第7話
天幕に帰った二人を待っていたのは侍女である藍藍のお小言だった。
「あんなに馬を走らせるなんて危のうございます! 芙蓉殿、貴女が付いていながら公主様を危険な目に合わすなんでどういう事ですか!?」
呼吸荒く、平常は優しく弧をかく目尻を釣り上げる藍藍に、芙蓉は困ったように笑う。
「清国の使者が来ているのに一国の公主が男物の衣服に身を包み、男子のように遊びまわって、きっと皇帝に『じゃじゃ馬姫だ』と報告されるに違いありませんわ」
藍藍は大げさに袖で顔を覆った。
それを見て月娟と芙蓉は揃って顔を見合わせた。幼い頃から芙蓉と月娟が木登りなどして遊ぶと決まって叱責を飛ばすのは藍藍だった。五つしか歳は離れていないのにまるで母親のように接してきた。そのため、芙蓉らは藍藍に強く出るに出られない。
藍藍の機嫌を損ねないように芙蓉はおずおずと口を開く。
「藍藍殿、私の我が儘に月娟様を——」
——付き合わせてしまったのです。
その言葉は口から溢れることはなかった。何かに驚いたように鳴き叫ぶ馬の声に掻き消された。空間を震わすようなその鳴き方は獣に驚いたわけではなさそうだ。
「月娟様、私の後ろに。藍藍殿もこちらに」
芙蓉は剣の柄に手を置いて、月娟の前に素早く出た。少し離れたところにいた藍藍も片手で手招きをし、背後に隠れるように指示を出す。
天幕の入り口を睨みつけ、耳を澄ます。馬の
「何か焦げてるのかしら」
「そうかも知れませんね」
「それにしても嫌な臭いね」
「あまり煙を吸ってはいけません」
背後で交わされる会話を聞きながら芙蓉は眉根を寄せた。
馬は火とは離れた場所に繋ぐように指示を出した。護衛兵が火消しに走り回っていても、ここまで驚くのだろうか。
それに出立前に長兄から「敵襲を仕掛ける際によく使われる手段だ」と教えられた戦術の一つに、怖いほど今の状況が当てはまった。
それは誘導。爆発でも、火事でもいい。遠くで騒ぎを起こし、人手や人目をそちらに向ける。そうすると騒ぎを鎮める為に人員がそこに行く為、中央は手薄になる。で、そこを大勢で叩く。初歩的な手段だが、こういう大所帯になる程効果的だった。人数が多いほど、人の心理というのは安全だと思う。山賊に襲われにくいと感じてしまう。
——ただの思い込みならいいのだけれど。
遠くで砂利を踏む音が耳孔を打つ。誰かがこの天幕に近づいているようだ。
「二人とも、おしゃべりはそこまでにして背後にいて下さい」
急ぐ足音に、護衛兵だろうとは予想するが現れたのは護衛兵でもなければ山賊でもない。
「お怪我は?!」
剣を片手に頬に切り傷を作った琰慈だった。荒く息づきながら、勢いよく天幕の垂れ幕をめくり、近づいてくる。
「無礼な!! 公主様の天幕ですよ!?」
それに藍藍の叱責が飛ぶ。怒りで顔を真っ赤に染めるが続いて発せられた琰慈の言葉に色を無くした。
「謝罪は後で! 敵襲です!!」
その声と共に遠くで炎が爆ぜる音が聞こえた。琰慈の背後、垂れ幕の隙間から木々を焼き、勢いをつける業火が闇夜を照らすのが見えた。
***
琰慈先導の元、芙蓉、月娟、藍藍の三人は隊列からかけ離れた森の中に身を隠していた。遠くで聞こえる野太い怒声と悲鳴に、月娟と藍藍は肩を震わせ俯いている。その隣で芙蓉は仏頂面で何やら考え込んでいた。そして数秒の思案後、ふと表情が和らいだと思ったら、琰慈に向かって口を開く。
「琰慈殿、公主様を頼みます」
「「え」」
月娟と琰慈の驚いた声が重なった。月娟が両目を瞬かせた。
「芙蓉、どこにいくの」
涙で潤む瞳で芙蓉を見上げると、袖を掴んだ。それを見て、芙蓉は優しく笑うと袖を掴む白い手に己の手を重ねた。
「すぐに戻ります。琰慈殿は腕は確かです。私がいない間、琰慈殿は必ず月娟様をお守りするでしょう」
主人の目尻に溜まる涙を拭い、赤く色付く頬を撫でながら、芙蓉は微笑んだ。大丈夫だ、安心して、という風に。
頬から指先が離れていくのを感じ、月娟が口を開こうとした時、背後から優しさが抜け落ちた氷の様な声が芙蓉の名を呼んだ。
「最優先は公主様の身の安全だろう? 戦えるのは俺とあんたしかいない。この状況でこの場から離れるのは得策ではない」
無骨な手が、芙蓉の細腕を力一杯掴む。鋭い、獣の様な瞳が闇の中、爛々と輝き芙蓉の瞳を覗き込んだ。
「夜襲で混乱しているが青峯を置いてきた。あいつは強い。そして賢い。あれの指示に従えば、すぐに鎮圧できるだろう」
犬と思った男の真剣な顔に、芙蓉の頬がひくつく。
「だからこそ、私が行きます。奏の兵が、清の使者である青峯殿をすぐに信用すると思いますか? その指示に従うと? 彼が信頼を得るまで何もせずいるよりも私が向かい指示を出します。それが一番手取り早い」
語気を強め、闇夜の瞳を睨みつけた。
芙蓉の反論に琰慈は双眸に微かな怒りを宿した。腕を掴む力が強くなり、芙蓉は痛みに顔を
「離して下さい」
「あんたはもう少し冷静に状況を確認できると思っていたがそうでもないらしいな」
その言葉にカッとなり、顔に熱が集まるのを自覚しながら、芙蓉は込み上がる感情のままに口を開く。
「私はこの隊の全権を任されている‼︎ それなのに前に出なくてどう——」
その先の言葉は琰慈が芙蓉の襟を引っ張り、顔を近づけたことで続かなかった。
「大声を出すな。何のために隠れていると思っているんだ」
低い声で琰慈は囁やく。
「あんたの欠点は感情に任せるところだな」
自分でも自覚はしていた欠点を、この男に指摘され、芙蓉は羞恥と怒りで顔を赤くした。
琰慈をみる目が鋭いものに変わろうとした時、腰に衝撃が当たった。それが何かを理解すると怒りに燃える双眸が色褪せていく。
「芙蓉、落ち着いて。お願い。お願いだから」
腰にしがみつき、腕を回す月娟は消え入りそうな声で懇願する。
「芙蓉、お願いよ」
腹に額を押し付けて、月娟は芙蓉を制する言葉を述べた。
芙蓉は頭のてっぺんから氷水を浴びせられたような錯覚に陥った。
何をしていたのだろうか。何を言っていたのだろうか。自分は月娟様の侍女だ。護衛だ。感情に任せてはいけない。琰慈の言っている事はもっともだ。
芙蓉はハッと息を吐き出すと、気を落ち着かせるように深く空気を吸い込んだ。冷たい夜の空気が肺に満ちていく感覚に浸りながら、凪いだ海色の瞳で琰慈の双眸を見つめると、次いで月娟に視線を落とした。
「申し訳ございません。気を荒だててしまいました」
——そう言って、芙蓉は腰に回る手に己の手を重ねた。
大丈夫、という風に震える手を優しく叩けば、月娟は恐る恐るといった様子で顔をあげた。微かな月明かりが濡れる頬を照らす。水晶の瞳から大粒の涙が溢れそうになるのを見て、芙蓉は人差指でそれを拭う。
「……琰慈殿。先程はすみません」
「こちらもキツいことを言ってしまったのでお互い様です」
分厚い唇の端が持ち上がる。昼間見た、犬のような表情に戻り、芙蓉はホッと安心したように息を吐き出した。
だがその表情も打って変わって鋭利なものに変わる。その表情が意味するものに芙蓉も気づき、さりげなく——いつでも抜けるように——剣の柄に手を置いた。
「すみません。大声を出してしまったせいで」
「いえ、恐らくですがあいつらはそれも考えて奇襲を仕掛けたようですよ」
夜の森で、微かに聞こえた複数の足音。芙蓉達の居場所はまだ掴めていないようだが、少しずつこちらに近づいている。
小声で話す二人の話を聞いて、月娟は真っ青な顔でうつむき、藍藍は祈るように両手の指を結んだ。
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