第5話 鬼心矢の如し
びたびたと、頬や前髪に、雨粒が打ちつけられていて、まるでみじめなお前はずぶ濡れで帰れと、喧嘩でも売られているみたいだ。
ファザーン卿からの矢はまだ絶えない。
雨に紛れ、また矢が襲いかかってくる。
視認する必要も避ける必要もない、そもそも当たりやしない、私を威嚇するためだけの攻撃だった。あくまで威嚇なのだ。
「……っは、っはあ」
私はひたすらに馬を走らせつづけた。
詳しくは知らないが、ファザーン卿の受けた《
ファザーン卿はその祝福を利用し、自身の班を率いて、私の逃げ惑う姿を鑑賞し、楽しんでいるらしい。
時を遡る前の私がフェアリッテにしていたことと同じだ。相手を恐怖に陥れて、嬲り者にする。彼らにとって、私は、愉快な獲物でしかない。
ただただ私から、怒りも、屈辱も、体力も体温も、なにもかもが消費され、奪われてゆく。
「…………冗談じゃない」
ふつふつこみあげてくる怒りに、私は歯を食いしばった。
私からも矢を射返してやろうと思ったけれど、この雨風では万が一が起こりかねない。祝福を受けるあちらは、私に当てないようにできるけれど、私は《持たざる者》だからそのあたりの加減なんてできない。
私の矢が彼らに当たりでもしたら、私の咎にされるに違いないなかった。きっと彼らは、こちらは悪戯のつもりだったのに、だとか、射返すなんてなにを大袈裟な、だとか、そういった言い逃れをする。
彼らの悪戯は許されても、私の本気は許されないのだ。
なら、彼らの悪戯を、本気にしてしまえばいい。
どれだけ矢を射ようと、それが私の身を抉ることのない様子から察するに、
ファザーン卿の目的はただ一つ。私を屈服させて、己が正しかったのだと知らしめたいだけ。私に勝つという、一時的な陶酔感。
——それさえも奪ってあげるわ、マンフレート・ファザーン卿。
また一本、私へと矢が放たれる。雨も風も雄々しく弾きながら肩すれすれを通過しようとしていたその矢を、私は身を捩ることで、食らってやった。
「——がはっ!」
ちゃんと悲鳴を上げられるかが心配だったけれど、肩に刺さった矢は尋常でないほど痛くて、演技でもなんでもなく、私の口からは苦い喘鳴が上がった。
撃たれた一瞬よりもその後のほうが痛烈で、私は手綱を握りながらも、走る馬の
耳を澄ませば雨や足音の隙間から、遠い「嘘だろ!」「なんで当てた!」「違う、俺はそんなつもりじゃ、」という必死な声が聞こえてくる。
狙いどおりだ。
私は徐々に馬の速度を緩めていく。浅く息を吐きながら、完全に停止した。
当たるとは思っていなかった矢が当たって、陶酔が恐怖に変わったのだ。きっとその場から呆気なく逃げだしたに違いない。
ざまあないわね。
さあさあと雨の感触を感じながら、私は口を開いた。
「……い、ぐぅ……っ」
漏れたのは、呻き声。
笑ってやるつもりだったのに、どうしよう、笑えない。
矢に刺された腕が果てしなく痛い。下手を打った。掠める程度にするつもりだったのに、命中するなんて。
痛みどころか痺れもある。
もしかして、毒でも塗られていたのだろうか。
わずかな眩暈。この毒効には覚えがない。おそらく、植物性ではなく、動物性の毒だ。この森には毒草だけでなく毒蛇なんかも生息していたのだっけ。解毒はできるだろうか。動かなくてはいけないのに、体が重い。
私はやっとの思いで馬から降り、すぐそばにあった木の根元にへたりこんだ。幹に体を預け、目を瞑る。
濡れた体が冷たい。吹く風が寒い。
なんせいまは冬の光の月だ。来月には春の花の月を迎えるとはいえ、深い冬季を極めている。
あまりの肌寒さに、アウフムッシェルの牢の中を思い出した。あのみじめな気分まで蘇って、強く歯噛みする。
私は腕に刺さった矢を掴んだ。
感触からして深くない。抜くことで出血を危ぶむよりは、抜かずに毒が回ることを恐れたほうが賢明だ。
ジャケットの襟を食んで、私は勢いよく矢を引き抜いた。
「ぐぁ」
食んだジャケットの襟を離し、荒く呼吸をした。あまりの痛みに気を失いかけた。
震える手で、私の腕に刺さっていた矢を掴みあげる。なんらかの証拠になるかもしれないと思い、それを背負った矢筒に入れた。
木の幹に背凭れながら、呼吸を整える。
ジャケットの胸ポケットから、ハンカチを取り出した。クラウディアが刺繍を施してくれたハンカチだ。止血のために、それを傷のある腕へと巻きつける。
クラウディアには申し訳ない。こんなことに使いたいわけじゃなかったのに、血で汚してしまった、もったいない、綺麗な刺繍が台無しだ、しょうがないわよって許してくれるだろうか。
ぼんやりしていると、雨音に混じって、川のせせらぎが聞こえた。近くに川があるらしい。
このまま傷を放置していても、毒の洗浄はできない。水があるなら洗い流したい。
その一心で、私は立ちあがり、馬を牽いた。
覚束ない足に鞭打って歩きつづけると、流れの穏やかな川があった。
雨のおかげで嵩は増しているのだろうが、にしたって浅い川だ。
私は馬を置いて川へと飛びこんだ。ばしゃんと音が鳴って、全身水浸しになる。
腕の傷口がめりめりと痛む。血がだくだくと垂れ流されているのが見えた。澄んだ川の水に私の血が溶けこんでいく。
このまま血を流しつづけていたら、毒も体外に流れていくだろうか。冷えていく指先すら動かすこともできず、私は呆然と、その様を眺めていた。
そうやって視線を流しつづけて——川下に、クシェルがいた。
フェアリッテと似た色の瞳が大きく見開かれ、私を見つめている。
こんなクシェルははじめてだ。いつもは私を視界に入れることも、私のために表情を変えることもしないのに。
しかし、今回ばかりは、さすがのクシェルも無視はできなかったらしい。腕から血を流している私の姿に血相を変え、水面を荒らしながら「おい、大丈夫か!」と駆け寄ってきた。
「……あ、ぅ」
「しっかりしろ、気を遣るな、死ぬぞ」
私を抱き起こしたクシェルは、ハンカチの巻かれた傷口を押さえる。その眉を痛ましそうに歪めた。
「どうしたんだこの怪我は……」
「矢が、刺さって、」
「他の生徒の矢を浴びたのか。その生徒は何故お前をほったらかしに?」
「ファザーン卿」
私の言葉を聞いて、クシェルは察したらしい。眉を顰めて「愚かな」と呟いた。
それよりも、私は、自分自身の力ない声に驚いていた。なんだこの声は、死にそうじゃないか。
体もがくがくと震えている。吐く息すらも震えた。クシェルから引きずりだされた水面が、悪魔のように見えた。
「……震えが、とま、な……どうして、」
「馬鹿め。体が冷えすぎている。どれだけこの雨の中を移動したかはわからないが、まるで氷のようだぞ。おまけに毒矢まで受けているな。極めつけは
そういうわけじゃないけれど。
言葉を返そうにも気力がなかった。私はクシェルに支えられながら、川を離れる。クシェルは私の馬を見つけると、「僕たちのベースに向かうぞ」と歩きだした。
彼の言うままぼんやりと歩いていると、森の中で異彩を放つような、赤い大きなテントを見つけた。
雨に曝されないようにした焚き火に、スープの匂い。なんだか安心してしまった。
焚き火のそばには、彼らが仕留めたであろう獲物が横たわっていた。班員が血抜きなどの処理まで済ませている。
班員が顔を上げると、クシェルに支えられる私に気がつき、「どうしたんだ!?」と血相を変えた。
「毒矢を受けたらしい。治療と、それから、温かいスープを」クシェルは彼らに指示を出す。「焚き火の前に座らせてやれ。体を拭くための毛布も、それから……」
「ヴィーラ?」
クシェルが言葉を続けようとしたのを、遮る声が鳴る。
私が顔を上げるのと、ジャケットを着こんだフェアリッテが持っていた薪を落としたのは、同時のことだった。
そういえば、クシェルの班にはフェアリッテもいるんだったな、とぼんやり思った。
顔を蒼褪めさせたフェアリッテは「ヴィーラ!」と走り寄り、私の顔を覗きこんでくる。
「そんな、顔が真っ青よ! なにがあったの?」
「ファザーン卿の矢を受けて怪我をしたようだ」私の代わりにクシェルが返事をした。「まずはこいつを焚火の前へ。持ってきた薪も足してやるといい」
フェアリッテは「行きましょう、ヴィーラ」と私の体を支えた。
その前に、落とした薪を拾ったらいいのに、フェアリッテは足元を気にするそぶりも見せなかった。冷たくなった私の体に、美しい眉を切なそうに顰めていた。
焚き火のすぐ近くに置かれた椅子に腰かけた私は、その温かさに力を抜かした。
その隙に、フェアリッテは私のジャケットを脱がし、ブラウスの袖を捲りあげる。傷口を見て短い悲鳴を漏らしたものの、すぐに班員に「解毒剤のストックを持ってきてください」と声をかけた。
私も自分の傷口を見遣る。
矢に射抜かれ、無理に手抜かれ、真っ赤に抉られた傷口に、そりゃあ痛むわけだと内心でぞっとした。
そんな私の傷口を眺めながら、フェアリッテは震える唇で「こんなのあんまりよ」と呟く。
「ヴィーラがなにをしたと言うの。勝負をしようと吹っかけたのは、ファザーン卿のほうでしょう」
「あれもここまで
「だけど、体もこんなに冷たくして……一歩間違えれば、ヴィーラは死ぬところだったのよ。こんなの、正気の沙汰ではないわ、あんまりだわ……」
そう言って、フェアリッテははらはらと涙を流した。
私はその涙を見て、やっと平静を取り戻した。
そうか、私は、平静ではなかったのか——そりゃあそうだ、いくら意趣返しがしたいからといって、自分の身を危険に晒すだなんて、普段の私なら絶対にしない。
雨に打たれ、矢に晒され、どれだけ馬を走らせても消えることのない緊張感に、自分でも知らず知らずのうちに、気を参らせていたのかもしれない。
こうして温かな火の近くで体を休め、気が気でなくなっているフェアリッテの顔を見て、私は、さきほどまでの私が、よっぽど追いやられていたことを知った。
涙を拭ったフェアリッテが「フィデリオは?」と漏らした。
「先刻仕掛けた罠を殿下と探りに行ってから、まだ戻っていない」
「フィデリオにも知らせないと、ヴィーラが怪我をしたんですもの」
「殿下の邪魔をするわけにはいかない。僕たちはあくまで殿下の付き添いだ」
フェアリッテやフィデリオはクシェルの付き添いだと聞いていたけれど、クシェルもクシェルで殿下の付き添いをしていたらしい。
どおりで、彼のベースがあまりに豪勢なはずだ。一泊するつもりなのかという準備のよさが、ようやっと腑に落ちた。
手当てを受け、服を乾かされ、代わりの服と毛布を与えられ、膝に温かいスープを乗せたころには、全身を脅かしていた震えはすっかり消え去っていた。
私は渋々とクシェルを見上げ、「……施しに感謝します」と告げた。
クシェルは淡泊な顔で「血を流している者を捨ておくような薄情者ではない」と返す。
「本当に、クシェルさまが見つけてくださってよかったわ。だけど、その怪我で狩りを続けるのは無理よ。夜になれば狩猟祭も終わるのだし、貴女もここにいて休んでいくといいわ」
「……ううん、リッテ、私は行かなくちゃ。まだファザーン卿に勝てるだけの獲物を捕まえられていないのよ」
「なにを言っているの。ファザーン卿は、貴女に怪我をさせたのでしょう?」
「だからと言って、勝負がなくなったわけではないわ」
「そうでなくて……もうこんなの、勝負どころの話ではないはずよ、そうに決まってるわ。そもそも、ヴィーラがファザーン卿と同じ土俵に立つ必要はないのだし」
「私が嫌なのよ。自ら勝負を受けて負けるなんて、屈辱だわ。怪我があろうと関係ない。ファザーン卿の獲物よりも大きな獲物を仕留めれば、丸く収まるの」
そう言う私を、フェアリッテは痛ましそうな表情で見つめた。
私の嫌いな顔だ。彼女の幸せ面はいっとう嫌いだが、その表情も等しく嫌いだった。
時を遡る前でも、よくその顔で、私を見つめていた。憐れみとも違う、彼女自身が苦しげで、切なそうな顔。
私よりもよっぽど暢気に笑っていられるくせに、どうして。
「馬鹿馬鹿しい」
すると、クシェルが鼻で笑った。
私はクシェルへと目を遣る。
彼は思ったよりも冷めた表情で私を見ていた。
「ファザーンも愚かだが、お前も愚かだ。騎士の誓いでもあるまいし、あんな勝負を真に受けてどうする」
「……なにが言いたいのですか」
「勝負に勝てば丸く収まるなどと、本気でそう言っているのが愚かなんだ。あれはお前を貶めたいだけだ。もしもお前に負けたなら、その感情は恨みとして募るばかり。お前を認めるどころかさらに
「…………」
「丸く収まるのは、精々、ファザーンが勝ったときのみ。お前が屈服すれば、あの男もやっと満足するはずだ。お前にとっては腹立たしいことだろうが、僕の知ったことではない。ファザーンが卒業するまで辱めを受けるといい。巻き添えに遭うフォルトナー嬢くらいは、僕も庇ってやるさ」
フェアリッテは「クシェルさま」と眉を下げて言った。
しかし、クシェルはそれを取り合うことはなく、再び私に言葉を吐く。
「プリマヴィーラ・アウフムッシェル。わかっていると思うが、僕とてお前を認めていない。私生児だからではない。正妻以外との子を作ることは、あの時代ではさほど珍しいことでもないだろうから。ブルーメンブラット辺境伯夫人はお体が弱い。後継者に悩んだこともあるだろう。保険をかけておくのは当主として当然だ。結果、フェアリッテもお前も女として生まれたが……そのあたりの問題は婚姻で解決できる」
フェアリッテも、他の生徒もいるというのに、クシェルはそんなことを言ってのけた。
しかし、その言葉は実に淡泊で、ただ事実だけをなぞるものだった。
彼の意図がわからなくて、私はただ見上げることしかできない。
「僕が気に食わないのは、ブルーメンブラット辺境伯の寵を得てもいないくせに、なんの後ろ盾も加護もないくせに、僕たちと同じ立場であるとお気楽に生きていられる、その傲慢さだ。お前だけでなく、ブルーメンブラット辺境伯も愚かだと思うよ。愛せもしなければ養えもしない、無益な妾の子を作るなど」
スープの入った椀を持つ手に、ぎゅっと力がこもる。私は唇を噛みしめた。
頭蓋へ上っていく血の脈動を感じるほど、耳から音の鳴るような幻聴が聞こえるほど、ただただ怒りが我が身を浸した。
そんな私の顔を見て、クシェルは肩を竦める。
「僕の言葉に傷ついたか? 傷ついたならそれでいい。僕はお前が不快で、お前を傷つけたいと思っているのだから、僕の言葉の使いかたは間違っていない」
「……お言葉がすぎますわ、クシェルさま」
「そうだな、フェアリッテ。お前を傷つけるつもりはなかった。非礼を詫びよう。僕の言葉の使いかたが間違っていたことも」
「私ではなく、ヴィーラに」
「そう思うなら、それはそれで問題だな。お前はブルーメンブラットの人間として、己の名を貶める者を捨ておいてはいけない」クシェルは続ける。「僕たちには立場があるんだ。僕にはブルーメンガルテンとしての。お前にはブルーメンブラットとしての。賭け事で己の名を懸けるなどもってのほかだし、己の立場を理解せず、己の責を果たさない者は、その名にふさわしくない。権利ではなく責だ。与えられ、持つ者の使命だよ」
「…………」
「やりかたはいただけないが、ファザーン卿にも責がある。矜持がある。その矜持を傷つけられたから、彼はそれを守ろうと、奪い返そうと躍起になっているんだ。これ以上から彼から奪おうとしても、なにも収まることはない。なんの責もないプリマヴィーラ・アウフムッシェルの気が一時的に収まるだけだ。非生産的で、実に愚かだ」
クシェルがこの勝負を静観している理由がよくわかった。
言葉のとおり、馬鹿馬鹿しいからだ。
彼にとって、私の感情など、責とやらに比べれば取るに足らないものだからだ。
持たざる者はそのまま受け入れていろと、頭を押さえつけられている気分だった。
傲慢なのはどちらだと思う。まるでクシェルの聖人を気取ったような誇り高い顔つきさえ癪に障った。
こんなにも冷えきったテントの中で、私の感情だけが、火の粉のように猛る。
「……手当てとスープをありがとうございます」私は吐き捨てるように言い、立ちあがった。「私は狩りに戻ります。狩猟祭もたけなわの頃合いですし、ブルーメンガルテン卿も残る狩猟祭をお楽しみあそばせ」
「その怪我でか? フェアリッテも言っていただろう、無理だ。狩猟祭もたけなわだ、終わるまで休んでいくといい」
「気を揉まれずとも私は大丈夫ですから。たかだか付き添いの貴方とは違い、私は暇ではないんです」
「……僕が暇だと?」
「そう見えたもので。私の言葉を不快に思われましたか? よかったですわ。貴方を不快に思わせようと言ったことなので、私の言葉の使いかたは間違っておりません」
どうすればもっとクシェルを傷つけてやれただろうと思う。この怒りに熱されたナイフで、滅多刺しにしてやりたかった。
だけど、返す言葉が見つからなくて、私は捨て台詞だけを吐いて、この場を去ることしかできない。
干されていた服を取り、「お借りした服は洗って返します」と告げ、私はテントを出た。
温まった体は雨に晒され、急激に冷えていくが、それでも、怒りの熱は収まりきらない。
私は自分の馬を見つけて、その背に乗る。一刻も早くこの場を去ろうとすると、
「待って!」
というフェアリッテの声が近づいてきた。
聞こえないふりをして立ち去ろうと思ったけれど、彼女はそれを許さずに、私の乗る馬の鞍を引っ掴む。
「え、ちょっと、危ない!」
「ヴィーラが行こうとするからでしょう!」
「離してよリッテ!」
「だめよ、絶対に嫌、離したりするもんですか!」
「わかった、わかったから、その手を離して、怪我をするわ!」
私が落馬したらどうするつもりだと訴えたのだけれど、フェアリッテはぱっと手を離すなり、「私の心配をするより貴女自身のことよ」と微笑んだ。
意味を正す理由も見つからず、私はただため息をついたのだった。
「言っておくけれど、引き止めても無駄よ。私は狩りに向かうわ」
「ええ、そうして」
「……引き止めにきたんじゃないの?」
「探索に出た班の先輩が教えてくださったわ。ファザーン卿は銀色のキツネを射抜いたそうよ。それはそれは見事な美しさなのだとか。貴女が今日捕えた一番の獲物はなに?」
「……リーベカケスに、モモエリクロテン」
「さすがね。どちらも立派な供物になるわ。けれど、ファザーン卿のキツネには一歩及ばないでしょうね。このままだとファザーン卿に負けてしまうわ」フェアリッテは液体の入った小瓶を私に押しつけた。「痛み止めよ。その怪我も
私は目を見開いて、フェアリッテを見下ろした。
フェアリッテはなにも言えないでいる私にくすりと苦笑を見せる。
「ああ、だめね。クシェルさまがおっしゃっていたのに、自分の名を懸けてしまったわ。だけど、この学校には己の名を懸けた生徒が私以外にもたっくさんいるでしょうから、かまいやしないわ。取るに足らないのよ。貴女の気持ちが一番大事」
「…………」
「私は、貴女が貶められて、我が事のように悔しかったわ。ファザーン卿の溜飲が下がらなくとも、たとえば家門同士の交友の傷になったとしても、一矢報いてやりたいのよ。胸を張って行ってらして。大丈夫。貴女には私と同じ襟がついているから」
行ってらっしゃい、父の娘として、その名に懸けて——そう、言われた気がした。
かつての私の制服の襟には、なんの刺繍もなかったけれど、時を遡り、いまの私の制服の襟には、フェアリッテと同じ柄の刺繍がある。
その刺繍は、時を遡る前には受けていた視線を、ものの見事に封殺した。私生児である私がブルーメンブラットの家紋の施された襟で学校を歩けているのは、フェアリッテのおかげだった。彼女がお揃いにしましょうと、私を誘ってくれたから。
あのとき私が紅茶をぶちまけていたら、起こりはしないことだった。
「……どうして、貴女は、私に優しくしてくれるの?」
気づけば、私はそんなことをこぼしていた。
私が彼女に優しく振る舞うのは、彼女を殺すためだ。紅茶をぶちまけなかったのも、微笑んで彼女を迎えたのも、その容姿を褒めそやしたのも、愛称で彼女を呼ぶのも、憎たらしい彼女をいつか殺してやるためだ。
ならば、どうして、彼女は私に優しくできるのか。
私の問いかけに、フェアリッテは「優しくって?」と首を傾げた。
「こうして応援してくれたり、事あるごとに私を褒めてくれたり、」
「あはは、そんなこと」フェアリッテはおかしそうに、口を開けて笑った。「普通にしているだけよ? 私が貴女を応援するのは、貴女に優しくしようとしているからじゃないし、貴女を心地よく思わせたいからでもないわ。がんばってほしいと、貴女は素晴らしいと、そう思っているからよ」
フェアリッテはそう言って、あの暢気な幸せ面を浮かべた。
私の大嫌いな顔。そうやって驕ったように、私の持てないものをひけらかして、私にできないことをやってのけて、なんでもないように笑っている。
私は手綱を握り締めた。
不快でならないのに、歯痒いのに、胸の熱は温かさに変わっていく。最悪だ。フェアリッテに励まされるなんて。いまの私は、本当にどうかしている。
「まだジャケットも生乾きなんじゃない?」フェアリッテは自分の着こんでいたジャケットを脱いだ。「私のを使うといいわ。私たちの服のサイズが一緒なのは、デビュタントのときにわかったことでしょう? どうせ私は狩りには参加しないのだし、着ていても意味はないもの。念のためにポケットには矢毒も入れておいたはずだから、好きに使ってちょうだい」
そう言って、フェアリッテは流れるように私の腕から服をふんだくり、自身のジャケットを押しつけた。
裏地に毛の編みこまれた、温かなジャケットで、袖を通せば、冷えた体に熱が宿る。
礼を言うか悩んで、私は別の言葉を呟く。
「……ちなみに、ブルーメンガルテン卿は、なにを狩られたの?」
「クシェルさまはカワセミを。射貫いた矢の羽根は、カワセミと似たような玉虫色に染めあげられていて、残酷な美しさと情緒が伺えると、先輩方も絶賛していたわ」
「ならば、それよりも上等な獲物を捕らえないとね」
「ヴィーラったら。ファザーン卿との勝負はどうするの?」
「もちろん勝つわ。私のやりかたでね」
私はそう言って、馬を走らせる。
雨はいつの間にか上がっていた。
篝火ばかりが目映い夜、狩りを終えた私たちは、馬に乗って学校へと戻った。
最後の悪足掻きを終えた私は、体力を使い果たしていて、歩くこともままならない状況だった。
見かねたフィデリオは「俺の馬へ」と私を担ぎ、彼の騎乗する前へと座らせてくれた。
フィデリオに抱えられながら帰途に就くころには、フェアリッテからもらった痛み止めの効果もすっかり失われていた。
校舎の前で、森からの帰還を待ち伏せていた生徒の中には、クラウディアにリンケ、コースフェルトの顔もあった。
クラウディアは、フィデリオの馬上で憔悴しきっている私を見るなり、薄く口を開けて固まった。
リンケもコースフェルトも、私の腕の怪我を見て、「そんな……」と小さな悲鳴をこぼす。
私はやせ我慢をすることもできず、フィデリオの胸に凭れかかりながら、彼女たちを見すごした。
狩猟から帰還した生徒がずらりと並び、それぞれの供物を発表する中も、私はフェアリッテに支えられた状態でいた。
見物の生徒たちが、周囲を取り囲んでいて、おそらく、私とファザーン卿の勝負の行方を見守りに来たのだろう。
ファザーン卿は胸こそ張っていたが、怪我を私を一瞥たりともできないようだった。
「ファザーン卿の獲物は?」
「はい」教師に尋ねられ、ファザーン卿は答える。「『雪紛いのキツネ』です」
ファザーン卿の指示で、他の生徒が捕らえた獲物を前に出す。
フェアリッテの言っていたとおり、それは見事な銀色のキツネだった。
たとえば降る雨の線を描いたような、あるいは流星の軌跡のような、神秘的な白銀。その毛並みの美しさには誰もが息を呑んだ。
隣にいるフェアリッテも「なんて美しいの」と声を漏らしていた。
私ですら感嘆した。他の生徒の提出する供物よりもよっぽど大物で、クシェルのカワセミはもちろん、やはり『誘い椿のヒヨドリ』などでは及びもしなかったと認めた。
「アウフムッシェル嬢の獲物は?」
誰もが固唾を飲んで、私の獲物を待っていた。
ファザーン卿の緊張した面持ちも見える。
しかし、私は首を振り、その問いかけに答えた。
「差しだせる供物はありません」
生徒たちの呼吸が膨らむ気配がした。
教師は少し間を置いたのち、「わかりました」と次の選定へ向かう。
狩猟祭ではより立派な獲物を仕留めた者が称賛されるものだが、参加したからといって、必ずしも提出しなければならないわけではない。私のように辞退することも可能だ。
つまり、私はファザーン卿との勝負を放棄したのだ。
ファザーン卿は安堵のような息を漏らしつつ、やはり私のほうを見ることはなかった。
他の生徒も私の怪我に気づき、滅多なことを言えないでいる。
そうして、狩猟祭は無事に閉幕した。
私はファザーン卿へと近づいていく。
寮へ戻ろうとしていた生徒も、私の行動を見て足を止めた。
多くの生徒に見守られながら、私はファザーン卿へと
「私の負けですわ、ファザーン卿。先日は、後輩の分際でですぎた真似をしてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。深く謝罪申しあげます」
私の態度に、ファザーン卿はたじろいでいた。
私としては、そこで高圧的な返答をしていただいてもよかったのだけれど、周囲の目もあるなかでは、さすがのファザーン卿も強くは出られないようだった。
まさか自分がやったとは言いだせまいが、私に怪我まで負わせた身だ、その引け目もあるのだと思う。
「いや……俺もずいぶんとおとなげない真似をしてしまった」
それは、先日の件についてか、それとも狩猟祭で追いかけまわしたことについてか、私には判別しかねた。
ファザーン卿も伺っているのだと思う。あの犯人が誰か、私が気づいているのか。
もちろん気づいているので、それについては
「ファザーン卿に非はありませんわ。ファザーン嬢を思ってのことでしょうし。先日おっしゃられたように、私がいけなかったのです」
「反省しているならなによりだと思う。妹にも俺から伝えておこう」
「そのことについてなのですが、」そう言いつつ、私はフェアリッテへと促した。「いまもファザーン嬢はさぞかしお心を痛めておられることでしょう。私から、お詫びの品を用意いたしました」
ファザーン卿は「お詫びの品?」と首を傾げた。
私の視線を受けたフェアリッテは、私の獲物の中から、ひときわ大きなそれを運んでくる。
「どうか、マルゴット・ファザーン嬢へ……『花尾の首輪雉』にございます」
熟れた林檎のような目元に、未だ活き活きとした冠羽、磨かれた緑青がごとき麗しさを誇る
我ながら、実に見事な獲物だ。誰が比べるまでもなく——たかだか白銀のキツネなどでは勝りはしないほどの。
ファザーン卿は硬直した。
周囲の生徒も驚いたように、あるいは興奮するように、目を見開かせていた。
視界の隅では「ほう」と顎を
フェアリッテも自慢げな様子で「見事でしょう」と囁いた。どこか面白がるように、ちらちらと私を見遣っている。
私も本心からの
「この珍しい尾は、どうやら病を患っているためらしく、本来の黒斑が、まるで
つらつらと語る私の言葉を腑抜けた顔で聞いていたファザーン卿だったが、はっと我に返ると、固い声で口を開いた。
「……アウフムッシェル嬢。君はさきほど、供物はないと言っていたのに、何故、こんなものを」
ファザーン卿の様子があまりにも滑稽で、私は思わず笑みを漏らしてしまった。
「何故って、これは、ファザーン嬢に贈るための獲物ですもの」
私のそれが嘲笑だと悟った彼は、愕然として私を見据えた。
私のお詫びの品が、彼の供物よりもよっぽど値打ちのあるものだったからこそ、彼は痛感したはずだ——私は敗北したのではなく、自ら勝負を降りたのだと。
これではファザーン卿の立つ瀬がない。
あまつさえ、私はその獲物をファザーン嬢に献上しようとまでしている。屈辱のあまり我を失って勝負を挑んできたファザーン卿よりも、誠実で品位のある振る舞いだ。
まさか「わざわざ雄の
謗言を浴びる
たとえ、勝利に水を差され、家名の鳥の死骸を贈られ、どれだけの屈辱を浴びようとも——ファザーン卿は私を責めることができない。
視界の隅のクシェルが、らしくもなく、突き飛ばされたように笑った。私の対応をお気に召したらしい。
彼の気を立てたいわけではないけれど、目の前のファザーン卿の顔色を見れば、私も満足していた。否、満足はしていない、もっと欲しくなってしまった。
だから、私は両手で顔を覆い、「ですから、」と言葉を続けた。
「お願いします、ファザーン卿。私のことはどれだけ貶めようとかまいません。どうか、どうかクラウディアだけは、私の友人には、酷い物言いをなさらないで……全て私の責にございますもの。どれだけの辱めを受けても、自業自得だと耐えます。この腕の怪我も、天罰であったのだと飲みこみましょう」
私の言葉に、フェアリッテは「そんなこと言わないで、ヴィーラ」と私の背を撫でる。
彼女のフォローもあり、すでに空気はできあがっていた——良識のある下級生の令嬢を虐げるみっともない上級生の令息——そんな
周囲の目の色が、ファザーン卿への非難に染まる。
それを敏感に嗅ぎ取ったファザーン卿は、まるで矢に射貫かれたかのように硬直した。
事実、矜持を守るために躍起になっていた彼にとっては、心臓を突き刺すような視線だったに違いない。
クシェルの言うとおり、彼には矜持がある。
だから、たとえ勝負に勝っても負けても、私を貶めつづけただろう。
非常に遺憾だが、平静を取り戻した私には、クシェルの言葉の意味が理解できた。たしかにファザーン卿なら、どうあっても私を認めようとはしないはずだ。私が彼でも、絶対に認めようとはしないだろうから。
——認めさせることができないならば、許さざるを得ない状況を作ってやろう。
自ら勝利を捨ててまで、痛ましく懇願するまで、プリマヴィーラ・アウフムッシェルが譲ってみせたのだ。
譲られたマンフレート・ファザーンは、許さざるを得ない。
そうしなければ、これ以上にみっともない姿を晒すことになる。よりにもよって、彼の矜持そのものが、私を貶めることを許さないのだ。たとえどれだけ溜飲が下がらずとも。
これが私の勝ちかただった。
両手で隠す私の顔は、きっと、うっとりとした愉悦に歪んでいたことだろう。
——わかるわ、ファザーン卿。私も同じ。貴方を貶めたくて仕方がないの。貴方がもっとも厭うようなやりかたで、なすすべもない
どうかしら、散々追い回した私に、二度も勝利の陶酔を奪われた気分は。貴方に受けた傷がまだ痛む。それすらも全身を巡る恍惚のよう。ずきずきと、それは私の脳髄までをも
「——ヴィーラ!」
視界が揺れる。平衡感覚を失う。
傾いた私の身体を、フェアリッテが抱きとめる。
痛み止めも切れて、意識も朦朧としていて、限界だったのだ。私の名を呼ぶフェアリッテの声を聞きながら、私の視界は暗闇に落ちていく。
意識を失う前、最後に見たのは、やっぱり、フェアリッテの顔。
悲しそうに眉を顰めて、
誰かに心を砕いたり、傾けたりできる、そんなことを簡単にしてしまえる、豊かで傲慢な表情。
あんたは本当に、そういう顔で私を見るのよね、フェアリッテ。
虫唾が走る。
次に全てを奪われるのは、他でもない、あんただっていうのに——
狩猟祭が終われば、春の花の月。春休みが始まる。
春休みが終われば、春の蝶の月。フェアリッテの誕生日はすぐそこだった。
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