第18話


 火照る頬を冷やすため、ジュダルは一人、外を散策していた。

 宵の空には一人寂しく欠けた月が浮かんでいる。淡い月明かりは数日前、一つの山が燃えてしまったようには思えないほど優しい。

 地面に伸びる己の影を踏みながらジュダルは頬に手を置いた。

 頬はまだ熱っぽい。それは仕方がないことだ。やっと想い人と共に生きていけるのだから。

 頬の熱が冷めるまで、もうしばらく散策を続けようと歩みを進めた時、「皇子」と捨てたはずの敬称で名を呼ばれた。

 ジュダルが顔を上げるとガサリと葉が数枚落ち、黒い影が落ちてきた。影は地に降り立つと素早く跪く。


「やあ、ウィルド」


 ジュダルは片手をあげた。

 影——ウィルドは背負う矢筒を側に置くと頭を深く下げる。


「ジュダル皇子、危険ですのでお戻りになってください」


 無機質な声でウィルドは忠告する。


「俺はもう皇子ではないよ。お前の主人でもないし、いつまでも俺なんかに忠誠は誓わないでいい」

「私は従者です。貴方様が生まれた時から亡くなるまで、ずっとお守りするのが私の仕事です」


 ジュダルは静かに嘆息した。故郷から付き従うこの男はとても頼りになるがいかんせん頑固すぎる。一度忠誠を誓ったのがジュダルのような役立たずでも守ってくれようとする。頼もしく、ありがたいことだがその真っ直ぐさがジュダルは苦手だった。


「お前はセルクに忠誠を誓えばいいんだよ。だから戻りな。そうすれば俺なんかより、優秀な兄貴達の従者になれる。優秀なお前ならセルク王も許してくれるだろう」

「私は皇子の従者です」

「なら皇子ではなくジュダルと呼んでくれ」


 ジュダルの懇願に、ウィルドは「私は皇子の従者です」ともう一度繰り返す。


「従者風情が主人を呼び捨てになどできません」

「そう。分かったよ。お前の頑固さは俺が一番知っているからね。顔を上げて」


 ウィルドは顔を上げる。


「ねえ、ウィルド」

「はい」

「お前は俺のために命を預けられる?」


 確かめるような問いけかけにウィルドは間を置かず、「はい」と返事を返す。淡々とした声音だが長い付き合いのジュダルにはそれは本心からの言葉だと分かっていた。


「そっか……」


 迷いのない返事に戸惑い、ジュダルは両目を伏せた。

 良くも悪くも真っ直ぐすぎるこの男は言葉通り必ずジュダルのために命を賭してくれる。駒としてはとても良い。自分のためにそこまでできる駒はこの先、一生かかってもウィルド以外には見つからないだろう。

 しかし、ジュダルは駒としてウィルドを扱いたくはなかった。長く共にいれば情が湧く。駒が他の、山賊のような男達ならばジュダルは即捨て駒にする。死んでしまっても良心が痛むことはない。

 けれど、ウィルドだけは無理だ。何度も思考するがこの男を捨て駒として使うなど考えられない。

 ジュダルが難しい表情で考えている時、冷たい夜風が前髪を撫でた。毛先が目に触れ、ジュダルは手で目を守る。


「皇子っ」


 ウィルドが焦りに声をあげたのが聞こえた。風が止み、ジュダルが手を下ろすと眼前にはウィルドが心配そうに立っていた。

 自分よりも頭一つ分高いウィルドを安心させるため、ジュダルが顔を上げ、そして、固まった。

 先ほどよりも夜空を照らす月明かりは力強い。ジュダルは月を見つめ、静かに「月娟」と好いた女の名を呼んだ。


「やっぱり、月は美しいね」


 月の明かりは月娟を連想させる。祖国を追放され、いつ野垂れ死ぬかという恐怖と孤独に苛まれていた時、月を見るたびに月娟を想い出した。

 祖国には月は死人が住む王国だと言い伝えられているがジュダルはそうは思わない。月は暗闇を優しく照らし、とても美しい、夜の宝石だ。ジュダルの心を射止め、癒してくれる唯一無二の存在。

 だからジュダルは月を、月娟を手に入れたかった。目の前にあるのに手に入れれないことに何度、苦悩したことだろう。しかし、それももうすぐ終わる。


「ウィルド。あの二人の体力が回復したら西域に逃げようと思うんだ。それにお前も来てくれるかい。……いや、来て欲しい」


 月娟と共に西域に行くことで、やっと欲しかった宝石が手に入る。


「もとより、そのつもりです」

「頼りにしてるよ」


 ジュダルは子供のように笑った。

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