第17話
ふわふわとした夢心地だ。
薄らいだ闇の中、芙蓉は浮いていた。体にのしかかる重りもなく、暑くも寒くもない、終わりが見えない空間に。
芙蓉はすぐさま現状を理解した。夢を見ているのだと。
昔から、熱に魘された時はこうして長い眠りに落ち、夢の中でも意識がはっきりした。
『——芙蓉。こちらへおいで』
誰かが自分の名前を呼んだ。とても優しい声音だ。
芙蓉はゆっくりと両目を開けた。目の前には八つ程の幼子が——幼い芙蓉がいた。その目の前には父が真剣な眼差しで幼い自分の肩を掴んでいる。その背後では気丈な母が痛ましい表情をしていた。
『芙蓉。いいかい。これからお前は自分を殺して生きなければならない』
父はどこか耐えるような表情で言った。
『……ごめんなさい。ごめんなさいね』
うわごとの様に謝罪を繰り返しながら母は袖で顔を覆う。目が触れる部分の布が変色しているので泣いているのだろう。武官の様な強さを持つ母が泣くのを見るのは初めてだ。
『泣くのやめてください!』
幼い自分がつたない口調で言った。
その言葉に母は先ほどよりも強く袖に顔を押し付ける。その震える肩を父が右手で抱き寄せた。
『芙蓉。しっかりと聞きなさい』
『は、はい!』
『お前が生きる理由はあの方を守る為だ。それ以外に理由はない。あのお方を守ることは儂や
射るような眼差しに、軽口は聞けないと思ったのか幼い芙蓉はきゅっと口を閉ざした。
『だから儂はお前に全てを叩き込んだ。知恵、武術、全てだ』
『はいっ!』
恐る恐る、幼い芙蓉は頷いた。
『芙蓉。お前は後悔しないか? 本当ならばお前は……』
父は感情を堪える様に歯を食いしばる。
『儂は——』
その後の言葉は
「芙蓉。大丈夫?」
震える、鈴を転がすような声に芙蓉は瞼を持ち上げた。すると視界いっぱいに月娟の美貌が映り込む。
「はい。大丈夫です」
掠れた声で芙蓉は頷いた。体を起こそうとすると月娟が急いで止めた。
「やはり、雨の中、走ったのが、よくありませんでした」
芙蓉は申し訳なさそうに顔を歪ませた。我慢できると思っていたが体は限界に近かったようだ。青峯が手当し、ジュダルの処方した薬も気休め程度にしかならなかった。
月娟の顔を見て、無事だと知り、緊張の糸が切れたのか一気に疲れが出てきた。ここに来て丸一日、芙蓉はずっと横になり、眠り続けていた。
侍女であり、護衛である自分がこのような失態を見せるのは憚られる。悔しいが指いっぽんも満足に動かせない自分に不甲斐なさを感じた。
「……すみません」
何度めかわからない謝罪に、月娟は小さく微笑むとゆるりと首を左右に振った。
「芙蓉。もう少し、寝てちょうだい」
月娟の手が額に当てられる。その冷たさに、芙蓉はゆっくりと瞼をおろす。意識が闇に飲み込まれる寸前、父の堪えるような声が聞こえた。
『儂は後悔している。お前の人生を歪めてしまって。すまない』
その言葉に芙蓉は小さく笑った。
——大丈夫です。父上。私は今の生き方を後悔していません。
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