第2話
——あの方向に奏国があるのか。
緑萌ゆる山々を見て、芙蓉は不思議な寂しさに襲われた。
覚悟はしていたが、感情とは摩訶不思議なものだ。故郷にはもう二度と帰る事は出来ないと思うと無性に故郷があった方角へ駆け出したくなった。おっとりした父。厳しく優しい母。日々、自分をからかう三人の兄達。彼らの元に走り寄り、抱きしめたくなった。彼らにもう会えないと思うと、否応無しに悲しくなった。自分にこの様な感情がある事に驚きつつも、
清蓮公主が清国に嫁ぐため、奏国を出立して一月余り。清国へは後、二つの山を越えなければならないので折り返しにもついていない。元より大所帯の移動のため通常より時間がかかるのも仕方がなかった。
清蓮公主——月娟につけられたのは芙蓉を含む侍女四人と護衛兵四十一人。それと清国への案内人二人と九つの
侍女と護衛官の数を見ても奏王の月娟への寵愛はとても深いと感じられた。遠い昔にも異国に嫁いだ公主は数多くいたが、平均が三十人にも満たない聞いている。それは異国までの旅路が過酷なものであること。人数が多い分、野営の準備や食料の問題がある事が関係していた。
月娟は三人の侍女と共に一つ軒車に乗っていた。幼い頃から室内で大切に育てられる公主はもちろんのこと、名家出身の侍女達も外を駆け回る事はない。この旅路ではいくつもの山を越える必要があるため、女人には酷だろうと奏王が心配し、特注で作ったものだ。
通常、軒車は二つの車輪に屋根や囲いがないものが一般的だ。けれど、奏王自ら指示を出した軒車は荒れた山道でも安定するように四つの車輪を使用しており、五人が乗っても十分余裕がある大型のものである。四方を屋根と壁に囲まれているおかげで風や雨が吹いても中に入ることはない。
——短期間でよく考えたものだな。
侍女兼護衛として
元々、体を鍛えるのが趣味の一つである芙蓉にとって長時間、馬上にいるのは特に苦痛ではない。このような快晴の日は遠乗りに出かけたい気持ちもあるが、この旅路に不安を抱いている月娟から離れる訳にもいかず、ずっと軒車の側に付いていた。
「月娟様、外をご覧になって下さい。空気が澄んでいて、遠くまで一望できます。とても素晴らしい光景です」
軒車の中で不安に襲われているであろう主人に向かって声をかけると、小窓がカタカタと動いた。微かに開いた隙間から月娟が恐る恐るといった風に顔を覗かせる。誰もが目を奪われる美貌は恐怖のせいか普段より白くなっているが、芙蓉を視界に入れると嬉しそうに目尻が下がった。
「芙蓉ったら楽しそうね」
袖で口元を隠してくすくす笑うと「やっぱり、貴女はその姿が似合うわ」と付け加えた。
「貴女は
「だって、それを着た芙蓉が一番、生き生きして美しいもの。だから好きなの」
月娟は頬に手を当てると芙蓉の姿を記憶に刻みつけるように姿をじっくりと眺める。
「ねえ、後で遠乗りに連れて行って」
「遠乗りに?」
芙蓉は自分の耳を疑った。月娟から遠乗りがしたいと言われたのは初めてだ。
「ええ。行きたいわ」
「わかりました。約束します」
「約束よ」
芙蓉が続いて何か話しかけようとした、その時、
「何奴だ!!」
先方から野太い怒声が飛ぶ。先頭を歩く護衛兵のものだ。
「……どうしたの?」
急に歩みを止めた軒車に、月娟の不安そうな声が漏れる。
「様子を見てきます」
芙蓉は月娟を安心させるように答えると馬の横腹を蹴った。
馬は小さく
***
「どうした!?」
芙蓉の登場に先頭を率いる護衛兵が安堵に表情を緩めた。女といえ名門
護衛兵から事情を聞く前に、芙蓉は彼らの前に見知らぬ男が二人いることに気づき現状を悟った。
「誰だ?」
芙蓉は腰に
見知らぬ男達は剣先を向けられても焦ったりせず、苦笑いを浮かべた。それを睨みつけながら、芙蓉は男達を観察した。道に迷った行商人か、山賊の類だろうか、と思考を巡らせるがその軽装だが質がいい衣装は、ある程度身分のある人間だろうと推測する。
警戒を緩めず、睨み付ける芙蓉達に二人の男は馬上からするりと下馬すると一歩前に出て、跪いた。固く組んだ指を胸に抱えるような最敬礼の型は。
——清国の者か。
彼らの仕草、纏う衣装を見て判断する。
相手に敬意を払う最敬礼の型は奏国は左拳を右手で包みこむが、かの国は両手の指を絡ませる形がいいとされた。
また衣服も型は似ているが温暖な気候の奏国は貿易の関係で手に入る絹や綿など多様の織物で作られた物を使用するのに対して、北方にあり寒冷気候に属している清国は羊毛で織られた衣服の上から寒さを凌ぐために獣毛で作られた上着を好み使用している。
「無礼をお許しください」
茶色の獣毛の上着に身を包んだ、春の陽気が人型を取った様な男が礼を取りながら口上を述べた。
「清王から命じられ、案内役として参上つかまつりました。
青峯と名乗る男は口上を述べると再度、深く頭を下げた。流れるような動きだった。口上も、仕草も、立ち振る舞いも、彼が高貴な出でであることを証明していた。
けれど。
「私は汪景貴が娘、芙蓉。清蓮公主様の護衛の一人です。貴方達の言い分は理解できました。しかし、奏王様からその様な申し出があったとは聞いてはいません」
問題はそこだ。この輿入れは二カ国の親交を深める為にある。それなのに何も言われず使徒が来るなど奏国を軽んじていると取られても不思議ではない。
「本来でしたら清国から官を出す事はありませんでした。奏国には腕の立つ武官が数多くいると聞いております」
——嫌味か。
青峯の言葉に芙蓉は内心毒づく。学よりも武力を重んじる清国の民に言われても嫌味にしか聞こえない。
「奏国から公主様が輿入れするという噂を聞いた山賊に不穏動きがあり、清王が我らを遣わしたのです。奏王様へは使者を送っております。日数と距離から予測するとそろそろ奏国からも知らせがくるでしょう。こちらを」
青峯は懐に手を入れると灰色の袋を取り出した。その中から手のひら程の金塊を取り出すとそれを芙蓉に見せた。
「清王より預かった王印です」
陽光に反射するそれは確かに王印には見える。芙蓉は剣先を下ろすと青峯に近づいた。
「拝見しても?」
「はい」
芙蓉は王印を受け取るとそれを手のひらで軽く転がした。重さは確かに金だ。触れる質感から純度も高いと見える。
平らな面を見ると「清国國王」という古字が刻まれていた。
王印は、その国を統べる王にしか持つことが許されない。もし、王印を偽装しようものならその国に対して、宣戦布告しているともとれる。学の無い山賊でも、それぐらいの常識はあるだろう。武力国家である清国と、貿易国家で数々の国との繋がりを持つ奏国を敵に回すとは思えなかった。
そして、この純度の金を用意し、偽装する事はできない。そう判断する。
「……確かに。先程、剣を向けた無礼、謝罪します」
芙蓉は剣を鞘に納めると下馬し、胸の前で手を包み、頭を下げた。
「いえ、公主様に謁見賜りたいのですがよろしいでしょうか」
芙蓉は悩んだ。彼らが清国からの使者である事は分かったがいくつか不穏な点があった。それを解消していない今、主人に合わせてもいいものか。
「しばし、お待ちを」
悩んでもしかたがないと芙蓉は手綱を引くと月娟が乗る軒車へ向かった。
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