第9話 一歩の踏み出す勇気

「湊と桃音ちゃん、仲良くなったのね」


 桃音の風邪騒動から一月近くが経った頃の夜。夕飯を食べ終わり、桃音が湯船にかっている頃、母がそんなことを呟いた。


「そうか?」

「うん。絶対にそうよ。最近の桃音ちゃん、雰囲気ふんいきが柔らかくなったし」


 ……確かに思い当たるふしはある。

 例えば朝。会うと必ずといっていいほど舌打ちをしていた桃音だが、最近は聞いていない。普通に挨拶をするようになったのだ。


「そうかもな……」

「何かあったの?」

「何もなかった……と思う」


 あるとすれば……風邪を引いたことだろう。あの頃から、桃音の物腰が柔らかくなった。そんな気がするのだ。

 最近は、あちらから話しかけてくるともあるくらいには。


「ふーん……ま、兄妹きょうだい仲がよろしいことは良いことだ! お母さんも嬉しいです」

「お母さんってよりお父さんだろ」

「えー」


 せっかく髪の毛もこんな長くしたのにー? と、もみあげを弄りながら不満をこぼす母。

 口調とパッと見は女性のそれだが、性別は男だ。俺たちが幼い頃に死んだ母の変わりをしてもくれた実父。行動力の塊と親戚から呼ばれているだけの、ただの父親である。

 便宜的べんぎてきに母と思っているが……仕事も家事も、ほぼ一人でやってのけていたのだ。尊敬の念は嫌でも抱くし、その姿は母親のそれだったのだろう。


「こんなにオシャレもしてるのにー?」

「十五年前はしてなかったじゃん」

「ふふふー♪ それよりさ、どうだったの風邪引き桃音ちゃん。可愛かった?」


 母は笑って誤魔化して話題を変える。

 これもいつの間にか、母の癖になっていたように思う。


「可愛かったって……そりゃあ贔屓目もあるだろうけど可愛いと思う」

「違う違う。ワタシが言ってるのは桃音ちゃんのコト♪」

「えぇ……」


 風邪を引いていた時……それは一月も前の話なんだが。とはいえ母も仕事や家事で多忙を極めていたのだ。こうしてゆっくりとした時間を過ごすのも珍しい。

 だからこそ聞きたかったのだろう。


「桃音ちゃんねー、昔から風邪になると甘えん坊さんになるのよー」

「ああ、先月もなってた」

「やっぱりー? 可愛かったでしょ?」


 ねえねえ? と、とても親子とは思えない距離感で接してくる母。母というより『親友』が適切かもしれないくらいの距離感は、どこか心地よい。


「……可愛かった。あと、料理も上手くなってたよ」

「そうでしょー! ワタシが直々に教えたからねー」


 嬉しそうに、あるいは楽しそうに、母は語る。


「桃音ちゃんは努力家よー。何度も何度も、まるでさ……」


 母は──否、俺たちの父親は、どこか遠くを見るような眼差しで虚空を見つめる。

 ……母親、か。


「……ねぇ湊、ワタシはさ──桃音ちゃんに『母親』、教えられてたかしらね」

「……さあな」

「そうよねぇ……」

「……」

「……」


 沈黙が流れる。

 母は酒が入ると、こうして聞いてくることがある。中々の下戸げこなのだが、母曰く『大人はそういう特権に溺れないとやってけないの』。

 それがどういう意味か、中学生の頃は理解できなかったが……今ならわかるような気がする。


「──さて、風呂入ってきちゃうわね」

「じゃあ、洗い物はしとく」

「ありがとね」


 母が立ち上がると、居間の扉が開く。桃音が風呂から上がってきたのだ。


「風呂上がったよ」

「はーい。それじゃあ入ってきちゃうわね♪」


 そういって、母は風呂場へと向かう。

 洗い物も洗浄機にいれてしまえばそれでおしまいである。まあつまり──


「……」

「……」


 桃音と二人きりになるということである。話題もなく無言。最近仲良くなってきているが、まだ雑談をできるほどでもない。

 ……重たく、辛い沈黙が流れる。先ほどの沈黙とはちがう。どこか緊張してしまうような沈黙である。


「……ねぇ」


 沈黙を破ったのは桃音だった。俺は桃音の言葉に耳を傾ける。


「どうしたんだ?」

「……風邪引いてた時の私、どんな感じ……だったの?」

「──」


 恐る恐るといった様子で聞いてくる桃音。心なしか頬が赤くなっているようにみえる。

 それはたぶん、俺の数分後の表情だろう。


「……別に、普通だったぞ?」

「その『普通』が知りたいの。どんな感じで『普通』だったの?」


 それは──この先は、何故か喉から声が出てこない。まるで何かに止められているかのように出てこない。実際止めているのだろう。果たして言ってもいいのか、今言ったらまた疎遠になるのではないか……そんな根拠も何もない不安が過るのだ。


「……別に、聞いてどうするとかないからさ、聞かせてよ」

「──ああ」


 決心がついた。なんとも臆病な奴である。そう内心で毒づき、俺は先月の桃音が風邪を引いていた日のことを、ひとつひとつ思い出しながら話し始めた。

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