第6話


「もっとよ! もっと早く!」


 月琴を弾いた様な声が楽しそうに弾む。


「芙蓉、もっと早く走って!」


 月光の髪をなびかせて、月娟は楽しそうに笑った。薄らと白粉が叩かれた頬は興奮で桃色に染まっている。月神と謳われた楚々そそたる美貌は嬉々とした色が滲んでいた。


「ええ、 落ちないように気をつけて下さい!」


 子供のように無邪気に笑う主人の姿を見て、芙蓉は小さく笑うと馬の腹を軽く蹴った。久々に思いっきり走れるのが楽しいのだろう。見事な栗毛を持つ愛馬は楽しそうに冷え始めた空気を切り裂くように走り行く。

 月娟は風を受け、両腕を広げた。片袖が捲れ、雪肌が現れる。それを見て、芙蓉はため息を零しつつ手綱を片手にまとめて持つと「はしたないですよ」と空いた手で捲れた袖を元に戻した。


「楽しいわ」


 玉を転がす様な声が芙蓉の耳をくすぐった。

 長旅で気分を滅入っていた月娟が笑ってくれて、とても嬉しい気分だ。こういう事ならもっと早く遠乗りに誘うんだった、と思いながら芙蓉は馬を操った。


 ——このまま連れて行けば月娟様は自由になるのだろうか?


 隊列が豆粒程に見える距離までくると、ふとそんな考えが頭を過ぎった。

 月娟は優しい。芯はあるが争いごとは望まない少女だ。

 奏国で父母である奏王と皇后の第一子として生を受け、十七年間、蝶よ花よと育てられた。多忙である奏王は時間があれば娘の住む水麗宮へ訪れ、その髪を手ずから梳いた。長いこと子を成せなかった皇后は待望の第一子である月娟を特に愛し、おろしたての衣服に装飾品を与えた。その過剰とも取れるその可愛がりは国中に轟いている。

 そして月娟は争いとは無縁な少女に成長した。

 そんな彼女の事だ。清国に嫁いで、かの後宮に入ればきっと彼女を傷つけてしまうことだろう。後宮には数多くの女人がおり、王の寵愛を得ようとはかりごとを企てる。

 後宮の噂話は暇つぶしで市内でも多く語られている。その多くが泥々としたものであり、王后が寵愛を受ける妃嬪を毒殺した。身分の低い妃嬪が皇帝の気を引くため上級妃の不貞を申告した。妃嬪が自分を美しく見せ、他の妃嬪を醜く描くように宮廷絵師に賄賂わいろを渡した、など多岐に渡る。

 弱い女は後宮で生き残る事はできない。あの魔窟は気丈で悪知恵が働く者でしか生き残る事はできない。

 月娟は公主として育てられているため、知性も品性もあり、貞操観念もしっかりしている。けれど。


 ——きっと心を痛める。


 優しい主人の事だ。他の妃嬪にはかられ、貶められれば深く傷つくことは目に見えていた。

 芙蓉は彼女を守るため、後宮に共に上がる。けれど、本心を言えば反対だった。

 このまま馬を走らせて月娟を連れて異国に行った方が彼女は幸せになれるのではないのだろうか。奏と清の周囲には小さいが国はある。貿易商の話によれば、もっと西方には発達した文明を持つ国もあるという。自分や主人のような容姿でも受け入れてもらえるのではないだろうか?


 ——そこまで考えて、芙蓉は自嘲げに笑うと首を緩やかに左右に振り、頭の中から考えを振り払おうとした。

 月娟は奏国公主として嫁ぐことを決めたのだ。それを一介の侍女である自分が止めることはできない。

 小さく息を吐き出すと前方から「どうしたの?」と心配した声が振ってくる。


「陽も沈んできたな、と思いまして。寒くないですか?」

「大丈夫よ。けれど、もう戻ったほうがいいかしら」


 月娟はついっと視線を西の空へと向けた。芙蓉は手綱を引き、馬を減速させると月娟に従い同じ方向に視線を向ける。


「凄いわね」


 感極まったように月娟は呟いた。芙蓉も双眸を見開いた。


 山稜さんりょうに夕陽が沈み、暁に染まる空は感嘆が溢れるほどだ。世界が燃えている——と表現できる光景は故郷でも見たことがある。


「始めて会った時のようね」


 袖で口元を隠すと月娟はくすりと笑った。その言葉に過去の記憶が蘇る。


「ええ、懐かしいですね」


 合わせたい人がいる、と景貴に手を引かれて登城した水麗宮の庭園で、皇后の後ろに隠れた月娟と出会った。

 人懐っこく近づく芙蓉に、月娟は恥ずかしがり母の腰にひっついていたが次第に笑顔で芙蓉と遊び始めた。それを見て皇后は嬉しそうに。景貴は複雑そうに眺めていた。そして幼い二人は陽が暮れるまで庭園で遊んだ。

 沈む夕日。暁の空。真っ赤に染まる庭園。そこに伸びる二人の影。それは今と同じ光景だ。

 二人は思い出に浸る様に、闇が濃くなり東の空に星が瞬くまでその場で空を見上げていた。




***




 世界が夕闇に支配される頃、いつまでも帰らない二人に痺れを切らした琰慈が馬を走らせて近づいてきた。その背後には青峯が薄く眉根を寄せてこちらを見ている。表情から琰慈を止められなかったと予想する。

 芙蓉は現れた人物が誰か知ると露骨に顔をしかめた。冷たい美貌が怒りに歪むのを側で見て、月娟は不安げにまつ毛を伏せると白い指先で芙蓉の袖を掴む。


「遅いから迎えに来ました」

「丁度、帰ろうと思っていたところです」


 芙蓉は淡々と言い放つ。再度、馬に跨がると困惑する月娟に手を差し伸べた。


「帰りましょう」


 頷き、手を出そうとした月娟が馬に乗る芙蓉を見上げて「あ」と小さく呟いた。月華の瞳は芙蓉の背後の空を見上げている。まん丸に見開かれた双眸に警戒の色はない。何を見ているのだろうか、芙蓉は不思議に思い背後をふりかえった。

 視線の先、漆黒の空に砂金のような星々が輝いている。その中の一つが微かな光を放ちながら尾を引いて遠くに消えいった。芙蓉は目視すると流れるように馬の背から降りた。


「先にお帰り下さい。芙蓉がいるので大丈夫ですから」


 側に芙蓉が控えるのを待ち、月娟は二人に言った。

 答えたのは青峯だった。ふわりと微笑み首を左右に振る。


「いえ、もう暗いので。護衛も多い方がいいでしょう」

「そうですね……。すみませんが少しお時間をいただけますか?」

「ええ、構いませんが……」


 月娟は感謝の言葉を述べるとその場で片膝をついた。そして左拳を右の手のひらで強く包みこんだ。祈るような体制をとる月娟を見習って隣に佇む芙蓉も同様に地に膝まづく。

 急に目の前で公主が膝まづいたので二人は目に見えて動揺した。


「何をしているのですか?」


 同じ体制で固まった二人を見て、琰慈が好奇心が滲む声で問いかけた。それに答えたのは月娟だ。


「祈りを捧げているのです」

「……奏国では空を流れる星は死者の魂と言われています。死んだのち、魂は天上に召し上げられ、こうして時折、地上に残した者を心配して空から見に来てくれます。彼らに対して私達は『心配はいらない』と祈りを捧げるのです」


 芙蓉は言葉足らずな主人を補佐するように奏国に昔から伝えられる伝承を口にした。

 奏は数多の人種が共に生きる多種族国家だ。それに伴い宗教、言語の違いが生じ、過去にはいくつかの争いに発展したこともあった。それでも共存できているのは互いの習慣を尊敬し、尊重した結果である。

 空を流れる流星は、族の伝承に乗っ取り涙星と呼ばれていた。その言葉通り、天空が流す涙という意味だ。先祖達が子孫の行く末を心配し、流すと考えられているため、奏では遙か昔から涙星が現れた時は祈りを捧げるのが習慣になっていた。

 話を聞くと琰慈と青峯も二人に習い、地に跪くと見様見真似で同じ型をとった。


 ——異国にいく公主を心配しているのだろうか?


 芙蓉は視線をあげると隣で祈りをあげる月娟を見た。力を込めた手は白くなっており、真摯に祈りを捧げる横顔は真剣そのものだ。気丈に振舞ってもやはり、未知の異国に対する恐怖は拭えないのだろう。芙蓉はできる限り優しく、その細い肩を撫でた。少しでも彼女の不安が和らぐように。

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