第12話
——白雪の
昔、護衛を務めていた男はそう言って膝まづいた。
——
東方から奏に訪れた男はとろけた表情で自分を
——白百合の姫。
年老いた異国の王は両目を見開いて食い入るように見つめた。
月娟は己が美しいということは知っている。傾国と謳われた母そっくりの容姿に、銀糸の様な髪と紫水晶の瞳が神秘的な雰囲気を醸し出すらしく、十三を過ぎる頃から数多の男達に求婚された。今、目の前で楽しげに自分を見つめる男もかつては彼らと同じような顔で自分に近づいてきた。
——もう会う事はないと思っていたのに……。
男の名前はジュダル。かつて、自分に求婚した男の名前だ。
ジュダルは自分を攫うと洞窟に作った小部屋に閉じ込めた。そして、簡素な椅子に座らせると離れた場所から見つめ続けた。その表情はどこか嬉々としている。
最後にあったのは三年ほど昔だが輝くような
しかし、月娟の心を占めるのは男への恐怖ではない。一番気になるのは。
——芙蓉はどうしているのかしら。
最後に見たのは矢に射られ、傷口から血を流す芙蓉の背中。聞こえたのは痛みに呻く声。
——いえ、芙蓉は強いわ。きっと大丈夫よ。
もう一度、心の中で「大丈夫」と繰り返す。
芙蓉は気丈な女だ。幼い頃から父と兄達によって剣術、武術を仕込まれた。生傷が絶えず、心配した月娟を見て「平気ですよ」と笑う少女だった。
だから、大丈夫。彼女は強い。
……けれど、あの怪我だと満足に動く事はできないだろう。ならば、自分で逃げるしかない。月娟は睫毛を伏せると細く、長く息を吐き出した。
恐怖で月娟が動けないと思ったのか腕や足に拘束はない。窓のない部屋の唯一の出口はジュダルの背後にある扉だけ。ジュダルを押しのけてそこから出て行くのは不可能だろう。恐らくだが部屋の外には見張りもいる。隙を見て、逃げるしかない。
「何が目的ですか?」
膝の上で震える手を組みながら気丈に月娟は椅子で膝を抱えるジュダルを見つめた。逃げるためにはまず情報を分析しなければならない。
「見ていたいだけ」
話しかけられたのが嬉しいのかジュダルは頬を緩める。
「後は助けたいと思ったんだ」
月娟は首を捻る。この男は今、何といった? 月娟の大切な人を傷つけて、攫っておいて、あべこべな事をいう男を訝しむ眼差しで見た。
「父親を殺した男に嫁ぐなんて貴女が不幸になるだけだ」
怒りが滲む声音で、ジュダルは続ける。
「あの殺戮王なんかに心優しい貴女は相応しくない」
その言葉に月娟は声を荒げた。
「不幸か幸せかを決めるのは私です」
膝の上で組む拳に力を込める。射るように睨みつける月娟を見て、ジュダルは驚いた風に目を見開いた。しかしそれも何度か瞬きをした後、すぐに
「いや、不幸になる。一緒に西域に逃げよう」
深碧の瞳を細めるとジュダルは椅子から立ち上がり、「危害は加えない」と言いながらゆっくりと近づいてきた。
月娟の目の前にたどり着くと、優雅な動作で膝まづく。月娟の硬く結ばれた手の上に己の手を重ねた。
「そこで暮らそう。争いも身分も関係ない。きっと幸せになれる。俺が必ず幸せにする」
真摯な眼差しに月娟の心が揺れる。
公主として嫁ぐ決意をしたのに、その言葉に酷く惹かれる自分がいた。できることなら今すぐこの重責から逃げ出したい。公主という身分を捨てて、一人の人間として。
そう考える自分に嫌悪感が募る。
月娟はその心から、ジュダルから背くように視線を落とした。
「なぜ、嫌がるの? その方が幸せなのに。……月娟にとっての幸せって?」
語尾が震えるのを聴きながら、月娟は考えた。自分にとっての幸せを。
答えはすぐにでた。
「芙蓉」
口から無意識に溢れたのは父よりも、母よりも大切な、幼い頃から共にいた幼なじみの名前。
ジュダルがいう「幸せ」とはなんだろうと想像すると、どんな時でも傍らには必ず芙蓉がいた。このまま清国へ嫁ぐのも。西域に逃げるのも。側には必ず芙蓉がいて、笑いながら手を握ってくれた。
どちらを選んでも過酷である事は変わりない。けれど、芙蓉が隣にいるだけで世界は華やぐのだと気付く。
月娟にとっての幸せとは芙蓉と共に生きることだ。
「私の侍女を連れてきて下さい」
月娟の言葉にジュダルは喜ぶ素ぶりを見せた。それは了承したもの同然だから。
「分かった。連れてくるよ」
「傷付けないでください。彼女は私の大切な人なんです」
「分かった」
ジュダルは頷くと
月娟は彼が部屋から出ていくのを見届けると、脱出の機会を伺うために部屋を見渡した。
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