第1話


明紀めいき九年 平和条約の発効

奏国及び清国、両王の同意の元、九月十日、平和条約が締結ていけつしたことをここに公表する。条約の証として清国から獣皮、鉱石の贈呈。奏国からは清蓮せいれん公主を送ることとする』



 市中に建てられた看板の前で、その号外を知った人々が見せたのは歓喜ではなく、悲哀だった。


「なんてことなの……」


 商人の女はふくよかな体を震わせ、顔を覆い、


「清国へ嫁ぐなど正気の沙汰とは思えぬ」


 その隣で老人がぼさぼさの髭を整えながら苦言をこぼし、


「公主さま、死んじゃうの?」


 二人の話し声を聞いていた子供はぽろぽろと涙を流した。

 号外によって引き起こされた喧騒はここだけには収まらず、瞬く間に奏国中に波紋を描くように広がった。




 ***




 自宅の庭から喧騒に耳を傾けていた芙蓉は形容し難い表情で宙を睨みつけていた。玲瓏れいろうたる美貌も、今は歪んで見る影もない。


 ——なぜ、あのお方が……。


 歯痒さから奥歯を噛み締めた時、地面を踏みしめる音が芙蓉の耳に届いた。

 ここは自宅の庭だ。ここに訪れるのは家族だけだろう、と怒りのこもる視線を向けた芙蓉は思いもしない人物の姿に目を瞬かせた。そして、その人物が誰か理解するとすぐさまその場で跪く。怒りの代わりに緊張が思考を支配する。


 ——なんでここにいるのだろうか。


 芙蓉の額に嫌な汗が浮かび、頬を伝う。

 一番に目を引いたのは真紅の龍袍りゅうほう。そこには天に昇る龍が刺されている。次に髪を纏める金の冠。中央には大ぶりな紅玉ルビーが輝いていた。

 遠目からしか拝見したことはないが、凛々しい美貌は奏国の誰しもが知っている。癖のない焦げ茶色の髪。切れ長の、甘い蜂蜜色の瞳。雪のように白い肌。四十はとっくに超えているはずだが、どこか若々しさを感じさせる美丈夫。

 祭り事の手腕により奏国をより豊かにしたことから『賢明王』と称される奏王——宗俊そうしゅん、その人がにこやかに立っていた。


「久しいな。美しい顔が鬼のようだったぞ」


 奏王は口元に優しげな笑みを浮かべた。

 あの表情を見られたことに芙蓉は羞恥しゅうちを覚え、謝罪の言葉を口にした。


「立ちなさい」


 宗俊の言葉に、芙蓉は「御意に」と立ち上がる。

 すると宗俊は顎に手を当て、芙蓉の身体を観察するかのように眺め始めた。上から下に。右から左に。余す事なく。

 その視線に嫌らしさはないが雲の上ともいえる殿上人てんじょうびとの眼差しに芙蓉は緊張で手に汗が滲むのを感じた。

 数分が経つが、宗俊の何かを見定める視線は変わらない。芙蓉は失礼だとは理解しているが、その視線の気まずさを紛らわせる様に前に立つ宗俊を観察した。

 多種族の血が混じる奏人は皆、色素が薄い外見をしている。その中で特に西域の血が強いのか宗俊は獅子のような見た目をしていた。荒々しく力強い美貌であるため、武人としての印象を与えられるが剣の腕はからっきしだと聞いている。

 その代わり、神童とも言われた知識の量を持っていた。八つの時、太子という身分を偽装して科挙かきょを受け最終試験である殿試でんしに合格し、状元じょうげんを与えられた。難解で平均合格年齢が四十前後の殿試で最優秀な成績を納めた八歳の少年がいた、という話は宗俊の頭の良さを話す上では必ず持ち出される。

 そして侍従じじゅうが二人、離れた位置からこちらを眺めていた。奏王がこの人数の護衛でいいのかとも思うが、これがお忍びであること。それも秘密裏に進められていることは理解できた。

 今、気づいたが側には困ったように豊かな髭を撫でる父——景貴けいきがこちらを見ていた。その表情は気になるが、どうやら父も一枚噛んでいるようだ。


「景貴。お前の娘はほんに美しいな。豹のようにしなやかで、力強い」


 息を長く吐き出しながら宗俊は満足したように微笑んだ。


「勿体ないお言葉、いたみいります」


 景貴は先程よりも気まずそうに表情を歪ませた。その様子を見て、芙蓉は内心首を傾げた。


 ——何故、父上は怯えているだろうか。奏王様相手に今更怖気付くことはないはずなのに。


 景貴は太保たいほに選ばれたこともある人間だ。太保は太子の教育係であり、祭り事を補佐する役割を持つ名誉ある役職である。今は引退し、隠居しているが元々は宗俊に仕えていたため、彼に怯える様子はどこか奇妙に見えた。


「芙蓉よ。わしが今日、訪れたのはお前に頼みたいことがあるためだ」


 宗俊は先程とは打って変わって、表情を引き締めた。


「先日、奏国と清国とで結ばれた平和条約の証として公主を一人、送ることとなった」

「それがなぜ月娟様なんですか?!」


 堅苦しい声音で紡がれた言葉に、芙蓉は無意識のうちに声を荒げた。直後、しまった、と唇を閉ざす。奏王の許しがないままに、自分の意見を述べてしまったのを酷く後悔するが口から出た言葉を引っ込める方法はない。

 娘の無礼な言動に景貴が顔を真っ青にして諫めるが宗俊はそれを快く許した。


「よい。儂は今、芙蓉と話をしている」

「っは。申し訳ございません」


 景貴は頭を下げた。それに芙蓉も同じ動作をする。


「ご無礼をお許しください」

「芙蓉、顔を上げなさい。賢いお前のことだ。きっと儂と同じ考えを抱いていることだろう」


 芙蓉は顔を上げる。すると宗俊は痛ましいものを見るかのように美貌歪ませた。


「なぜ、月娟を嫁がせるのか? 清国のように証は物資でいいのではないか? ……こんなところだろう」


 その通りだ、芙蓉は頷いた。と、同時に同じ考えならなぜ月娟を嫁がせるのか疑問が芽生える。

 芙蓉の心を見通したのか宗俊は重々しく口を開いた。


「近年、清国は力をつけすぎた。富も財も、我が国の方が上回るがこれ以上に清国の武力も上回る。これ以上、無益な争いを続けるのは我が国の疲弊を招くだけだ」


 宗俊の言っているのは四ヶ月前に雌雄しゆうを決した夏州の戦いについてだろう。夏州とは清国との国境間に位置する北方の小さな州だ。三年前から清国から侵攻を度々受けていた。一枚岩でその侵攻を跳ね除けてはいたが三年という月日に疲弊したのか奏国が負けたのは記憶に新しい。

 元々、清国とは犬猿の仲。この夏州の戦いに負けたことで奏国民が清国に元々抱いていた嫌悪に憎悪が追加された。それが清蓮公主の輿入れに対する不満となって、今現在、国中を騒がせている。


「実はな平和条約の案はかねてより挙げられていた。それも向こうから公主を一人、清王の嫁に寄越せば夏州の侵攻は止める、と。もし、それを受け入れなければ我が国を己の傘下に加える、ともな……」


 宗俊は眉間をつまみ、「儂は頷くことはできなかった」と付け加えた。


「公主は、娘達は儂の宝。清王なんぞにくれてやるわけにはいかない。しかし、今はどうにも言ってはおれん。下の娘らはまだ幼い。適齢の娘は第一公主、月娟だけ。あの子を嫁がせる以外、奏国に未来はない」


 重々しい声で告げられ芙蓉は眉根を寄せた。感情のままに宗俊の胸ぐらを掴み、怒鳴りたい気持ちに駆られるが宗俊が娘をいたく溺愛しているのは知っている。月娟のことを第一に考え、考え抜いて、こうして苦渋の判断を下したのだろう。


「何か言いたいことがある顔だな。身分は気にせず、言いたいことを言いなさい」

「……月娟様はこのことを受け入れているのでしょうか?」


 芙蓉は心の中で彼女を思い浮かべた。その名が示す通り、月神と謳われる美貌を持つ少女だ。そして感性が繊細すぎる一面も持っている。公主としての役目は理解しているが他国……それも蛮国として有名な清国に嫁ぐとなると月娟は嫌がり、悲観に暮れるのは容易に予想がつく。


「知っている。口には出さないが精神的に酷く追い詰められているようだ。食事も喉に通らず、ずっと部屋に籠もっている」

「無理に月娟様を嫁がせる必要はないのではないでしょうか? 養女を取り、公主として嫁がせてはどうですか?」

「それは無理だ。国同士の婚姻であり、偽物を送るわけにはいかない」


 宗俊は困った様に嘆息し、首を左右に振った。


「月娟を嫁がせるのは決定した事だ。それに芙蓉、お前も付いていって欲しい。あの子が心を許せるのはお前しかいない。お前は女だ。知識もあり、武の腕もある。あの子に付き従い後宮に入ってくれ」


 ——私が後宮に?


「侍女としてでしょうか」

「護衛としても考えている」


 その言葉に芙蓉は顎に指をかけて考え込む仕草をする。

 元より、断るなんて考えは芙蓉の中には微塵もない。幼い頃、気弱な月娟は自分付きの侍女や女官でさえ心を開かなかった。それを心配した宗俊が当時、まだ太保だった景貴に相談し、合わせられたのが芙蓉だ。性格は正反対だが歳が同じだったためか月娟は芙蓉には心を開いていた。実の姉妹かと思うほどに。彼女の性格を考えれば考えるほど、自分が侍女として始終そばにいた方が安心するだろう。



「お前は武官でもなければ文官でもあの子の侍女でもない。断って貰ってもいい。これは一人の父親としての頼みだ。お願いだ。娘を、月娟を助けて欲しい」


 宗俊は頭を下げた。奏王が頭を下げるという行為に、芙蓉は狼狽える。

 しかし、奏王である宗俊に「頭を上げて」という言葉は不敬だと気づき、寸でのところで飲み込んだ。思うところはあるが、宗俊の言葉を断る理由はない。


「大役、拝命いたします」


 芙蓉はその場で跪き、胸の前で手を組んだ。芙蓉の言葉に宗俊は嬉しそうに微笑む。その後ろでは景貴が今日一番、顔を青白くさせていた。


「芙蓉よ。その言葉、待っていた。感謝する」

「月娟様のお力になれるのならば光栄です。……いくつか気になることがございます」

「なんだ」

「出立はいつ頃になりますか? お恥ずかしながら私は武人であり、宮中での礼儀作法はまったく分かりません」

「早いが出立は来年の春を予定している。それまで我が城で侍女としての礼儀作法を学んで貰おう。来週から城に参れ」


 宗俊は口早に述べると龍袍の裾をひるがえし、去っていた。

 景貴も芙蓉に何か言いたいのか視線を向けるが何も言わず宗俊の後を追い、去っていく。きっとこの後について話し合うのだろう。






 芙蓉はその真紅が見えなくなると力が抜けたようにその場で座り込んだ。


「……緊張した!」


 まさか奏王本人が現れるとは思うまい。

 常日頃、兄達に「鉄塊が人の形になり服を着ている」と揶揄やゆされるほどの肝が据わっている芙蓉だが、奏王の登場には緊張により魂が抜かれる思いがした。

 それに、これからのことを考えると憂鬱でしかない。

 月娟に従い、清国へ向かうのはいい。行くな、と言われても馬を走らせてでも付いていく気持ちでいた。

 憂鬱なのはこの後にある行儀見習いだ。身体を動かすことを好む芙蓉は、堅苦しい衣装を着て微笑みながら仕事をするのは苦手だ。できることなら避けたいが、侍女としていくのならば避けては通れないだろう。

 登城すればきっと厳しく教えられる。これからのことを考えると口からは重く長い溜め息がこぼれた。

 芙蓉は立ち上がると身体に着いた土ほこりを払い、自室で準備をしようと歩き出した。

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