第26話


 冷たい夜気が頬を撫でる。秋の澄んだ空気に呼応され、芙蓉は重たい瞼を持ち上げた。


 ——ここは?


 一番に視界に入ったのは赤地の天井だ。太陽が照らす空でも、月が浮かぶ夜でも、乾いた岩の壁でもない。ならばここはどこだろう、と何度か瞬きを繰り返すうちに、ここが天幕の中だと悟る。

 どうやら自分は生きているらしい。


 ——……いや、あの世ってこともあり得るな。


 そう思えるぐらいに体が重い。怪我と疲労だけでは考えられない重さだ。意識ははっきりと覚醒しているのになぜこんなに重いのだ、と視線を下に向けた。

 直後、小さく笑みをこぼす。体にかけられたふすまの上に月娟と藍藍が眠っていた。丁度、芙蓉を挟むようにしているので重りとなってしまい動くことができなかったようだ。

 二人を起こさないように気を付けながら抜け出し、自由の身となったのを確認してから芙蓉は体を大きく後ろに逸らした。どれぐらい眠っていたかは定かではないが節々が酷く痛む。軽く筋肉をほぐしつつ芙蓉は周囲の見渡した。

 緻密ちみつな刺繍が施された茜色の敷布が地面を覆い、縁に龍の姿が彫られた黒檀こくたん卓子つくえ。その上には火の消えた燭台と薬と思わしき包みが置いてある。先程まで眠っていた簡易な寝床は中に詰め込まれている獣毛のお陰でふかふかだ。その上には桃の花とうぐいすの刺繍が刺された衾が広がり、側には水の張った桶と手巾が置いてあった。

 ——そのどれもが見覚えのない代物である。夜の襲撃によって奏国から持ってきた道具は全て灰となったのでこれは恐らくだが清国側が用意したのだろう。

 次に芙蓉は眠り続ける二人を見つめた。看病疲れのためか目尻には隈が浮かんでいる。


「ありがとうございます」


 起こさぬように小さくお礼を言うと二人が風邪をひかないように衾をかけてから垂れ幕から外に出る。

 深夜なら見張り役と火番の兵士がいるはずだ。起床のむねを伝えて、あの後の結末を聞こうと考えているとぱちぱちと火の粉が弾ける音が聞こえた。

 天幕のすぐ近で長身の男が一人で火番をしていた。


「おはようございます。琰慈殿」


 見覚えのある背中に問いかけると琰慈が肩を跳ねさせ、勢いよく振り返る。


「……芙蓉殿?」


 琰慈は瞬きを繰り返しながら芙蓉の全身を上から下に、右から左に見つめ、太陽のように破顔した。いつぞやの犬を思わせる笑顔だ。


「起きたのか」

「はい。ついさっき」

「ここに座れ」


 琰慈は立ち上がり、地面に腰を下ろすと自分が座っていた場所を指差した。芙蓉は言葉に甘えて丸太に腰掛ける。


「横になった方が楽か?」


 といいながら着ていた上掛けを脱ぎ、地面に敷こうとするので急いで止める。鉛のように体は重たいがそこまでしてもらうほど弱ってはいない。


「ならこれを着ていろ。辛くなったら言え。すぐ青峯を呼んでくる」

「はい。ありがとうございます」


 差し出された上掛けに腕を通していると琰慈が湯気がたつ器を差し出してきた。


白湯さゆだ。飲めるか?」


 受け取ると一口含む。久しぶりの給水のはずだが思ったより喉は乾いていなかった。


「なぜ琰慈殿が火番をしていたのでしょうか」

「芙蓉殿が起きるのを側で待ちたかったからだ。さすがに天幕あの中で待つのは月娟殿が難色を示してな」

「それは、申し訳ございません」

「言葉遣いが戻っているぞ。もっと楽にしてくれ」

「……いえ、このままで」


 と言えば琰慈は嫌そうに眉を寄せた。



「清王様相手にタメ口など使えませんから」



 琰慈は固まった。言いにくそうに視線を彷徨わせる。

 その表情がおかしくて芙蓉は小さく笑う。


「いつから俺が清王——えい耀ようだと気づいていた」

「最初からです。仕草などから王族の一員だとは思っていましたが清王ご本人だと確信を得られたのは青峯殿に手当を受けた晩です」

「……騙していたことを軽蔑するか?」

「驚きはしましたが軽蔑はしません」


 琰慈は安心したようにほっと息をつく。


「その立場を含め、お二人を信用していたからこそ月娟様を任せることができると思い、私は頑張れたのです」

「騙していたのだぞ。月娟殿にはひどく叱られたのになぜ芙蓉殿は笑っていられる」

「噂で聞いていた人ではないと分かったからです」

「芙蓉殿も俺を野蛮王だと思っていたわけか……」

「ええ。父を殺し、王位を簒奪さんだつした恐ろしい男だと聞いていましたが実際の琰慈殿はとても優しい人だった。人を思いやり、女だからといって無下にはしない。対等な立場を築かせてくれる人だと今は分かっています」


 照れ臭いのを隠すためなのか琰慈は地面に置いてある枯れ枝を次々と炎に投げ入れた。枝が火に炙られ爆ぜる音と共に炎は豪々と大きく唸り、火の粉が舞う。その光景を見て、芙蓉はある疑問を口にした。


「丹、と言う男をどうやって懐柔したのですか?」

「特になにも。奴らの根城を襲撃した時、命乞いをしてきたから拾っただけだ。あの男はジュダルの案に乗り気ではなかったからな。金と自由をちらつかせれば簡単に俺達に味方することを選んだ」

「自由に、とは野放しにするつもりですか?」

「野放しにしても悪さはしないさ。今回の件で我ら両国を敵に回すとどうなるもか骨身に染みたことだろう」


 言いたいことを伝え終えたので「では」と前置きをして芙蓉は立ち上がる。


「私は行きます」


 上掛けを返すために脱ごうとするが琰慈によって止められた。


「どこに行くんだ?」

「奏兵にことの経緯いきさつを聞きに行くつもりです」


 あと起きたことを伝えたい、と言うと琰慈は見るからに不服そうな表情をして、


「俺が説明する」


 頑なに言うので芙蓉は再度同じ場所に腰を下ろした。


「どこまで覚えている?」

「貴方がウィルドに降伏するように言っていたのは覚えています」

「ウィルドはすぐ降伏すると申し出た。だから青峯に命じてジュダルを看させたが傷は深く、肺にまで達していた」


 琰慈は拳を固く握りしめると俯いた。


「ジュダルは最期の願いに月娟殿に会うことを望んだ」

「月娟様に……」

「ああ。本当に好いていたのだな。ジュダルは。……月娟殿に会うとあいつは謝罪を繰り返していた。対して月娟殿はジュダルの手を握っていたが始終無言だった。何も言わず、頷かず、ただ静かにジュダルが死にゆくのを見守っていた」

「月娟様が?」


 信じられない。あの優しく気弱な月娟が瀕死の人間を前にしても涙を流さず、無言を貫いているなんて。それも相手は自分を誘拐し、危険に晒した男だ。ジュダルの願いを叶えるのも嫌がりそうなのに。


「ジュダルは二日目に死んだ。芙蓉殿が起きる前日のことだ」

「ウィルドは? ジュダルには従者の男がいたはずですが」

「ウィルドの身は拘束してある。主人の死に抜け殻のようになっている」

「そうですか……」


 ウィルドの気持ちは痛いほどよくわかる。大切な主人が亡くなったのだ。後を追いたいが死ぬことで主人を悲しませたくない、だからといって生きるのも億劫だ。人形のように動かず、虫のようになにも考えずただ無気力になってもおかしくはない。

 気持ちが沈んでいると琰慈は立ち上がり、場違いな笑顔を浮かべた。


「芙蓉殿に見せたいものがあるんだ! ここで待っていてくれ!」


 頷くと琰慈はいそいそとこの場を離れてしまう。

 一人残された芙蓉は手にしていた白湯を全て飲み干し、一息つく。

 三日間、寝ている間に色々あったな、とどこか人ごとのように思っていると懐かしい蹄の音と鳴き声が聞こえた。


「……かん!?」


 琰慈が手綱をひいてきたのは祖国から連れてきた愛馬——柑だった。


「どうして、なんで?」


 愛馬が生きていることが信じられない。だって、あの襲撃の夜に殺されたはずなのに。

 駆け寄って、本当に柑なのか確かめるように額や頬を撫でる。柑は芙蓉の手に擦り寄せ、そっと両目を閉ざした。甘える時の癖だ。


「根城を落とした時に見つけた。何頭かは自分達が乗るように連れ去ったようなんだ」

「そう、よかった。無事で……。ありがとうございます。琰慈殿」


 涙を堪えて微笑めば琰慈は照れ臭そうに頬を掻く。


「柑の背に乗ってくれ」

「どこかに行くのですか?」

「見せたいものがあるんだ」

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