください」

「正直、貴方個人の行動だと考えても、不審はありますね。貴方と彼女……ミットライト嬢は、幼馴染だと聞きました」

「そうですね」シックザール小侯爵はわずかに微笑む。「僕とディアナは幼馴染で、昔からの小さな友人……いえ、どちらかといえば、妹に近いかな。僕もディアナも兄弟はいないけれど、もしいたとしたらお互いのようなものだと思っています。少なくとも、僕はね」


 あの聖女が誰かの妹だなんて、考えただけでも違和感というか、ちぐはぐで奇妙な感じがするけれど、二人の関係性の深さは察することができた。


「そののことを思うのでしたら、貴方の言うことはあまりに矛盾しています。王太子妃になることはなにより彼女が望んでいます。それを邪魔するですって?」


——王太子妃になるのは私です。

 火灯りすらない薄暗闇を照らした月下のあの夜、ディアナは、ただびとならぬ気魄きはくで、そのように言いきった。

 地上の遥か上空、儚げに光りながら、絶対的な高嶺の先で世界を見下ろす、白銀の星の名をいただいた、月のひと。人々がその渾名で呼ぶよりも先に、彼女には“聖女”という渾名があった。そんなたいそうな呼び声にも引けを取らない、浮世離れした情調が、身の底から滲みでていた。彼女がそう言うのならば、本当にそうなるのだろうと思わされた。まるでそれが運命であるかのように錯覚してしまった。他者を圧倒することに長けていて、それが当然であるかのような雰囲気、声音、風貌。

 すると、私の問いかけに、彼は首を振った。


「ディアナがそれを望むのは、です……聖女ならばかくあれと、周りの言葉を聞いて生きてきたから。王太子妃になるのを僕が邪魔したいのは、それが本当に彼女の望んだことではないからだ」


 私は眉を顰める。彼がなにを言いたいのか、その全容をまだ理解できなかった。

 彼は私の相槌を待つこともせずに、再び口を開いた。


「アウフムッシェル嬢。貴女は何故ディアナが“聖女”と呼ばれるようになったのかをご存じですか?」

「……運命ファタリテートの生まれ日に生まれたからでは?」

「そうです。ディアナの誕生日は、春の花が蕾から芽吹く日。運命ファタリテートが誕生したと言われている日と同じです。そのため、彼女は生まれたときから、あるいは生まれる前から、運命ファタリテートの化身や生まれ変わりだと言われてきました」


 実際に化身や生まれ変わりであるかはともかくとして、ディアナの神秘性は、《運命ファタリテート》を強く信仰する者にとって衝撃的だった。信心深いアウフムッシェル夫妻などがそうだ。自領を襲った自然災害について、当時は年端もいかぬ少女に、幼子に、跪いて祈った。運命ファタリテート信仰のあるリーベで、ディアナ・フォン・ミットライトという聖女を知らない者はいない。


「ですが、ただ同じ日に生まれたからといって、このように神格化されることはありえません。ディアナ以外にも、同じ日に生まれた赤ん坊は、きっとたくさんいるはずです。ならば、何故、ディアナが聖女として崇められているのか……それは、シックザールとミットライトの密約によるものです」

「密約?」

「言葉が悪いかもしれませんね。内約、暗黙の了解、なんとでも解釈してくださってかまいません。何十代も続く両家の関係は、取引などと呼称するにはあまりに当然で、不自然な協定がいくつも存在しますので」


 ミットライトとシックザールの関係は周知のことだ。大陸東西交易路ザイデンシュトラーセンを辿ってリーベへともたらされた他信仰を、神話という創作物として受容することで運命ファタリテート信仰を守ったミットライト。枢機卿を多く輩出するなど神聖院と深い繋がりのあったシックザール。両家がどれだけ古くからその関係を結んでいたかは、語り継がれる歴史よりもその名フォンが語っている。

 そもそも、どこまでも遡れるような古い家系というのは、現代においても数少なく、また、一聞きでわかるようなものでもない。公爵位を持つ者は一代で終わることが多く、歴史の中で没落していった家もある。わかりやすく前置詞フォンのように、氏を聞いただけで長く続く尊い家系であることが知れるのは、珍しいことだった。そういう意味では、五大侯爵家は、その名に被さる前置詞こそが歴史であり家柄であると言えた。

 何代、何十代と血を重ね、繋がりを深めてきたミットライトとシックザールには、賤しい血の流れた私などでは想像もできないような、薄暗いなにかがあるのかもしれない。


「年々、運命ファタリテート信仰は薄れつつあります。洗礼を受け、祝福を賜ることは、ご加護ではなく権利だと認識されることもある。だからこそ、《持たざる者》などという不遜な蔑称が生まれるのです。狩猟祭という行事にしたところで、本来の意味は失われつつある。かつてのミットライトの機転の甲斐もなく、かつてのシックザールの奮闘も空しく、信仰は単なる習慣へと変わろうとしていました」シックザール小侯爵は一拍置いて続けた。「そこへ生まれたのがディアナです」

「…………」

運命ファタリテートの生まれた日と同じ日に生を受け、神秘的な見目を持った子供。聖女として祭りあげるにはうってつけでした」

「信仰の回復のために、彼女を聖女にした、と?」

「そうです。所謂いわゆる、神聖の復活ですね。春の花が蕾から芽吹く日に生まれた、運命の化身。過去と未来の両方を見据える目を持つ者。崇拝していた概念が、偶像に、実体になるのです。その影響力は、まさしくいま、理解できるでしょう」


 ディアナを崇拝する者が多いことは、紛れもない事実だ。

 なにせ、廊下を歩く彼女のために、道を開ける生徒もいるほどなのだ。

 もちろん、五大侯爵家の一つであるミットライトの令嬢ともなれば、敬意を集めるのも納得がいく。社交界では至極真っ当な常識だし、高位の相手に対する非礼無礼が許されるのは、成人に満たない者だけだ。

 ただし、学校という場において、その礼は不要であるとされている。皆がべて生徒の括りに含まれるため、成人式を終えていたとしても、学び舎の中では、ある程度の礼の省略は許されている。子爵家の令息だからといって侯爵家の令息に道を譲る必要はない。もちろん、立場に応じた言葉遣いや敬意を求められるが、相手が許せばその限りではない。上の立場の人間の裁量によるところが大きい。いつかガランサシャの言っていた「未熟な下級生として大目に見るのは、私が分別のついた上級生だから」とは、こういうことだ。

 それなのに、人々は彼女へ道を譲る。ただの侯爵令嬢ではないから。運命の化身と噂される、本物の聖女だから。


「……神聖院と関わりを持つシックザールの利点だとは理解できます。彼女が聖女として活動してから、多額の寄付金が集まったと聞くし、神聖院の発言力も増したことでしょう。けれど、己の娘を祭りあげさせて、ミットライトになんの得が?」

「それも、まさしくいま、理解できるではありませんか。どうしてディアナが王太子妃候補の一人に数えられたとお思いで?」

「王太子妃となる者を輩出することで、ミットライトは地位を高めようとした、と」

「そうです。しかも、ただの王太子妃ではありません。聖女として名声を集め、信仰を辿ることで、その名はリーベだけでなく他国にまで轟きます。未だかつてない王妃となるはずの娘です」


 聖女であり王妃。たしかにこれまでの歴史に見ないようなことだ。

 王太子妃候補争いは、去年の夏から始まったと思っていたけれど、ミットライトにとっては、その娘が生まれたときから、とっくの前から始まっていたのだろう。

 驚いた。きっとこのことは、時を遡る前にもあった事実であるはずだ。のときには知れなかったことが、このように明るみになるとは。それを思えば、そんなミットライトの計画をものの見事に狂わせ、ただ一人王妃として名乗りを上げたかつてのフェアリッテは、いっそ恐ろしいまでに覚えがめでたかったのだろうと感じた。


「かくして、両家の利益のための聖女は生まれました。まるで運命そのもののように、民を憐れみ、世界を導く……清らかにして全知たる乙女。なんて世界にありふれた名前を彼女に与えたのは、それこそ、どこの国にでも受け入れやすくするためだ。誰もが聖女として、その名を覚え、存在を知るように。生まれたときから彼女の人生は他者によって計算されていた」

「まるで操り人形ですね」

「……そのとおりです」

 

 少しばかりの皮肉をこめて言ったのに、シックザール小侯爵はしみじみと、それがたまらなく哀れであるかのように頷いた。私は二の句を継げずにいた。そんな私になにを思ったのか、彼は言葉を続ける。


「僕はディアナを解放してあげたいと思っています。ですから、今日、貴女に会いにきたのです。貴女のことがディアナに謀略を図ったことは、ディアナ自身から聞きました。先日の後夜祭でのことも……僕は実際にその場にいたわけではありませんが、ディアナの信者である者たちからも、話を伺っています。貴女なら、ディアナが王太子妃になるのを、止められるかもしれない。そのために、ご相談に参りました」


 二の句を継げないでいたら、どんどん話が進んでいった。そして、とんでもない相談をされてしまった。元々ディアナを陥れるために謀略を図っていた私なら、また、すでに問題を起こした私なら、どのようにでも動けるだろうということだ。

 私は蟀谷こめかみを押さえる。なんだか眩暈を覚えたのだ。しかし、それは幻覚だったのだろうか。視界が白むことはなく、硬い表情をした男が目の前にいるだけだった。


「……念のために聞きますけれど、」私はやっとの思いで尋ねる。「このことを、彼女は?」

「ディアナに知らせるはずがありません。王太子妃となることを自らの使命だと思っているのですから。これは全て僕の独断でおこなっていることです。彼女に勘づかれないよう、今日を選んで貴女に会いに来たのも、そのためです」

「何故、私に? 貴方が自分ですればよいことではありませんか」

「私には、シックザール小侯爵としての、立場があります。シックザールはミットライト派閥ですので、私がディアナを妨害するのには無理があります」

「私の立場を考えてくださらないことはさておき……ミットライト派閥のシックザール小侯爵だからできることもあるでしょう」

「小侯爵だからといって、できることには限度があります。シックザールの当主はやはり僕の父ですしね」それに、とシックザール小侯爵は続ける。「立場があるというのは、幼馴染として、という意味でもあります」


 その幼馴染が、ディアナを解放だのなんだのしてやればよいのだ。

 私に頼むいわれがどこにある。私が引き受ける義理だってない。

 ただ、ディアナの腹心が裏切り者であったという情報は、聞いていて損がなかった。お前が謀ってみせろという気持ちで、私はそれを言う。


「貴方は、前夜祭のタピスリが引き裂かれた一件をご存じですか?」

「ええ。ディアナのやったことでしょう?」知っていたのかと驚愕する私をさておき、彼は続ける。「彼女ならやるでしょうし、やり遂げてもおかしくはないでしょう。貴女もご存じのようなので、逆に尋ねますが……どうして、あのタピスリを引き裂いた犯人が、いまもなお明らかにされていないと思いますか?」


 タピスリを台なしにした犯人はわからず仕舞いで、なんなら無実の私が、そのずたずたにされた濡れ衣を着ているような状況だ。それは、犯人の目撃情報が一切出てこなかったのが原因だ。誰も犯人の姿を見ていない。学校に配備されている守衛ですら、その人影を確認できなかったという。


「そんなわけがありません」しかし、シックザール小侯爵は断じた。「誰かしらは見ているでしょう。少なくとも、守衛ならば絶対に見ていなければおかしい。ただ、口を噤んでいるのです。や意図的にではなく、無意識に潜在的に、恐れ多くも彼女の名を出すことはできず、また、彼女がそんなことをするはずがないと確信している。神聖が己の目の前を通って、顔を上げられますか? それと同じです。彼らは見ているのに見ていない。だから、証言が出てこない」


 つまり、目撃者はいるものの、それを秘匿しているということだ。彼らは絶対に口を割らないだろう。何故ならば相手は信仰の対象だからだ。フェアリッテのためならばどんなことだってできたマルゴット・ファザーンと同じだ。そんな信仰の対象は、ディアナ・フォン・ミットライト以外にはいない。


「だから、証明することができません。いくら僕や貴女がその真実を知っていたとしても、無駄なのです……僕自身が、彼女の名が傷つく方法を選べたかは、別として」

「つまり、貴方は、自分が手詰まりだから、私に縋ろうとしたのですね」

「貴女がこの王太子妃候補争いをどのように考えているかは僕にもわかりませんが……ディアナの話を聞くかぎり、ディアナを勝たせたくないというのは事実でしょう。ブルーメンブラットが勝とうが、ボースハイトが勝とうが、全てが白紙に返ろうが、かまいません。ディアナが王太子妃にさえならなければ」


 最近、この手の話ばかりされるような気がする。

 春休み前にもガランサシャから言われたのだ——しばらくのあいだは手を組んで、ディアナ・フォン・ミットライトを貶めよう、と。

 それについては私も納得しているし、シックザール小侯爵の相談は、私の本懐からは大きくずれない。むしろ、都合がいい。よくよく考えてみれば、ディアナを蹴落とすまでのあいだ、私は間接的に、五大侯爵家のうちのボースハイトとシックザールの二つの家の後ろ盾を得ることとなったのだ。面倒なことはつきまとうが、僥倖という他ないだろう。

 しかし、首を縦に振るのは難しい。

 私が押し黙っていると、シックザール小侯爵は「突然の話ですしね」と苦笑した。


「それに、僕の話を聞くだけでは、判断のつかないところもあるでしょう。なので、貴女には一緒に来ていただいたのです」

「誘われるがままに馬車に乗りましたけれど……そういえば、この馬車はどちらに向かっているのですか?」

「アウフムッシェル領内にある神聖院です。もうすぐ着くようですよ」


 それを聞いて、私はぎょっとした。

 アウフムッシェル領の神聖院はたったの二つしかない。そのうちの一つは邸から遠く離れたところに位置しているため、もうすぐ着くというのなら、どの神聖院かも推測が立つ。ちょうど、アウフムッシェル夫妻やフィデリオが、祈祷のために訪れている神聖院だ。

 これは非常にまずい。


「下ります、いえ、引き返してください」窓の外を見て、身を潜める。「家の者に、私がここにいるのを見つかるわけにはいきません」


 ただでさえお咎め中だというのに、邸を出て、政敵と一緒にいるなんて、いくら謹慎が解けたとはいえ、夫人に見つかったら殺されるかもしれない。フィデリオは今度こそ私を見捨てるだろう。どっちにしろ邸を出た時点で、乳母から夫人へ話されるのは確定しているのだが、たとえそうだとしても、このお咎めは邸に戻ってからにしておきたい。

 ここで見つかって強制送還なんて嫌だ。刑の執行には猶予が与えられるべきだ。そうでないと困る。


「心配には及びませんよ」私の焦りを見たシックザール小侯爵が言った。「貴女の姿を誤魔化せるように、外套ローブを用意いたしました。無理を言ってついてきていただくのに、こちらがなんの準備もしていないなど、申し訳が立ちませんから」


 そう言って、彼は、私の花緑青のジャンパードレスを余すところなくすっぽりと覆う、黒褐色セピア外套ローブを渡した。籠の中の壁にかけてあったものだ。彼のものかと思っていたが、まさか私のためだったとは。

 いよいよ引き返せなくなってきたな、と思った。ここまで周到に用意され、お膳立てされていたとは。

 外套ローブを目深に着こんだ私は、頭巾フードから溢れた己の髪を胸元へと垂らした。

 そのとき、馬車が停まったので、シックザール小侯爵にエスコートされるまま、馬車を下りる。

 商店なども多い市街地の、馬車の乗り降りする広場だった。ここを少し歩けば、大きな神聖院へと辿り着く。

 今日は休日ということもあり、広場はたいへんな賑わいを見せていた。たくさんの馬車や人が行き交っている。道の端には色とりどりの紙屑が落ちていて、まるでパレードでもしたみたいだ。

 そこで私は気づいた。


「……このところ、外に出ておらず、曜日感覚が鈍っていたので気づきませんでしたが、もしかして今日は、春の花が蕾から芽吹く日ですか?」


 私が尋ねると、シックザール小侯爵は「ええ。そうですよ」と頷いた。

 冬の光の月の謝肉祭——学校では狩猟祭と呼ばれた日——からひと月のあいだは、作物の恵みへの感謝として、または春の到来を祝うものとして、運命ファタリテートへ供物を捧げる期間だ。

 そして、そのひと月が明けるのが、今日、春の花が蕾から芽吹く日。運命ファタリテートの誕生、春の訪れを祝って、各地では典礼とパレードが催されるのだ。

 だからこその賑わいなのだろう。普段は屋内に引きこもっているような店も露店として出ている。

 私は小さく「道理で」とこぼした。

 すると、シックザール小侯爵が「それに、」と口を開く。


「今日は特別ですから」

「特別?」

「ええ。聖女が来るのです」

「……ああ、なるほど。典礼と祈祷のためにディアナが呼ばれたのね」


 謝肉祭も運命ファタリテートの誕生祭も、市井では貴族ほど慣習が残っておらず、文化的な行事として催しているだけなのだが、ディアナが聖女として誕生してからは、そこにも意図が含まれるようになったらしい。

 ディアナは休日もあらゆる神聖院に赴くと聞いた。リーベでは事あるごとに聖女を祭りあげ、運命にするように祈っているのだ。

 シックザール小侯爵に案内されるまま、私は神聖院を訪れる。

 神聖院は運命へ祈りを捧げる場であり、布教の拠点である。孤児の養育や文字を教えるなどの慈善活動もおこなっているため、手入れの薄いところも多いけれど、ここの神聖院は立派なほうだ。

 赤みを帯びた生成りの外壁にはほとんど汚れはない。二つの塔が建物の両側にあり、それに挟まれたところに大きな門構えをした入口が見える。

 しかし、私たちが入ったのは裏口のほうだった。人混みを避けるようにして神聖院の裏側へと向かい、関係者しか使わないような小さな扉を開かれる。

 暗い周歩廊を静かに歩き、大きな祭壇のある聖障の裏側に出た。左右の翼廊は死角のため見えなかったものの、信徒席のある身廊は一望できた。夥しいまでの人で埋め尽くされている。

 ここまで人が集まることは滅多にない。

 お目当ては聖女か。

 祭壇では、司祭だか司教だかが聖書を開き、ありがたいお言葉を宣っている。


「司教ですね」シックザール小侯爵が私に言った。「あのお方は、このあたりの教区の監督をしていらっしゃいますから。祈祷に来たことは?」

「ありません。私は信心深くもないし、夫人は外に連れだしたがらないので。学問としての知識しか知りません。叙階を受けた者から枢機卿が選ばれ、彼らを束ねるのが聖教猊下。シックザール侯爵家は、その枢機卿を多く輩出していましたね」

「宗教と政治は古くから結びつくものですから」

「そして、政治に染まりすぎました。現在では、枢機卿という立場を介さなくとも、貴族は神聖院に対して優位に立ててしまえる。おまけに、いまはミットライト侯爵家から聖女さえ出ている」

「ええ。ディアナが実質の猊下と言っても過言ではありません。実際のところ、貴女が言うように簡単なものでも、単純なものでもないのですが」


 しかし、ここにいる多くの人間が、彼女に祈りを捧げていることに変わりはない。どんなことを祈っているのだろう。災害からお守りください。病気を治してください。商売を賑わせてください。心を癒やしてください。空腹から助けてください。お金をください。きっとそんな祈りを、聖女へと捧げている。

 祭壇に立つディアナを見る。

 ステンドグラスを通して差しこむ陽光に照らされたディアナは、神々しく煌めいていた。月虹の髪は七色に染まり、過去や未来を見据えているという虹彩異色症ヘテロクロミアの瞳は、羽箒のような睫毛に伏せられていた。

 いつもの制服とも異国のドレスとも違う、聖女としてのいでたちをした彼女を見るのは初めてだった。

 まるで、あのおぞましい月夜に遭ったときのような、人ならざる雰囲気を放っている。


「……司教が話すだけで、聖女さまはただ立っているだけなのですね。猊下というよりも偶像イコンだわ」

「実際、ディアナにはなんの力もありませんから」

「明け透けに言いますね」

「ディアナはミットライト侯爵家という貴族に生まれたただの娘です。たいそう立派な肩書きを背負わされているだけで、運命の化身でもなければ、運命の言葉を聞くこともできない」


 まさか私も、本当にディアナが運命の化身だとは思っていない。

 運命の言葉を聞くという話だったが、そもそも、運命の言葉は《御使い》が教えてくれる。信者でなくとも聞ける御声だ。祈らずとも、神聖院に来ずとも、リーベの民は祝福を受ける際、御使いの声を聞ける。

 私も入学式に聞いた。そして、かつては受けた《除災の祝福》を剝奪された。あれは苦い思い出だ。


「洗礼の際以外でも、信仰の深い者は、御使いから運命の御声を聞くことができる、と聞いたのですが……ミットライト嬢はそうではないのですね」私は言った。「入学式の日、ミットライト嬢だけは、洗礼を受けませんでした。もうとっくの昔に受けたからだと聞いています。聖女なのだから当たり前のように運命の言葉も祝福も受けているのだと、みんな口を揃えて言っておりましたが」

「違いますね。聖女なのだから、祝福は受けられません」

「……《持たざる者》ということですか?」

「いいえ。洗礼を受けられないということです」

「洗礼を受けていない? リーベでは賎民だって洗礼を受けるはずですが……」

「彼女はなにかを信じる側の人間ではなく、信じられる側の人間ですから」シックザール小侯爵は人々を見つめる。「この光景を見れば、わかるでしょう」


 誰もがディアナにこうべを垂れる。誰もがディアナに祈りを捧げる。

 なんの祝福もなければ加護さえ与えられない、ただ偶然にも、一年のうちの最も神聖な日に生まれ、神秘的な風貌を持ち、ありとあらゆる才に恵まれただけの、ただの貴族の娘が、リーベだけでなく遠くの国にまでその名を轟かせ、崇められている。

 そう考えてみれば、このさまはまさに異様だった。


「今日がなんの日かご存知ですか?」


 ふと、シックザール小侯爵が尋ねた。尋ねたというより、もらしたとでもいうのだろうか。どこか淡々とした怒りや、呆けるほどの虚脱感を滲ませる、そんな声だった。


「……春の花が蕾から芽吹く日でしょう」

「ディアナの誕生日です」


 割るような声で、シックザール小侯爵は返した。

 私は彼を見て押し黙る。


「どうして、自分が生まれた日に、全く別の者の誕生を謳わなければならないのでしょう。誰にもおめでとうを言われることなく、祝福を受けることもなく、捧げられた祈りを聞き、笑わなければならないのでしょう。ずっとそうです。生まれてから聖女という重荷を背負い、今度は王太子妃という使命を課されようとしている」

「…………」

「ディアナに自由を。僕の望む“解放”は、そういうことです。これ以上、彼女を人形に、偶像にしてはいけない。王太子妃になるのを邪魔するお願いなんて、彼女を信仰している周りには到底できません。政敵である貴女だから、お願いしているんです」


 私の隣にいるシックザール小侯爵は、切に迫ってそう言った。彩りのない灰色の瞳は真剣な様子だった。

 ここまで誰かに縋られたことは私の人生においてそうない。

 そうないのだけれど、私はそんな彼の言うことなど、聞いてはいられなかった。

 何故なら、信徒席にいるフィデリオと、目が合ってしまったので。

 すぐに逸らしたものの、いまだに視線は感じていた。まるで針を突き刺されているかのようだ。

 一瞬は見間違いかと思ったけれど、彼の瞳が私を見た途端に収縮されたのがわかった。蜂蜜色の甘さを根こそぎ払い捨てたかのような鋭利。

 しまった、頭巾フードから出していた、この亜麻色の髪。暗い色の外套ローブだととても目立つのだ。だからこそ、普段は髪を映えさせるために暗い色の服を着るのだけれど、家の者に見つかりたくないこの状況では最悪だ。悪目立ちしている。


「アウフムッシェル嬢?」


 私の様子を不審に思ったシックザール小侯爵が、首を傾げる。

 いまその名を出さないでほしい。まさかこの距離で聞こえているとは思わないけれど、外套ローブを羽織っている私とは違い、この男は顔を晒しているのだ。口の動きでなんと言ったか読み取れるかもしれない。そうなってくると、もう見間違いなどと白を切ることはできない。勝手に邸を抜けだしたことはともかくとして、政敵と会ったことがばれてしまう。


「話はわかりました」私は無礼を承知でシックザール小侯爵の服の裾を掴む。「馬車へ戻りましょう。もうそろそろ帰らないと、本当に心配をかけてしまいます」


 そう言って、半ば無理矢理に話を切りあげ、私たちは裏口から神聖院を出た。

 そのあいだもシックザール小侯爵は「さきほどのお話は」などと言ってくるので、「手紙でお返事します」と言った。

 私からシックザール小侯爵へ手紙を送るなんて不審以外の何物でもないだろう。使用人にも夫人にも疑われるし、小侯爵からしてみても同じことが言えたので、「いまお聞かせください」と反論を受けた。

 うるさいのよ。こっちはそれどころではないのだから。と、馬車の前にいた私は、よっぽど叫んでやろうとしたのだけれど。


「なにをやっている……ヴィーラ」


 神聖院から急いで抜けだしてきたらしいフィデリオが、私の手首を掴み、睨みあげてきたので、私は全てを諦めたのだった。





 

 フィデリオはいっそ泣くのではないかというくらいに怒り心頭の様子だった。人目があるから取り乱さないだけで、二人きりになれば手すら上げられそうな形相だった。

 シックザール小侯爵がいたのがせめてもの救いだったが、彼は彼で空気を読み、この場から立ち去ることを決めた。

 私をここまで引きずりだしたくせに、後始末の一切を押しつけるつもりらしい。

 とはいえ、フィデリオのいる手前、先の一件を話すわけにもいかず、そうなってくると、彼としては私と会っていたことさえも触れられたくないはずだ。

 せめてなにか答えようと、私は彼に「私は私の望むことをします」とだけ返した。

 彼も「わかりました」と返してくれたので、意図は伝わったはずだ。

 私も乗せた馬車に一人で乗りこんだ彼は、最後に申し訳なさそうに振り向いた。


「話をややこしくしてしまったようですね」

「本当ですね」否定はしない。「言ったでしょう。家の者には見つかりたくない、と。正直、彼のほうを振り返りたくはありません」

「僕としても、こうなる予定ではありませんでした。立場上、開けっ広げな話にはしたくありませんでしたし。ただ……アウフムッシェル卿にも申し訳ないので、彼にはお話してもかまいませんよ」

「よいのですか?」


 せっかく私が気を遣ってやったのに。

 そう思っていると、シックザール小侯爵は小さく微笑んだ。


「仕方ありません。彼は貴女を大切に思われているようですし」

「は?」

「ディアナから聞きました。狩猟祭が終わってから、片時だって、貴女のそばから離れようとしなかった、と。いまもそうです」

「…………」

「心配しているんですよ」


 そう言い残して、シックザール小侯爵は、神聖院を後にした。

 残されたのは、私とフィデリオである。

 すぐにでも夫人のもとへ突きだされるのだろうな、と思っていたのだが、フィデリオは人気ひとけのないところにまで私を連れてゆき、心置きなく叱りつけることにしたらしい。開口一番に「正気を疑う」と声を低くされた。


「謹慎を解かれて早々に外出したのはいい。君の勝手だ。その場所が神聖院だったことも、まず一度目を瞑ろう。問題は、君の隣にいた人間……あれは、ノイモンド・フォン・シックザールだろう? あの男となにを話していたの?」


 正直に話しても信じてもらえるかわからないため、私は煙に巻くことを考えた。


「納得できれば、馬車を掴まえて、邸まで返してあげる。でなければいますぐお母様に突きだしてやる」


 正直に話すことにした。

 煙を巻くのではなく、尻尾を巻こう。


「……簡潔に言うと、ディアナが王太子妃になるのを邪魔してくれ、と頼まれたわ」

「シックザール小侯爵が彼女の邪魔を? 何故?」

「話せば長くなるのだけれど、彼は望んでないということよ。その理由については、ある程度、私も納得しているわ」あ、と私は呟く。「この際だから言うけれど、似たようなことをガランサシャとジギタリウスにも頼まれたわ。ディアナを失墜させるまでは、協力しないかって」

「は? いつ」

「春休みより前。貴方と雨の中、取っ組み合いの喧嘩をした日よ」

「君……そんな大事なことを、いまの今まで隠し持ってたの……」


 本当は言うつもりはなかった。

 なんとなく、口を滑らせたような気持ちだ。

 私はなにも言い返さずに押し黙る。


「しかも、どうせ、二つとも了承したんだろう」

「……不承不承。損はないから」

「あるだろう。ミットライトの邪魔なんて……万が一それが明るみになったとき、ボースハイトやシックザールが庇ってくれてるとでも思っているの?」

「たいそうなことはしないわよ。私だって、身を切るのはもうたくさんだわ。ただ、目的は同じだったから、断る理由がなかっただけ。フェアリッテが王太子妃になるには、現状、大きな成果を上げているディアナは、どう考えても邪魔よ」


 そしてなにより、答案の改竄という、私を脅迫するだけの手札カードまで持っている。

 私が先に手札カードを切ることで、たとえ暴露されても以前ほどの痛手はないにせよ、私は社交界で居場所をなくすだろう。

 フェアリッテのためでなく、自分のためにもならない。


「愛を知りたいんじゃなかったのか」

「教えてくださるのでしょう、貴方が」

「教えるさ。だからこそ、そんなことをしてる場合じゃないって、俺は思うけど」

「へえ? なにをすべきかを聞いた覚えなんてないけどね」私は腕を組み、目を眇めた。「今朝だっていろいろお話しくださったけれど、結局、どうすることが正しく愛するということなのかしら。私はなにをすればよろしいのかしら」

「だから、今朝も言ったろう、“ありがとう”や“ごめんなさい”だ」

「ありがとうなら言ったじゃない」

「俺にはね。フェアリッテにだよ」フィデリオは目を細める。「まずは彼女に謝れ、絶対に。今回のことは、あまりに酷すぎるから。そして、本当は後悔していると、仲良くしたいと、愛していると、言ったらいいんだ」


 私は呆気に取られた。腕を組んだまま突っ立ってしまった。

 フィデリオは、言うに事欠いて、謝れと言ったのだ。


「フィデリオ、貴方、忘れたの……? 私がフェアリッテを傷つけることで、彼女はベルトラント殿下からの寵を得たのよ? いまさら私が謝ったら不審じゃないの」

「不審なものか。君が謝ったとして、そんなふうに考える人間がいると、本当に思ってるの? もうじゅうぶんだと言いたいんだ。むしろ、このまま謝る機会を失えば、君は二度とフェアリッテとは話せなくなるぞ」

「…………」

「先延ばしにすればするほど話しづらくなる。相手のことだってどうでもよくなる。上手くいけば、フェアリッテは王太子妃に、王妃になるんだ。そうなれば、いくら異母姉妹でも、滅多に会えなくなるんだぞ」


 私は少しだけ俯いた。外套ローブ越しの片腕を握る。そういえば返し損ねたな、なんてことを思った。それを見抜いたフィデリオは、「逃げるなよ」と囁いた。


「俺からしてみれば本当に意味不明でちっぽけだけど、君にだって矜持はあるだろうから、謝りたくないって気持ちもわかる。考えれば億劫になるんだろう。顔を合わせるのも苦々しい。でも、君はそれだけのことをした。それだけのことをして、あんなに泣き腫らしたのなら……謝ったほうが君のためにもなるよ」


 そうだ。考えれば億劫で、顔を合わせるのも苦々しい。

 彼女の髪を乱暴に掴んで切りつけた。

 それを踏みにじった。

 大嫌いだと、酷い言葉を浴びせた。

 たった一度でたくさん傷つけた、時を遡る前のように。


「……時を遡る前は、」私は漏らす。「どれだけ私が拒んでも、フェアリッテは、私に話しかけてきたでしょう」


 出会い頭に紅茶を浴びせられても、《持たざる者》だと嘲笑われても、どれだけ罵って貶めても、矢で射抜かれそうになっても——フェアリッテは、どうしたらいいのと泣きついて、私を追いかけてきた。

 傷ついていないわけがないのに、それだけのことを私はし尽くしたというのに、彼女は勇気を振り絞って、私に微笑みかけた。


「なんとなく、今回もそうなるんだと思ってた。だから、そのときのために、酷い言葉をたくさん用意しておいたの。考えておかないと、いざ顔を合わせたら、咄嗟に出てこないと思って」


 いま思えば、馬鹿だな、と嗤ってしまう。

 自然と私の口からは乾いた笑みが漏れていた。


「……でも、違った。フェアリッテはいつまで経っても部屋にこもってばかりで、いろんなひとに慰められても顔さえ見せなくて」

「そりゃあ、そうだろう。あのときといまとでは状況が違う。最初から突っ撥ねていたあのときと、仲睦まじくすごしてから手酷く傷つけた今とでは……フェアリッテの痛みだって違うよ」

「私だったら、痛みよりも先に怒りが来るわ。そして、時が経てば経つほど、感情はぬるくなってゆくの。でも、先に悲しみが来た人間はどうなるのかしら。どんどん煮えくり返ってくるのかしら。許せないって思うのかしら。好きだって、愛してるって、言ってくれたのに……もう、フェアリッテの中に、その気持ちはないのかもしれない」


 わかっている。常春のきらめきの中で咲く花を、私が散り砕いた。萎びて生気をなくすまで傷つけた。

 それでも、彼女はずっと咲きつづけるのだと、心のどこかで思っていた。

 だって、彼女は、眩しいほど穏やかに笑う、花のひと。私が羨んで憧れた、完璧な女の子。

 どれだけ必死になって貶めてやろうとしても、目まぐるしく咲き乱れ、私の心を独り占めにした。ついには殺してやろうとした私に、愛してると言ってくれた。

 唇を噛み締めていた私に、フィデリオは目を瞬かせる。


「……もしかして、君、嫌われてたらどうしようとか思ってる?」


 ぐっと喉が詰まって、なにかを飲みこもうとした。けれど、上手く飲みこめなくて、唸るような声になってしまった。

 目を逸らしたら笑われそうで、意地を張っていたけれど、おかげでまぬけな顔を晒してしまった。

 結局、力の抜けたような声で「自業自得のくせに、泣くんだものなあ」と笑われた。


「たしかにね、ヴィーラ、嫌われていたとしたらそこまでだよ。許してもくれないし、話しかけてもくれないだろう。君はそれだけのことをフェアリッテにしたし、まだ隠しているだけで、もっと非道いことも君はしている。たとえば全てを知ったフェアリッテが、もし君を憎んだとしても、文句は言えないよ。だからって、謝らないのはだめだ。でないと、許されるものも許されない。たとえ怖くてもきちんと言うべきだよ。髪を切って、酷いことを言って、本当にごめんなさい、って」


 考えてみれば、生まれてこのかた、許してほしいと謝ったことがない。許されることよりも、その場を凌ぐことのために、謝罪の言葉を吐いていた気がする。

 だから、こんなに怖いのだ。

 フィデリオはこんなに怖いことを私に教えようとしているのだ。そう思うと実に憎らしくなって、私は彼の足を踏みつけた。


「この、」彼は足を退ける。「野蛮人め」

「何様のつもりなのよっ」

「意気地なし」

「あんたの説教くさい話はもうたくさん」

「誰のために言ってると思って……」

「全部、終わったら、」私は外套ローブを握りしめる。「言うわよ。全てを丸く収めて、彼女の前に、胸を張って立てるようになったら……」


 たとえいま謝っても、私という揚げ足を取られて、フェアリッテが潰されるのは目に見えている。彼女を傷つけることで方々に敵を作ったし、ディアナの問題も片づいていない。言い訳でなく、いまフェアリッテと和解すれば、たとえ誰が訝しまずとも、ディアナならば動くはずだ。

 今日、神聖院に赴いたことで、彼女の置かれた状況や境遇よりも、むしろ彼女という存在の恐ろしさを思い知った。

 シックザール小侯爵はなにやら彼女に同情的だったけれど、私からしてみれば“たいそういいご身分で”といったところだ。

 やはりタピスリを引き裂いたのは彼女だったし、わざわざ揉み消さずとも一切他言しない信者までついているというのだから、悪質の極みである。

 だいたい、誕生日に祝われなかったからってなんだ。私だってまともに祝われたのは去年が初めてなのだ。どうせあの女もフレーゲル・ベアをもらえなかった口だろう。だからといって、他人の贈り物に手を出すなど、卑しいというほかない。賤民の娘に卑しいと言われては聖女もかたなしである。

 シックザール小侯爵の話を受けたのは、ディアナに同情したからではない。

 どこからどう見ても恵まれているくせに可哀想ぶっているのに虫唾が走るからだ。


「……まあ、君もちゃんと考えているなら、それでもいいけど」


 風で涙を乾かす私に、フィデリオは呟いた。靡く栗毛の隙間では、甘い眼差しが陽を受けて光る。このまま蕩けだしそうな瞳が、どこか笑うように私を見る。


「だったら俺は知らないよ」腰に手を当てて、小さく竦める。「言っておくけど、俺の従姉妹は、君に引けを取らないような、驚くべき女の子だ。ああ見えて昔は俺よりも足が速かった。虫だってちっとも怖がらないし、興味があればすぐに触りに行った。幼いころ、彼女の摘んだ花には毒があって、大人全員が顔を蒼褪めさせたのを、彼女だけは楽しそうに笑っていたことがある」

「……フェアリッテがおてんばだったという話?」

「こうと決めたもの、心の動いたものには、すぐに手を伸ばしにゆくということ。花のひとと周りは言うけれど、どちらかといえば花盗人だと俺は思うし、そうでなくとも彼女は彼女だ。君も観念したほうが身のためだよ」


 なにが言いたいのかわからなかったけれど——フィデリオは約束どおり、私のために馬車を掴まえてくれた。

 一足先に邸へ戻った私は、乳母にたんと叱られて、しかし、意外にも夫人には今日のことを報告されず、「あまり心配をかけないでください」と小言だけ頂戴した。夫人の心労を増やしたくなかったのかもしれない。もしくは、どうせフィデリオが言うだろうと見越しているのか。

 春休みは穏やかに過ぎ去っていった。私は夜会にも参加せず、新学期の予習やこれまでの復習をしては、愛馬と遠乗りに出かけていた。

 そんなふうに毎日をすごしていたら、すぐに新学期はやってきた。

 いつもどおり支度をして、いつもどおり馬車に乗って、いつもどおり学校の寮に帰って、いつもどおり荷解きをする。

 ただし、部屋の空気はぎこちなかった。パトリツィアもカトリナも一言もしゃべらない。お互い、なにかに忙しいふりをして、目を合わせないようにとしていた。

 相変わらず、フレーゲル・ベアはない。その寂しさに嫌気が差して、私は無理矢理に眠る。

 朝、廊下を歩けば、べたべたとした視線に晒される。遠巻きにされながら囁かれる。あるいは、私がそばを通るだけで、あたりが静かになる。

 春の訪れではなく冬の訪れのようだ。窓から差しこむ光はこんなに眩しいのに、心地だけは果てしなく冷たい。けれど。

 身も焦げつくような陽光が差しこんだ。

 いや、見間違えただけだ。あまりに鮮やかな金髪ブロンドが、この目を眩ませただけ。

 ふわりと揺蕩うその髪は、短くなっていた。私が切り落としたから、その長さにまで揃えるしかなかったのだと思う。緩やかに結わえられ、髪飾りでまとめていた。

 私とお揃いになるように施した襟元の刺繍が、ビジューと共にきらめく。世界が輝いたみたいに鮮やかな彩り。

 彼女が、私の前に立つ。

 春が来た。

 常春のきらめきから、目を逸らせない。

 いま私はどんな顔をしているのか、気にかけることさえできなかった。


「おはよう、ヴィーラ」 


 彼女の声は少しだけ震えてもいて、そういえば、そんなふうに声をかけられたことがいつかもあったな、とぼんやり思った。

 どうしてと考える隙さえ与えてくれない。私の憎しみなど、悲しみなど、後悔など、恐れなど、全部踏みつけて会いに来る。誰よりも手弱女たおやめのようで、何者にも手折らせない、そんな彼女が、私だけを見つめる。

 そして、香るようにそっと笑った。


「よかったら……教室まで、一緒に行かない?」


 彼女の瞳には、花が咲いている。

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