第4話 妹の風邪は治ってきたようだ

 階段から足音がして、俺の意識は仕事から桃音のほうへと向いていく。

 時計を見れば時刻は午後の四時前。桃音は最低でも三時間は寝ていたことになる。


「おはよう桃音」

「おはよぉ……」


 まだ寝ぼけているようで、瞼が落ちかけている。

 ふらふらしているのも寝惚けているが故だろう。


「食欲はあるか?」

「んーん……」


 ──ボフっと、お昼のお粥の残りを温めるために立ち上がろうとした俺の正面から、桃音はぎゅっと抱きついてくる。


「ちょ、桃音!?」

「おにぃちゃん……好きぃ……いい匂い」

「!?」


 困惑する俺を余所に、ぐりぐりと俺の胸元に顔を埋める桃音。

 うーん……ちょっとした幼児退行のようなものなんだろう。シャツに皺がつくけど……拒絶するのもな。風邪だし、泣いて熱をぶり返すかもしれないからなぁ。それに寝る前、約束もしてたし。

 どれだけ考えようとも、どうすればいいのかの答えは出そうにない。仕方ないのかもしれないが……もう少し、風邪をひいておいてもよかったのかもしれない。まあなりたくて風邪にかかる奴なんていないけど……あんまり。


「も、桃音……俺はお粥を温めたいからちょっとな……」

「やー」

「『やー』じゃなくてな……」


 【悲報】我が妹、幼児退行する──いや待て待て待て。いいのか妹。桃音さん。記憶に残るタイプかどうかは知らないけど……あれ? それを抜きにしても、俺はこれから妹の黒歴史を墓場まで持っていかねばいけないんじゃあ?

 ……まあ、桃音が記憶に残らないタイプであることを願おう。俺も頑張って忘れ──


「やーなの、ぎゅー!」


 ──られる気がしない!

 いや嬉しいさ。嬉しいけどな? これ母さん帰ってくるまでに何とかなるか……? ならなそうだけどそれにしても、桃音の無邪気な笑顔が眩しい……もうこれは、現実逃避していいよな? いやでもシャツに皺が……。


「ほら桃音。お粥温めるからな……だっこはその後。それでいいだろ?」

「おにーちゃんは、桃音のこと嫌いなの?」


 嫌いじゃないからその上目遣いは止めてほしい……改めて妹の美少女さに驚かされるし。何より近い……。


「嫌いじゃない。嫌いじゃないから、な? 桃音もお腹空いてるだろ?」

「……はーい」


 渋々と、桃音は俺から離れて隣の席に座る。

 俺の手は自然と桃音の短い黒髪に伸び、その艶々な髪を撫でる。

 肩にかかる程度の短髪だが、そのさわり心地は良い。


「──はっ! ま、待ってろ。すぐ温めてくるから」

「んー」


 俺も桃音もぱっと離れ、俺は台所にお粥を温めに、桃音はほわほわと左右に上体を揺らしている。

 カチリと火をつける。ガスコンロなので多少ガス臭く、そして音が大きい。その音が俺の心を幾ばくか落ち着かせる。


「はぁ……」


 小さい、されど大きいため息を吐く。

 落ち着いてみると、心臓がうるさいほどに脈打っており鬱陶うっとうしいくらいだ。そしてそれを意識すればするほど、先ほどの桃音の表情が脳裏をちらつく。

 こんな感覚に覚えがないわけではない。しかしこの思いに名前を付けるのは躊躇ためらわれる。でも、それでいいのだ。

 この気持ちに名前を付ければ俺はもう戻れなくなるだろう。それは誰も望まないことだし、自分でも駄目だとわかっているのだから。

 それに桃音も、そんなこと言われても困るだけだろう。


「桃音。食欲はあるか?」

「うん」


 その言葉を聞いて、俺はほどよく温まったお粥を茶碗によそる。そしてスプーンと、冷蔵庫の中の味噌を取り出し、桃音に持っていく。


「はい。味噌も使っていいからな」


「はーい」


 茶碗の上にスプーンを乗せ桃音の目の前に置き、味噌はその横においておく。

 桃音は行儀よく手を合わせて「いただきます」と呟き、お粥を食べ始める。

 最初はゆっくりだったが、徐々に一口が多くなっている。元気になったということだろう。見ているだけでも、それがわかる。顔色もよくなっているし、明日からはまた学校にいけるだろう。


「よし、じゃあ一応薬を飲んで休んどいて。後片付けはやっとくから」


「うん」


 桃音はスポーツドリンクで薬を飲む。きっと明日にはよくなっているのだろう。それで、おしまい。明日からまた、桃音の反抗期が復活するだろうから。


「おやすみ………おにーちゃん」


「おやすみ桃音」


 パタンと、居間の扉が閉まる。階段をのぼる音を聞きながら、静かに胸を撫で下ろす。

 昼ほどの煩さはない。しかし何故か、締まるような感覚がする。


──もう少しだけ、あの桃音であってほしかった。


 言い方を変えれば、風邪が長引いたらいいのに……そんな酷いことを思ってしまい、俺は頭を左右に振る。

 そもそも俺と桃音は兄妹。きちんと血の繋がりもある正真正銘の兄妹だ。結婚もだが、子供をつくることなんて出来ない。

 だから、桃音に抱くこの気持ちは一時の錯覚なのだ。ただの気の迷いなのだ。










──何度もそう言い聞かせたが、この苦しさは紛れなかった。

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